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テーマ:映画「容疑者」 |
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書き込み期間:2002/06/22〜2002/10/29 |
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要旨:
映画『容疑者』を観て私が最も考えさせられたのは、「裁判官とて、超法的存在ではありません」という台詞です。
劇中では、裁判官と弁護士は対等だという意味合いで使われていますが、この台詞をそのまま神に置き換えて考えることも出来ると思いました。
私は、神さえも法則を超えた存在ではないと考えています。しかし、ほとんどの人は神を超法的存在のように思っています。
人間社会では、法を犯すことが悪とされます。しかし、例えばテロの様な過激な行動に出る人ほど、自分達は超法規で善だという意識を持っている気がしてなりません。
法を犯す可能性のない人は、誰一人としていません。『容疑者』の登場人物達に法を犯す場面があったからこそ、私はこの映画に感動しました。 |
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○超法的存在
○善と悪
○誰も法を犯さない者はいない |
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超法的存在
『容疑者』という映画があります。とてもマイナーなアメリカ映画です。
その映画はビデオで見たのですが、なぜそのビデオを借りたかと言えば、私はアメリカの裁判モノの大ファンなのです。裁判モノなら、無条件で借ります。
さて、この『容疑者』は数ある裁判モノの中でも、ダントツに面白かったです。
なにしろ、最後の10秒まで犯人が分からない・・・
たぶん、名探偵コナンでさえ、迷宮入りさせそうな事件なのです。
主役の弁護士は無名の女優です。彼女は興奮することなく、淡々と進めます。
彼女自身も殺されそうになったりもします。
そして迎えたクライマックス・・・・
裁判官は許可されずに裁判官の席に詰め寄ろうとする(決して興奮していない)彼女を制してこう言います。
「それ以上すると、法廷侮辱罪どころか、あなたの弁護士視資格を剥奪します」と・・。
彼女は言います。「裁判官とて、超法的存在ではありません。」
警備員が弁護士を取り押さえようと走ってきます。
しかし彼は弁護士が弁護している犯人、すなわち容疑者に足をかけられ転倒します。
警備員が体制を立て直し、彼女に手が届くまでに、彼女は早口でスピーチをするのですが、それはまさに命をかけたスピーチ・・それはたったの10秒。
そして幕となります。
「裁判官とて、超法的存在ではありません」
このセリフは、他の弁護士モノでは直接的な表現としてはあまり聞かれません。
このセリフの裏には、裁判官と弁護士は対等だという考え方があります。
そして、このセリフは神に置き換えられませんでしょうか?
「神とて、超法的存在ではありません。」
本当にそうでしょうか?ほとんどの人はそうは思っていません。
私の神との出会いは、物理方程式でした。「これを作ったのは誰だ?」と・・
いつも講演会ではその話をしました。
しかし・・・神が超法的存在でないとすれば・・・神は、いったい・・・ |
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善と悪
映画『容疑者』のビデオをもう一度見ました。
う〜ん・・色々と考えさせられる映画です。
弁護士のキャサリンは、淡々とすごいことを言うのが、かっこいいです。
女性弁護士の死闘には、しびれます。
弁護士は最後に言います。「裁判官も、超法規ではありません。」
私たちは法律に縛られています。法律を作った国会議員も、もちろんその法律に縛られます。
裁判官は縛られていないのではないかと思ったりもしますが、やはり越えることはできません。
六爻占術は、ルールです。未来方程式そのものです。
では、そのルールを作った存在(神)は、そのルールを越えているのでしょうか?
私は、越えてはいない・・と思えて仕方がありません。なぜなら、私たちが神自身だから・・
あの世で審判をする存在も、「超法規」として考えることもできますね・・
しかし生まれ変わりの村の情報によれば、そういう存在はいませんでした。
人間にとって、取りあえずの善と悪は、何でしょうか?悪は、ルールから外れることです。
一人だけ交通法規の外にあれば、みんなが迷惑します。事故も起きるかも知れません。
だから、人間界においては、ルールから外れること・・すなわち「超法規」は悪なのです。
テロはなぜ悪かとかと言えば、宣戦布告しないでやったからでしょう。
あれを宣戦布告をしてルール通りに事を進めれば、同じ事をやっても悪ではありません。
さて、『容疑者』という映画では、裁判官すらルールから外れることはできませんでした。
映画の中ではそれをやり、悪人として捕まりました。
では、神が超法規だとすれば、なぜ悪ではないのでしょうか・・
神の特権だから・・?何か変ではないでしょうか・・
テロの犯人はひょっとすると、自分たちを「超法規」だとは思っていないでしょうか・・
思っているような気がします。「超法規」で、しかも「善」・・だと。
私たちの神に対する考え方とよく似ています。
もちろん、広い意味において善も悪もないという考え方に、私は賛同します。
しかし映画『容疑者』から「超法規」という問題を考える今、狭い意味の善悪を考えても面白いと思っているのです。
さて、狭い意味に置いて、運命を変えるのは、善でしょうか?
ひょっとすると、善悪は自分で決めるものでしょうか・・
それとも、客観的に存在するものでしょうか・・
それとも、狭い意味ですら、善悪は無いのでしょうか・・ |
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誰も法を犯さない者はいない
容疑者カールが最後にガードマンに突進するシーンに、なぜか涙が出ます。
あれが無ければキャサリンは連れ出されてしまう・・でも突き倒すのは、違法・・
私が彼だったら、同じ事が出来るでしょうか・・
私は責任を他に押しつけて、傍観者をするかも知れません・・(そういう人は多いはず)
キリストの話で有名なのがあります。
娼婦が石を投げつけられているとき、「この中で法を犯していないものが一人でもいれば、その人は投げて良い」というような内容だったと思います。
映画『容疑者』中で、登場人物のほとんどは法を犯します。
最後は容疑者カールそのものが警備員に体当たりします。
さて、最初の話の中で、キリストそのものはどうだったのでしょうか・・
私は聖書に詳しくありませんが、たぶん法を犯す場面がありそうな気がします。
弁護士が言うセリフ「裁判官とて超法者ではない」というのは、「誰しも法を犯す存在」ということを言っているのではないでしょうか・・
もしも弁護士が全く法を犯していなかったら、私はこの映画に感動したでしょうか・・
自分に問いてみると・・どうもそれは私の嫌いなパターンになると思います。
法を犯さない弁護士が裁判官に「超法的存在ではない」と言っても、何をエラソーに・・と思うと思います。 |
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書き込み期間:2002/06/22〜2002/10/29 |
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