テーマ:映画「ラストサムライ」
書き込み期間:2004/02/07〜2004/02/08
要旨:
 映画「ラストサムライ」は、トムクルーズ演じる主人公が日本軍に捕らえられ、武士道に触れていく物語です。映画の中では、武士道に染まりながらも完全にはサムライになりきれなかったトムクルーズと、最期までサムライである事を貫き通して死んでいった渡辺謙の姿が対比的に描かれています。
 渡辺は、完全であることを目指し、信念を貫き、サムライとしての自分を守り、それと引き換えに命を落としました。
 トムは、信じる拠り所を失い、自分が自分である為の根拠も持ちえず、ただ一つ残ったのは「生きるということ」でした。
 他の何を捨てても「生」を選び取ったトムの生き様に、観客は惹き付けられたのです。
目次
○ラストサムライ
○ラストサムライで、なぜ観客はたてなかったか
○パーフェクト
○演じる
○生
ラストサムライ

明治維新を終えて、新しい国家の建設を始めた日本に、トムクルーズが近代兵器を使った戦争を仕方をレクチャーに来るという映画です。
 しかし日本には近代兵器に対抗して、武士道を貫いているグループ(部族)がありました。渡辺謙がそのリーダーを演じています。
 トムクルーズは武士道の連中をやっつけに行きますが、捕らえられて、逆に武士道を知ることになります。
 トムクルーズは最初、政府軍として渡辺謙のグループと戦をして、何人も殺します。
 そして捕らえられて、ある家に連れて行かれて一緒に生活するのですが、その家の主人は、トムクルーズが殺したのでした。
 しかし家の人は、これも「運命」だと言い、許します。
 そしてラストは、鎧に身を固めて、近代兵器を装備した政府軍に立ち向かいます。
 これはおそらく、アメリカ人の「武士マニア」が作ったのだと思います。
 しかし・・・
 映画が終わってすべての字幕が出終わるまで、ほとんどの観客は席を立ちませんでした。
 船井総研主催の直感力研究会の帰り、私は神田さんの書いた「成功者の告白」を読み終えると、遠藤周作の「沈黙」を読み始めました。
 10ページほどしか読めませんでしたが、「やはり・・」と思いました。
 日本に向かう宣教師と、トムクルーズがどこかで重なりました。
 また、ユングにコイン占いを持っていった宣教師とも重なりました。
 「沈黙」の中で、日本に向かう宣教師の頭の中には「神」しかありません。日本の文化より上位のものとして、神がいるのです。
 しかしトムクルーズは、日本の文化に染まります。ここには神ではなく精霊(スピリット)がいると言います。
 中国に派遣された宣教師も、中国に染まります。
 トムクルーズは、カスター将軍の下で働いたことがあり、その残虐さに「神の意志に疑問を抱くようになりました」と言います。
 「沈黙」に登場する宣教師も、ラストは踏み絵を踏みます。
 それは環境のなせる技ではないでしょうか・・・
 環境によって変わることを、人は、良く言わないときがあります。
 確固たる自分がない・・と言って、批判したりします。
 ラストサムライの最後、観客がなかなか立たなかったのは、もしかすると、トムクルーズの「変容」にあるような気がします。
 変容・・すなわち環境で変わること・・すなわち変化に乗ること・・
 変容として生きることは、そうでない場合よりも、大変だと思います。
 信じるのは外には無いのですから・・・
 踏み絵を踏む人間は、「弱い」のでしょうか・・・
 渡辺謙のように、最後まで一つの価値観念を持ち続け「パーフェクト」と言って死ぬ人間と、トムクルーズのように、異国の地で、異国の文化に染まっていく人間との対比・・
 これが「ラストサムライ」だと思いました。
 そして、ユング自身がクリスチャンだったことを、つい最近知った私でした。
 最後まで踏み絵を踏まないで生きるのが、本当の神を生きることなのでしょうか・・
 映画の最後は、廃刀令のあとにも関わらず、明治天皇が刀を握るところで終わります。

ラストサムライで、観客がなぜ立てなかったか

 トムクルーズが、サムライになったにも関わらず、生を選んだことにあると思います。
 生より大事なものがあると言う考えは、自殺と同じではないでしょうか・・
 これに関連して、最後の会話も関係します。
 明治天皇:「彼(渡辺謙)はどういう死に方をしたのですか?」
 トムクルーズ:「どういう死に方ではなく、どういう生き方をしたのか・・という問いに変えて下さい」
 この映画の根底を流れるのは、やはり「変容」です。
 ラストシーンは、「彼(トムクルーズ)の消息を知る者はいない」というナレーションに続いて、トムが日本の大地を、馬を引きながら、すがすがしい顔で歩いていくシーンでした。
 その心地良さに、観客は、立てませんでした。
 もちろん、私も立てませんでした。

パーフェクト

 映画の中では、「パーフェクト」を三回言っています。
 一つは、トムが日本の武士道のことを書き記すときに使います。
「彼ら(日本人の武士道)は、パーフェクトを目指しています」・・と。
 二つ目は、敵の弾を受けて、トムに自分(渡辺謙)を殺してもらう時です。渡辺が「パーフェクト」と呟きます。
 敵に捕らわれられずに、味方の剣で命を絶つことを言うのです。
 三つ目は、そのとき桜吹雪が降りかかります。
「いつかは散る」と言っていた渡辺が、最後に呟くのが「すべて、パーフェクトだ」という言葉です。
 トムは、日記に「武士道はパーフェクトを目指す」と書き示します。
 しかし・・
 渡辺謙がパーフェクトに死んだのに対し、トムは、アン・パーフェクト(不完全)に生き続ける道を選びます。
 本来の武士道で言えば、トムも自害すると思います。
 しかし彼は、捕らえられます。
 トムが「捕らえられる」のは、二度目です。
 結局、トムは、サムライには、なれなかった・・
 なぜなら、パーフェクトでは無かったから。
 でも、アン・パーフェクトな世界に入り、人は、生を続けます。

演じる

 トムにとって武士道とは一体何だったのか・・・
 それは武士道を「演じて」見たかったのではないかと思います(もちろん私が映画を見た感想なので、映画の作者は違うと言うかも知れません)。
 「なぜ戦うのか」と言う問いに「愛する人たちが殺されるから」と答えました。
 これは本来の武士道の答ではないと思いました。
 トムは最後まで生き残ります。あのストーリーの、最後のシーン(トムが楽しそうに日本の田舎を歩くシーン)は、武士道の対極だと思います。
 彼は、武士道に命をかけなかった・・・
 逆にそれが感動を呼び、観客を立たせなかった。
 渡辺も、武士道を「演じていた」と言えます。
 でも、命をかけてしまいました・・
 同様に、どれほど命を賭けられるかをクリスチャンに問うのが、踏み絵だと思います。
 私なら、踏みません。ばかばかしいから。
 私には命より優先するものはないですし、そういうものを押しつける何かに反抗します。
 「信仰」というものに私がマイナスなものをいだくのも、それがあるからだと思います。
 「命を賭ける」・・素晴らしい言葉です。
 しかし「演じる」ほうが、もっと素晴らしいです。いつでも「降りる」ことができるからです。
 この映画はもしかすると、「演じる」ことをテーマにして、真理を追求しているのかも知れません。
 トムは、変容しましたが、心底変わったわけではないと思います。
 演じるものを、表面だけ変えたのです。
 ですので心は、最後まで武士にはなれなかった・・
 いえ、その前に、彼は騎兵隊にもなれなかった・・・
 彼が心底、貫いてしまうものがあったのだと思います。それはたぶん、草木のようにではあれ、「生き続ける」ということだと思いました。
 これは、踏み絵を踏まない信者は、しないことです。



  
 NHK大河ドラマ「宮本武蔵」の中で、最初の頃に出てきた浪人(西田敏之)が武蔵に言います。
「生きろ、生きろ、どんなことがあっても生きろ。生きることが勝つことだ」
 このシーンは、一年間のドラマの中で、何度も出てきます。
 「沈黙」のクリスチャンは、こう生きたでしょうか?
 武蔵は小次郎との決戦を前にして、やったことは、長い剣を探すことでした。同様に、武蔵は多くの試合で、策略を使います。
 それは、武士道に反しないでしょうか?
 言葉さえも巧みに使い分けます。
 剣と剣だけで勝負するのが、武士道ではないでしょうか・・・
 ナポレオンがロシアに攻め入ったとき、城は明け渡されていました。そこで長居をしたナポレオンは、戦わずして負けます。
 戦わずに勝ったロシアの皇帝はみんなの前で叫びます。
「我々は生きることで、勝ったのだ」
 生きることを優先したとき、人は何にでもなれると思います。
 逆は、死です。
 つまり、あるものを選び取ったとき、それは死を意味すると思います。選び取ったことは、逆に言えば、変化を放棄したからです。
 信仰は、死の、最たるものです。
 踏み絵を踏めないほど信じてしまえば、死んだも同然です。
 踏み絵を踏んだ司祭は、最後に、再び混沌の生の世界に戻ることによって、選択を手放したのです。
 生は、360度の自分を演じることができる世界です。武士道を演じることも出来れば、農夫を演じることもできます。
 そしてトムクルーズは、最後に農夫になります。
 その直前、渡辺謙が倒れたとき、渡辺は剣を持とうとします。それが自害だとわかったトムは、首を振り、「ノー」と言います。
 それは、もう踏み絵の前で突っ張るのはやめろ・・というのに似ています。
 しかし渡辺は、「パーフェクト」という単語を使います。
 役に命をかけると、それは「演技」ではありません。彼は、選択を放棄することが出来ずに、死にます。
 生き続けることは、ぶざまです。
 生き続けることは、カッコ悪いです。
 生き続けることに、型はありません。
 生き続けることに、道もありません。
 真実の生き方など、ありません。時空の台本は出来ているのですし、その台本にそって演技しているのが私たちなのですから・・
 しかし、その台本を私自身が作ったとすれば、演技をしても楽しいと思いませんか?
 その思想から最も遠いのが、神の論理です。あれで死んで、信念体系領域(モンロー研究所体験記参照)に行かされるのでは、たまりません。踏んだり蹴ったりです(踏んでませんが)。
 渡辺謙の場合はどうでしょうか・・
 少なくてもフォーカス27(モンロー研究所体験記参照)にはダイレクトです。
「ちびっと熱が入りすぎた演技だったかな」
 という反省はあるにせよ・・
 でもトムには、勝てません(勝ち負けではないですが)
 あれだけ臨機応変に対処されたら、たまりません。
 トムは、おそらくクリスチャンでした。
 カスター将軍のところにいたとき、踏み絵を踏まされました。
 それが「神の意図が分からなくなった」という表現でした。
 トムには、信じるものがありません。信じるものは、崩壊しました。
 渡辺謙にとっては、武士道が、神に相当しました。
 渡辺は、踏み絵を踏みません。
 でも、一度踏んだトムは、再び踏みました。
 そして、生が残りました。

書き込み期間:2004/02/07〜2004/02/08