テーマ:映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」
書き込み期間:2003/02/22〜2003/02/25
要旨:
 『ボーリング・フォー・コロンバイン』はノンフィクションのドキュメンタリー映画ですが、私は普通のフィクション映画と変わらない感覚で観ていました。現実の話を題材にしていても、監督の視点で編集されたものだからです。
この映画を観て、人間は外の場によって作られてしまうものだということを感じました。
アメリカでは見えない恐怖を植え付けられてそれに突き動かされています。
そうして人々は銃や鍵を買い、恐怖の映像を好んで観て、外敵としての対象を見つけて攻撃を仕掛けます。
犯罪が起こる原因は社会だとも個人だとも議論されますが、私はそのどちらでもなく、時空に真の原因があると考えています。
映画の中で、社会的に劣等生のレッテルを貼られ、どうせ死ぬならと銃を乱射した若者が登場しました。
未来に賭けて夢を追っている限りは、状況は変わらないと思います。
私は、病気で亡くなった父のことを思い出しました。
夢を失うことはいけないことでしょうか・・頑張って生きなければならないのでしょうか・・そんな事を思いました。
目次
○見えない恐怖
○父の話
見えない恐怖

 映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観ました。いや〜、面白かったです。
 映画そのものの中身は、そちらのサイトにでも行って見て下さい。
 NHNドキュメンタリーなんかの、逆を行っていますね・・
 一言も聞き逃さないようにしていたくらいです。
 映画館を出たとき、テレビカメラとマイクを突きつけられ、映画がまだ続いているような気になりました(笑)。
「普通の娯楽映画とこのドキュメンタリー映画はどう違うと思いますか?」とインタビュアー。
 私は、「どこも違わないでしょう。ドキュメンタリーだからと言って、公平なわけではありません。監督の視点でカットしたり繋いだりしているからです。私にはむしろ、作られた現実と映りました。ああいうカットの仕方もあるという一つの話です。普通の娯楽番組と変わりません」と答えました。
 さて、映画の中で言わんとしたことは、たぶん「アメリカ人は見えない恐怖にいつも怯えている」ということでしょう。
 そして恐怖の相手を実際に創り出し、それを武器でやっつけることに夢中です。
 アメリカのメディアは恐怖を作れば視聴率が取れることを知っています。だから恐怖のシーンは何度も放送します。
 それを見て人々は銃を買い、ドアに三つも鍵をかけます。
 しかしカナダの人はほとんど鍵をかけないそうです。
 もちろんそういう家だけを訪問した可能性はありますが・・
 カナダの人の言った言葉「アメリカ人は鍵をかけることによって他人を閉め出す。カナダ人が鍵を掛けると、それは自分自身に鍵を掛けること。」
 私が感じたのは、人間は外から作られてしまう可能性がとても高いことです。
 外からの恐怖をあれだけ植え付けられれば、私も銃を買いに行きそうです。
 そして外の恐怖と闘う大統領は、肯定されます・・
 最後に映った9/11のテロの映像・・こう言っては失礼ですが、起こるべくして起こったと思いました。

父の話

 『ボーリング・フォー・コロンバイン』の監督は、犯罪の原因を「社会のせい」だとしています。
 『ボーリング・フォー・コロンバイン』のサイトにある掲示板には「社会のせいではなく個人のせいだろう」という反論が載っていました。
 しかし私は、社会のせいでも個人のせいでもなく、時空のせいだと思います。
 だとすれば、『ボーリング・フォー・コロンバイン』という一種の社会批判映画を作っても、不安を拡大して、事態はもっと悪くなるかも知れません。
 場が違うと人間はこうも変わってしまうというテーマでもあります。
 「動物は罪を犯さない」ある保安官が言うセリフです。
 「それが人生の全てだと思ってしまう」インタビューされた人のセリフです。
 さらに付け加えて、「人生、大逆転もあるんだ」というセリフも言いました。
 高校でダメ人間でも、それが全てとは限らない・・大逆転もあるんだ・・
 もしもこれで説得されたとしても、状態はあまり変わらないと思います。常に「いつか」という未来に賭けているからです。
 夢を追うアメリカの若者・・夢を失った(と批判される)日本の若者・・
 夢を失うのは、いけないでしょうか・・
 高校で銃乱射事件を起こした犯人は、劣等生で、「そんなことだと社会で通用しない」と言われていました。
 10代で諦めてしまった彼・・どうせ死ぬならと、銃を乱射しました。
 どうせ死ぬなら・・しかし人はいつか死にます。
 私の父の話をします。
 私の父は心臓人工弁の手術が成功したにも関わらず、昏睡状態でした。
 状態が快復してきたので、医者が「今日は昏睡から戻そう」と言う日に、管を抜く直前に(まだ抜いていないのに)血圧が下がりました。
 偶然と言えばそれまでですが、父は死を選んだような気がしました。
 それから10日間、医者の必死の治療にも関わらず、家族が見守る中で、心電図の「ピー音」が鳴り続ける状態になりました。
 医者は蘇生しようとしますが、私は止めました。
 医者は「すまない」と言いました。
 私は首を振り、「あなたは父を助けました。ありがとう」と言って医者の手を、私の両手で握りました。
 話はその一ヶ月前に戻ります。
 手術を承諾するかどうかの席で私は医者に訊きました。「あなたはどうして医者になったのですか?」
 彼は答えました。「人を助けたいからです。」
 これを聞いて、彼のポケットに10万円をねじ込みました。
 「こんなもの、受け取れません」と言われました。
 それでも、「それを受け取れないと、私が困ります」と言いました。
 父が手術室に消えるとき、母は言いました。「頑張って!」
 父は閉めかかるドアの向こうで言いました。
 「頑張ったってしようがねえ・・」これが父の最後の言葉となりました。
 人を助けようとして助けられなかった医者・・充分に助けました。
 頑張らない父・・十分に頑張りました。
 さて、昨日の映画の犯人はどうでしょうか。
 ダメ人間のレッテルを押されて、それが人生の全てだと思ってしまう・・
 たぶん、「俺の人生、こんなはずじゃなかった・・」と思ったに違いありません。
 それに対して周りの人は、もっと頑張れ、頑張らないとダメだ・・と言いました。
 そして彼の糸は切れました。
 人は頑張って生きないと、いけないのでしょうか・・
 病気で死んだ父は、不幸せでしょうか・・

書き込み期間:2003/02/22〜2003/02/25