テーマ:「チベット紀行(2)」
要旨:
チベットには風(ルン)という言葉があります。これは一般に言われる気とは少し概念が違います。
風(ルン)は意識を込められることのない、無色透明のエネルギーなのです。
チベットのお寺にはマニ車というものがあり、これは一回回すと経文を一回読んだことになるのだそうです。
最初は経文をバカにしているのかとも思いましたが、マニ車の回転には銀河運動装置と同じく風(ルン)の渦を発生しているように見えるのです。
しかも回転の方向も決まっていて、地球の自転・公転と時間に関係していると考えられるのです。
この事から、チベット密教は宇宙の原理に適った大変に科学的なものなのではないかと感じました。

ミラレパ瞑想を行っている時に、「物は内部に絶対的価値は持たない」というインスピレーションが降りました。
例えば、人がバラを見て美しいと思うのは、バラ自体が美しさという価値を持っているのではなく、人がバラに対して勝手に美しいという価値を付けているだけではないかということです。
物をある特定の機能と役割を持った道具として見るのも同じです。我々が限定された狭い範囲で意味付けをしているにすぎないのです。
これは人間に対しても当てはめることが出来ます。「人は内部に絶対的価値を持たない」と。
それなのに我々は人間を善人と悪人に分けようとしたり、努力や成長をしようとしたりします。
「人には不変な実体はない」とも言い換えられます。
私達は常に不変の価値観で決断をしているのではなく、その時々で変わる流動体のようなものなのです。

ジョウカン寺の超高僧と問答する機会がありました。
そこで私が「人は何のために生きるのでしょうか?」という質問をすると、「楽しむためだろう」という答が返ってきました。
次に空に関する質問に対しては、「肉体があって初めて空を悟れる」という答でした。
超高僧との問答の翌日、若い高僧と問答をしました。
私は「肉体とは何ですか?なぜ男と女があるのですか?」という質問をしました。
肉体も性別も衣服のようなもので、魂に性差はないとの答でした。
空について尋ねると、絶え間ない変化にどれだけ身を任すことができるかだという返事が返ってきました。
よく言われる善行を積みなさいとか、人に感謝をしなさいとかいうことは、高僧の話には全く出てきませんでした。それはむしろ空の概念から外れると言うのです。

高僧との問答の後、女性だけの寺を訪れました。
そこの女性達も高僧と同じく魂に性差はないという考えを持っていて、女性であることで修行に不利な点は何一つないと言いました。
そのお寺にあったマニ車は小さなものでしたが、目に見えない微細な風(ルン)を私に感じさせてくれたのでした。
目次
○風(ルン)(2001/06/28)
○マニ車(2001/06/28)
○5000メートル(2001/06/30)
○ミラレパ瞑想からのインスピレーション(2001/06/30)
○ミラレパ(2001/07/01)
○宙ぶらりん(2001/07/02)
○超高僧との会見(2001/07/03)
○不変な私は存在するのか(2001/07/03)
○天界に通じる微細な風(ルン)(2001/07/04)
○高僧との問答(2001/07/04)
風(ルン)(2001/06/28)

 チベットでは気とは言わずに風(ルン)と言います。しかしこれは呼び名だけではなく概念も違います。
 以下は今回の『「不思議の友」6』の中国紀行に載っている一節です。
 東にわざわざ飛んできたのは、筋金入りの密教修行者がいると聞いたからです。
 うわさ通り、彼は30年も密教の修行をしていました。さっそくながらお手前拝見です。
 寅さんの友達に対してエネルギーを送って下さいと依頼しました。すると、密教修行者は病気治療はやらないと言いました。理由は
「せっかく病気になったのに、わざわざ直すことは無い」
と言うのです。
「苦しんでいる人が目の前にいてもあなたは直さないのですか」
と聞くと、そうだと言います。因果があって病気になったのを、第三者が直してはいけないと言います。
「寅さんの友達は単なる風邪で、喘息気味なだけです。因果を持ち出すこともないでしょう」
と言うと、
「では私自身のためにやりましょう。彼を直したエネルギーは宇宙を回って自分のところに返ってきますから・・・」
と言い、やることになりました。でも、やるまえにもう一度
「これはあなたのためにやるのではないですから、誤解しないように・・」
と念を押されました。
 病気治療が始まりました。私は非常に興味がありました。密教のエネルギーを初めて感じることができるからです。私は彼が寅さんの友達に手かざしを始めることを想像していました。ところが彼はその場で瞑想を始めました。寅さんの友達はどうしてよいか分からず、おろおろ・・。
 抜粋は以上です。
 さて、私はこの時点でチベット密教のことも風(ルン)のこともよく知りません。
 ところが今から思い出すと彼の行為はチベット密教の風(ルン)に近いものがあると思います。
 チベット密教の風(ルン)には意識を入れてはいけないのです。
 気は違いますよね。普通相手に「病気よ良くなれ」という意識も送ります。
 気にはそもそも「良い気」という概念が暗黙のうちにあります。だって反対の言葉として「邪気」と言いますよね。
 風(ルン)は無色透明でないといけないのです。それを相手がどう使うかは相手次第なのです。
 チベット密教系ではいわゆる手かざしを見たことがありません。
 相手に気を送るということはあまり良いこととはされていない様子なのです。
 私はこのことを単なるルールの問題かと思っていました。
 ところが「私」すなわち「アイデンティティ」と非常に関わりがあるのです。
 意識と共に気を送るというのは、相手に夢を送るようなものなのです。
 相手に夢を送るという行為は自分にも相手にも「私」というアイデンティティがあるということなのです。
 夢・・すなわち病気が治るというようなことです。
 死に関しても風(ルン)は非常に重要な役目を果たします。
 意識は無くなり風(ルン)が魂のもとに行くのです。
(しかしこれは私自身ももっと調査する必要がありますが・・)
 魂とは何なのか・・これは風(ルン)ととても関係がありそうなのです。

マニ車(2001/06/28)

 チベットのお寺に行くと下の写真のようなガラガラが置いてあります。
 聞けば中にお経の経文を印刷したものが入っていて、一度回すと一度経文を読んだことになるのだそうです。
 確かに取っ手がついていて回せます。ハンディタイプのものもあり、それは赤ちゃんのガラガラにそっくりです。
 最初これを聞いたとき「経文をバカにしているんじゃないか!!」と思いました。
 しかし「経文の意味なんてこれを回すようなものなんだよ・・」と言われているような気がしたのは、あのリズミカルな読経を聞いてからでした。
 ハンディタイプを持っている人は読経に合わせて回していました。
 しかしその回転は銀河運動装置と同じなのです。
 ひょっとしてそれは風(ルン)を作っているのではないでしょうか・・
 目をエネルギーモードに切り替えてみると、その部屋には細かな微粒子が乱舞しています。それは私の部屋で銀河運動装置を動かしている時に出ているものと同じです。
 気は流れとして見えますが、これは振動です。しかも大きく渦を描いています。まるで銀河のように・・
 気がこのような銀河の渦になったのを見たことはありません。意思を持って出発点から目的地まで流れていきます。
 日本のお経でもこの様な渦は出来るのでしょうか?少なくとも私は見たことがありません。
 チベット密教の風(ルン)・・それは生のイメージがあります。
 しかも一回ガラガラと回すだけで経文一回分・・
 この人を食った発想こそチベット密教の真髄かも知れないと思いました。


5000メートル(2001/06/30)

 一昨日はイスラム教の人がやっているラーメン屋さんに行きました。
 ラーメン屋さんとは言え、チベット風なので感じは日本のものとは全然違いますが、そこははしょりまして・・。
 その店にラマ層の若い衆が7人もいたのです。
 しっかりと私にオメグミを要求してきたので2元(1元=13円)を上げました。
 私とトラさんは羊の肉入り麺をズルズルと食べていたら、ラマ層たちも同じ物をズルズルと・・。
 トラさんが小声で教えてくれました。
「ラマ層たちは肉を食べるのを禁止されているはずです。だからこのイスラム教の店に来たのです。ここなら寺院に情報はいきませんから・・」
 ははーん、やるじゃないですか・・ラマ層の若い衆たち・・。
 ところで彼らは所属する寺院から月に200元ほどの給料をもらっていると聞きます。
 街の屋台でツァンパと呼ばれる麦のホットケーキみたいのを食べると一元で済みます。
 私はツァンパの大ファンで、毎朝それを食べています。ラーメン屋で羊の肉入り麺を食べると4元です。つまり200元あればすべて外食でもやっていけます。
 私達観光客や他の地域の信者が寺院に入るには30元ほどのチケットが必要です。これは他の物価と比較するとちょっと高いです。でも寺院にとっての大事な収入源です。

 前回、雪を背景にした写真ですが、あれは既に5050メートルの地点でした。
 翌日はもう少し高く登ったので、おそらく5200メートルくらいには達していたと思います。
 聖者ミラレパの寺を探し、一軒見つけそこで色々と聞き出しました。
 その他にも寺は点在すると聞いていましたので探しました。道なき道を走ります。
 トラさんの高山病はさらに悪化して、「頭痛〜い。気持ち悪〜い」とか言い始めました。
 私達の乗っている車は「チェロキー」と言う名前のジープです。
 このジープは以前我が家で買おうとしたものでした。
 ホンダが輸入代理店をしていたのですが、そのときセールスマンが持ってきたCR−Vのパンフレットに魅せられて、結局チェロキーは買いませんでした。
 チェロキーはどちらかと言うと乗用車タイプです。
 その日は下山しないといけません。
 私達は頑張って登るのですがチェロキーでは岩山に難儀します。
 そんな時、隣をトヨタのランドクルーザーが難なく突破していきます。

 私達は小さな村に入りました。すると村の人たちが集まってきます。
 こういう風景は4000メートル以下ではありませんでした。
「ああ、また旅行者だな・・」という感じで無視されました。集まってきたとしても物乞いだったりします。
 ところがここは違いました。
 車の窓を開けるとそこから女性が顔を突っ込んできます。そして私の顔をまんじりと見ます。
 まるでキスされるのではないかと思うくらいに接近してきて・・。
 そしてなんと、私の頬を両手で掴んで・・見ればその娘さん、結構美人です。
 チベットの人ですから顔は黒いのですが、瞳なんかキラキラしています。
 その娘さん、私の頬をナデナデし始めました。そしてチベット語で何か言いました。
 通訳が「森田さんの肌は綺麗だそうですよ」と言いました。
 娘さんと通訳は問答がありました。
「日本人かと訊くのでそうだと言いました。日本人に会うのは初めてだそうです。」
 その娘さんはまた私の頬を触り、今度は鼻の下とあごも触ります。そして何か言いました。
「森田さん、日本人には髭もないってビックリしていますよ。」
 今度は別の女性が顔を突っ込んできて私の顔に触ります。「あらまぁ、本当だ・・」と言っています。
 通訳には女装のことは言っていないので、ヒゲの永久脱毛も知らせていません。
 この部落の女性には、日本人の男には髭がないという先入観が植え付けられたのではないでしょうか・・。
 それにしても彼女達のこの好奇心と行動力は一体何でしょうか。
 標高5000メートルに住むこの人たちの心はとても純粋なのではないかと思いました。
 夕暮れまでにはどうしても下山しないといけないので、私達は時間との勝負でした。
 下山できないと野宿することになります。
 暗くなってから車で降りると、ほぼ100%崖から落ちると言われているからです。
 上に登っていくランドクルーザーにはちゃんとテントが積んでありました。
 ですのでスリスリ・ナデナデの村もたったの五分でさよならしました。

ミラレパ瞑想からのインスピレーション(2001/06/30)

 ミラレパが伝えたと思われる(勝手にそうさせてもらいます)瞑想法を使い、あれから何度かトリップしてみました。
 チベットは空気が薄いので酸欠状態になり、変性意識状態になるのではないかと書いていた人がいました。
 確かにその通りだと思います。それはフィリピンでもそうでした。
 サイキック・ヒーラーたちはホーリーマウンテン(聖なる山)に入っていき、そこで清流に顔を突っ込んで息を止めます。それを繰り返すのです。
 私もやってみましたが、だんだん目の前に星が飛ぶようになります(笑)。
 私もチベットで瞑想すると凄い効果を感じるのです。
 ミラレパが伝えた瞑想法はいずれ書くとしまして、まずはそれを使って得たインスピレーションを書きましょう。

 まず・・物には内在的な意味はあるのかということです。
 ここで言う内在的とは、内部に本質的に存在するものことを言います。
 この質問は「私」すなわち「アイデンティティ」と非常に関係があります。
 私とは何かを問う前に、物とは何か・・です。
 例えば椅子があるとします。動物は椅子を見て椅子だと思うでしょうか?
 無重力の宇宙空間でも椅子は椅子でしょうか?
 椅子の足を二つ切ります。するとそれは人間にとっても椅子でしょうか?
 動物にとってパソコンはパソコンでしょうか?
 5000メートルのチベット人にとってパソコンはパソコンでしょうか?
 私達は物の定義を非常に狭い範囲で意味付けているだけなのではないでしょうか・・
 さて、再度質問です。物には内在的な意味はあるのでしょうか?
 もともと意味がないものに、意味付けているのではないでしょうか?
 つまり椅子は外部から椅子と言う意味を与えて初めて椅子として存在しているはずです。
 内在的な意味は無く、外在的な意味だけあるのではないでしょうか・・・
 ところが私達は物の全てに内在的な意味があると思い込んでいます。それを役割などと言います。
 椅子の役割・・机の役割・・
 ちゃんと役割を果たさないものは役立たずとされます。役立たずは存在価値を失います。
 内在的な意味はないのにどうして役立たずが出てくるのでしょうか。
 それは外在的な意味を内在的な本質的な意味として押し付けているからです。
 外在的とは外から・・という意味です。

 ここまでで次のようには言えないでしょうか・・「物は内部に絶対的価値は持たない」・・と。
 バラを美しいと感じるのは、バラが美しさを持っているからではないのです。
 私達が勝手に外から(外在的に)美しいという価値を与えてしまったに過ぎません。
 バラは内在的には何の価値も無いのです。
 ここで反論をする人がいるかも知れません。
「バラは美しいという波動を持っているのです。だから私達は美しいと感じるのです」・・と。
 波動・・それは内在的でしょうか?
 私は気が見えるようになりましたが、バラから発する気も、雑草から発する気も同じです。まさにそれは無色透明の風(ルン)です。
 波動・・それは受けた側の感じ方に過ぎないと思います。
 風(ルン)に色を付けてしまうのは、私達の意識なのではないでしょうか・・。
 バラも雑草も内部の絶対的価値は同じ・・その価値はゼロ。
 これがミラレパ瞑想から得た第一歩です。

<電話局での顛末>
 今回の記事を送信するために電話局に行きました。
 電話局といっても掘っ立て小屋です。電話小屋と言い換えましょう。
 電話小屋には係の人がいて、その向こうに6台の電話機がありました。
 地元の人が何人かそれを使って話をしています。
 トラさんを通じ、パソコンで日本にE−mailを送りたいと言うと、国際電話ができるのは6台の電話の中でたった1台だと言われました。
 そこに行って繋ごうとすると、ローゼットではないのです。ねじ回しで止めてあるタイプです。これではパソコンに繋げません。
 小屋にローゼットの線があるはずだと言うので探してもらいました。しかし見つかりません。
 私はホテルの部屋にコードを持っています。でもホテルまで一キロ・・。
 しかし親切をしない会の会長としては珍しく、一キロを往復してしまいました。
 今回の書き込みのリアクションが見たかったからです。
(こういう場所にいると内容のある無しに関わらずリアクションは嬉しいものです。)
 炎天下を歩いて往復し、持って来た工具で線の繋ぎ換えです。電話局で電話工事をしてしまいました(笑)。
 さてパソコンに繋ぎ、日本の不思議研のサーバーを呼びます。繋がりました。
 しかし・・どうも半二重通信(一方方向の繰り返し通信)しか出来ないです。
 結局記事のアップしかできず、みなさんの入れたリアクションが画面に出ないで回線が切れます。
 もう一つはタイマーが入っているみたいで、一分で切れるのです。
「バラと雑草の内在的価値は同じ・・ゼロ」
 みなさん、読みましたでしょうか・・
 恩を売るつもりはありませんが(あるって?)、この書き込みはこうして日本に伝送されました(笑)。
 私はと言えば、みなさんの書き込みが見られないまま、次の書き込みをします。

ミラレパ(2001/07/01)

 ミラレパという人の名前が何度も出てきますが、知らなかった人も多いのではないでしょうか。
 彼はマルパの弟子です。マルパはチベット密教のカギュ派の創始者です。
 しかしダライラマ率いるゲルク派、歴史のあるニンマ派に比べ、カギュ派は極めてマイナーです。
 でも私はチベットに来てからカギュ派に惹かれました。ゲルク派への反動かも知れません。
 どこに行ってもゲルク派の寺院が幅を利かせています。そこにはダライラマの像があり、ツンカパの像があります。
 そういう場所は大抵解放区(観光客が誰でも行ける所)です。
 ところがミラレパの場所に行くためにはチベット専用の外国人旅行許可書が必要でした。
「う〜む、何かあるはずだ」と思ったわけではないですが、そのひっそりと佇む寺に、妙に感動したのです。
 まず一つは5000メートルを超える場所にありました。
 そして今日行った場所も、全く人里離れた場所にありました。そこはミラレパの弟子レチェンという人が瞑想修行した洞窟です。
 ホテルの人に訊いても場所を知りません。車でウロチョロして色々な人に訊いた結果、誰も知りません(笑)。
 でもある男の人が「わしが知っている。案内してあげよう」と言ってくれました。
 でも「日本人のあんた、大丈夫かい?」と訊かれました。ひ弱そうに見えたのでしょうか・・。

 そこはジープでも上がれない険しい山でした。ふもとまで車で行き、そこから随分と登ります。それも並みの傾斜ではありません。30度から45度くらいあります。
 私は何度もずり落ちそうになりました(笑)。
 写真をご覧下さい。左上は案内してくれたおじさんと山の途中で休んでいるところです。
 いえ、正確に言えば高山病で息が切れてしまうトラさんを待っているのです。
 チベット語の通訳の女性が「森田さん、その座っているポーズがかっこいいから撮ってあげる」と言われたのですが、別にカッコ良くはないですよね(笑)。
 私はこの案内人とほぼ同じテンポで進みました。案内人はすぐ後ろから登ってくる私を見ては微笑み、はるか下のトラさんと通訳を見ては首を横に振るのでした。
 そう言えばこの写真はUVカットフル装備です。帽子もかぶり手もしっかりと隠しています。通常私は写真を撮る時だけ全て外すのです。

 右上の写真は洞窟の入り口です。
 洞窟は既に祠の様なスタイルになっていて、この僧侶が一人で守っています。洞窟は入って左側がそうです。
 最初中から読教の声か聞こえていました。この僧侶が一人でお経を上げていたのです。
 僧侶の前に見えるのは太陽光線を反射してお湯を沸かす装置です。
 中央左は洞窟にへたり込んでいる私です(笑)。
 このあと洞窟で瞑想させてもらいました。それで疲れが取れてやっと元気になりました。
 中央右は僧侶とのツーショットです。
 この僧侶、わざわざ訪ねてきてくれたと大喜びでした。色々な話を聞かせてくれました。
 私が今書き込んでいるのはミラレパの「空の瞑想法」から出た「空の概念」に近いものがあるのですが、私の気付きをほとんど正しいのではないかと言ってくれました。
 下は8合目くらいから見た洞窟(ほこら)です。
 なお空に模様が出てしまうのは伝送スピードを上げるために写真の品質を落としているのが原因です。本当は真っ青です。



 何故こんな場所まで来て「空」などということを追求するのでしょうか・・
 それは、私は今回のチベット旅行は私自身への内部の旅だと思っているからです。
 仏陀の話は遠い昔すぎます。しかしミラレパは最近の人です。
 仏陀は「空」を説きましたが、菩提樹の下で悟った瞑想法を誰も知りません。
 私はテクニックがあると思っているのです。孫さんの瞑想法にもテクニックがあります。
 導師の瞑想法にもテクニックがあります。仙人になる瞑想にはテクニックがあるのです。
 同様に仏陀の悟りにもテクニックがないとは誰も否定できないと思います。
 今回の旅はその秘伝テクニックを手に入れたいのです。
 文献で日本に輸入されたものではなくて、実際に現地で弟子から弟子に語り継がれたテクニックをです。
 最初、外国人の私などは相手にされないと思っていました。しかし地元の人ですら、ほとんどの人はこんなところに寺があることを知りません。
 それほどマイナーなカギュ派の寺に来てくれたというだけで僧侶は喜んで教えてくれました。
 それは自分を崩壊(分解)するという瞑想法で、今までには経験しなかったものでした。
 もう少し情報を集めてから私の声によるミニミニツアーにでもしようと思います。

 さて前回、「物は内部に絶対的価値を持たない」・・と書きました。その続きをミラレパ瞑想の気付きからほんの少し書きます。
 バラは美しい・・だから私達はバラになろうとはしていませんか?
 足の折れた椅子よりちゃんとした椅子の方がいい・・だから立派な椅子になろうとしていませんか?
 内部に絶対的価値がないのに、なぜそんな風にするのでしょうか・・。
 それは外部の価値を内部の価値と勘違いしているからではないでしょうか・・。
 ニンマ派のゾクチェンの教えをもう一度コピーして載せたいと思います。
 あるがままのものを定義できる概念などありはしないのです。
 にもかかわらず、顕現は現れ続けるます。すべてよしとして・・。
 一切はすでに成熟しているのですから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地にとどまることです。
 すべてははじまりから、自分はすでに自分が到達したいと思っている場所にいるのだということが、直接明らかになります。
 この境地は<あるがままで完璧な>と呼びます。
 瞑想すらも必要なくなります。瞑想で妄想を消す必要もなくなります。
 海面が荒れていると海底が見えません。海面が穏やかになるとよく見えます。
 妄想が見えるようになったのは海面が穏やかになった証拠です。
 何も変える必要はありません。リラックスすることです。
 あるがままで完全な境地とは、リラックスした状態です。
 みずからの真実は、あるがままで完璧な境地であるということを、本当に悟ることきができたら、それが成長なのです。
 これはラサから送信します。
 ラサでは申し込んでおいた大昭寺の高僧(と証される人)と私との問答がOKされたみたいです。日時は先方から指定してくるそうです。
(しかし私は山の上の祠にいたような僧こそ、高僧だと思っていますが・・)
 さて、その他の時間は何をしましょうか・・
 トラさんは「チベットの風(ルン)を利用して瞑想修行しましょう」と言っているのですが、私はミラレパ瞑想テクニックをもう一つくらい追加したいと思っています。
 となるともう一度ジープで探索の旅に出ることになりますが・・
 まあ、あるがままでいきましょう・・。

宙ぶらりん(2001/07/02)

 宇宙空間にバラが漂っていたとします。向こうから雑草も漂ってきました。両者は出会います。
 そこに人間がいなければ両者の価値の差は生じません。宇宙空間にバラも雑草も価値はゼロです。
 物の話が続きました。そろそろ人間の話題に移っていきたいと思います。
 しかしこれを読んでいる皆さん、決してはしょらないで下さい。
 絶対的価値はゼロだが人間として相対的な価値を作り出すことに意味があるとか、価値が無いものをどうして神は作ったのかとか、全体の業ならば神の目的はあったのかとか・・
 宙ぶらりんの状態でいることは確かに落ち着きません。
 しかし宙ぶらりんの状態でいられないことこそ、ここで問題にしたい事柄でもあるのです。
 風(ルン)には色はなく、無色透明でした。ある意味、風(ルン)は宙ぶらりんなのです。
 夢がない状態・・それも宙ぶらりんです。
 しかしここではしばらく宙ぶらりんに漂ってみませんか・・
 チベットは空気が薄いです。私の高山病は発病していませんが、それでもゆっくりと歩きます。
 青い空、薄い空気、無色透明の風(ルン)の乱舞・・。
 日本で濃い生活をしていた時は、目的地まではすぐ行けました。
 しかしチベットでは諦めの境地です。チベットは薄いのです。
 電話小屋とホテルを往復した時、私はずっと宙ぶらりんでした。その間、目的などどうでも良くなるのです。

 さて人間の話に戻しましょう(ゆっくりゆっくりと行きますからね・・何日もかけて)。
 人を善人・悪人・感謝したい人間・感謝の対象にはならない人間・・と分けてしまうのはいったいどうしてなのでしょうか?
 前回は
「物は内部に絶対的価値を持たない」と書きました。これを人間にも当てはめます。
「人は内部に絶対的価値を持たない」・・と。
 う〜ん、すごい言葉ですね・・。でもこれがミラレパの空の概念ではないかと勝手に思っているのです。
 内部に絶対的価値を持たないとしたら、どうしてあるがままでいられないのでしょうか・・。
 なぜ成長しようとするのでしょう・・なぜ努力をするのでしょう・・。
 ゾクチェンの教えだって言っています。「一切はすでに成熟しているのですから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地にとどまることです。」
 人の内部に絶対的価値はないのなら、人を善人・悪人・感謝したい人間・感謝の対象にはならない人間・・と分けることなど出来ないですよね・・。
 人の価値が内部になければ、分けることは出来ないですよね・・
 人の価値がゼロなら、分けることは出来ないですよね・・
 それを私達は分けています。なぜ分けることが出来るのでしょうか?
 それは内部に価値がある何かがあると思っているからではないでしょうか・・
 さらにまずいことには、非常に狭い範囲の情報で決めているのではないかと思います。
 それはその人にとって相手がどう出ているかということだけでしょう・・
 別の人には別の出方をしているかも知れません。
 物であれ人間であれ、内部に絶対的価値を持たないとすれば、価値を決め付けているのは外部である私達に他なりません。
 今日は宙ぶらりんのまま、これでおしまいです(笑)。
 さて、ミラレパ関連のお寺の僧侶からの情報やその後の瞑想で、インスピレーションはどんどん降りてきているのですが、言葉にするのはとても辛い部分があります。
 このあと左脳的にはどういう展開にしようかと悩んでいるくらいです。
 ですので高僧との問答に少しばかり期待をしているのです。高僧がどういう言葉を使うか・・

 ちょっと話を女装に戻します。
『「不思議の友」6』にも「私の実際の女装を知らないで文字だけを追う人は、誤解するケースが多い」と書きました。
 と言うのは、この問題も実は今の問題と非常に関連しているからです。
 りんごの女性性は、私の単なる理想像に過ぎなかったのでしょうか?
 男のもりけんが単に理想の女性を演じていたのでしょうか?
『不思議の友』にも確かにそう書いていますが、実際はそうではない瞬間を何度も経験しているのですが・・
 それは自分の価値が崩壊した時だと思うのです(もともと私は自分を崩壊させたくて女装をしました)。
 価値を持っている間は「理想の・・」という状態があり得るわけですから・・。
『不思議の友』は単行本に比較すると、より「私」に近いのではないかと思います。それでも表現できない部分は、狭間状態の時です。
 映画『コンタクト』でワームホールを飛ぶ時、主役のジュディ・ホスターが言います。
「ここには詩人が来るべきだった」・・と。
 女装体験の一日を終えて書く対象は、あくまで過去のりんごなのです。
 海抜5200メートルを超えている時、私は一枚も写真を撮れませんでした。
 今から思えば悔やむシーンばかりです。例えばスリスリ・ナデナデの女性とか(笑)。
 でもそういう余裕すらないのです。そういう瞬間が、旅の中では最も凄い時なのですが・・。

超高僧との会見(2001/07/03)

 高僧との問答がOKされたと書きましたが、その高僧は出張中でして明日以降に延期されました。
 ところがその前に「わしが会おう」という人が出てきたのです。
 彼は中国仏教教会副会長・中国仏教チベット分会会長という肩書きです。
 つまり超エライのです。それで超高僧と呼ばせていただきます。もちろん彼は活仏です。
 会見はジョウカン寺(前回書き込んだ大昭寺のことですが地元ではジョウカン寺と呼ぶので今後ジョウカン寺で統一します)で行われました。
 ジョウカン寺は私のホテルの隣です。会見には彼専門の通訳まで付いています。
 さて最初に「会長は多忙です。さらにお耳がよく聞こえません。ですので質問は一つだけにして下さい」と言われていました。
 私は会長室に入っていきました。そしてお化けとロボットのマークが付いた不思議研のの名刺を出しました。
 超高僧は怪訝そうな顔でその名刺を見ました。そして言いました。
「訊きたいことはあるかね・・」
「はい、ありますとも・・。とても大事な質問です」
「なんだね・・」
 私は一呼吸置いて「人は何のために生きるのでしょうか?」
 これを訳す通訳が少し笑いました。しかし・・
 −−−−間−−−−−
 −−−−間−−−−−
 間がありました。そして超高層がおもむろに答えました。
「楽しむためじゃろ・・」
 −−−−間−−−−−
 −−−−間−−−−−
 今度はこちらに間がありました。
 だって、涅槃に至るためじゃ・・なんて答えが返ってくると思っていたからです。
 トラさんが私のすぐ後ろでささやきました。「あまりに普通の答えですね・・」
 そのとき超高僧は言いました。「もう一つ、質問、いいじゃろ・・」
 私は訊きました。「チベット密教では空を説きます。だったらなぜ肉体が必要なのでしょうか?空になるためには肉体など無いほうが良いと思いませんか?」
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 超高僧が間を破ります。「あなたは空が分かっているのか?」
「私は一般人です。ですから分かっていないかも知れません。しかし一般人だからこそ空を知る意味はあると思います。」
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 −−−−間−−−−−
 超高僧は答えます。「肉体があるから空を悟れる。仏陀になるのは天の国に生まれた人ではなく、娑婆の世界すなわち人間界に生まれた人だ。あなたは風(ルン)という言葉を聞いたことがあるか?」
 私は答えます。「はいあります。気から意識を抜いたものですね・・」
 彼は「ほう・・」と言ったあと続けます。
「天界に通じる微細な風(ルン)は、肉体という粗い風(ルン)がないと感じることが出来ない。すなわち肉体があって初めて空を悟れる。」
 −−−−間−−−−−
 超高僧が訊きます。「あなたは観光で来たのか?」
 私は逆に訊きます。「人生に目的がありますか?」
 −−−−間−−−−−
 −−−−間−−−−−
 彼が答えないので私が答えます。
「ここに来たのはいろいろあります。チベット密教のことも知りたいし、私のことも知りたいし、もちろん観光もしたいです。そういう意味では楽しむためです。」
「ふ〜む」と言い、彼は初めて微笑みました。
 私は日本から持ってきたソーラーラジオをプレゼントしました。
 ソーラーラジオとは太陽光線で充電できるラジオです。チベットにはピッタリだと思ったのです。
 私がダイヤルを操作して歌が流れている局を見つけました。すると超高僧は歌に合わせて体を揺すります。
 通訳が言いました。「大好きなチベットの歌が流れています・・」
 超高僧はとても喜び、大きな仏陀の写真とお守りをくれました。そのあと撮ったツーショットが下の写真です。



 さて超高僧の写真の下にある写真をご覧下さい。まるでバースデー・ケーキですね。
 これはジョウカン寺の読経の部屋にあったものです。
 蝋燭の台の中に羽のついた缶があります。缶の周りにはお経が書いてあります。
 蝋燭の火の上昇気流でその缶が回ります。一回回れば一回お経を読んだと同じ効果・・
 以前、マニ車の話をしました。
 信者達はハンディタイプのものを持ち、僧たちの読経が始まるとそれを回しながら僧達の周りを回ります。
 お寺はすべて僧達の周りを回れるように廊下のサークルが作られています。その方向はすべて一致しています。
 私は最初全く知らないで逆に回り、注意されたことがありました。
 読経部屋の外には取り付け型のマニ車があります。それも回されます。
 それらの回転はすべて一致しています。ある方向に・・。
 ある方向・・これは地球の自転・公転と関係しています。当然時間も関係しています。
 私はこれを知った時、チベット密教とは大変に科学的であり、宇宙の縮図がここにあるのだと思いました。
 読経は夕方にのみ実施されました。
 その時間帯は地球の自転と公転から、そのスピード(公転スピード30Km/s)を最も利用できる時なのです。
 これを知った時、私は神坂氏に不思議研経由でファックスしました。
 神坂氏があるとき自分の体を使って実験したのですが、そのとき体を悪くしてしまったのです。その回転は逆だったのではないかということをチベットで気づいたからです。
「あなたが人体実験をしたときの回転方向は逆だったのではないでしょうか。私はチベットでそれを知りました。だからあなたはあのとき体を悪くしたのではないでしょうか・・お返事は不思議研にお願いします」
 すると返事が不思議研経由のE−MAILで着ました。
「正に其の通りです!! あれは私の大自然の成り立ちに対する命がけの挑戦だったのです。大自然の原理を思い知らされました。森田さんの言う通りです。チベットから大変な情報でした。しかしあのとき死に損なったけれど、私は満足でした。」
 神坂氏ですら間違えました。それも自分自身の人体実験でです。
 回転方向は一定ではないのです。時間帯によっても変わります。
 さて読経の大合唱が始まり、マニ車が回転し、絶好調になったとき私は寺の外に飛び出しました。
 案の定、上空に透明な風(ルン)の渦がありました。
 その渦の方向は下で回っているマニ車やろうそく台の羽付き車と同じでした。
 風(ルン)の渦は部屋の中だけではなかったのです。それはアンドロメダ大星雲のようでした。
 星座は風(ルン)そのものの動きに上に乗っているだけかも知れません。
 私は女装で気を見る能力が高まりましたが、上空に見たのは初めてでした。
 中庭に寝そべり、リズミカルな読経を聞きながらまるでダンスのように回転する風(ルン)の渦に見とれていました。
 隣にワンピースを着たりんごも見ているような気になりましたが、そんなわけはありません。だってりんごは私の中にいるのですから・・。
 その渦は私のホテルの上まで伸びていました。
 チベット密教・・それは宇宙の生命エネルギーである風(ルン)をしっかりと利用していたのです。
 お寺は宗教の建物なのでしょうか、それとも壮大な宇宙エネルギーの実験室なのでしょうか・・。
 こんなところで毎日修行していたら、ラマ僧に超能力が出るというのも決して偶然ではないと思いました。

 さてここで、話が変わる前に書き込みの訂正をします。以前、以下の書き込みをしました。
「しかしその回転は銀河運動装置と同じなのです。
 ひょっとしてそれは風(ルン)を作っているのではないでしょうか・・
 目をエネルギーモードに切り替えてみると、その部屋には細かな微粒子が乱舞しています。それは私の部屋で銀河運動装置を動かしている時に出ているものと同じです。
 気は流れとして見えますが、これは振動です。しかも大きく渦を描いています。まるで銀河のように・・。
 気がこのような銀河の渦になったのを見たことはありません。意思を持って出発点から目的地まで流れていきます。」
 この最後の行ですが、意思を持っているのは気です。意思を持っているから出発点があり目的地があるのです。
 風(ルン)には意思は入れてはいけないのです。ですから渦になりやすいのだと思います。
 繰り返し言うと、意思を取り去った気が風(ルン)なのです。
 上空に渦巻く風(ルン)を見ているうちに突然自分が回転しているようにも感じました。
 そうです。どちらが回転しても良いはずでした。上でも回転し、私も回転する・・
 粗い風(ルン)から微細な風(ルン)へ・・そんなことを感じました。
 まるで巨大な宇宙船に乗っているようでした。
 ひょっとして浮き上がっているのではないとか思い顔を横に向けたら、やはり地面はそこにありました(笑)。
 さてラサに着いて以来、トラさんと私は瞑想修行に入りました。
 歩いて3分のジョウガン寺から「いつでもどこでも瞑想に使ってよい」という承諾を取りましたのでジョウガン寺でやろうと思っていました。
 しかしあの風(ルン)の渦がホテルまで達していたので行く必要はないと思い、ホテルでやっています。
 ホテルならカーテンを閉めて集中することが出来ます。
 しかしカーテンを閉めた後、トラさんがちょっと恥ずかしそうな顔をしながら部屋のドアを開けに行くのは、私が女装の写真を見せてしまったのがいけないのでしょうか(笑)。

不変な私は存在するのか(2001/07/03)

 メインテーマを少し書きます。
 あなたはお腹が空くと、「お腹が空いた」と思います。
 暑いと「暑いなあ・・」と思います。
 お酒を飲みたいと思えば冷蔵庫からビールを取り出し、飲んで「あ〜、うまい」と思います。
 あなたは誰ですかと訊かれれば、「私は××です」と名前を答えます。
 さて「人は内部に絶対的価値を持たない・・」
 これは「人には不変な実体はない」とも言い換えられると思います。
 なぜなら、あなたがやっていることは流動的すぎます。
 どう見たって「不変なあなた」が「決断して」やっているとは思えません。
 なのに精神世界ではよく言われます。
「あなたが主人公です。あなたがすべて決めているのです」・・と。
 いったい、いつ、どこで決めているのでしょう?
 そもそも「主人公なるあなた」は存在するのでしょうか?
 ダイエットを決意したのに翌日はケーキを食べてしまう・・
 二度と怒らないと決意したのに、翌日は怒ってしまう・・
 こんな繰り返しではないでしょうか?
 そしてあなたはこれではダメだと思います。
 そこにゾクチェンの教えが出てきて「あ〜、あるがままでいいんだ・・」と思いますが、それでも翌日は目標なんて持ってしまう・・。
 内部に不変な実体としてのあなたが存在しないとしたら、直しようがありますか?
 これはすごい残酷な質問でしょうか(笑)。
 直せるのは外から見た外在的なあなただけです。それをいくら直しても、内在的なあなたに変化はありません。たぶん・・。
 かなり断定調で書き込んでいますが、「あなた」とは「架空のあなた」です。そこには私も含んでいます。
 お腹が空いた・・暑いなあ・・ケーキが食べたい・・私達は流動体そのものなのです。

天界に通じる微細な風(ルン)(2001/07/04)

 私が泊まっているのはジョウガン寺というお寺の境内から歩いて一分の距離です。
 これはトラさんが北京の旅行社に「修行もしたいので、良い場所にして下さい」と言ったので実現できたような気がします。
 ラサはジョウガン寺を中心として構成されているのではないかと思います。
 この地域は旧市街といい、自動車の乗り入れが制限されています。中に住む人の車しか入れません。
 その中には露天商店がいっぱいあり、雰囲気もあります。
 昨日はジョウガン寺の中で瞑想してきました。
 下の部屋で読経が始まった時、私はその真上の屋上で瞑想しました。
 下から風(ルン)が渦を巻きながら上がっていくのが見えるのです。
 そして上で合流して銀河の渦になりました。
 でもホテルに帰ったら風(ルン)の渦は見えないのです。
 あれれ、おかしいな・・と思い、再び寺に行きました。すると見えるのです。
 寺の中では読経があり、ハンディ・マニ車が回っています。
 上を見れば風(ルン)の銀河が見えます。どこまで見えるか、試してみました。
 すると読経が聞こえなくなると、上空の風(ルン)の渦も見えなくなります。

 そう言えば昨日、超高僧が言っていました。
「天界に通じる微細な風(ルン)は、肉体という粗い風(ルン)がないと感じることが出来ない。すなわち肉体があって初めて空を悟れる。」
 う〜ん・・
 上空の渦は天界に通じる微細な風(ルン)なのでしょうか・・・。
 そしてそれは肉体と言う粗い風(ルン)・・すなわち読経やマニ車がないと感じることが出来ないのでしょうか・・
 でも私には読経部屋の風(ルン)も上空の風(ルン)も同じ粒子に見えます。どちらが微細かと訊かれると困りますが。
 超高僧の言った意味にはもっと深いものがありそうです。
 さて気が見えるようになったと言うと、「ではオーラも見えるでしょう?私のは何色ですか?」と訊かれることがあります。
 でも私は色を見たことがないのです。すべて無色透明に近いのです。
 私は色を見たいとは思いません。
 初対面の人のオーラの色が見えてしまうと、それだけで先入観になりそうですから・・

高僧との問答(2001/07/04)

 とうとう高僧との問答が実現しました。彼はまだ若いです。
 しかしジョウガン寺では昨日の超高僧についでナンバーツーと言われています。大変な学識者です。
 問答そのものを書くと膨大な量になります。
 すべて録音しましたので、日本に帰ってからテープ起こしをしないといけません。
 彼はとても頭の切れる人でした。チベット語、中国語、英語が出来ました。
 問答の中で今回のメインテーマに最も近い部分を書きましょう。
 私は「肉体とは何ですか?なぜ男と女があるのですか?」と訊きました。
 すると彼は答えました。
「肉体は衣服と同じです。魂には男も女もありません。魂が単に性別の服を着ているだけです。ですから本当の男とか本当の女とかは存在しないのです。服が男っぽい男服、ちょっと女っぽい男服・・こういう差にすぎません。人間は肉体という服を簡単に着替えることはできません。ちょっと女っぽい服を着ているのにもっと男っぽくなるのは無意味です。魂のレベルには男も女も無いのです。どちらにでもなれます。そこに優位の差はありません。」
 次に私は「空について教えて下さい」と言いました。高僧は答えます。
「空を誤解している人は大変に多いです。空は何も無いことではありません。空を一言で言おうとすれば絶え間ない変化ということです。物でも人間でも一定ということは無いのです。常に変化をし続けています。だから実体として掴まえようとしたとたんにそれは変化します。実体として捉える事は不可能なのです。では変化する枠としてとらえればいいではないかと言う人がいますが、枠を設定しても変化はそれを飛び越えるかも知れません。過去がこうだからと言ってそれで未来を考えることはできません。今を生きるというのも違います。意識して今を生きることなどできませんから・・。絶え間ない変化にどれだけ身を任すことができるかがポイントです。」
 次に風(ルン)が見えるという話をしました。
「上空に見える渦は微細な風(ルン)でしょうか?」彼は答えます。
「あなたが見ているのはすべて粗い風(ルン)なのではないでしょうか・・。微細な風(ルン)は普通、見えません。ただし私はあなたではないので何とも言えません。」
「人間は何のために生きるのでしょうか? 時空は何のために人間を存在させたのでしょうか? 時空の目的は何でしょうか?」
「これらに関してはチベット密教では正解を用意していません。ただ分かりませんとしか言えません。もしも言うとすれば全く個人的な意見でしかありません。それを追求して私達も修行しているのです。仏陀ですらあなたの質問の答えは用意していないはずです。分からないことは分からないと言うのが私達仏教の修行僧です。」
「ハンディ・マニ車はどうして一方方向に回しているのですか?逆転をする人はいないのですか?」
「あの中には経文が入っています。一定の方向に回せば最初から最後まで経文を読んだようになっています。逆に回すと経文を逆に読むことになりますから、誰も逆転はしません。」
 この後も早口で大変な情報量をくれました。
 その中で印象的だったのは、涅槃に行くためには善行を積みなさいとか、人に感謝をしなさいとかは、一切出てこなかったことです。
 むしろそれは空の概念が外れるとさえ言いました。
 空の概念、すなわち変化に身を任す・・言い換えるとこれはゾクチェンの「あるがまま」にとても近いような気がしました。
 話が終わり、ソーラーラジオをプレゼントすると彼は大喜びしました(ソーラーラジオは大正解でした)。
 お返しに『チベット死者の書』のVCDを頂いてしまいました。どんな映像が入っているのか楽しみです。
 二番目の写真は彼とのツーショットです。



 さて三枚目、四枚目はジョウガン寺から歩いていける距離にあるお寺でアニ・ツァングン寺と言います。ここは女性だけのお寺です。
 三枚目の写真は尼寺の境内です。それを見れば分かると思いますが、まるで小奇麗なマンションでした。男性だけの寺は殺風景でした。
 ここは尼僧が103人住んでいますが、その窓にはみんな花の鉢が置かれています。
 そしてなんと言ってもビックリしたのは尼僧の全員がとっても明るいのです。
 まるで私がりんごになった時のようでした。
 作業をしている部屋に入ると、「やぁお客さん、・・ゆっくりしておいで・・」
「私ねえ、少し日本語ができるのよ・・こんにちは・・私の日本語がわかるかい?」
「これ、何を作っていると思う?マニ車に入れるお経だよ。すごいだろ、朝からこんなに作ったんだよ・・」
 こんな感じでどんどん話し掛けてくるのです。
 そして四枚目の写真ですが、これは場内を案内してくれた尼僧です。私は彼女たちに訊きました。
「修行をする上で女性であることの不利な点はありますか?」
 一人が答えます。「全くありません。同じ修行をしています。辿り着く方向も同じです。私達は肉体を衣服と同じだと思っています。衣服を抜けばみんな同じ魂です。そこに性の差はありません。」
 私は次の質問をしました。「男性の寺に行くと女性禁制の場所がありました。ここにはそういう場所はあるのでしょうか?」
 もう一人の女性が答えます。「ここにはそういう部屋はありません。すべての部屋にあなた(男性)は入ることが出来ます。」
 私はこの二人と場内を歩きながら色々な話をしました。そのとき二丁目のレズのお店にいる雰囲気を感じていました。
(これは不謹慎でしょうか? もしも不謹慎ならどちらに対してでしょうか?)
 男女という世界から離脱して女性だけの世界に生きる彼女達・・
 そして男女の世界にいる女性よりも明るく気さくな彼女達・・
 最後に地下室に案内されました。そこは一人で瞑想する洞窟でした。
 男性の寺では女性禁制の場所になっていました。
 洞窟の天井は綺麗な刺繍の布で飾られていました。刺繍の柄はひまわりとコスモスでした。
 一方、男性の寺でのそれは、ただのコンクリートでした。
 私はりんごになってここで瞑想したい衝動にかられました。
 目を開けた時、ひまわりとコスモスの刺繍はどういう風(ルン)を放つのでしょうか・・

 政治的に重要な役割を持つジョウガン寺。それは男性の寺です。
 多くの信者が集まります。信者が輪になってマニ車を持ち、回ります。
 そして上空には巨大な風(ルン)の渦が出来ます。
 しかしジョウガン寺から歩いて来られるこの尼寺には、ほとんどお客さんは来ません。
 外にはマニ車がたったの三台あっただけでした(ジョウガン寺には何百台もあります)。
 尼寺のマニ車は優しくできていました。服などに引っかからないようにハンドルが丸いのです。
 たったの三台では風(ルン)の渦はできないでしょう。
 みんなでお経を上げる部屋はとても綺麗でした。植物の鉢が幾つもありました。
 微細な風(ルン)・・それは規模に関係するでしょうか?
 地下の瞑想室では本当に小さな風(ルン)の輪しかできないかも知れません。
 しかし小さいから効果が薄いというのは三次元の考え方かも知れません。
 帰る時、何人かの尼僧が手を振ってくれました。
 日本語が出来るという僧が叫びました。「さよなら・・」
 微細な風(ルン)は目には見えない・・・
 心の中にある風(ルン)・・それが微細な風(ルン)なのではないかと思いました。
 尼寺の人たちが私にくれた気付きのプレゼントでした。