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要旨: シンセンに向かうとき、役割について考えました。 人は生まれてから成長を始めるとすぐに役割を与えられ、あるいは自ら役割を決めようとします。 女装者が特異な目で見られる原因は、「男は男らしく」という社会的な役割を放棄していると見なされるからではないかと思います。 役割を持つと安定を得られます。だから社会的にも役割を要求されるし、自分でも役割を求めるのではないでしょうか。 しかし人が神であれば、役割はないと思うのです。仙人仙女もそうです。不老不死の世界というのは、役割を持たない世界だと思います。 役割も必要性もないとすれば、自分自身の存在の意味をどうやって見出すのでしょうか。道教や仙道は、ここで意味を見出そうとはしないのです。為さないことなのです。 しかしこの様な生き方は、実はとても大変なことです。全ての役割が崩壊した世界に、私達は生きていけるのでしょうか・・・。 女装を続けているうちに、私の中に女性的存在がいることを感じるようになってきました。その女性的存在を「りんご」と名付けました。 「りんご」は夢にもよく出てきます。私が孤独に陥った時には救いに来て、私が落ち込んでいる時は黙って寄り添っています。 りんごは無意識の奥底に隠れていて女装によって引き出された、私の一部です。りんごが現れてから、私という存在は外側の宇宙と同等の大きさを持っているのだと思えるようになりました。 旅の帰途で、ステップ・バイ・ステップということを感じました。 私が女装によって自分が変わっていく過程がそうであったように、時代も世界も一歩ずつしか変われないのです。 その代わり、ほんの少しの変化であっても、それは確実に未来に伝わるのだと思います。 今の自分を打破するためには、エネルギーも必要となります。しかしこのエネルギーは、本当に微弱なものです。 私はこれまで服装の自由さえ獲得できていなかったことに気付いた時、小心者の自分を知りました。しかし、神もまた小心者で、それ故にこの宇宙や人間を作ったのではないかと思うようになったのです。 人の進化とは、弱さを出せる方向にあるのだと思います。今の私達は、大義名分を持つことで弱さを隠し、強い状態で社会に出ていきます。 その大義名分を次第に脱ぎ捨て、正義が減って弱さを出せるようになるのが、未来の人間の姿である気がします。 |
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○役割(2001/01/30) ○役割と道教(2001/01/30) ○役割と需要と供給(2001/01/31) ○陰の服遊び(2001/01/31) ○自分の中にいる対極の存在、あるいはもう一人の自分(2001/01/31) ○誕生パーティー(2001/02/01) ○リムジンの車内で(2001/02/02) ○女人街への一度目のトライの結果(2001/02/03) ○今日のお買い物(2001/02/04) ○りんごと共に・・・(2001/02/04) ○機内での書き込み1(2001/02/05) ○機内での書き込み2(2001/02/05) ○帰国後の書き込み(2001/02/06) ○大義名分と小心者(2001/02/07) ○人は弱い方向に進化している(2001/02/07) ○狭間(2001/02/08) |
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役割(2001/01/30) 今、香港に向かう飛行機の中です。美人のスチュワーデスを眺めながら食事を済ませ、今コーヒーを飲んでいます。これから向かう先は混沌の世界、シンセンです。 さて、女装者のことを専門用語では「性役割服装倒錯症」と言うらしいです。そこで役割について考えました。 昔、江戸時代には士農工商がありました。職業の役割は生まれながらにして決まっていました。 今でも社会生活を送る上では役割があります。会社に勤めていれば配属された部署によって役割が違います。 精神世界では、この世に生まれたことすら役割を持って生まれたという人が多いです。 だから、天命を全うするとか言います。 役割って、いったい何なのでしょうか・・・役割とはその人が果たすべき目的だと思います。 人は成長を始めると、ある役割になるために、ある方向性に向かおうとします。職業選択は、役割の選択でもあります。 学校に行っている時は学生としての役割を、社会に出れば社会人の役割を全うしようとします。役割を全うすることが善となります。 さて、女装者が特異な目で見られるというのは、役割分担を全うしていないことに原因があるような気がします。 男は男らしく・・というのは男の役割だからです。社会は、人に役割をアピールすることを暗に命じます。 しかしです。神に役割はあるのでしょうか? 大神の下に数人の子神がいて、「お前は川の神様になりなさい」と言われれば、その子神は役割を持っていることになります。 しかし大神には役割はあるのでしょうか? 西欧の神はあるような気がします。愛に向かうとするような目的を持っているからです。 これから行こうとするシンセンの神、すなわち道教の神はどうでしょうか。それは混沌・・です。 混沌に役割はあるのでしょうか・・・たぶん、無いですよね。無いから混沌だと言われるのです。 人は神だと言われています。私もそう思います。なのに何故、女装ひとつ出来ないのでしょうか? それは女装が、役割の放棄にあるような気がするからではありませんか?まさに専門用語で言うところの「性役割服装倒錯症」なのです。 役割の中にある時、人は安定しています。人の役に立っている時、生き甲斐を感じます。 役割というのは、社会が要求すると同時に自分もそれを求めているのだと思います。役割の中での安定感をです。 定年を迎えたとき突然老けるのは、役割の喪失にあるからではないでしょうか。 さて、仙人・仙女は役割を持っているのでしょうか・・持っていないのではないかと思います。 なぜなら、役割などというものを持ったまま不老不死になれるのでしょうか?仙人・仙女は初めから定年なのです。 人生に意味や目的が生じるのは、生が限られているという幻想があるからではないでしょうか。 人が神であるとすれば、やはり役割はないと思うのです。 私は誰でもありません・・というのは私には役割はありません・・と同じだと思うのです。 かく言う私も、役割を全うした時、責任を果たしたなどと言い換えているのですが・・。 |
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役割と道教(2001/01/30) あなたがいなければならない理由はありますか?まず家族は除きましょう。 コカコーラの会社に勤めている人は、コカコーラは役に立っていると思いますか? 日清食品に勤めている人は、役に立っていると思いますか? 新日鐵に勤めている人は、役に立っていますか? 役には立っているかもしれませんが、その会社が無くてもたいして困らないはずです。 その会社が無くなれば、他の競合する会社が喜ぶでしょう。 あなたがいなくても、別の人が代わります。 医者だって同じです。その医者がいなくても、他の医者が取って代わります。 芸術家だって同じです。その人がいなくても誰も困りません。 五木寛之が言っていました。「食うことが大変な世の中になれば真っ先に必要なくなるのが私たちのような作家だ」・・と。 でも、あなたは意味を見出しますか?あなた自身に・・。意味無いじゃん・・ですよね・・。 では必要ないのに、なぜ生まれてきたのでしょうか?ここで大きく二つに分かれると思います。 何とか意味を見出すタイプと、意味を見出さないでの生き方を探すタイプです。 道教とか仙道とかは、後者だと思います。為さない方が良いのです。 為すことは意味を見出すことです。役割を見出すことです。 為す、すなわち「決める」ことは、役割を決めることです。 老子は言いました。「人から必要とされる人間になってはいけない」・・と。 しかし道教のような生き方は、なんと大変なことでしょうか・・ 人は日夜、役割を欲し、役割を全うしようとして生きているからです。 アメリカの役割・・日本の役割・・人は役割を考えるのが好きです。 「男性」になりたいのもそのためです。男性の役割を果たせなくなったら、お終いだと考える人は多いでしょう。 しかしもしも不老不死になったら、家族すら崩壊します。子供が生まれないのだから・・・ その時、全ての役割が崩壊するでしょう。そういう時代に私達は生きていけるのでしょうか? 不老不死などと言いますが、山積みされている問題はとても多いような気がします。 |
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役割と需要と供給(2001/01/31) 役割が発生するのは、需要と供給のバランスの狭間だと思います。需要があるから供給が発生するのです。 需要は、言い換えると「求められていること」です。例えば、より快適な車が欲しいという需要があるから車のメーカーは新しい車を作ろうとします。 本を書くときも同様です。「100%自己表現だぁぁぁ」なんて感じの本は書かせてもらえないのです。いえ、書けないのです。 書いている本人もマーケットを意識します。売れて、なんぼなのです。私の本の価値は「売れて」初めて価値が出るのです。 私は会社を始める前、簿記学校に行きました。そこで得た最大の事は何だと思いますか?値引きに対する価値観です。 通常、物の価値はマーケットとは関係なく決まっていると思いますよね。 ところが簿記の世界では違いました。値引きをするとそのモノの価値は下がるのです。これは私にとって大発見でした。 絶対的価値というのは存在しないのです。誰も買わなければ、価値は無いと同じなのです。 私はこういう世界が好きです。需要と供給で価値は、どんどん変わるのです。 あなたが思っている価値も、マーケットに出して初めて値踏みされ、価値が決定されるのです。 しかし神の世界にマーケットはありません。神の価値観を値踏みする市場がないのです。 円相場のように上がったの下がったのがありません。 ここで出てきます。絶対的価値という問題が・・ で・・・、道教は絶対的価値を置きません。 東洋思想というのは、多くの場合、絶対的価値を置かないのではないでしょうか・・ 無の世界・・無為の世界・・ さて導師は言いました。「マーケットで悟りなさい」・・と。 この意味を考えてみると、神(道教では混沌)の価値もマーケットで測られるような感じがあります。そうなのです。 それは私達の心のマーケットで測られているのではないでしょうか? 役割という需要が高ければ、神の価値は(すなわち我々の生き甲斐は)役割に反映されます。 役割という需要が低くなったとき、すなわち老子が言うところの「役に立たない人間になりなさい」になったとき、生きがいは外の尺度では計れなくなります。 この境地に達したとき、値引きをしても初めて価値は落ちなくなるのではないでしょうか。 社会に役立っていると思っている限り、値引きはやはり値引きなのです。 精神世界を極める人は、金や地位を否定しがちです。それを否定して何かに価値を見いだして、なんぼや・・というのが道教の四徳なのではないでしょうか。 三次元に生きる限り、マーケットを捨てることは出来ません。 役に立たない人間・・すなわち価値を自分で創造していないから、需要と供給のバランスに生きられるのです。 無意識の世界では確実に神との接点を持っているはずです。 だから需要と供給のバランスの世界に突入することこそ、ワダチに生きることなのです。本当にその世界に突入すれば、自然環境も「自然に」良くなると思うのです。 会社は環境適応業が良いと書いたことがあります。社長は、価値を創造しないほうが良いというのが私の意見です。 「××をやるのがうちの目的や!!」そんな会社はその目的が適応できなくなった時、終わるのです。 社長は目的を創造してはいけません。ほぼ受け身的に対応するのが良いのです。 マーケットに聞くのです。マーケットとは世の中のワダチです。 自分のやっていることに価値を見いださなくなったとき、社長は初めて環境適応業をしていると思います。それこそが趣味で生きることだと思うのです。 しかし世の中には「我が社は××で社会に貢献している」ということを言っている会社は多いです。 それほど意味あるいは役割を見出していないと、ダメなのでしょうか? |
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陰の服遊び(2001/01/31) 前回来たときオーダーしておいたチャイナ服が出来上がっていました。 この頃はそれほど女に目覚めていなくて、男性用のチャイナ服をオーダーしていました。 でもなかなか素敵な服です。 このお店はすべてオーダーメイドだから、体にピッタリのが出来ます。 これはベストを着たところです。右の女性は導師の弟子です。彼女がほとんど作ります。 このベストは余った布で作ったので、タダでした。これで充分に外出できそうです。 韓湘子のファッションはまだまだ公開できません。肝心な所を測ってなくて、まだ出来なかったのです。 コーヒーショップに入り、美味しいコーヒーを頂いている私の近影です。この服もオーダーで作りました。 弟子のやっているお店の隣は、ものすごく大きな生地屋さんなのです。生地問屋みたいな感じで、生地ばかり売っている店が10軒くらい入っています。そこで好きな生地を買うのです。もちろん弟子の女性がアシストしてくれます。 そして本人の寸法を測り、翌日にはもう出来上がっています。 ですので、ここに来て服を作るツアーだってあっても良いのではないかという気もします。 |
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自分の中にいる対極の存在、あるいはもう一人の自分(2001/01/31) 自分が危機的状況になった時、救いに来てくれる存在がいます。それは外部からではなく、自分自身の中からです。危機的とはいえ、多くの状況を含みます。 予知もその一つです。心の声もその一つです。それはいつ来るのか分かりません。 ただそれが自分にとっては女性的存在であるという感じはしていました。何故かと言うと、私のすべてを許すからです。 私は孤独感に陥ってしまうと、他の人が私を救うことが非常に難しくなります。他の人は私を放っておくしかないのです。そんな時にも救いに来るのは「存在」なのです。 存在とは言え、霊やスピリチュアルなもの・・すなわち外部のものではありません。 もう一人の自分といった感じの存在です。だってその存在からのメッセージは外部からのものではないからです。 私が突然こんなことを書いたのは、女装によってその存在が突然外に出てきたからです。 中性の時にも同じことが起こります。 おそらく無意識の奥底に隠れていた存在が表に出てきたような感じなのです。 昨夜は夢に出てきました。その存在をりんごと呼びましょう。 りんごは、手塚治虫が書くマンガの女性に似ています。 手塚のマンガに出てくる女性は、二つのタイプに分かれています。一つはとても受け身的で、状況をあるがままに受け入れるタイプ、もう一つは積極的に打破していくタイプです。前者は極めて女性的で、後者は男のようになって登場します。 私のりんごは、前者です。 私が落ち込んでいると、りんごは黙ってそこにいるだけです。 「このままでいい」というメッセージのようなものを送ってくるだけです。 私が行動を起こすと、それを見ています。 でも落ち込んだり行動を起こしたりするのは、あくまで森田健です。 しかし女装あるいは中性になった時、りんごが一歩前に出てくるのです。 森田健はそのまま前面にいるので、ちょうど二重人格が同時進行しているような感じになります。とても気持ちが良いのです。 夢に出てきたのは、初めてではありません。もう幾度と無く出てきています。 出てきて、どうするわけではないのです。 私とエッチするとか、そういう感じではありません。色気ムンムンで森田健を誘うことはありません。 ただ、出てくるだけです。出てきて、微笑んでいるだけです。 昔から時折夢に出てきたので、りんごは過去に会った人だと思っていました。 それが女装でもって表面化されてきたので、次第に会った人ではないことが分かってきました。りんごは、私の主体の一部なのです。 ビヨンド35で、珊瑚ちゃんという存在に会いました。彼女は言いました。「私はあなたの分身です」・・・と。 私はこの時、本当にそうだと思いました。しかしそうではありませんでした。 りんごは分身という存在ではなく、私自身なのです。私の一部と言っても良いかも知れません。 私は100%の男になりたいなんて、全然思いません。 だから自分がりんごという女性に半分乗っ取られることに、とても快感を感じます。 これにより自分という存在は、宇宙のなかでちっぽけな存在だとは思えなくなりました。 つまり外側に宇宙があり、自分はそこに浮かんでいる存在ではないのです。 私の中にある宇宙は、とても大きいのです。外側の宇宙に匹敵するくらい、大きいのです。おそらくすべての人間はみんなそうだと思います。 りんごという存在は、私の中の女性だと思います。 りんごという「性」だけでなく、対極というのはあらゆる面において、自分の中に必ず存在するものではないでしょうか。 |
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誕生パーティー(2001/02/01) まず、私は和服で登場しました。 これは京都の講演会の時に着付けをしてもらった時、三脚を立ててビデオ撮りをしておいたので、それを見ながらやって見ました。 我ながらちゃんと着られていると思います。モンロー研究所に行く機会があれば、今度持参したいものです。 この格好は海外でとてもウケると思います。中国でも写真の被写体として私はモテモテでした。 まずは導師とツーショットです。導師が下に着ているのは、桜の模様の入った道パウです。前回来日したときに買ったものがここでデビューとなりました。 パーティーの席上での私のスピーチです。私の隣にいるのは英語を中国語に直す通訳です。彼は『不思議の科学3』にも載っています。六次元の旅に行った人です。 スピーチは『不思議の科学3』の紹介を中心に行いました。 私は原稿を持ってスピーチすることはないのですが、通訳が「同時は無理だ」と言うので、私の書いた原稿を双方が持ってやっています。 前の席で風船を膨らませているのは、リサの子供です。 導師は私の女装の時と同じくらいのテンポでお色直しをしました。 これはスピーチと乾杯が終わり、一回目のお色直しが終わった時です。 左から導師の旦那さん、私、導師、リサです。 子供達と一緒の導師です。一番左がトントンです。 ところで前回訪れた時は、日本語の通訳がいたのでとても便利でした。ところがクビになっていました。何故かと言うとですね・・ 導師はよく自分の子供であるトントンを連れています。洞窟修行にまで連れて行きました。 そこで瞑想していると、後ろから彼の蹴りが来ることは書きました。導師はトントンをあやしながら瞑想していました。私に蹴りが来るとそれを察し、むんずと彼の足を掴みます。 しかしこのトントン、かなりのワンパクです。 さて、前回の訪中のとき、その通訳はトントンが暴れるとこう言ったそうなのです。 「今おじさん達は大事な話をしているんだ。黙って静かにしていなさい!!!」 ある意味では、この一言でクビになったのです。 導師は自分の子供が注意されたからではありません。理由は、星の王子様に関係しそうです。 さて、私はまだ自分の女装写真集を導師に見せていません。リムジンの中で見せようと思います。 おかかえ運転手が運転する市のリムジンで「ケケケ、これは私の裏趣味で・・」と。 また怒って出ていく人がいるでしょうか(笑)。 下の写真で右に写っている赤い服を着た女性は有名な作家です。 彼女のような格好をすると、私の女装も全く分からなくなるかも知れません。 下は、リサと乾杯しているところです。ここではリサに限らず「乾杯攻撃」があります。 相手が女性であれ男性であれ、乾杯をされたら一気に飲み干さないといけません。 リサも私も、このグラスのワインを一気に飲んでいます。これか広東方式です。 私は数十回の乾杯攻撃を受けましたが、全部クリアー・・。 今日は朝食を食べている時、導師から誉められました。 「シンデンシェン、昨日はすごかった。何杯飲んだの?」・・・と。 和製・現代的・韓湘子 ここで私は衣装替えをしています。 韓湘子の格好は、パーティーでは地味だというので、派手目のベストを作ってもらいました。 これは衣装を作る人が勝手に作ったものです。でもなんか、とても気に入りました。 ちゃんと靴まで揃えたのですが、カメラが下まで捕らえたのは一枚もありませんでした。 導師と歌ったのは「ふるさと」です。 下は派手目のベストを着て、弟子達と「月亮代表我的心」を歌っているところです。 そして夜も更け、来客の大半が帰り、閑散とした場内で一人踊る現代韓湘子・・ 古代の韓湘子はカッコつけて笛を吹いていました。 しかし、あれは本当の姿でしょうか・・。 私は下の「一人踊る韓湘子」の方が近いのではないかと思います。 誰も見てくれていなくても、場を盛り上げようと一人踊るオトコオンナ・・ 実は女装だの中性ファッションだのの原点は、ここにあると自負しています。 この世に生まれたからには、アホになって踊らにゃ損損・・ 役立たずの原点・・オトコオンナ・・一人踊る韓湘子・・ 導師が私のベストを気に入り、着てみたところです。 誕生パーティーだから、やはりケーキが・・ そして導師と乾杯 |
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リムジンの車内で(2001/02/02) 私はおもむろに写真集を出しました。 そして「あの〜、これはとても大事な写真です」と言って手渡しました。 導師はリムジンの助手席です。導師は写真集を開くと、「わぉ、ピアリヤン(美しい)」と叫びました。運転しているVIPが覗き込もうとします。 そのとき私は言いました。「テイカー、シンデンシェン・・(それ、私です・・)」 すると導師は・・私はその0.0000001秒を見逃しませんでした(笑)。 「これは・・、今ここで見せてはいけません。」おお、さすがのバランス感覚・・ 導師は自分のハンドバックにアルバムを入れてしまいました。 そして小さな声で「後でゆっくり見ます・・。しかし綺麗です。ビューティフルです。」 導師が生唾を飲んだ音が聞こえたような気がしました。 感触としては悪くありません。ただ、内輪オフ会のスケスケスリップまで載っているので、どうでしょうか・・。 明日が楽しみです。 導師が今頃見ているであろう私のスケスケスリップ下着姿・・ 明日は香港です。香港の弟子が、「女人街」という所に連れていってくれ、そこで対極ファッションの購入の手伝いをしてくれることになりました。 女人街へは、1999年の9月に導師に連れていってもらったことがあります。派手な下着を露天系の店で売っていました。 まさかそこに自分のものを買いに行くとは・・(当時は思いませんでした)。 |
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女人街への一度目のトライの結果(2001/02/03) 実は弟子(通訳をしてくれたガッチリした人)にはまだカミングアウトしていませんでした。 ショッピングに行く前に写真を見せて話したら、彼は私から一歩遠のきました(笑)。 そして「これはジョークですよね」と訊くので、「はい、シリアスなジョークです」と言いました(笑)。 しかし私のエッチなドレスを、結構マジに見立ててくれました。 また別の地区へ行って来ました。とても便利な所にホテルがあるんです。 弟子の会社のすぐ近くだから彼は行ったり来たり・・ そしてここは男人街と女人街の真ん中です。男人街(メンズ専門)なんて行きません(笑)。 女人街を歩いていたら「女装靴有」という看板が出ていてびっくり・・ でも女物をここでは女装と言うんです。 さて、さっきのドレスは胸で支えません。ちゃんと見えない糸が付いてています。 ラッキーなことに今の時期は超バーゲンセールなんです。旧正月までは正価なのですが、それが終わるとたたき売りに入るらしいのです。9割引なんです。 さっきのエッチドレスだって、ここに値段は出したくない・・だって、だって、たったの29HK$(400日本円)なんです。もちろん正価は290HK$。 それでもって今外出したときに、パンツルックスを一つ買いました。それを来てお呼ばれに行ってきます。 弟子は娘(カリフォルニアに住んでいる)に昨日、初孫が生まれて、もう嬉しくてサービス満点なんです。ははは。 |
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今日のお買い物(2001/02/04) 午前中の成果です。下の写真は婦人服を物色中の私です。結局この服を買いました。 午後はこれに着替えて出かけます。 黒いショール・・(女人街で) 水色のジャケット・・(専門店で) ミニのワンピースをゲットしました。これは完璧な女装の時にはワンピースとして着られると思いますが、普段は下にパンツを履いていようと思います。 なお、グレーのジャケットスーツは5000円です。 |
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りんごと共に・・・(2001/02/04) 今日は女性物の服を探しました。 何が一番難しかったかと言うと、中年の女性(俗に言うオバサン)向けだと全然合わないのです。パンツの丈が違い(丈が短い)、ヒップ周りも違うからです(ブカブカ)。 しかしティーンエイジャー向けだと色やデザインで無理があります。 かと言ってキャリアウーマン向けだと、「何だか男性向けと変わらないじゃん」ということになるのです。 どうせ着るならギリギリの線が楽しいですよね。 「あれれ、あの人が着ているのは女性モノだよねぇ」という感じが楽しいのです。 しかも女性モノを男性の私が着ていても、違和感を感じさせないのが良いのです。 今日買ったものは全部ナイスだと思っています。 さて、このように女性モノを着たり女性モノを探したりしていると、自分の中の女性性が顔を出します。りんごが表面に出てくるのです。 何もしなければ一生無意識の中に隠れていたのではないかと思いますが、それが表面に出てきたのです。 すると女性店で捜し物をする時に、自分が男性であるという性差を全く意識しなくなります。しかし店員はかなり引いています。 私がミニのワンピースを体に当てながら「色違いはありません?」と訊くと、やはり困惑した顔が目の前にあり、初めて「ああそうだ、私は男だったんだ」と気付きます。 時間が経つと、自分でも性差に関する違和感が無くなってしまうのです。 女性感覚が取って代わるとは言え、私の男性部分が消滅するわけではありません。男性感覚はそのままで女性感覚(りんごの部分)が、より表面化されるのです。 理論で考えるより直感の方が前面に出てきます。 精子と卵子が結合する瞬間まで性差はありませんでした。天人合一とは、その段階まで戻ることです。 今回の旅では難しい書き込みが出来ませんでした。 それはもう一つの性、すなわちりんごが表面に出てきているからだと思います。 その合一感にただようことが楽しくて、左脳がうまく働かないのです。 フォーカス27では似たような体験をしました。性差が少なくなるのです。 しかし三次元では、性差が少なくなるのではなく両方共が前面に出現してきて、お互いに干渉し合っているという感じです。 これは大変に気持ちが良いのです。男として理論的にそして強くある必要が、もう必要ないのです。その感じをここに表現することは難しいです。 私は厚化粧をして女性になりたいとは思いません。お化粧をするとしても、できればうっすらと・・自然なスッピンに近いところでいけたらと思います。 リサは「森田さんは会う度に若くなっている」と言いました。 もしそうだとすれば、自分の中の弱さと強さに忠実になってきつつあるのが原因のような気もします。 男女の性は、自分の中に内在していると思います。それが一方しか出ていないのは、一方が無意識の彼方に抑圧されているのではないかと思います。 その抑圧されている部分を表面に出すことは、とても気持ちが良いのです。 |
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機内での書き込み1(2001/02/05) 既に帰途についています。これをアップするのは成田空港です。 今回の旅のイベントの一つは、香港での女性服の購入でした。 そこで感じたのはステップ・バイ・ステップということです。そしてエネルギーということです。 人は島流しが怖いのです。村八分も怖いのです。だから人は、社会の枠内で生きようとします。 自分が正常(ノーマル)であることを主張しようとし、正常でない人を人は排除しようとします。 私は香港に着いた日に、女性店で皮のスーツを買いました。その時私は、男性もののスーツにネクタイをしていました。 女性店で試着をして女性物の洋服を買ったのですが、店員やお客からはかなり好奇の視線を浴びていました。 しかし翌日の夕方、女性のグレーのスーツを着て同じ店に入りました。 その時点での「特異な視線」はほとんどありませんでした。買った物がミニのワンピースであるにも関わらずです。 この違いは何かと考えてみました。二つありそうです。 一つは、ステップ・バイ・ステップであるということです。 ミニのワンピースを手に取っている時、既に私は女性モノのスーツを着ています。しかも自分で言うのもなんですが、よく似合っていました。 「あの人、何か変?」こういう好奇心の対象からある程度抜け出しているのです。 おそらく時代も、一気に変わるということはないのです。ステップ・バイ・ステップ・・ その代わり、今の変化は確実に未来に伝わると思います。自分が変わろうと思ったら、ほんの少しずつでもいいのです。 もう一つの理由はエネルギーです。 最初、香港ではどんな風に対応されるのだろう・・という不安がありました。その不安が自分のエネルギーを落としていました。 つまりどこかで引いているのです。そういう自信の無さが逆に人の目を引き付けます。 同じ店に二度目に訪れた時は、私はエネルギーに満ち溢れていました。 オーラが見える人がいれば、その時の私のオーラは普段の男服の時よりも出ていたはずです。 幾つかワンピースを物色し店内をウロウロしていると、若い女性の店員が「これが似合うと思います」と言って一つのワンピースを持ってきました。 私がワンピースを当てて鏡を見ていると、他の客も笑って見ていました。決して特異な眼差しはありませんでした。それほど私は店内に馴染んでしまったのです。 このエネルギーというものが、とても大事だと思いました。 エネルギーさえあれば、人は島流しにならず、村八分にもならないと思いました。 自分の殻を打破していくには、このエネルギーが必要なのです。しかしこのエネルギーは強いのでしょうか? 「役立たずの人間になりなさい」・・この老子の言葉は、今の私を救ってくれています。 なぜなら、女性物を買うことは、社会の発展にとって何も意味もないからです。 逆に「軟弱なヤツが多くなった」・・こういう批判する人さえ出ます。 今の私は自分の行動に意味付けすることが出来ず、大義名分を作ることさえ出来ません。 社会の枠内で見れば「陰」なのです。まさにこれは「陰遊び」なのです。 ところで道教では目的を持つことを良しとしません。タオに生きる時は、目的無しなのです。 神も目的が無いのでしょうか?(この一節は行きの飛行機の中でも書きました。) 私はこれが、信じられるようで信じられないのです。「意味ないじゃん」を神がするでしょうか? これほど大きな宇宙を創造し、素晴らしい物理方程式(宇宙のルール)を作って、「意味ないじゃん」なのでしょうか? 「どうせアホなら、踊りゃにゃ損損」を神自身がやっているのでしょうか? もしもそうだとすれば、殺人も愛も同格です。だってどちらもアホ踊りには違いないからです。私はこれが、信じられないようで信じられるのです。 しかし・・あなたはアホ踊りが踊れますか?祭りという大義名分がない場所で踊れますか? このとき人は、島流し、または村八分スレスレになると思います。 誰にも迷惑を掛けなくても、人は社会が持つ暗黙の境界線を越えることが難しいのです。 「神は自由に向かっている」と私は言い続けてきました。私も自由になりたいと言い続けてきました。 しかし、誰にも迷惑を掛けないで済む服装の自由すら獲得していないことに気付きました。 私っていったい何なのでしょうか? 「アホ踊りをしたければすればいいじゃない」と言う私がいます。もちろん私自身に向かって言っているのです。 アホ踊りは服装だけではありません。 人が私を批判し、あるいは私の権利に土足で入り込んだとき私は腹を立てます。 自由だと言っておきながら、その時は社会の権利だの義務だのを主張し始めます。 これが国のレベルなら戦争すら起こします。 アホ踊りだと言っておきながら、自分を守る時には・・そう・・都合の良い時にだけの大義名分・・。 私は小心者です。ところが「神はひょっとすると小心者ではないか・・」と思い始めました。 神がもともと強かったら、神である我々がどうしてこうも小心者なのでしょうか・・。 神は小心者であるが故に宇宙を作ったのではないでしょうか・・。 だとすると、神もいつかは踊りたいのです。「どうせ存在するのなら、踊りゃにゃ損損・・」と。 とすると、限界を突破する時のエネルギーは、本当に弱いのです。大義名分がある限り、限界内なのです。 たぶん、エネルギーは弱いほど強いのです。そして神は本当に微弱なのです。 あなたが強い時、あなたの傍にはいません。 意味のないアホ踊りを始めた時、神も一緒に踊り始めるのです。 それがしたくて物理方程式を作ったり、人間を作ったりしたのです。 そんな風に思えてきました。 |
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機内での書き込み2(2001/02/05) 昨日、迷いに迷って買わなかったものがありました。チャイナドレスです。 ロングではなく膝丈サイズです。色はダーククリーンで、なかなかイケていました。 でも、スリットの入ったチャイナドレスを日本で普段着として着る勇気が湧きませんでした。だから買う決心が付きませんでした。しかし、一晩したら変わっていました。 店の開店は11:30で、ホテルのチェックアウトは12:00です。 私は店の開店と同時に行き、試着室で下着一枚になって、そのチャイナドレスを着てみました。ピッタリでした。 鏡には女性物のチャイナドレスに身を包んだ、妖艶な(笑)りんごがいました。 通常のオフィスワークでは、黒のスパッツをはいてからチャイナ着ます。 私は急いでホテルに帰り、買い物でパンパンに膨れたスーツケースを閉じ、迎えに来た弟子とも共に空港に向かいました。 今、機外では夕日が綺麗です。陰に変わろうとする瞬間です。 この写真と共に「シンセン陰遊び」のリアルタイム報告を終わります。 |
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帰国後の書き込み(2001/02/06) 大きく何かが変わった時でも、それは表面的な出来事のように思えます。 私は突然に変わった例として、会社を辞めた時のことを挙げます。 バレンタインデーの朝、まさか辞表を出すとは思わないで電車に乗っていました。その瞬間は0.0000001秒でした。 私は外に飛び出し、喫茶店で辞表を書くと、部長に提出しました。何のためらいもありませんでした。でも意味不明の行動でした。しかし思い起こせば前兆はあったのです。 些細なきっかけは山田太一の「沿線地図」というドラマを見て、その本も買ったことでした。優等生の高校生が大学受験をしないで同棲を始める物語です。 当時、私は会社ではバリバリと仕事をしていました。海外に出たのも同期の中では一番でした(自慢)。女性による人気投票でも一番でした(自慢)。 おまけにフランス留学を含む費用会社持ちの研修に行かせてもらいました。仕事の面では何一つマイナス点はなかったはずでした。 しかし・・ある時期から、私は朝起きるのがとても辛くなったのです。 目覚まし時計が鳴っても起き上がれません。だからベッドからそのまま転げ落ちました。そしてドアまで這っていくのです。その歩調は・・亀よりも遅かったと思います。 途中で顔を床に付け、呼吸を整えました。そしてまた四つん這いで進みます。やっとドアの所に着くと、ノブに手を掛け、腕の力で体を起こします。そして直立するのです。 歩き始めるともう大丈夫でした。会社に着き、何事も無かったようにバリバリと仕事をこなします。 しかし次の日はまた・・・這っていくのです。その繰り返しの毎日でした。 そして運命のバレンタインデーの一週間前・・(そう言えば22年前の今頃でした)・・私はドアのノブになかなか辿り着かなかったのです。 ドアに達するまで30分もかかったため、四年間の無遅刻無欠勤が初めて崩れました。 初めての遅刻・・・私の中での「完璧」がそこで崩れたのです。社会に一生懸命に合わせてきた私・・その私が崩れました。 そしてバレンタインデーの日、ビジョンを持たずに私は辞表を出します。実を言えば、あの日、あれしか選択の余地は無かったのです。 一人帰る電車の中で、私は小刻みに震えていました。怖かったのです、何もかもに・・ きな臭い話をします。 真珠湾攻撃、原爆投下・・それはその日だけの出来事だったのでしょうか? 這うようにその日に向かったステップ・バイ・ステップの時間は無かったでしょうか? あの日ああすれば良かったという話をする人がいますが、「あの日ああすれば」は既に用意されていたのであり、それしか選択の余地は無かったのではないかと思います。 人の人生も社会の歴史も、ステップ・バイ・ステップで進んでいるのです。 しかし何がきっかけかは分かりません。私の心に火をつけたのは、たった一本のテレビドラマでした。本一冊だって人の人生を変える可能性があります。 もっと言えば、ここの書き込み一つが人生を変えることがあります。 表面の劇的な変化よりも、小さな内面の変化の方が、よほど意味があると思います。 これから私は、どこに向かっていくのでしょうか・・それは私ですら知らないのです。 |
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大義名分と小心者(2001/02/07) 誰かが私を裏切った時、なぜ腹を立てるのでしょうか・・ 私だって人を裏切ったことはあります。 なのにそれを差し置いて、裏切った相手には謝罪を要求します。 たぶんそこには大義名分があるのだと思います。非は相手の方にあり・・。 また、きな臭い話をします。嘘か本当か知りませんが・・ 真珠湾攻撃の一報を聞いたルーズベルト大統領は大喜びをしたと言います。なぜなら、アメリカが参戦するための大義名分が出来たからです。 相手が真義を欠いた時、正義が生まれます。大義名分が出来ると、命を懸けることが出来ます。 ベトナム戦争や中東戦争にアメリカが荷担したのは、大きな大義名分があったからでした。経済や政治での裏の面があるにせよ、表の大義名分は必要でした。 大義名分は政治の領域だけではありません。地球を守るというようなことも、大義名分になると思います。未来の子供達のために・・ということも大義名分になります。 何故このような理由付けが必要なのでしょうか?そもそも神がこの世を作った理由があるのでしょうか? もしも理由があるとすれば、私たちはその「理由」の手段となる可能性もあります。 共産主義の台頭を防ぐためにベトナムに派遣された兵士に似ています。神がアメリカ政府、人間が兵士です。 でも、神の「理由」は本当に無いのでしょうか?全く理由がないのに、何かをすることが出来るものでしょうか?しかし道教ではそれをタオと呼びました。 老子の言った「役に立たない人間になりなさい」というのは、目的を持つなということでしょう。親切に目的があってはならないのです。 大義名分を持つと、人は命すら懸けることが出来ます。人は強くなります。でっかい夢を持てば、人はそれに邁進できます。 でも、人は小心者だから大義名分が必要だとは思いませんか? 役に立たない人間・・これは本当に小心者なのでしょうか? |
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人は弱い方向に進化している(2001/02/07) 人の進化とは何でしょうか? 前回は、大義名分は弱さを隠すためではないかというような趣旨を書きました。人は大義名分を手にすると「強く」なれるのです。 大義名分とは、社会的に通用する「理由」です。相手を非難する時、大抵大義名分を持ち出します。 個人の行動では「理由」を持ち出します。「私は成長するのが人生の目的だ」・・とか「神に近付くのが目的だ」・・とか言うのも、理由です。 「私のどこが好き?」「何故この会社を選んだの?」 人は理由が好きです。理由がないと落ち着きません。理由があれば人は強くなれます。 朝の玄関先でインタビューされたとします。「あなたはどうして会社に行くのですか?」 あなたは答えます。「家を守るためさ」もしくは「今のプロジェクトがあるから休むわけにはいかないからさ」もしくは「食っていくためさ」 人は理由が好きです。 私は人が大義名分や理由を見出すのは、弱さを隠すためではないかと思うようになりました。 どこで気付いたかと言うと、なぜ女性の格好をするのか」と訊かれた時、大義名分や理由がないのです。しかも普通の人からは変な目で見られる時の方が多いのです。 逆に「私の知っている××さんなんか、もう平気で女装しているわよ」と言ってくる人もいます。 そんな時は「なんで私は服装すら自由ではないんだろう・・」と思います。 しかしそこに社会を良くしようとか、誰かの為とかいう大義名分が見出せないのです。 男を演じるのに飽きたから・・そうは言っても、明日スカートを履いて取引銀行に行くことは出来ません。 自分の選択肢なんて本当に狭いのです。そういう意味では、私たちの人生は「決められている」と言い切ってもいいほど選択肢は少ないのです。 自由に未来を創造している・・なんて言う人、それは本当ですか? 100%イエスと言えないのは、大義名分、あるいは理由が原因だと思うのです。 「理由」は、過去のあなたです。過去から現在までを一貫させようとし、社会からはみ出ないようにするためのものが「理由」だと思います。 強い神を仮定し、それに向かうというのも「理由」だと思います。 神に近付く・・とか言って・・。もしくは神であることを気付くこと・・とか言って・・。 さて、私は全く逆に考えるようになりました。私達は弱さを出す方向に進化しているのです。 未来の人間は、一般的に言うところの独立独歩をしてはいません。 繊細で弱く、お互いの愛がないと生きていけないのが私の未来の人間像です。 正義は減ってきます。正義があると弱さを出しにくいからです。 相手が過ちをした時、それを許せる人間が増えてきます。 軍事力や経済力で強さを誇る時代から、弱さを出せる時代に変わります。 「なぜ会社に行くのですか?」と訊かれ、「う〜ん、分かりません・・」と答える人が増えてくるのではないでしょうか。 人の行動に理由を付けた途端、それは強くなってしまうからです。 人はエデンの園にいた時、強かったのです。そこから出て、歩いていく先は弱さなのです。神の世界はとても弱い世界なのです。 だから、強さに向かって成長させるなんてことは、たぶんありません。そんなことをしても、苦しむだけです。 弱さを出すことは逃避ではないのです。むしろ大義名分を出し、それに邁進する方が逃避なのです。だから我々は今、逆をやっている可能性があります。 男らしく・・女らしく・・大人らしく・・ でも、大義名分が否定されたら私達は生きていけません。大義名分は「安全」だからです(ミームはこの安全パイに荷担しているような気がします)。 しかしそれを次第に打破し、弱さを出せる方向に向かっているのが人間の歴史、さらには神の歴史のような気がします。 |
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狭間(2001/02/08) 不思議研究所を始めた頃もそうでした。私は社内で身を切るような思いでいました。 社員が稼いだお金を、私は使う一方でした。それも並の金額ではありません。 経理からは「社長のやることはもう諦めています。何もあてにしていません」と言われていました。それが通販組織が出来て、やっと大義名分が出来ました。 その後は女装です。会社は20名ほどいます。それぞれ別の仕事をしています。 お役所関係の仕事をしている部署もあります。そういう部署からは 「すみません、ここ(お客の目に入る場所)に置いてある化粧品とか、片付けて下さい」とか言われています。 今、社内で女性の格好をすることは、マイナスにしかならないのです。 私の会社はずっと黒字とはいえ、ニッチ市場(すきま産業)をやっています。ですのである意味では常に生きるか死ぬかの瀬戸際です。 中小企業はみんなそうでしょう。左うちわの会社など無いはずです。いつ何どき、銀行の融資が必要になるか分かりません。 そこへ持ってきて「女装」です。「社長のフェチは、家に帰ってからやってくれ」と言われたら、どうしよう・・と思っています(今のところ言われていません)。 でも、これは「狭間」なんです。20年前、ベッドから這ってドアまで行ったように・・10年前、不思議研究所を始めようと思ったように・・私自身の狭間なんです。 狭間は、ちょうどワームホールのトンネルの様です。時空の彼方へぶっ飛ぶためのトンネルです。 社員や家族に多少の迷惑をかけても、これは私の狭間なんです。その向こうに何があるかなんて、分かりません。 私は行ってみたいんです。ただ、理由もなく・・。 |
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