TOPページ > もりけん語録集(新刊本「運命を変える未来からの情報」編) > 
テーマ:「新刊本を執筆中の気付き」(後編)
書き込み期間:2004/01/01〜2004/2/27


要旨:
 私の新刊本が『運命を変える未来からの情報』というタイトルで四月中旬に出版されます。本を執筆しながら毎週一回編集者と会うのですが、編集者の指摘と交わす議論はすごいもので、新刊本の内容は飛躍的に上昇していきました。
今度の本は、私も含めて関わっている人達みんなが全力投球で制作しています。
新刊本では、読者に問いを投げかけています。内容的には深いですが、文章は非常に分かりやすく書かれています。
それでいて、読者が「どうにでも解釈できる」というような、いい加減な文章にはなっていません。私の言いたいことが、はっきりと伝わってくるはずです。
出版社の社員の間でも、評判は上々とのことです。


●目次
 ○逆説的
 ○何のための成長??・・生き方は目的か?
 ○概念
 ○新刊本と編集者
 ○幸せな私
 ○解釈を読者に投げてはならない
 ○何かを付けようとして
 ○問い
 ○編集者との話の中で
 ○新刊本のイメージ
 ○戦略
 ○フシトモと新刊本
 ○新刊本の初稿ゲラを読んで
 ○マーケット
 ○新刊本の表紙の絵が出来ました
 ○新刊本とヴィルヘルム


逆説的

  今回の本を書いていて思うのですが、この世界は、なぜこうも、逆説的なのだろうと思います。これをテーマに研究しても、何かの成果は得られそうです。
  私の本では、出だしそのものが逆からスタートするので、もう一度反転する事項に関しては、元に戻ります(笑)。
  私はある時期、完璧に自由を手放した時があるのですが、その後、また反転します。
  その様子も本には書かれていますが、どこまで理解されるでしょうか・・
  自分で言うのも何ですが、やはり、今までの私の本の中では一番面白いと思います。
  新刊本は、できるだけ易しい言葉を使って書いています。
  たぶん、今までで、一番理解しやすい本になると思います。
  新刊本の最初の読者は妻でした。
  非常に分かりやすく、良く書けていると言っていました。

 
何のための成長??・・生き方は目的か?

  精神世界の本を持ってきて読みました。
  そこにはものすごく良いことが書いているのですが、私には根本的な疑問があります。
  何のために成長するのでしょうか??
  私は精神世界のことを良くは言いません(笑)。
  その根本は、一言で言うと、エゴではないかと思えるのです。
  人を助けるだの、人を愛するだのと書かれていますが、どうもそれは最後には自分のためではないかと思うです。
  私は始めから自分の快だと言っています。回りくどいことは言いません。
  何をするのも自分の快のためです。
  ですが、回り道をしていない分、相手を手段にしてはいません。ダイレクトな快同士のやりとりだからです。
   朝、出がけに、飯田さんの『生きがいシリーズ』をパラパラと読んできました。そこにこんなことが書かれていました。
「私は真理の探究をしているのではありません。生き方の探求をしているのです」
 同様なことは、昔、チャネラーも言いました。
「このチャネリングが本当かどうかを疑うより、言っている内容にフォーカスしなさい」
 同様なことは、サイババも言いました。
「私の物質化を疑うより、私の言っていることに注意しなさい」
 今回書いている私の本とは、正反対です。
 昼間読んだ精神世界の本も同様でした。真理よりも生き方なのです。
 私の場合は、真理の探究から「派生した」生き方を書いています。
 つまり生き方が目的となっていません。
 たどり着く先は、同じかも知れません。でも、何かが違うような気がしてなりません。

 
概念

不思議なのは、「六爻占術」が切り口でこれだけの本が書けてしまうということ・・
そしてもっと不思議なのは、今までの常識を覆した内容であるということ・・
さらに不思議なのは、占いを切り口として、今までこの概念が無かったのかということ・・ 
概念とか、考え方・・これが世界を変えると言っても、過言ではないと思います。
私を大きく前進させた概念は、これです。新刊本のキーでもあります。


 

  「生き方」が先に来ると、この概念は、たぶん出ないような気がします。
それが原因で、いままで、出なかったのではないでしょうか・・
この状況は、自分の幸不幸に関係ありません。不幸のどん底の人も、状況は同じです。
がんじがらめを意識できない点が、最も問題なのです。
だから、今まで気が付かなかったのかも知れません。
先日訪問した大本教では、神は創造主だとしています。キリスト教もそうです。
そして人間は現代に至り、物質に溺れ、精神の世界を忘れたと警告します。
つまり、トロッコではなく、ハンドルで自由に操作しながら走る自動車だと・・
諸悪の根元は、ここにあるかも知れません。
人間は「枠外」なのでしょうか?



新刊本と編集者

  フシトモは、世の中で一番だと思っていました。あのフリースタイルは、何物も抜けないと思っていました。
  しかし今回の新刊本が、フトシモを抜きました。手応え充分です。
  何が原因かというと編集者です。私の本はすべて読み、講演会のほとんどに出て、しかもオフ会にまで押しかけて私を研究して「赤」を入れるその 筆は、まさに絶品です。
  私が手を抜いた部分は、すべてバレます(笑)。
  まだエネルギーが集中されていない部分が幾つもあることに気づきました。
  つまり、まだ「スキがある」のです。
  自分の意識にスキができると、文章にもスキができます。
  最初の原稿を書き上げたのが昨年の12月中旬です。
  その後、一週間に一度のペースで「突っ込みの時間」が設けられました。
 詰めの甘い部分とか、矛盾するところが次々に指摘され、それと同時に私の本の内容は、格段に上昇してきました。
 編集者は私の本はすべて読み、フシトモも読み、ほとんどの講演会に出ました。私のいわんとすることは理解しました。
 しかし、文章になっているかどうかは、別問題です。
 私の文章力にも問題があるからです。
 さらに、私の考えの詰めが甘いと、どうしても「流してしまう」くせがあります。
 それらをすべて指摘されましたが、私はとても爽快でした。
 私自身が次元上昇したのではないかとさえ、思います。
 「自分の本に食らいつく・・」それしか、言葉はありません。
 そしてすごい本ができつつあります。
  今回の新刊本は、これだけ難しい内容でありながら、易しく読んでもらうのが一つの特徴です。しかも何度でも読める本だと思います。
さりげなく、ウイットも復活してきました(笑)
 後半の盛り上がりは、編集者も絶賛してくれています。
 マシンガントークのサビの部分がずっと続くような感じです。


幸せな私

  編集者は週一で、通ってきます。
  私が土日で書いた原稿を月曜に出版社に送り、金曜日に編集者が来ます。
  でも、編集者が持参する原稿は、メモ書きだらけです。
  編集者との議論は、本当に気持ちの良い議論です。
  こんなに気持ちの良い議論は初めてです。
  編集者は、いい加減に私の原稿を読んではいません。
  例えば「この部分を修正したために、相対的にこの部分のエネルギーが落ちています」
  という感じです。
  本というのは、文字を読むのではなく、エネルギーを読むものだということを、編集者はよくわかっているのです。
  私が、本を書く段階で、「根負け」した部分は、ちゃんとエネルギーが落ちています。
  それは、読む人が読めば、バレバレです。その点を、しっかりと突かれます。
    「熱く書かないといけない」・・このことも、今回、学んだことです。
冷静に、クールに書いてはいけないのです。
 今回の本は、「熱い」です(笑)
 これは、編集者の「読者は森田さんの考えが知りたいのですよ」の一言で気づきました。
 部分修正で一部を「熱く」書くと、その次の文章を指摘されます。
 「エネルギーが落ちています・・」結局、全部「熱く」なります(笑)
 ですので、『不思議の科学』よりも小見出しが多くなります。
 いえ、多くしたのです・・
 なぜなら、エネルギーがありすぎて、長丁場がしんどいからです(笑)
     今回の本は、前作「不思議の科学」の1000倍はすごいと言いましたが、さらに編集者によって、もう1000倍上がっています。
私は、幸せです。
 本の巻末には、長々と編集者等へのお礼が入っています。
 私は「不思議の科学」では入れませでした。編集者へのお礼など、本人に直接言えば、良いと思ったからです。
 でも、今回は入れます。編集者が「関わって」いるからです。
 しかし、たった一行だけです(笑)
 だって、他のスペースは読者に向けたメッセージとして使いたいからです。


 
解釈を読者に投げてはならない

「私の本を、みなさん、それぞれ何を感じてもらってもかまいません」
こういうスタンスの本があります。
しかしも今回の新刊本は、それが一カ所でも入っていることは許されません。
最初、このことは編集者から指摘されました。
理由は言いませんでしたが、この意味をズバリ理解しました。
「私の言いたいことや、伝えたいことは、これなんだ。変な風に取るんじゃないぞ。私は私の言いたいことを伝えるために、この本を書いたんだ」
という気持ちを、最後まで持続させないといけないのです。
それは、HPの書き込みでも、同様の気がしました。
自分の言いたいことがズバリと表現され、それがエネルギーを持って伝わるとき、実は逆の現象も起こると思います。
作者の言いたいことが広がりを見せるのです。そして読み手に、読み手自身の固有の「体験」となって、入っていくことがあると思います。
「勝手にどうとでも、解釈して下さい」というスタンスは、ひとつの解釈も残せないと思います。
なぜこうなのか理由は不明ですが、書いていて、そう感じました。
そしてこのことは、生き方の上でも重要だと思いました。
熱くない人は不平不満が多かったりします。
「人それぞれ」だと言う人は、人の意見を尊重していません。

 
何かを付けようとして

編集者との会話で、こんなやりとりがありました。
編集者「この本は、社会を変える布石になるかも知れないですね」
私「社会なんて知ったことではないです」
編集者「えっ???」
私「社会が変わっても、私が得をするわけじゃない」
編集者「では森田さんにとって、他者とは何ですか?」
私「私が意識で変革すべき対象ではありません」
無駄な努力は、したくないのです。
私は「おおもと」にしか興味がありません。社会に対してはクールなのです。
私は「私」というものに「何かを付けようとして」研究をしているのではありません。「社会」というものに「何かを付けようとして」研究をしているのではありません。
しかし、本の読者を含めて、「何かを付けようとして」いる人は、大変に多いような気がします。
何かを付けようとしたとき、ひとつだけ失うものがあります。変化です。
付けたものは、変化を嫌うからです。
「あなたは一貫性の無い人間ね」
付いていることが、前提である上の、批判です。
過去の先人たちの誤りは、ここにありました。
真理とおぼしきものを使って、自分や社会を変えようとしたからです。
あるいは、そういう本を出したからです。
生まれ変わり現象を、自分の都合の良い風に言い換えて、「さとす」人は、多かったです。
「成功ほどの失敗はない」・・これは老子が言った言葉ですが、私は好きです。
「頂上を目指さない」という道教の教えを言い換えたものだと思います。
ですので、私は、成功してはいけません。成功を目指しては、もっといけません。

 
問い

『不思議の友』は、一言で言えば「問いかけの書」だと思います。新刊本は仮説という答が入っていますが、大きい分類では、やはり「問いかけの書」です。
イエスは答を喋りました。仏陀も答を喋りました。それを弟子が記録しました。
そして「答の書」として、後世に残りました。
バイブルには「愛って何ですか?」などと書いてありません。
でも私の本には、書いてあります。新刊本も、問いだらけです。
究極的には「わからない」ということも、一つの答えだと思います。仏陀はこの手を使いました。しかしそれを聞いた人は「仏陀ですら、わからないのだから」と思います。
私は自分に価値があると思っています。その理由は、ただ一つです。私の「問い」です。
私がずっと追いかけている「問い」は、私にとってとても価値があるのです。だからどんな偉そうな人の前でも、どんな偉そうな答えに遭遇しても、私の価値は変わりません。
超能力者とか、霊能者とか、諸々の能力者と対面するとき、私が問題にするのは「問い」だけです。
私の問いの前では、すべての人が対等です。


編集者との話の中で

 新刊本では、「運命の選択」と「運命の変更」を明確に分けています。
 この日は、あるページにもう少し書き加えるかを議論しました。選択と変更の違いをです。
 30分議論して、違いが明確になりました。
 しかしそれを本には別段、書かないことになりました。
 編集者は「私たちがわかっているということが重要です」と言いました。私も同感です。
 まだまだ細かい修正は出る可能性があるからです。そのとき、無意識に自然の流れとして文章化されるほうが良いからです。
 もうひとつ、理由があります。
 それは、私が明確に「わかった」という時点で、同じ文章は、受け取り方が変わるのではないかと思うからです。
 文字を通じてしか伝わらないというのが科学的な考え方ですが、みなさんが本を読んでいるとき、何か別のシンクロが起こるかも知れないからです。 「運命の選択」と「運命の変更」の問題を突きつめていくと、「私」というものの存在が、非常にあやふやになるようです。
「私」とは、時空に波打つ多くの波動と同調した、波の集合体のようなものになるからです。
確固たる「私」が存在して、ある波を選択するわけではないのです。
なぜなら、「私」はそれらの波の集まりにしかすぎないからです。


 
新刊本のイメージ

ピッチャーがボールを投げた時、バッターから見ると、途中までボールは見えるのですが、突然消え、バッターを越えてから再び現れるイメージです。
つまり、打つのが難しい(笑)
仏教では、内観から真実を得ようとします。我は、無いと言います。
しかも、外は、内面の現れだと言います。無我を得るには、瞑想だと言います。
でも、私の本では逆です。
外に真実があり、それによって内なる自己が形成されるのです。
自分の内部に真実は何もありません。
私は刺激が欲しいです。刺激が無いと、何も生まれません。
新刊本は、今の私を越えてしまっているのです。
なぜそうなったかというと、結構イッて書いているからです。
概念としてイッているだけで、文章はイッていません(笑)
でも、概念がイッていることに、気づかない人のほうが多いと思いますが・・・
もしかすると、これからの生涯で、新刊本を越える本を書けないかもしれないという危 惧があります。

 
戦略

不況が続くなかで、これだけは成長が止まらずという業界があります。それはコンビニです。
ある時期、「個性を出さない店はダメだ」と言われた時代がありました。でもそういう店は、どんどんつぶれました。
そして、個性の無いコンビニが生き残りました。
「思いは実現する」などという本を読んでしまったあと、やり場のない恥ずかしさに襲われる私は、コンビニに買い物に出かけます(笑)
戦略は、精神に勝ります。コンビニに精神はありません。だから勝ったのです。
新刊本は、精神を売り物にします。しかし、私は戦略を上乗せします。
おそらく、戦略は精神の100倍の威力を持ちます。だから運命変更が出来ます。
本は戦略で売るものです。コンビニと同じです。個性で売る時代は終わりました。
例えば、個性的な食べ物は連続して食べると飽きます。
ご飯は飽きません。食パンも飽きません。個性が少ないからだと思います。
個性的なコンビニが出現すると、おそらく、すぐに飽きられます。
だからファッションは、それを逆手に取っています。飽きられることが大切なのです。


フシトモと新刊本

 新刊本と並行して『「不思議の友」11』を書いています。
 両者を連続して書いた感覚から言うと、やはりフシトモと新刊本は違います。
 両方とも「私」なのですが、微妙に違います
 どこが違うかというと、新刊本は、私の心に読者がいるのです。
 しかしフシトモは、読者が不在です。良いか悪いかは別として・・
 書くとき、新刊本は、読者しか見ていないと言っても過言ではありません。
 フシトモは、自分しか見ていないと言っても過言ではありません
 たぶん、新刊本は、売れるか売れないかを気にしています(潜在意識で)。
 しかしフシトモは、そんなの関係ないです。
ところで、フシトモ11のターゲットは誰だと思いますか?
たぶん、信じられないと思います
それは、森田健をまったく知らない、初めてフシトモを手にする人です。
計算すると、その数が最も多いのです。この数を見れば納得するはずです。
継続してフシトモを読んでいる人・・17000
新規の人・・・・28000
ですから、私の筆はそのターゲットを意識しました(実は、ターゲットを心の中でずらすのが大変でした)。
だから、フシトモ11と新刊本は、重複する部分があります。
最大の問題は、新刊本とのコンビネーションでした。
新刊本を読む人がフシトモを読むのか・・
私は「NO」だと思います。だとすれば、新刊本に頼ってはいけないのです。
私は私の言わんとすることを、このフシトモで完結しないといけません。
それでもジグゾーパズルに例えれば、しっかりと新刊本のピースは外してあります。
買わないと、ピッタリ入りません(笑)。



新刊本の初稿ゲラを読んで

 新刊本の初稿が上がってきました。つまり、本と同じ状態になったのです。
 新刊本は『運命を変える未来からの情報』というタイトルで、四月中旬に出版の予定です。
 パソコンから打ち出された文章を読んでいたときと、全然違います。
 そして、読み終わった感想は・・・・、素晴らしいです。
 何か、推理小説を読んでいるような気分にもなりました。
 途中に張られた数々の伏線が、後半で効いてくるからです。
 犯人は、もちろん、時空です。
 殺人事件のです。いえ、もっと罪は深いか知れません。戦争・・災害・・。
 今度の本は、たぶん、いくらでも浅く読めるし、いくらでも深く読めるはずです。
 だって書いた本人が読み直すと、そこから沢山の気づきを得るからです。


 
マーケット

六爻占術のファックスDMをやっていることは、みなさん知っていると思います。
そのデータが、大変に面白いのです。
肯定的な人、つまり「もっと情報が欲しい」とか「テキストを買いたい」と言う人がいます。
否定的な人、つまり「人の紙を使いやがって・・。バカ野郎、死ね」とか言う人がいます。
その割合は、一定なのです。
どの業種に出しても、どの地域に出しても、ほぼ、一定です。
「私はクリスチャンだから、占いは禁じられているの」なんていうレスもほぼ一定です。
ここまで読んで、何か感じませんか?
個性とは何でしょうか?個性のばらつきも、一定なのです。
つまり、変人がいる確率も、一定なのです。
これらをひっくるめて、私は、マーケットとして捉えています。
毎日、毎日、1000通を越えるファックスDMを出します。
でも、結果をドキドキしながら待っては、いません。
だって、統計的な数値から、外れることがないからです。
私たちは、自分を「個」として見ます。
でも、それは、マーケット的な視点ではありません。
マーケット的な視点は、新刊本が持っている視点でもあります。
答が、マーケットの側から返ってきたのです。
コインはマーケットにアクセスしています。
マーケット理論でいいかげん嫌になるのですが(笑)、そのあと、突破するところが読みどころです。
しかし、マーケット理論に抵抗を示して、「個」にこだわると、突破は無理です。
長編の文章には、このHPでの私の書き込みも勝てません。
マーケット、それは原因です。結果ではありません。
私たちがマーケットを作り出しているわけではありません。
マーケットが我々を作り出しているのです。
人が病気になるのも、マーケットの仕業です。
マーケットとは、場・・です。

 
新刊本の表紙の絵が出来ました

  編集者が不思議研究所に貼られているポスターを見て言いました。
  「こんな感じの表紙がいいな・・・。でも、宇宙的なイメージの中にも、中国古代の古文書が入るといいな」
  これを受けて、表紙プロジェクトが出来ました。
  私はさっそくこのポスターを作った人に電話しました。
  ビデオ版『不思議の科学V』のCG映像を手掛けた、さよんさんです。
  彼はすぐにオーケーしてくれました。
  そして私は一月に訪中した際、トラさんから「出来るだけボロボロの古文書を持ってきて下さい」と頼み、何百年前のものを持ってきてもらいました。
  その二つが、コンピューターグラフィックで、一つになるのです。
  そしてさよんさんからメールが来ました。
  「新刊本のカバーですが、ようやくOKをいただきました。嬉しいです!。編集者さんの鋭いつっこみでかなり難産でしたがやっとです。。。ファイル番号でおわかりの通り六爻ですが八稿目でOKでした(笑)。添付しましたので一度ご覧下さいませ」
  見ると、それはそれは素晴らしいものです。
  天機があばかれているイメージがします。ちょうどブラックホールのような渦の中に、古文書の文字が光り輝いているからです。
  ちょっと見ると、眼球に見えて、ギョッとします。相当、惹くと思います。
  色彩は、渦の一方が赤で、一方が緑で、美しいです。
  みなさんは、書店でご覧下さい(笑)

  編集者さんは、アネモネで私のことを知り、その後、すべての講演会に出て、オフ会まで押しかけました(笑)。
  その後、この展開になりました。誰かに仕事として命じられてやったのではありません。
  さよんさんは今回も、もちろん仕事を越えてやっていただきました。
  何を言いたいかと言えば、趣味に生きる人たちで出来る本だということです。
  それが世の中で最強です。
  なぜなら、運命が決まっていようがいまいが、それをやるのが好きだからです。
  それをやる時は、変更しようとする気すら、起きない人たちだからです。
  では、趣味に生きる人は手抜きをするでしょうか・・・
  それは新刊本を見てもらえば分かります。
  一カ所も、手を抜いた部分がありません。
  趣味に生きる人たちは、言い方を変えると、縁でつながった人たちです
  もちろん、新刊本の出来る過程を共有したみなさんとも、縁でつながった間です。
  ここでの議論が無ければ、私も数々の気づきに出会うことはありませんでしたから・・



新刊本とヴィルヘルム


講談社の編集部と販売部の人が来られて、『運命を変える未来からの情報』をどうやって売るか・・という話をしました。
  社内の関係部署の人に読んでもらったところ、評判は上々とのことです。
  特に、ユングのところが面白かったという人が多いみたいです。
  出版社の社内の人と言えば、インテリです(笑)。
  ユングがスイスの湖畔のほとりでコイン占いをするシーンは、それ自体が新鮮な情報なのです。
  だってそれまでは中国と日本しか出てこなくて、「いかにも」という雰囲気だからです。
  その後、ユングの概念を元に、本の内容が進んでいきます。
  インテリの人にとっては、そのコンビネーションが抜群に心地よいのです。
  東洋=右脳、西洋=左脳という感じすらあり、その両方からメスを入れる新刊本は、アカデミックな感じを与えるのです。
  その報告をしながら編集者は言いました。
  「やはり、ヴィルヘルムの名前は、入れましょうか・・」
  私は答えました。「入れても、誰も知りませんよ・・」
  でも、さきほど気が変わりました。
  ヴィルヘルムは「運命を変える未来からの情報」の、功労者なのです。
  彼がいなければ、西洋の視点を入れることができませんでした。
  できれば、今からでも変更して、ヴィルヘルムの名前を入れようと思いした。
四月、日本人の多くが、踏み絵を踏まされます。インテリも・・(笑)
ユングですらコインを振った・・ 私は、この意味はさほど大きくないと思っていました。でも、インテリ層には、かなり「効き」ます。
私の本を批判するのが、難しくなるのです。
ユングがコインを振ったことを私が知ったのは、『四次元の冒険』という超マニア本でした。
それまで何冊もユングを読んでいたのに、一言も出てきません。特に学術的な本には・・
『四次元の冒険』に書かれていた内容を、あるときフシトモに書きました。
すると読者の一人が、コピーを送ってくれました。
その本を買い、それが新刊本に載りました。
もちろんその100年も前に、ヴィルヘルムの活躍があるのですが・・
ユングがコインを振っていたことは、学術書からは、抹殺されていたのです。特に日本人が書いた本からは・・
しかも、『運命を変える未来からの情報』の本では、運命のドツボにはまったあと、ユングの登場です。
「運命が決まっていることなど、あり得ない」
と反論をかけるインテリ層に、ボディーブローを浴びせます。
インテリ層は、私の本を否定も出来ないです。そして、肯定も出来ないです。
だって、自分では振らないから(笑)。
あらためて、ユングがコインを振ったことの意味は大きいです。
インテリに読ませるためにも、多少はヒットさせたいです。

書き込み期間:2004/01/01〜2004/2/27


©2004-2007 森田 健 Ken Morita contact@moritaken.com All rights reserved.
当サイトに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します