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テーマ:「ハワイ紀行2000.08(前編)」 |
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書き込み期間:2000/08/01〜2000/08/10 |
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要旨:
ハワイで海を見ていて思いました。日本は海の向こうの水平線上にあります。
それに対して、成長論などは垂直方向のような気がします。ある方向性に価値を置くことで上下関係を作り、上に向かって行こうとします。
しかし時空は本来、水平の世界なのではないでしょうか。そして仙人・仙女も、水平の世界に入った人達だと思うのです。
精神世界では「覚醒」という単語が多く使われますが、これも垂直方向のニュアンスを感じさせます。しかし私は非覚醒のすすめを言いたいです。
私は、人は忘れる方向に進化しているという考えを持っています。日常生活でも、怒りの感情が湧く前に出してしまっているので、ほとんど怒ることがありません。
一秒前の過去でも残る前に出して忘れてしまう方が、エゴの無い行為だと思います。
瞬間的に表出する時、そこで理由を考えるとダメです。ですので行動は不連続になります。
連続していると思うのは、理由を作ってつじつま合わせをしているに過ぎないのではないでしょうか。理由づけと自制をやめて不連続を受け入れると、もっと嘘が減って楽しくなるはずです。
去年のハワイでは、リリースという言葉が出ました。
去年のリリースは「出すこと」でした。そして今年のリリースは、手放すこと、任せることです。
任せるとは、時間に任せる、環境に任せる、無意識に任せることです。言い換えれば、自分を信じることです。
自分の意識や経験からも手を離して私を外に開くと、いつも瞬間に存在する状態になります。
帰国直前の夜、裸の講演会の夢を見ました。私が裸で講演していて、観客も次々と裸になっていくのです。夢の中の講演では、多数決の話をしていました。
私達はいつも多数決に従って生きています。意識も常に多数決に従います。孤立や失敗を避けるためにです。この社会では多数決が正義です。
多数決に勝てるものがあるとすれば、それは私達の心の声なのです。常識に反しているにも関わらず「やってみたい」と言う心の声・・。
それは無意識からの微弱な信号です。それは意識の多数決への拒否権も持ちます。しかしそれを発動する時は、孤独に直面することになります。
周りの人からも理由の説明を迫られます。しかしそこで立ち止まって考え直すと瞬間を逃します。
瞬間に乗った時、足が地に着いていません。何の理由もありません。しかしその時、解き放たれてリリースしているのです。
私自身も是非、そういう機会を増やしたいと思います。
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○ 成田です(2000/08/01)
○ 水平方向 (2000/08/02)
○ 人間の由縁(2000/08/03)
○ 非覚醒のすすめ(2000/08/04)
○ ラッキーハプニング(2000/08/05)
○ 不連続(2000/08/05)
○ リリース・・今年編(2000/08/05)
○ ブッダ像との対決(2000/08/06)
○ 弱さと癒し(2000/08/06)
○ 『プシケー』の中から(2000/08/06)
○ 惚れること(2000/08/06)
○ 問題提起(2000/08/07)
○ 混沌な私(2000/08/07
○ ハワイ最後の晩に乾杯・・そして多数決からの脱皮(2000/08/08)
○ イルカは時間系(2000/08/09)
○ イルカについて私の意見(2000/08/10)
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成田です(2000/08/01)
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今回は二島行きます。前半は、ラナイ島です。後半はハワイ島です。
あのイルカがいる所です。そして、あのブッダ像がある所です。既にどついた人はいるでしょうか?
今回は、まずコチョコチョとやってみて、それで反応がなければ、どつこうと思います。
毎年毎年(今回で五年目)飽きもせず、同じホテルに行くのです。
白いダブルのスーツ・・フルサイズでアップするのは、ハワイ島に行ってからです。
今回から、現地にプロバイダーがあれば、そこから直接画像の投入も出来るようになりました。
下の写真はラナイ空港に着いたときのものです。ホノルルのプロバイダ経由で送ります。
(海外のプロバイダ経由で画像を送るのは、これが初めてのことなのです。)
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水平方向 (2000/08/02)
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乾杯!!!やっぱりハワイはいいなぁ・・
この写真の向こうに海が写っていますが、ほとんど誰も泳いでいません。みんなホテルの小さなプールサイドで日干しをしています。ううむ、アメリカ人は海が嫌いなのか??
私はこの写真を撮ったあと海に行ってみました。なんて、気持ちが良かったのでしょう・・ザブン、ザブンと私は泳ぎ・・。方向的には海の向こうが日本です。
もうすぐ0時になります。初日で眠いので、そろそろ寝ますが・・・ちょっと思ったことを簡単に書き込みます。
海を見ていて、「ああ、あの海の向こうには日本がある」と思った瞬間に出てきたことです。
我々が成長するとか輪廻転生をクリアするとか言いますが、あれは「垂直方向」のような気がします。
つまり、ある方向性に価値を置くものだからです。一歩一歩階段を上がっていくような・・・
実は、そこには根元的な間違いがあるような気がしたのです。そこには上下関係が出てきてしまうからです。
成長という言葉自体にも上下があるような気がします。だって下に向かっては成長ではなく、退行と言うでしょう。
上下が出てくると、劣等感が出てきます。
実は、マイナスな意味での孤独を構成する要素の中には、上下という要素が多いのではないかと思います。
もしも水平になったどうでしょうか。ハワイも日本も同じ水平線上にあります。
上下はありません。同様に、時空そのものもそうなのではないでしょうか????
この状態に行き着くと、孤独もだいぶ変わるような気がします。
上下の無い世界で、孤独は孤独のままでしょうか?水平の世界では、成長はどういう言葉になるのでしょうか?
仙人・仙女は水平の価値観の世界に入ったのではないでしょうか?だから男が女になったり・・・
ハワイより日本の方が上だとは、誰も思わないでしょう。
空間的なのは、垂直的・・時間的なのは、水平的・・・そんな言葉も浮かびました。
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人間の由縁(2000/08/03)
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中一の期末テストの問題を解いていました。毎晩、中学の算数の問題をやっているのです(笑)。
次の各ルート数の足し算は出来ますか?出来ませんか?基本単位を調べて答えなさい。
1.ルート12+ルート45
2.ルート20+ルート45
中二の期末テストに出た問題をやったのですが・・・この世に足し算ができないことって、あるの?
もう一つの問題です。
次の各文章で表されたことがらの意味の式を、二つの世界の式で書きなさい。
ただし、二つの世界とは、次の(ア)と(イ)のことです。
(ア)「二元の世界」:数字にプラスとマイナスを付けないで、正反対の意味の二つの言葉がある世界。
(イ)「一元の世界」:数字にプラスマイナスが付いていて、正反対の意味の言葉を増える方の一つの言葉に統一した世界
問題1.
始め21度だった気温が、8度だけ下がりました。変化後の気温を求める式を書きなさい。
(ア)二元の世界の式
(イ)一元の世界の式
問題2.
トランプゲーム「赤と黒」で、A君の持ち札が、5万円の財産と7万円の負債でした。このときのA君の手持ちの財産を求める式を書きなさい。
(ア)二元の世界の式
(イ)一元の世界の式
二つの問題ですが、まずルートのやつは、√12+√45は足し算できない、√20+√45は足し算できるが正解です。答を出す必要はありません。
二つの世界の問題ですが、
1の(ア)は21−8
1の(イ)は21+(−8)
2の(ア)は5−7
2の(イ)は5+(−7)
が正解で、答を出す必要はありません。
私が疑問に思ったのは、√の中が違うと、なぜ足せないのか?という疑問でした。何でも足せると思うのですが・・・。
二つの世界の話は、大変に面白かったです。
プラスマイナスを付けないで別の言葉で言い換える世界というのが、好きです。これって精神世界にも代用が利くような気がしました。
最も大きな設問として浮かび上がったのは、「私の肉体は、私の財産なのだろうか?」と言うことです。
もしも借り物だとすれば、それは財産と考えて良いのでしょうか?
これは経済の世界では負債であっても資産になるときが多いですよね。
体を借り物だとする考え方と、体は資本だという考え方・・・モノは言いようですけど・・
もっと大きな問題は、「私自身」とは借り物なのだろうかという問題です。
プラスとマイナスがある一元的な世界では、もしも借り物だとすれば「マイナス私自身」になります。二元的な世界なら、「神である私自身」とか言えそうです。
借り物=神であること・・と考えたのです。
平等にはプラスとマイナスがありそうです。不平等と言うからです。
しかし水平にはそれはなさそうです。不水平とは言いません。
(しかし屁理屈かも知れない(笑)。)
プラスとマイナスは、数学的であるだけに客観的であり、外部的です。
平等という概念は、やはり客観的で外部的だと思います。平等かどうかを問う時、お互いに単位が統一されていないと無意味です。まるで上のルートの足し算の世界です。
導師がセミナーで配布するグッズを「全員にあげたら、道教が平等を目指しているようで誤解される」と言って、半数しかあげませんでした。
水平という価値観は、内部的だと思います。外から見て不平等でも、水平であるかどうかに影響は無いと思います。
孤独に対してマイナスなイメージが生まれるのは、外部的に比較をするからではないでしょうか。
誰々よりも・・・あの時よりも・・××があったら・・××が無かったら・・・。
しかし根元的な孤独は、比較対象を越えていると思います。
アダムとイブが蛇にそそのかされて知恵の実(リンゴ)を食べ、楽園から追い出され、初めて二人は裸であることに羞恥心を覚えました。
そして二人は分離を感じ、茨(いばら)の世界に放り出されました。
たぶん、そこから孤独は始まったと思うのです。
聖書では神の言いつけに背いたとされていますが、私はもともと神の計画だと思うのです。孤独を感じる人は、神の計画に、より乗っていると思います。
だって、人間が孤独を感じなかったらどうなると思いますか?愛し合うということも無いと思います。
孤独感は、愛に変換される潜在的なエネルギーだと思うのです。
不老不死が来ても、動物はその世界に入れないと思います。なぜなら孤独感がとても少ないからです。
還童功は大人がやらなければ意味がないのは、子供だと孤独感が少ないからです。
孤独感を肯定し、それを持ったまま時間の流れに乗る・・それが還童功の意味なのではないでしょうか。
ユミット星人は地球に6ヶ月もかかって飛んでくるのに、8人もの乗組員が六畳一間のUFOに乗ってました。
これを知ったフランスの科学者は、ユミット星人は孤独ではないと踏みました。孤独ではないから個室が不要なのです。
孤独ではないからプライバシーも発達しないのです。孤独ではないから芸術も発達しないのです。
しかしユミット星人は時空間航行までできるUFOを作る技術を持ちます。孤独ではないから政治的には全体性の世界にいます。言語は一つで争いもありません。
で、彼らの成長度は機械で測られてしまうのです。
全ては計画性の中にあり、個人の職業は全体の中で選択されます。
ユミット星人の手紙は嘘かも知れませんが、分析した科学者の視点は大変に面白かったのです(『ユミット星人からの手紙』徳間書店)。
おそらく地球人から孤独感を取り除くと、ユミット星人に近付くのではないでしょうか?
私は孤独感こそ、人間が人間である由縁であると思っています。
ユミット星人は知能は高いですが、ロボットを思わせます。
「地球人はなぜ芸術などという無駄なことをするんだ」と言っています。
人間の由縁は、知能ではなく、孤独感だと思うのです。
宇宙に知的生命体がいたとしても、孤独感がないと友達になれそうにありません。
しかし孤独感は、通常マイナスイメージです。永遠に生きたくないのは、孤独感があるからではないでしょうか?
多くの苦しみは、不老不死で消え去ります。
働く必要もありません。食べなくても死なないからです。容姿も自由自在・・だから病気もありません。
しかし・・・孤独感だけは消えません。
仙人仙女は、この孤独感に打ち勝つ方法を見つけたのではないでしょうか。これには非常に興味があります。
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非覚醒のすすめ(2000/08/04)
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この写真を見ると、やはりすごいと思います。
私の身体が・・ではありません。地球が・・太陽が・・です。
なんて美しい海でしょう・・なんて素晴らしい光線なのでしょう・・。
そして・・美しい地球です。
ほんでもって、美しい地球だから、守らねばならないのでしょうか?
子供達のために・・・とか言って・・
なぜ理由が必要なのでしょうか?
すべてのことに理由など、いらないじゃあないですか・・。
無意味なことを沢山したいですねぇ。
ハワイに来ると、いつもそうですが、無意味に話が飛びます・・。
多くの精神世界の情報は、宇宙意識を持ち、宇宙と一体化した方が良いということを述べています。
視点は三次元に置くのではなく、高次元そのもに置くというやり方を推薦するものが多いです。
彼らの言い方はなぜか「これからの・・」、「21世紀の・・・」が多いような気がします。さらに「覚醒」という単語も多く使われます。
さて、私がそれらの本あるいはHPを見て思うのは、孤独という視点の欠けているものがとても多いのです。
孤独をないがしろにして何かをしようとしてもうまくいくはずがないというのが私の考えです。
地球人はもともと一つだ・・という考え方も、孤独を解消するものではありません。
孤独は個とも関係していて、もともと一つだという概念で個を解決することは無理だと思うのです。概念で解決するのは静的、言い換えれば空間系です。
覚醒についても同じです。覚醒は空間系ではあり得ないというのが私の考えです。時間系ではあり得るにせよ・・です。
さらに、「これから・・」、「21世紀」、「覚醒」という言葉には縦のニュアンスさえあります。
今はそれほど否定されるべきなのでしょうか?覚醒しなければそれは「下」なのでしょうか?
今よりも21世紀・・凡人よりも覚醒人・・何か上下を感じます。
さて、仙道で気になる一点がありました。
それは仙道では(道教でもそうですが)死を定義していないことです。羽化と呼ぶ人もいるらしいですが、これとて公式(一般的)ではありません。
そう言えば愛も定義されていません。慈悲も定義されていません。
定義ということ自体が、空間系なのでしょうね・・・。
タオは言葉で語ることは出来ないというのは有名な言葉です。言葉で語るというのは、定義を意味します。
さて、精神世界で通常使われる単語・・「覚醒」は、「意識しなさい」という風にも使われます。
覚醒をしたら息をすることにも覚醒し、歩くことにも覚醒し・・・
そして精神世界でもっとも良く使われる単語は「思い出しなさい」です。
思い出すとは、無意識から意識に登らせなさいという意味だと取れます。
私たちは全てのことを意識に上らせないといけないでしょうか・・・。
そんな事を考えていたら、ベランダの前に大きな鳥が一羽歩いてきました。
この鳥は、覚醒しているでしょうか?
「お前ら可愛そうに・・意識なんて持っちゃって・・」なんて言う顔をしていると思いませんか?
生まれる前にはすべて分かっていたと言われます。しかし・・
私は神は完璧だというが私の持ち論です。忘れた方が良いから忘れているに違いありません。
すると、すべて忘れた方が良いのでしょうか?う〜ん・・。
すべてと言って良いかどうか分かりませんが、そうなのです。なるべく忘れた方が良いのです。
私がこうやって外国に来るのも、日本での生活を物理的にバッサリと忘れられるからに他なりません。
こうやって書き込んでしまうのも、書き込むと忘れるという効果があるからに他なりません。
人は忘れる方向に進化しているというのは、まんざら間違ってはなさそうです。
意識すればするほど、人は背負っているものに重さを感じると思います。
覚醒など、しなければいいのです。非覚醒のすすめ・・です。
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ラッキーハプニング(2000/08/05)
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ホテルに着きました。ベランダからの眺めです。
毎年来るので、部屋番号まで指定しました。やった〜。
下はイルカがいるラグーンです。待っててね・・
ハプニング1
まず、ラナイ島でのこと・・。
「チェックアウトをしてから空港行きのバスが出るまで一時間もある・・」とか言いながらキャッシャーへ。
そこの担当者が、「××万円です」と・・
「どひゃ〜、いくら何でもそんなに使っていません」というやりとりを・・・私も一生懸命説明しまして・・。
30分かかってやっと計算して出してきたのと、私の計算とはまだ×万円もの差が・・。
マネージャーも出てきてみんなで手計算を始めました。まるで中一の期末テスト(笑)。
で、三つもの伝票にサインさせられ、その結果、なんと部屋代がタダに・・。
確かに一時間近く無駄をしたけど、そこまでしなくても・・さすがラナイ社。
ハプニング2
ハワイ島に着くと、導師の弟子からメールが入っていました。
「黄山で泊まったあのホテルでトラブルがありましたが、なぜか今頃になってその事が先方の上部に伝わり、三人の担当者がクビになり、払ったお金は返ってきました。」
あの時、正当性を主張した導師・・。しかし先方は全く落ち度がないと言い張りました(400元をまけてはくれましたが・・・)。
部屋代がタダになるハプニングが二回・・
私はどちらか言えば、腹を立てない方かも知れません。
HPで時々個人に対して突っ込みを入れることがありますが、腹を立てているわけではありません。
ではどうしてあそこまでの突っ込みをするかと言えば、キーボードを指が勝手に叩いてしまうのです。大脳皮質とは関係なく、反射的に書いてしまうのです。
あれを書かないと、逆に怒りに変わるのです。だから、広い心になることが出来ません。
怒ったとき、それを客観的に見つめよう・・そうすればいかにバカなことをしているかが分かると言う人もいます。
そう言う人は、いったい何のために生きているのでしょうか・・。人生で「生」を表現しなかったら、いったいそれは・・・
で、私はほとんど腹を立てません。ほとんど怒りません。だって、それ以前に出てしまっているから(笑)。
因果応報はあるのでしょうか?私は、それが無い人生も可能だと思います。
以前、因果同報だと言いました。まさにそういう生き方も可能なのではないでしょうか。
昔のこと??忘れましょう・・。一秒前も「昔」です。残る前に出しましょう。
計画性の無い表現には、エゴは無いと思います。
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不連続(2000/08/05)
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怒ることと怒らないことについて、もう少し書きましょう。
ムカッときた時、どうするか・・そのままブチ切れるか・・
私の場合、相当忍耐力は強いです。なぜ忍耐強いかというと、まず願望が少ないのです(笑)。いえ、逆に多いのかも知れません。
予期せぬ事態になった時・・つまり相手の言う方向になった時、どうなるかということに対する期待感の方が多くなってしまうのです。
もう一つの理由は、受け身的なのです。人生、受け身の方が楽しいですよね。
チョメチョメされる喜び・・これはチョメチョメするよりも絶対に楽しいと思います。
私が怒らないというのは、会社でも家庭でも有名です。
しかし反射的に何かを言う場合があります。これはけっこう多いです。
なぜ反射的が良いのでしょうか・・・通常、これは良くないとされてますよね・・。
反射的に何かを言う場合、理由を考えてはいけません。
通常、人は理由を考えるからそれが出来ないのだと思います。
実は、この反射的に出てくる事柄は、未来予知をしている場合がほとんどです。
例えば今回の『「不思議の友」4』の発送がそうです。
私はハワイに来た日から会社に問い合わせをしていました。
「大丈夫ですよ」という答が毎日返ってきていました。
しかし「私の勘もよく当たるから・・」という前書きをつけて、郵便局にちゃんと問い合わせるようにというメールをしました。木曜日です。
その時初めて分かったのです。まだ郵便局に山積みされていたことが・・
すぐ「郵便局から始末書を取れ」とまで指示しました。それをしないとちゃんと配送をしないのではないかと思ったのです。
はっきり言って答はその通りでした。彼らはその時点でもやる気がなかったのです。
「ハワイにバカンスしているのに、なぜしつこく郵便のことを問い合わせるのですか? そんなことはこちらでちゃんとやっています」という質問には、全く答えられません。
でも、そういう理由を考えると、ダメなのです。
不思議ですよね、人間は考える葦のはずでした。なのになぜ考えない方が良いのでしょうか?
その理由は、エゴが発生しないからだと思います。エゴは全ての思考で発生すると思います。
しかし人間は通常、エゴで行動しています。保身をしながら生きています。それを否定してはいけません。自分の身を守らずして他人が守れるはずはありません。
新しいことが発生した時、考える=過去の経験に照らし合わせて、うまくいく確率の高い方を選びます。同時にそちらを選ぶ理由も探します。
我々はそういう訓練をし続けています。そしてエゴで行動します。
高校生の頃にホームルームがありました。そこで意見を言う時は、理由が大事でした。理由なき意見は却下されました。
しかし社会に出ると、それは間違いであることが分かりました。理由とは、嘘なのです。
私は会社の稟議書に嘘しか書きませんでした。でもとても嘘がうまく、「森田君は稟議書を書くのは部内一だね」と言われました。
何かの理由を訊かれて本当の事を言う人なんて、いないのではないでしょうか?
と言うか、本当の理由は自分でさえも分からないのではないでしょうか。
自制と嘘で成り立つのが大人の思考の世界です。
(これも嘘を書いていると言えます。なぜなら思考をしながら書いているからです。)
それでも本当の時が来ます。運命を変えてしまう一瞬です。理由なき衝動が訪れる瞬間です。
この「理由なき」というところが重要です。理由がある衝動は過去を引きずっているからです。
理由がある場合、はっきり言ってやめた方がいいです。
私達を取り巻く時空は、不連続ではないかと思わせるフシがあります。
不連続だから次はどこに行くか分からないのに、あえてそれを、かなり無理をして、連続的な線にしてしまっているのではないでしょうか・・・。
未来の街の想像図を見ると、そこには見るからに理性的な人が歩いていたりします。しかし本当は逆なのではないでしょうか・・・
相当にブチ切れて、ぶっ飛んだ人が多くなるような気がします。
ということは今の社会の流れは、一面では否定しても(犯罪の面とか)、もう一面では(プー太郎が増えてきた点とか・・)肯定できるのではないかと思います。
仙人仙女は、不連続をそのまま受け入れているのかも知れません。
そうだとすれば、その世界は相当に楽しいはずです。
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リリース・・今年編(2000/08/05)
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ハワイでの書き込みは中国とはまた違います。
う〜ん・・全く目的を持たない旅だからかも知れません。ただ、時間を過ごすために来ているのです。
思い出はできるに越したことはないと思いますが、「ヘリコプターに乗ろう!!!。そして火山を見に行こう!!」なんて気もさらさらないのです。
家族一同、ただ時間を過ごすために来ているのです。
だって起きるのが10時頃なんです。ルームサービスの朝食を食べ、海に出るのは2時過ぎ(笑)。
テンポは日本の10分の1。だから、頭はボケボケです。
で、覚醒の話に行きましょう(笑)。
去年のハワイでは和尚(バグワン・ラジニーシ)について頻繁に書いていました。
そうそう、あの頃から疑問に思い始めたのです。彼は覚醒という単語をよく使います。
いえ、彼だけではなく、瞑想なんかやる人は覚醒と言うことを目指しているのではないでしょうか?
しかし、今まで私が経験した範囲で言えば、覚醒とは時間系でしか起こらないのではないかと思います。
空間系に行ってしまうと魂の大きさとかが出現し、魂をどうのこうのするのが覚醒だとか言い出します。無にするだとか・・
しかし無為ということを知ってからは、それは概念の上での覚醒でしかないということに気付きました。
みなさんはスキーをやったことはあるでしょうか?
スキーが上手になるとパラレルターンをしますね。足を揃えて曲がるヤツです。
あれを止まってやっても絶対にできません。ひっくり返ります。動的でないと出来ないのです。
バイクも同じです。車体を傾けて曲がれるのは、動いているからなのです。
向心力と遠心力のバランスで説明できますが、覚醒とはこれと似ているのではないかと思います。
スキーで曲がっている状態でも、バイクでも、やっている間は無になっているのです。
その行為と一体化しています。この状態で意識を働かせるとうまく行きません。
どちらも風と共に曲がっているのです。
バイクをやる人とかスキーをやる人にとって、この快感はたまりません。意識がすっぽりと抜け落ちるからです。
この時、全く何物にも集中をしていません。どこかに集中をしてしまうと、それは無為になりません。
夜行の寝台が取れなかったときの導師の目・・あれは無為の目だったと思います。
意識を全開にする世界はエゴの世界だと思います。
ですので意識と関係する覚醒は、往々にしてエゴと関係していると思います。
意識無しの覚醒なら良いのですが、それを覚醒と呼ぶのでしょうか?
ところで去年のハワイではリリースという言葉が出ました。
しかし・・リリースは、本当に正解なのでしょうか?
スキーの例、バイクの例で言えば、回転している状態はリリース状態なのでしょうか?
リリースは一種の覚醒のような気がします。外に出す行為だからです。
しかし・・無為はリリースでしょうか?リリースは無為でしょうか?
どうしてこんなことを言い出したかと言えば、マスターの目には、リリースのみを感じなかったのです。
ではどうすれば良いのでしょうか。「任せること」これに尽きるような気がします。
任せるとは・・・、時間に任せることでもあります。環境に任せることでもあります。自分に任せることでもあります。
去年のリリースは、「出すこと」でした。でも、任せるというのもリリースと関係しています。
で、今年のリリースは、手を離すことです。任せるのです。特に無意識に対して・・。
あなたの無意識は最強です。全ての経験がそこには集約されています。
自分を信じることです。そうすればどんな悪い経験だろうと肯定できるはずです。あなたは神なのですから・・・。
精神世界での覚醒は、何かを掴むことを意味しました。しかし、本来は手放すことではないでしょうか・・・。
自分の意識、自分の経験、自分の時間、自分の環境・・・
でも導師がホテルで取った行動、バスで取った行動、夜行列車で取った行動を思い出して下さい。手放すことがどういうことかを・・。
それはあなたがいなくなることではないと思います。あなたはいつも、瞬間に存在するのです。
リリース・・それは私を外に開き、そして手を離すこと・・・
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ブッダ像との対決(2000/08/06)
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去年からの因縁があったのです・・。
こんなビーチで、内側の世界に入って瞑想などをやるブッダ像が気に食わなかったのです・・。
去年は黙って見逃しましたが、今回は勝負です。で、最初に思ったのは瞑想勝負なのです。
うっっっっっ・・・だめだ〜。
さっきの、ノーブラTバックのオネエチャンのお尻を撮ったのがいけなかった・・妄想の嵐が〜。
私は思いました。「所詮、瞑想のプロと瞑想で勝負すること事態が選択の誤りだったのだ〜」
というわけで、私はコチョコチョ作戦に出ました。しかし、動じない・・ううっ、さすがはブッダ・・
とうとう私は最後の手段に出ました。「この野郎〜」と、掛け声一発、私は蹴りを入れたのです。
これでケリを付けたかったなどという駄洒落を言ったのがいけなかったのか、私の足はかすっただけ・・・「う〜むむむむむ」
そうか・・私はこのとき閃いたのです。「リリースじゃないか!!!!!」
そう、昨夜、新リリースについて、気付きのカキコをしたばかりじゃないか・・・。
リリースとは出すことと手放すこと・・
で、私は自分の感情を解放し、羞恥心を手放し・・
既にギャラリーが集まりつつあるこの場所で、リリース音頭を踊ったのです。
「あ、リリース・リリース・楽しいな。手放し手放し楽しいな・・あ、こりゃこりゃ」
一言、言わせて下さい。
ブッダは偉そうに見え、私はバカみたいに見えますが、対等なんですよ〜、これでも・・・
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弱さと癒し(2000/08/06)
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ビーチで、日本ユングクラブ会報誌『プシケー』というのを読みました。
そこに隅寛二さんというお医者さんが大変に面白いことを書いていました。この先生は甲状腺が専門のお医者さんです。
あるとき、癌をとても恐れている患者さんがやって来ました。
この人の甲状腺には小さな塊がありました。先生は良性だと判断し、それでも手術に踏み切ることにしました。
で、良性だという前提でその部分だけ小さく切り取りました。
先生が目測をする限りは良性なので、麻酔から醒めたとき「やっぱり良性だった」と告げたそうです。患者さんはとても安心しました。
でも、取った塊の精密検査をすると癌だったのです。先生はそれを告げるかを悩みます。そして告げます。
患者さんはその日から毎日来るようになり、自分は死ぬのではないか、もうどこかに転移しているのではないかと訊きます。
しかし甲状腺の癌は、癌の中でも最もおとなしく、小さな部分を切り取っただけでも再発はしない可能性の方が大きいことを、専門家の立場から説得しました。
しかし、その人が毎日来ているうちに、先生自身が心配するようになったのです。
そしてある日、その人に謝りました。「自分はもっと慎重に対処すべきだった。私のほうが心配になったので、手術をやり直させて下さい」と言ったのです。
すると、ずっとその先生を責め続けていた患者さんが、「先生、私の方こそ申し訳ないことをしました。今までのお話で、甲状腺の癌はおとなしいことを知りました。再発してから切りましょう」と言ったのです。
その患者さんとの信頼関係はそれでさらに強まったのです。
この先生は次のように締めくくっています。
「癒す人は傷ついた時に癒すことが出来るということ、弱点のあることがかえって癒しの力の基になることをこのとき体験しました。」
隅寛二さんの一節です。
「医師が健康で強力であるほど患者は依存的で弱々しくなってしまいます。医者の中に病人がいるのと同じく、患者の中には医者がいます。患者の中の医者を呼び覚ますことが治療の目的となります。医者が余りに医者でありすぎると患者は必然的にますます患者になってしまいます。医者の中の病人が患者の中の医者を呼び覚ますわけです。」
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『プシケー』の中から(2000/08/06)
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ユングに道教の情報を教えたのは中国から帰国したウイルヘルムという人でした。彼は中国で次の経験をしていました。
その村はひなびた村でした。そして異常に長い日照りに苦しんでいました。
そこで長老は遠くにいる降雨術師に使いを出すことにしました。彼は来ました。
そして彼は・・・小屋に閉じこもったまま出てきませんでした。
その三日後にどしゃ降りになりました。雪さえ降ってきたのです(笑)。
ウイルヘルムは彼に訊きました。「あなたは雨を降らせることが出来るんですね」
彼は笑って答えました。「もちろん、そんなことは出来っこない」と・・。
「しかしあなたが来るまでここではずっと厳しい日照りが続いていました。そしてあなたが来た三日後に雨が降ったでしょう?」と、ウイルヘルムは言い返しました。
「ああ・・」と彼は言いました。
そして「それはまったく別のことだよ。わかるかね。私は、すべてがうまくいっているところの人間だ。そこでは雨が降るべき時に降り、晴れるべき時に晴れる。そこの人々もまたうまくいっており自然なのさ・・。しかしここの人々はそうじゃなかった。みんなタオから外れており、不自然なのさ。わしがここに着いたとき、わしにも不自然病か移ってしまってね。私はもう一度タオにそうようになるまで小屋にこもっていなきゃならなかったのさ。そして自然に雨が降ったということさ。」
会報誌では、この話はユングの心理学の中心を成すものだとしています。
そして人は往々にして、降雨術師が「意識」で雨を降らせたという方に傾くと言うのです。
この話は、結構深そうな気がします。
私達は意識で何かをする方が好きです。意識は天気をも変えることが出来ると言い出しそうな人は沢山います。
意識で世界は作られているとして、意識を変えることによって世界を変えようと言い出します。
そして正義は、変えることの方に傾きます。意識がすべて・・
しかし、この会報誌は言っています。タオの中に入れば、何もしなくて良いと・・。
単に手を離しただけで雪さえも降ったのです(これって不自然?)
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惚れること(2000/08/06)
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ふと思った事をどんどん書きましょう。今日は惚れるについて、ふと思いました。
さて、導師はなぜ女性なのか・・孫さんはなぜ女性なのか・・・
(別に女性にだけ惚れるのではないことは後から出てきます。)
導師は不老不死がキーワードです。マスターとの接点を持っています。孫さんは蘇生が出来ます。
で、二人とも女性です。で、ふたりとも40代のぽっちゃり熟女です(笑)。で、二人とも非常に自由です。
導師は一面記事が好きです。孫さんは三面記事が好きです(笑)。
導師は人の見方が、非常に鋭いです。孫さんは人の見方が、非常に曖昧です(笑)。
中国で私以上に彼女達に惚れた人間は、たぶんいないでしょう。それほど私は彼女達に惚れています。
「もりけんさんが宗教を始めたら、もうこのHPには来ない」と言う人もいます。
しかし私は、私が惚れた人間が宗教にはまろうが、地獄に落ちようが、私はついていきます。
私はそういう人間です。惚れるというのは、そういうことです。
そしてマスター・・あなたとは異次元でしか遭遇していません。
三次元的遭遇をすると、もっと厄介なことになるから、異次元遭遇だったのでしょう。
しかし、私はあなたの目が忘れられません。
それは寝台夜行が取れなかったときの導師の目に似ています。
黄山でいくらボラれようが、あのときの導師の0.00000001秒の目で、すべてOKなのです。
無為とは単に、外部が作ったワダチに乗ることではないと教えてくれました。
列車の前方に向かっての100メートルのダッシュは、幸せでした。
その時、最後からヨタヨタと付いてきたAさん(予約を任された人)・・・あなたのお陰でした。
でも、あなたはその後、黄山のホテルの担当者三人をクビにし、お金を取り戻しました。
そんなことをしなくても良かったのに・・・。
しかし導師は言います。「アイアム、ベリー、スモール・・」マスターと比較してしまうのです。
孫さんも言います。「生きているうちに、蘇生を科学的に証明できるかしら・・」
孫さんは、とても落ち込むときかあります。それを共有してあげると復帰します。
「森田さんにあげたら、なんかサッパリしたわ・・」と。
読売新聞に載っている宣伝(『不思議の科学3』)には、完結編と書いてあります。
しかし、完結することなんてあるのでしょうか????
完結する時はただ一つです。私が興味を失った時です。
何を隠そう、私は神にも惚れているのです。時空に惚れているのです。
ですから完結する時は、神への惚れが解けた時です。
でも、今までの人生を振り返ってみて、惚れているのが解けたときは、無いのです。
全く話は飛びますが、私の会社には副社長と言われる人がいます。副社長でありながら私より五才も年上です。
私は彼に惚れています。惚れたから私の会社に引っ張ったのです。
彼は私と同じ放送研究会(大学の)でした。ですからクラブの先輩です。
彼は学生運動で退学になりました。そして大学の近くの喫茶店でバイトをしているときに私と知り合ったのです。
私は彼に惚れています。そして私の会社に引っ張り、代表権も与えました。
その後、共同経営者として20年にも渡り、全く軋轢を起こさずにやっています。
私もやりたい事をやっています。彼もやりたい事をやっています。
でも、一ヶ月に話すのは数十分です。でもお互いに解っています。
なぜかと言うと、私が彼に惚れているからです。(別に変な関係ではないです)
惚れるということ・・これはとても大切だと思います。惚れるに、理由はありません。
理由ありは、まだ「好き」という段階なのです。
愛に対する単語に憎しみがあります(無いかもしれませんが・・)
でも惚れるに対する単語はあるのでしょうか?
私の人生は、徳を積むより、惚れている人をいっぱい作りたいと思います。
みなさんも惚れている人、いっぱいるでしょう?そんなことを考えると、楽しくないですか?
私はこのHPに書き込む人も、それなりにみんな惚れています。 会った人はみんな惚れています。
(それなりにと書いたのは、会っていない人がいるからです。やはり会ってから本格的に惚れますよね・・)
こんな風に惚れる人が増えるのなら、不老不死でも、どんと来いです。
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問題提起(2000/08/07)
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今日はビーチで面白い本を読みました。目幸黙遷(みゆきもくせん)という人が書いた『宗教とユング心理学/個性化について(山王出版)』という本です。
面白い問題をたくさん含んでいます。さっそく中身に入りましょう。
とにかく面白いのですが、話はどんどん飛びますので、私の方もバンバン入れます。
どうすれば核戦争が無くなるかという質問に対してユングは次のように答えています。
「自分の中にある心的緊張・・それに耐えることができるような個人が数多くでなければ核戦争は避けられない」と。
ユングの自宅には、その入り口に「呼ぼうが呼ぶまいが、神は現にまします」と書いてあるのです。
どうしてこんな事を書いたのかという質問をBBC放送からされた時、次のように答えています。
「自分は現にここに働いている"より優れた可能性"の中に身を置いているという不安にたえずおののいている。」
目幸さんは次のように解釈しています。
「自分はいつもより優れた可能性に面している、あるいは永遠のものとの関連の上に生きているということでなければ、自分は人生を空費したことになる。」
ユングは晩年には次のように言っている。
「生命というものは、地下の根茎の上に生きている植物のように、いつも私には思われてきた。本当の生命は見えないので、地下茎の中に隠れている。地上に現れている部分だけが、ただひと夏生存するだけである。かくて、しぼんではかない幻影なのである。人生と文明とが終わることのない興亡浮沈を繰り返していることを考えるとき、自分の存在は全く皆無に等しいという印象を受ける。しかし私は、自分が永遠の推移の下に生き、耐え生き続けている何ものかであるという感覚を決して失ったことはなかった。我々が見ているものは花である。花は移り去るも、根は永遠に残っている。」
「意識は、それがたとえどんな広大なものであっても、常に無意識という大きな円の小さな円たるにとどまる。つまりそれは無意識という海に囲まれた一つの島なのである。そして海と同じように、無意識は、それ自らを絶えず新たに補充してやまない、無数の豊富な生命を産むものであり、我々がその底を測ることはできない、無限の宝庫なのである。」
「私を自分が造ったわけではなく、自分はたまたま自分になったというわけです。」
目幸さんのコメントです。
「仏というのは悟った人のことです。英語で言うと"One who is awakend" 「目覚めた人」という事です。英語では、やはり目覚めている人と目覚めていない人を区別しているように見えます。しかし私はそうは思いません。なぜかと言うと、「目覚める」というのは、いっぺん目覚めたら絶対にとまらない、常に次の目覚めへと移っていくものです。だから目覚めているということは、目覚めていないということと一緒なのです。覚と不覚、悟りと迷いは常に同居をしています。そうでなければなりません。」
この本の中でも先日書いた降雨師(レイン・メーカー)の話が出てきます。
しかし、降雨師は三日間、何もしていなかったわけではありませんでした。ちゃんと瞑想をしていたのです。
内なるタオと外なるタオを一つのものとして相呼応していたのです。
さて、ここからが私、森田の意見です。
降雨師の話・・これってマッチングだと思いませんか?
彼は不自然な村に来て、それが伝染したのではないのではないでしょうか?
彼は内と外の場を整えていたのです。これはまさに孫さんがやることです。
孫さんはピーナッツを握り、一心に瞑想します。それはピーナッツにエネルギーを与えてはいません。蘇生場を整えているのです。マッチングです。
これと同じことを降雨師はやったのではないでしょうか?
孫さんも無意識の領域に入らないと出来ません。降雨師もそうなのです。
でも、孫さんも降雨師も、意識でやったのではないのです。
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混沌な私(2000/08/07)
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先ほどアップした「問題提起」に関連して、私の意見を入れましょう。
私は目幸さんの本を読み、初めてユングの偉大さに気付いたような気がします。
ユングは無意識の領域に、多少恐れおののいているフシもあります。
緊張感という言葉を使っていますが、これは孤独と関係しているような気がします。
しかしそれがワクワクする要素も充分に含んでいると思います。
「私は私が造りだしたのではない・・」という一節もすごいと思います。
私は今まで、この発想まではいけませんでした。私とは、負債だったのですね・・。
降雨師の話も充分に納得がいくものです。悟りの話はとても面白かったです。
さてさて・・私の意見に入りましょう。
ユングは無意識を大きな円として考えています。そして意識を小さな円にしています。
しかし、私はやはり、時間と空間に分けたいと思います。意識が空間で、無意識が時間です。
そう考えると、どちらが大きいかということは、議論にはならないはずなのです。
五センチの円と五分の時間を、比べることは出来ません。
無意識は時間系だから無限であり、ゼロでもあるのです。
私は今日、奇妙な経験をしました。私が17歳でここにいたのです。
身体が17歳だったかは自信がありませんが、心は確かに17歳だったのです。
高校生の状態で、ハワイにいたのです。そして何もかもが新鮮に見えました。
約一分ほどでした。ゆっくりと時は48歳に戻りました。
思い出ではないのです。思い出は自分は48歳のままで、意識が戻るだけです。
しかし、私の経験したのは逆なのです。自分が17歳で、周囲の状態は今なのです。
それにしても一瞬であれ、30歳を若返るのは大変なものです。48歳に戻っても、しばらく余韻に浸っていました。
不老不死による若返りは、こういうことなのでしょうか?こういうことなら、是非やってみたいものです。
このホテルは全てが人工です。ほぼ人工的に造られたラグーンで、人は自然的な海水浴を楽しみます。
(全てが人工のホテル)
ホテル内を船が通っていますが、あれも人工の運河です。イルカも飼われています。
でも、人工はやはり人工でしょうか?
何故こんな事を言っているかというと、上の写真のラグーンや船が走る運河には、マグロほどの大きさの魚がいるのです。
いたっていいだろう・・と言うかも知れません。
しかしユングの無意識に関する本を読んでいた矢先でもあり、非常に結びついたのです。
人工と自然をどこで分けるのだろう・・と。
同じように意識と無意識はどこで分けるのだろうと・・。
とは言え、さっきも言ったように単位が違うのです。片方は空間でもう一方は時間です。
分けることや比較することは、かなり難しいのです。
で、17歳の私と48歳の私は、分けることは可能でしょうか?
また、バカな質問かも知れません。
30年も過去なのに・・分けて当たり前ですよ・・・・でも、本当にそうでしょうか?
17歳でも、知識は48歳でした。
だってその時、何とこの状態を知らせたくて、当時付き合っていた彼女に電話しようとしたのです。
電話番号なんて忘れていました。でも何の問題もなく思い出せるのです。で、さらに国際電話のかけ方(当時は無かったKDDカードを使ったやり方)も知っているのです。
要するに17歳と48歳の両方の記憶が使えるのです。
そんな事をしようとしていたら、「パパぁ・・ママはどこ?」と娘に声をかけられました。
「ん?パパ?パパって誰?君はどこの子?」とまではいきません(笑)。「ママはあそこで泳いでいるよ」と娘に言いました。
それも自然に出たのです。何一つ、不自然はないのです。でも、心は17歳なのです。
17歳の頃・・神って何?そんな事ばかりを考えていたあの頃の自分になりました。
ところで彼女の電話番号ですが、これを書いている今はもう忘れています。完全に私は48歳にカムバックしたのです。
妻と娘と食事をしました。白のスーツです。何の違和感もありませんでした。
私とはいったい誰なのでしょうか?時間とは何なのでしょうか?
ユングに惚れ、時間に惚れ・・・明後日の帰国を前に混沌の私になってしまいました・・。
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ハワイ最後の晩に乾杯・・そして多数決からの脱皮(2000/08/08)
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やはり最後は、白で・・
さて、とうとう最後の晩が来ました。こちらの時間は0時過ぎ・・
家族でのハワイ旅行もこれで四回目です。去年から本格的にHPへの書き込みを始めました。
その前は最初の『不思議の科学』の執筆に追われ、HPの書き込みどころではありませんでした。
それに、なぜかリアルタイムの報告というものに対してのエンジンがかかっていませんでした。
さて、最後の晩の書き込みを始めましょう。
7月に中国に行ったとき、夢のパノラマショーを見たと言いました。
その一つの夢ですが、なんと私が、素っ裸で講演をしているのです(笑)。
でもみんな神妙な顔をして聴いています。
私は講演をする時、出来るだけ心を素っ裸にしたいと思っています。素っ裸度が講演の成功度とも言えます。
昨晩、その関連の夢を見ました。今度は観客が裸になったのです(笑)。
夢分析などをすれば、「それはもりけんさんの願望です」などと言われそうです(笑)。ある意味では願望です(笑)。
しかし観客全員が裸ではありません。ほんの数人なのです。
主催者の人が司会席から言いました。「勝手に裸になっては困ります。多数決で決めましょう。」
私は講演席からちょっかいを出しました。
「ちょっと待って下さい。すでに講演は始まっています。私がすべてを脱ぎ捨てようと言ったから、何人かが実際に脱いだのではないですか・・。それを多数決とは何ですか・・」
会場内はシーンとしました。みんなで私を見つめています。私は夢の中で雄弁に喋り始めました。
「あなたがたの人生は多数決で決めてきませんでしたか?着るものに迷った時は、みんなが着ているものを着て外出しました。人生の道に迷った時は、失敗する確率の少なかった方を選んできました。心の中のアンケートに従って生きてきたのです。でも、みんながする事をするのがそんなに楽しいですか?失敗しないのがそんなに楽しいですか?そんなの今日で終わりにしませんか?多数決を取れば当然裸の人達が負けます。それでいいのでしょうか?」と言ったのです。
会場はざわざわとし始めました。服を着ていた人の1人が脱ぎました。それにつられてまた1人・・
主催者が叫びます。「みなさん、常識はないのですか?」
しかし、また1人・・・さらに1人・・ほとんどの人が脱いでしまいました。
残るは主催者のみ・・・
誰かが叫びました。「脱ぐと楽しいわよ。」
また誰かが叫びました。「ここで多数決を取りましょうか?」
みんなが笑いました。主催者は脱ぎました。そして笑いながら言いました。
「なぜこんな簡単なことができなかったんだろう・・」と。
私は講演を再開しました。
みなさんのところに机があるので、それが蔭になって大事な所までは見えません(笑)。
しかし胸はハッキリと見えます(笑)。私の講演をいつも聴きに来てくれる人の胸は、ほとんど見てしまいました。
とても美しかったです。女性も男性も・・・。いやらしい感じは全くなく、とても素敵でした。
この夢の持つ意味は二つあると思います。一つは裸になった事です。
このHPなどを通じて、私やみなさんは裸になつりりあるような気がします。それは無意識を追っているのが原因かも知れません。時間系を追っているのも原因かも知れません。
二つ目の意味は、多数決です。
私自身のスピーチにもありましたが、通常人は多数決で生きているような気がします。
マジョリティに従うのです。それが社会の中では民主主義として通っているので、個人にも当てはめようとします。
常識とはマジョリティ(大多数)のことです。
超常現象でも同じことが言えます。繰り返し起こらなければ、それは科学の土台に乗りません。
意識は常に多数決に従います。みんなから嫌われないように・・成功の確率を上げるように・・
多数決の原理で社会にはどんどんルールが増えます。
「みんなが決めたことには従いなさい」こう言われて育ちました。
多数決は正義です。これに勝てるものがあるでしょうか?
あります。それは私達の心の声です。
過去何十回も間違ったのに、心の声は「もう一度」と言います。
常識的に考えたらそんなことは不可能なのに心の声は「やってみたい」と言います。
それはたぶん、無意識からの微弱な信号です。で、あなたの意識は多数決を取ります。
でも、あなたは大統領なのです。多数決に対する拒否権を持っています。その拒否権を発動する時は、おそらく相当に孤独のはずです。
「理由を説明しろよ」と意識は言ってきます。でも、あなたの無意識には理由がありません。
「理由も言えねえのかよ」と追い打ちをかけられます。そこで多くの人は躊躇します。
「そうだ、よく考えてからにしよう・・」チャンスはそこで終わりです。
たぶんこの間の時間は0.000000001秒です。瞬間です。
私の経験から言えば、この間は足が地に着いていないのです。浮き足立っています。
しかし、目は輝いているのです。解き放たれたリリースの目なのです。新しい遊びを発見した子供の目なのです。
この瞬間、時間の流れに乗っています。
是非、そういう機会を増やそうではありませんか。もちろんこれは私自身の問題でもあります。
心を裸にして・・多数決をやめて・・時の流れに乗りましょう。
多数決を無視するだけの孤独は、私達にはあると思います。でもそれは孤独ではなく、快感なのです。
多数決をやめる方法・・それは感覚的人間になってしまえばいいのです。五感だけで充分です。
見えるもの、聞こえるもの、それはすべて波動の世界です。時間の世界です。
シンフォニーを聴いている時、多数決は出てきません。素敵な夕日を見ているとき、多数決は出てきません。
人生の細かい事についても同様だと思うのですが・・・。
0時を過ぎているのに、下ではイルカが泳いでいます。彼らも感覚で生きています。
最後の晩は、風がとても心地良いです。時間も、風と共に流れています。
これから私もビールを飲みながら、時の流れに乗りたいと思います。
アロハー
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イルカは時間系(2000/08/09)
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成田に着きました。帰りの飛行機の中で書いた事をアップします。イルカについて・・
イルカにあれだけ接近でき、スキンシップもしたのは今回で二度目です。最初は四年前でした。
あの時はドキドキして、イルカに接触できたという感激だけしか残っていません。
しかし、今回は二度目という事もあり、かなり落ち着いて接することが出来ました。
仙人仙女が風の中にいるとすれば、彼らは水の流れの中にいます。いずれにしてもキーは「流れ」です。
さて、私はイルカこそ時間系に生きている動物のような気がします。
水の中よりも陸上の方が自由度が高いでしょうか?そんなことはないでしょう。
地球の70%は海です。とすれば、海の方が場所的には広いのです。
それだけではありません。
我々は通常、陸地の表面しか移動できません。飛行機がありますが、とても限られます。
球体としての地球レベルで言えば、二次元に近い範囲を移動するだけです。
鳥は空を飛べますが、そのために体重を減らさなければならず、大脳を発達させることが出来ませんでした。
しかしイルカは、海中という三次元の世界に生きていると言えそうです。
さらにイルカは美しい流線型です。水の流れに対して抵抗感をほとんど感じさせません。
急激な加速度と旋回、そして急停止・・・目の覚めるような敏速性を持っています。
彼らは超音波を発射して、その反射で位置を確認しているのは有名です。
私が水の中に入ると、サッと寄ってきて私の前に止まります。その素早いこと・・
私も室内で犬を飼っていますが、私に呼ばれると「やれやれ・・、ご主人様がお呼びだ。行くか・・」という感じでノソッと起きあがり、ヨタヨタと歩いてきます(笑)。
私が接したイルカは、指のサイン一つで次の行動に入ります。海中からちゃんと見ているのです。その動作の素早いこと。
この機敏な動きは海中だからこそ出来るのでしょうが、まさに反射的にやっているという風に見えます。いえ、確かにそうなのだと思います。
イルカは頭が良いとされます。
しかしその大脳は、左脳系(空間系、意識系)よりも右脳系(時間系、無意識系)を発達させたのではないでしょうか。
人がイルカに癒されるのは、この要素が大きいような気がします。
魚も海中に住んでいますが、残念ながらイルカほどの大脳を持っていません。ですので「判断」はほとんど自然そのもの(無意識)です。
しかしイルカは、意識と無意識の通信(あるいは共鳴、あるいはマッチング)を瞬間にやっているのです。
知覚して、判断を下し、それを行動に移すまでに0.00000001秒なのではないでしょうか・・・。
水の中の摩擦が少なく、彼らの泳ぎの能力も手伝って、それはまるで瞬間に生きていることを思わせます。
多くの悩みを持ち、世間の常識に縛られ、瞬間を生きられない人がイルカに接すると癒さるのは、この要素が大きいと思います。
イルカの容貌が可愛いことも手伝って、人は一瞬、すべてを忘れます。その一瞬で癒されるのです。
確かに気のレベルも高いです。しかしそれが強調されると、気を受けるだの気を与えるだのという視点に移動します。
イルカの持つ魅力はその敏速性と瞬間性にあり、空間の価値観である「気」についてのものでは無いような気がしました。
さて、ホテルで飼育されているイルカは可愛そうなのでしょうか?不幸なのでしょうか?
昨年、私の娘は夏休みの宿題(自由研究)にイルカを選びました。もちろんハワイで実際に接するということが予定されていたからです。
しかし何冊かの本を読むと、あのホテルのような状況を批判するものもかなりありました。娘も結構悩んでいました。
批判的な本には「人間のエゴでイルカを捕らえ、お金儲けをしている」と書いてあり、「それはイルカにとって不幸なことだ」とも書いてありました。
でも、娘の視点から見ても、どうしてもイルカが不幸には見えなかったのです。
で、あのイルカは不幸なのでしょうか?
彼らが瞬間を生きていれば、不幸ということは起こらないのではないかと思います。
自分は大海にすむべきだった・・なぜこんな狭いホテルのラグーンに入れられてしまっているんだ・・こう思うでしょうか?
もしも思ったとすればそれは空間系です。空間系では比較対照が出てくるからです。
外のイルカに比べて俺は・・過去の自分に比べて今は・・
さて、イルカはなぜ陸に上がらなかったか。陸には空間があったから・・というのが理由かも知れません。空間を獲得すると時間を切り捨てるのかも知れません・・・。
もう一つあります。それは「境界」に生きているということです。
空間(陸上)と時間(海中)の狭間(海面)で生きています。
これは意識と無意識の狭間で生きていると言えるかも知れません。
私達はどうすればイルカのように生きられるのでしょうか?
それは自分を信じることに尽きるような気がします。
自分を信じるとはどういうことでしょうか・・それは自分の言った事に責任を持たないことです。
バカな・・と言うかも知れませんが、そうなのです。言ったことは既に過去だからです。
でも、私の考えは変わったとその場で表明しなければなりません。私は、これが「自分を信じる」ということの一つの例だと思います。
時間はまさに流れそのものです。もしもあなたが流れそのものの中にいれば、変化そのものの中にいると言えます。一秒前のことは既に過去です。
しかし人は長いこと「言った事には責任を持て」と言われ続けてきました。
だから一度言った事を守ろうとするのが人生でした。
夢は何かと訊かれ、××だと答え、それに邁進しないと「努力の足りないヤツだ」と言われました。
でも、イルカにもやる気のないのがいました(笑)。
その状態、その状態に身を置き、その状態を100%表現していれば良いのではないでしょうか?イルカに目標はあるのでしょうか?
そう言えば昔、カモメのジョナサンという本がありましたね。あそこに出てきたカモメは目標を持っていました。なんか、人間みたいでした。
私もイルカのように生きたい・・・。
仙人仙女が光の波動のような存在であり、それが不老不死の未来像であるならば、私達人間もイルカ以上にイルカ的に生きることが出来る時代が来るような気がします。
それはもう、すぐそこに来ているかもしれません。
そうなったとき、私もイルカと一緒に泳ぐことも出来るのではないでしょうか・・。
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イルカについて私の意見(2000/08/10)
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私の場合、相手が人であれイルカであれ、前にした時は「状況」というものを抜きにして接したいのです。少なくとも私は癒しなんて求めてはいません。
私はその時、相手と自分がいるだけです。
結果的には癒されるかもしれません・・・結果的には相手を癒すかも知れません。
しかし、それはやってみなければ分かりません。出たとこ勝負です。
私は四年間続けてあのホテルに行っています。
本を読むと、あのホテルの「見せ物ショー」を悪く言うことばかりが書いてあります。
しかし水族館はもっと悪いという視点で書かれています。
でも、水族館でさえもイルカは不幸なのだろうかという疑問を持ちます。飼育係りとイルカの交流は絶対にあると思うのです。
で、あのホテルの状況ですが・・・
四年前には生まれたての赤ちゃんのイルカが母親に寄り添って泳いでいました。
それが今回は大きなイルカとして私の目の前にいました。
私が今回キスをしたイルカは、妊娠8ヶ月でした。
さて、イルカがあそこに飼われているというのは、どうしようもない事実です。
私がバリバリの環境保護者で、「自然に帰すのがいい」という意見を持っていれば、私は何らかの行動を起こします。
また「マイナスエナジーが悪い影響を及ぼす」という意見を持っていれば、私は行動を起こします。
で、どうしようも無い事実、飼われているという事実に向かって何をするか??
この「何をするか?」の対象は、私の場合、「私」なのです。
通常は「イルカ」かもしれません。しかし、私は私に対して・・なのです。
拉致されてきたかも知れないイルカの前で、私は私に何が出来るか・・なのです。
決してイルカに対してではありません。
私は他者のために何かをしようなどと言う気は全然ありません。
その結果が今回のハワイからの書き込みに見られる行動としか言いようがありません。
私は拉致されてきたかも知れないイルカと共に、何も考えずに楽しく遊んだだけでした。
それが私が私に対して出来る最大の事だったのです。
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書き込み期間:2000/08/01〜2000/8/10 |
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