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                      |  | テーマ:映画「ロード・オブ・ザ・リング」 |  |   
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                      | 書き込み期間:2002/3/25〜2002/04/08 及び 2004/2/22〜2004/02/25 |   
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                | 要旨: 映画『ロード・オブ・ザ・リング』(三部作)の第一部を観て思ったことは、「指輪なんか今すぐその場で捨てればいい・・」ということでした。指輪が象徴しているものは、夢や希望など、人々が人生をかけて求めてやまないものです。指輪そのものを捨てたところで、人々がそこに置く「価値」を捨てなければ、本当に捨てたことにはならないのだと思いました。また、映画の中では欲望は悪とされていましたが、欲望に忠実であることは果たして良くないことなのでしょうか・・?
 第三部を観て考えたことは、マーケットについてです。映画の登場人物たちは指輪を葬り去ることだけを考えていましたが、私はなぜ指輪が邪悪な心を作るのか、そして指輪はどうして出来たのか・・という疑問について考えます。人々に指輪を欲する気持ちがあるからこそ、指輪は存在します。しかし、欲望やエゴを否定してそれを捨て去ろうとしても、捨てられるものではありません。肯定することでこそ消え去るものなのです。
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                | ○『ロード・オブ・ザ・リング』(第一部)・・りんご(私)の副題:指輪なんか道ばたに捨てなさいの巻(笑) ○映画『風と共に去りぬ』
 ○欲望
 ○『ロード・オブ・ザ・リング』(第三部)
 ○邪悪な心はマーケットになる
 ○マーケットと指輪・・最終編
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                | 『ロード・オブ・ザ・リング』(第一部) ・・りんご(私)の副題:指輪なんか道ばたに捨てなさいの巻(笑)
 
 世界の明暗を分けるほどの指輪・・
 それを手にする者は、世界を制覇できる。
 指輪を奪おうとする者も指輪を守ろうとする者も、指輪の力(神話)にとらわれます。
 映画の登場文物の中で、指輪の力から最も解放されているのが主人公のフロドだと思います。彼は指輪の力に支配されていません。
 もちろん指輪を持ってしまった自分の運命は、嘆きます。
 しかし、彼が指輪を捨てようとするのは、まるでハンドルのない電車に乗っているような感じです。
 彼は自分の意志というよりは、敷かれたレールを走るような感じで指輪を捨てるルートに乗ります。少なくとも私にはそう見えました。
 そこに大きな使命感のようなものは感じません。地球を救おうというような・・
 ところが主人公のフロドに付き添って彼を守る立場の人たちには使命感を感じます。意志を感じます。その使命感や意志は、闇の世界で指輪の力に捕らわれてしまった人たちと同じものだと思います。
 つまり、付添人の行為には「正義」を感じるのです。
 しかしフロドには大きな正義を感じません。 映画から帰ってくると、テレビではワイドショー的なニュースをやっていました。
 そこでは、ねずみ講に参加した人たちが自分の金を騙されたと言って怒っていました。
 生活資金をつぎ込んだのに騙されたと言って、怒っていました。
 私はこの人たち(被害者たち)は、指輪の力の支配下にある人たちだと思いました。
 この人たち(被害者たち)は、不思議研究所から六爻占術のテキストを買い、株を占って投資して損をすると、自分のせいにできるでしょうか?
 映画の中でも同様です。世界が闇に包まれたのは、指輪のせいでしょうか?
 指輪を「滅びの山」に持っていって処分すれば、世界は救われるでしょうか?
 私はそうは思いません。
 私は六爻占術で株を運用しています。すでに大儲けしています(すでに一億円以上・・)。そういうことをすれば当たる確率は減るかと思えば、どんどん上がる一方です。
 私にはお金に夢はありません(こんなことを書くと怒る人がいるかも知れません)。お金をかけていても、私にはテスターにすぎないのです。
 お金に対して力を感じる人(あるいは価値を感じる人)は、私と同じようにコインで当たるでしょうか?
 指輪はお金であり、地位であり、成長であり、磨きであり、気づきであり・・
 つまり人が価値を感じるそのものではないでしょうか・・・
 指輪に価値(それも邪悪な価値)を感じるからこそ、映画の中の彼らは捨てようとするのです。
 価値を感じないものは、初めから捨てています(笑)。
 あなたにとって「指輪」は何でしょうか?
 たぶん、一生かけて求めているものではないでしょうか・・。夢、希望・・・。
 ロード・オブ・ザ・リングの登場人物たち・・指輪なんか、道ばたに捨てなさい。
 それができなければ本当に捨てたことにならないと思います。「滅びの山」に捨てたって、価値は相変わらず残ります。世界を滅ぼすのは指輪ではなく、あの「価値」なのです。
 支配することへの価値がゼロになれば、指輪の価値もゼロです。
 映画の中で指輪は、原因に帰らないとその効力は無くならないという発想でした。
 しかしそういう風には思いません。
 原因が「今、ここ」にあるのだとすれば、道ばたに捨てられると思います。
 指輪は、あるときに作られたのではないと思います。
 常に創り出し、常に捨てていると思います。もちろん、心の中の出来事ですが・・
 問題を指輪一点にするところは、マニア的でありフェチ的でもあります。
 点に集約されるのです。しかしですね、点に目がいっている限り全体が見えませんよ・・
 点の最たるものは自分でしょう。自分に目がいっていると、全体が見えません。目先にとらわれると、全体が見えません。
 これは「失いつつあるもの」と言い換えても良いと思います。
 失いつつあるものが自分の求めていたものだと気づけば、その時点で元に戻ると思います。
 この映画のテーマは、「ドツボにはまる」だと、思いませんか?
 彼らは、みんなドツボにはまっています(笑)。
 邪悪なエネルギーとの対決に命をかけてしまいます。
 指輪は、彼らの生き甲斐を創り出しています。
 自由はどこにいったのでしょうか・・。
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                | 映画『風と共に去りぬ』 
 私は学生のときに観たのですが、もう、本当に感激でした。
 途中で休憩が入るですが、あまりの感動に、フラフラと映画館を出そうになりました。
 人間の「エゴ」の部分をあれほど見事に描いた作品は無いのではないでしょうか・・。
 ああいうことも作品として書けるんだと思いました。
 スカーレットはいつもタラの大地に魅せられます。
 大地はああいうエゴのエネルギーで満ちているのではないでしょうか・・。
 スカーレットのわがままに対して、取り巻きの「愛」がかすんできます。
 しかしわがままと一言で片づけることが出来ません。
 究極のとき、みんなを救うのは、彼女の生命力なのですから・・。
 もうひとつ、彼女のすばらしさは責任を他に持っていかないことです。
 「神に背いても生きてみせる」このせりふは、神にすら責任を持っていきません。
 最後の会話は、「私はこれからどうやって生きればいいの?」「そんなの、俺の知ったことか・・」でした。
 スカーレットの持つ生命力は、指輪のパワーすら、無力化するでしょう。
 あの登場人物達は全部、私の中に住んでいると思いました。
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                | 欲望 
 みなさんは、自分の欲望にどれだけ忠実でしょうか?
 それとも欲望に忠実なのはいけないことだと思っているのでしょうか?
 『ロード・オブ・ザ・リング』の映画の中でも、欲望は否定的にとらえられていました。
 わざと自分を試すために、それに近づく妖精の女王さえいました。
 欲望がわき上がる原因は「指輪」だとされ、映画のストーリーはその指輪を捨てることに集中されます。自分の欲望は、省みず・・にです。
 いえ、前提として、欲望は悪であるというふうに描かれています。
 しかし・・みなさんは、いかがですか?
 私が『「不思議の友」7』に書いたのは、空性を追求した世界です。
 空って、何でしょうね・・みなさん・・
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                | 書き込み期間:2002/3/25〜2002/04/08 | 
               
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                | 『ロード・オブ・ザ・リング』(第三部) 
 この映画は、人の邪悪な心はたったひとつの指輪が原因だということを言っています。
 それを葬り去れば、悪も邪悪な心も消え去ります。
 戦争や災いが起こるのは、人の行いに原因があるのではないのです。
 指輪にしか、無いのです。
 この物語はどうやって出来たのでしょうか?そのことが気になります。
 だって作者は時空の秘密を知っていたのではないかと思うからです。
 神がいるとすれば、宇宙を造るときに、どこかに指輪をセットしたのです。
 その波動を受けて、人間が悪をなすようになりました。
 しかし、私ならまず、なぜその指輪が邪悪な心を作るのか調べます。
 知ろうとする気が一切ないのが、この映画・・  指輪はいったいどこにあるのでしょうか?
 精神世界の人や、宗教をやっている人ならこう言いそうです。
 「その指輪は、人の心の中にある・・だから人がそれに気づいて、捨てなければならない」・・と。
 そうだとすれば、もう少しその伏線のようなものが出てきてもおかしくありません。でも、私にはどこにも見つけることが出来ませんでした。
 ということは、この映画の言おうとすることは、「悪を作った奴は外側に指輪を置いた」・・です。
 みなさん、指輪を探しに行こうではありませんか・・私は結構マジです。
 この映画を見て、マジに指輪を探しに行こうと言った人は、そういないと思います(笑)。
 しかし、女装子の私がナヨナヨと指輪探しの旅に出かけて、物語になるかしら・・(笑)
 『ロード・オブ・ザ・リンゴ』三部作・・・結構マジにやる予定です。
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                | 邪悪な心はマーケットになる 
 
 リングを持てば邪悪な心が宿り、世界制覇に向けての一歩が踏み出せます。
 妖精のような存在まで、指輪に気持ちが傾いたシーンがありました。
 そして最後は、あの、正義感溢れる主人公まで、指輪をはめてしまいました。
 あとで指をチョン切られますが(笑)。
 それほど、「欲しい」というニーズを作り出すのが、あの指輪です。
 確実にマーケットがあります。
 マーケットが存在する以上、第二の指輪が出てくることは間違いありません。
 なぜなら、需要があれば供給があるのは当然だからです。
 一個捨てても、何の意味もありません。
 「指輪」を本当に捨てるには、マーケットそのものを変化させないといけません。
 しつこいですが、マーケットの概念無しに地球を救おうとかやっている団体がほとんどです。
 新興宗教は、そういうマーケットが存在するから、利用(供給)するだけの話です。
 新興宗教に何の責任もありません。責任は、マーケットの方です。 私は六爻占術のファックスDMをやっています。そのデータが、大変に面白いのです。
 肯定的な人、つまり「もっと情報が欲しい」とか「テキストを買いたい」と言う人がいます。
 否定的な人、つまり「人の紙を使いやがって・・バカ野郎、死ね」とか言う人がいます。
 その割合は、一定なのです。
 どの業種に出しても、どの地域に出しても、ほぼ一定です。
 「私はクリスチャンだから占いは禁じられています」などというレスもほぼ一定です。
 ここまで読んで、何か感じませんか?個性とは何でしょうか?
 個性のばらつきも一定なのです。つまり、変人がいる確率も一定なのです。
 これらをひっくるめて、私はマーケットとして捉えています。
 毎日、毎日、1000通を越えるファックスDMを出します。
 でも、結果をドキドキしながら待ってはいません。
 だって、統計的な数値から外れることがないからです。
 私たちは自分を「個」として見ます。指輪も「ひとつ」を強調していました。
 でもそれは、マーケット的な視点ではありません。
 だから「指輪が存在するから邪悪な心が生まれて、だから指輪がいけないんだ」という考えは、まったく逆なのです。
 そうやって人のせいにして生きてきました(あれっ、言っていることが精神世界的(笑))。
 指輪マーケットは、一兆円規模でしょう・・
 あれだけの戦いと人的損害を賭けても、釣り合うのですから・・
 しかも、映画を見た人はみんな理解しました。マーケットが存在することを・・
 これが無いと、ヒットしません。
 映画では、指輪は捨てられました。しかし観客は、だれも捨てることができません。
 だから、「地球を救おう」という運動が地球を救ったことがないのです。
 某映画監督が作った『ガイアシンフォニー』も、マーケットが存在することを証明しているだけです。「地球を救うこと」はマーケットだと・・
 問題は、「個」か「全体」か・・です。
 マーケット、それは原因です。結果ではありません。
 私たちがマーケットを作り出しているわけではありません。
 マーケットが我々を作り出しているのです。
 人が病気になるのも、マーケットの仕業です。マーケットとは場・・です。
 だから、「指輪」などという具象化したものに、「原因」があるわけないのです。
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                | マーケットと指輪・・最終編 
 ロード・オブ・ザ・リングでは、指輪が諸悪の根元でした。
 しかし、次のことがそれよりも問題ではないでしょうか・・
 「指輪で励起されるある感情」・・です。
 ビールを飲んで、気分が良くなりました。それは「気分が良くなる」というマーケットに対して、ビールという素材を提供しただけです。
 マーケットに対する供給は、ほぼ自動的とも言って良いです。
 だから、そのマーケットを分析しないと、根を絶ったとは言えません。   もう一つ、問題があります。あの指輪は捨てられました。
 そして何と、主人公は最後に『指輪物語』を書きました。
 なんてことをしたのでしょうか・・
 その物語は、販売されます。本というマーケットに乗ります。
 そして本を読んだ人は、誰でも思います。
 「一度でいいから、そんな指輪をしてみたい・・・」
 主人公に物語を書かせたのは、言うまでもなく「新マーケット」です。
 主人公には、邪悪な指輪に対するニーズがあることを分かっていました。
 物語を書けば、多くの人が追体験をしたいはずなことも、分かっていました。
 彼は、マーケットを拡大したのです。
 そして、邪悪なものを捨てるという「正義感」を主張します。
 「あんたも、捨てろよ」・・と。
 地球を救おうという団体があります。
 彼らはエゴ(指輪)を捨てなさいと言います。
 しかしそう言われれば言われるほど、エゴを捨てたくなくなります。
 他人はエゴを捨ててもいいけれど、自分だけは嫌だと・・
 そう考えると、あの映画はおかしいです。
 そんな指輪を捨てに行くわけがありません。人間の感情に即していません。映画として「撮られる」からカッコ良く演じただけです。
 地球を救おうという団体の人と同じです。人には正義を押しつけても、自分ではエゴに生きているのと同じです。
 全員が指輪をはめないと、歴史は進みません。邪悪な心を肯定しないといけないのです。
 肯定すれば、消え去ります。
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                | 書き込み期間:2004/2/22〜2004/02/25 | 
              
               
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