テーマ:「下條さん講演会2004.11」
書き込み期間:2004/11/20〜2004/11/29
要旨:
今回の下條さん講演会のテーマは「前頭葉」です。そこで脳科学の最先端の話を聴くことが出来ました。
<ノイズ>
坂井克之さんという人は「決断のプロセス」というテーマで発表し、その中で「ノイズ」の話が出ました。
決断を迫られている時、脳の中ではノイズが発生し、その中から突然「決断」を意味する脳波パルスが飛び出すのだそうです。
ノイズが脳に出るのは人間だけなのですが、このノイズが何なのかはまだ分かっていないのだそうです。
<囚人のジレンマ>
「囚人のジレンマ」をやるプレイヤーの脳の働きを調べた報告がありました。
その結果、裏切りの札を出す時にはほとんど前頭葉が働かず、協調の札を出す時には前頭葉がフルに活動したのです。
前頭葉は高等動物しか持ちませんが、その目的の一つは協調のためではないかと考えられます。
<断頭カエル>
頭を切断したカエルを使って実験した人がいました。
断頭カエルの背中をくすぐると、脳がないにも関わらず右足をその部分に持っていき、さらには、右足を縛ると今度は左足を動かしたのでした。
生まれ変わりの村の調査によれば、彼らは死んで肉体がなくなっても、生まれ変わる前の出来事を記憶しています。
頭は何のために必要なのかという疑問が出ました。
<前頭葉のトリガー>
前頭葉を働かせるトリガー(引き金)となるパルスいうのは、前頭葉自体からは発見されていないのだそうです。
しかし私達は、パルスはゼロから発生するものだと、つまり自由に考え、行動しているものだと思っていなかったでしょうか。
トリガーとなるパルスはいつか見つかる可能性もあるので、存在しないとは言い切れません。しかし、自由意志はないという可能性も、否定できないのです。
<主体的自由>
下條さんの定義によれば、欲望が少ない時は鬱状態で、逆に欲望が強すぎると中毒になります。主体的自由が最も高くなるのは、その中間になります。
主体的自由とは、車に喩えればエンジンです。つまり自分が行動できるかどうかです。自由とは、ハンドルやブレーキを使って、走る速度や方向を自分でコントロール出来る状態です。
しかし前頭葉にトリガーが無いとすれば、エンジンがあるのにバッテリーが無いようなものです。それなら、「走っている」と思っている前頭葉とは一体何でしょうか?
<ヴィトゲンシュタインの問い>
「私が手を上げる」から「私の手が上がる」を差し引いたら何が残るかという問いに対して、下條さんは何も残らない(ゼロである)と言いました。
手を上げるという動作に主体的意志はないということになります。つまり、自動的に上がったとしか解釈のしようがないのです。
これは、仙道の「ワダチ」の考え方や、私がチベットで得た空性方程式と似ています。
下條さんの研究から、脳に主体的意志はなく全てが自動的に信号が伝わっていくだけだということが分かってきています。
そして、自由意志はリアルな幻想である、というのが下條さんの結論のようです。
それでも、脳科学のサイドからは、「運命は決まっている」というところまでは行き着かないと思います。
最先端の脳科学は、ごく最近になって「快」という単語が登場したばかりです。しかし私は数年前から「快」ということを言っていました。
そして運命論を論じているこのHPは、脳科学よりも数百年先を行っているのかも知れません。
目次
○ノイズ
○坂井さんの研究発表
○前頭葉と囚人のジレンマ
○脳は不要?
○前頭葉のトリガーは無い
○主体的自由の定義
○下條さんの考え方
○「私が手を上げる」から「私の手が上がる」の差
○自由意志はリアルな幻想である
○ファイナルファンタジーの失敗
○新奇性と親近性
○快って何?
ノイズ

 下條さんの講演会に行って来ました。テーマは「前頭葉」です。下條さんの他に、講師が二人ました。
 最初の講師は、坂井克之さんという脳神経学者(東大の若い科学者)です。彼は「決断のプロセス」ということを喋りました。そのとき面白かったのが「ノイズ」です。
 決断のプロセスの中で、「ノイズ」というのは特異な働きをするのです。
 外部から何らかの入力があり、決断を迫られたとします。
 坂井さんは、三人のいい男のイラストを出して、この中の一人に決めろと言われたら、あなたはどうするか・・というケースを出しました(笑)。
 つまり坂井さんの講演は、軽いノリで深い話なのです。私の講演に似ています(笑)。
 脳の中では「伏線」というものの働きが始まります。つまりAという男にしたら、どうなるかという伏線を探るのです(笑)。その後、脳には「ノイズ」が出てくるのです。
 ノイズが脳に出るのは、人間だけだそうです。意味不明の脳波が、まるでノイズのように出るのです。ノイズの中から、突然、「決断」を意味する脳波パルスが飛び出すそうです。
 脳のことは、まだほとんど分かっていないそうです。脳が「因果関係」の「因」に当たるのかも、分かっていないそうです。
 このノイズが、一体何なのかも・・
 作家などが締め切り直前まで何も書けないのは、ノイズを増やしているからだという仮説も言いました。ノイズが大きいと、そのあとのホンちゃん信号パルスも、大きいことが多いのだそうです。
ノイズに隠れるのではなく、ノイズに上乗せされた形で、ホンちゃんバルスが出るそうなのです。つまりプラスのバイアスとして効くのです
ノイズを受信するためには、「研ぎ澄まされた」脳が必要なようです(笑)。
つまり、通常私たちが考えるような「ノイズ」ではなく、まだ解明されていない未知の信号のようです。
 まさに、最先端の話だそうです。
 下條さんは言いました。
「坂井さんは脳の最先端の研究をしていて、しかもわかりやすく説明が出来る人です。でも本すら出していません。誰かこの中に出版社の人がいたら、彼の本を出しませんか?」
下條さんは「人間に自由意志は無い」という仮説に達しつつあります。私の仮説「私は結果」とシンクロしています。
 しかも、彼が「囚人のジレンマ」というゲームを取り上げて話したことで、私とのシンクロも、なおさら深まりました(笑)
下條さんは、頭がいいです。だからこういう仮説に達することも出来るのだと思いました。
今日の最後の講師ディスカッションも、下條さんだけがブレてなく、他の人の脱線を一人で修正していました。
下條さんの講演会は、タダで飲み物まで付いてます(笑)。
おそらく、縁のある人しか、行けない・・。質問コーナーで「この縁て、どう思いますか?」という質問をした人がいました(笑)。
私は皆さん自身が行った以上の報告を、ここにするつもりです。坂井さんの研究発表
坂井さんは意志決定の説明例として、「定食屋でのジレンマ」(彼が考えたフレーズ)を出してきました。これがまた、可笑しい(笑)。
焼き魚定食にするか、一口カツ定食にするか・・スクリーンに大きく、二つの写真が出ました。
値段は50円違っていました。850円と、800円です。お新香とかサラダとか、煮物とかの小皿もついていました。それを迷う被験者(笑)。
「男選びのジレンマ」の研究では、三人の美男子を出して、「どれがいい?」と訊いた時、「見ただけの場合」というのと、「付き合ってみる場合」、「結婚する場合」とでは、脳の反応場所が全然違うのです。伏線と、ノイズが変わるのです。
最後に「人に言えない好み」というパターンが出たとき、さすがに会場は大笑い。なぜなら、どこかのオヤジの顔が大写しになったのです(笑)。
実は前頭葉を始めとして、脳がフル活動・・
「どこかのアメリカ人」と言いながらブッシュの写真を出し、彼の脳の批判をした時は、坂井さんは相当イケていると思いました。いや、スレスレでしょう・・。
「前頭葉は何も考えていない」というフレーズを、写真に被せたのです(笑)。
「囚人のジレンマ」で報告しますが、ブッシュは、「裏切り」を出すパターンだったのです。
聴衆を前にした、大事な講演中とは思えません。そのうちインターネットか、衛星テレビで放映されると思います。そのための録画も、かなり本格的にされているのに・・です。
 坂井さんは、全く動じていないのです。
最後の挨拶がまた、イケてました。
「私は二人の講師が好きだったから、ここに来たに過ぎません。」
つまり聴衆など、どうでも良いのです。なのに「みなさんのためよ」と言う人の、なんと多いことか・・。
でも、凝ったスライドで準備に一番時間を使ったのが、坂井さんだと思いました。
彼はとてもアカデミックな研究をしています。だって、「ノイズ」(脳波で切り捨てられてきた部分)を発見したのですから・・将来ノーベル賞かも知れません。
でも彼は、「男選びのジレンマ」と「定食選びのジレンマ」を測定しました。それをスライド化しました。
発表しているとき「こんなことばかりやっているわけではないですからね」と、小声で言いました。
 もう一人の講師は、難しい話をそのままやってしまい、下條さんが「専門用語通訳」に入る始末でした。
 坂井さんは、たぶん、・・・・この後の言葉は、書かない方が良いと思います。
坂井さんは、何となくメジャーになって欲しくないと思いました。まずは論文誌で、勝負して欲しい・・から。
もしかすると、本当にノーベル賞が取れるかも・・と。彼の視点は、誰の影響も受けていないから・・。
出版社ですら「引く」・・こういう気質が必要だと思います。
 
今回の私の書き込みで(これからするのも含めて)、「決まっている」ことに焦点を当てるのではなく、「どうやって決めているか(時空が)」に焦点が当たると思うのです。
これはとても大事な問いなのです。

前頭葉と囚人のジレンマ

 以前書いた、「囚人のジレンマ」についての書き込みをもう一度載せます。
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『賭博と国家と男と女(竹内久美子著)文春文庫』
 久々に本を読みました。それが面白かったので、ここに書きます。
 この本に「囚人のジレンマ」という賭博ゲームが出てきます。
 二人のプレイヤーが「協調」と「裏切り」と書いた二枚のカードを持っています。お互いが腹を探り合いながら、どちからのカードを選び、テーブルに伏せて置きます。
 胴元がカードをめくります。
 二人とも「協調」を出したら胴元の負け。彼は両者に金を払います。
 一方が「協調」で他方が「裏切り」なら、胴元は裏切りを出したほうに大金を払います。さらに「協調」を出したほうからはいくらかの金を徴収します。
 二人ともが「裏切り」のカードを出した時は、胴元は二人から金を取ります。
「囚人のジレンマ」という名前が付いたのは、二人の囚人(おそらく共犯者)が、別々の部屋で取り調べを受けることと似ているからです。
 二人とも自供しなければ、二人ともが利益を得ることができます。これは「協調」に当たります。
 さて、このゲームに大勝したのはカナダの心理学者でした。彼の手法は簡単です。
 「しっぺ返し」という手を一つ入れるだけです。
 相手が「裏切り」を出したあとにだけ、自分も「裏切り」を出すのです。でも「裏切り」はその一回だけです。相手の裏切りを根に持って、何度も出してはいけません。
 その他は全て「協調」を出します。
 この手法は、相手の出方で全てが決まります。こんな受け身的な手法でなぜ大勝したかが、ゲームを主宰した側の疑問でした。
 そして第二回戦が公募され、ゲームの達人が相手になりました。しかし、カナダの心理学者の方法が、再び圧倒的に勝ったのです。
 対戦相手は次のように思います。「そうか、俺が裏切らない限り、相手は裏切らないんだ。だとすれば安心して協調を出せるな」
 そうして二人はお金をゲットし続けるのです。
 
 著者の竹内は、この章の題名に「人の器は何で決まるか」というのを付けています(笑)。
 そして章の最後には「我々は利己的に協調することが可能だ」と書いています。
 うーん、素晴らしい言葉です(笑)。
 そもそもこれは面白いゲームです。そして最初から大勝する方法をあみ出した心理学者は凄いです。
 日本の外交は「協調」が基本です。主体性がないと、よく批判されます。でもそれは、かえって国力を上げているのかも知れません。
 軽いしっぺ返しは一度だけ・・そして自分からは裏切らない・・。これがゼロサムではない繁栄をもたらすのです。
 男女関係やビジネスの世界にも通用するかも知れません。
2004/10/03 19:14:39
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 さて、今回の講演会では、「囚人のジレンマ」をやるプレイヤーの脳の働きを調べた報告がありました。
 このゲームでは『一方が「協調」で他方が「裏切り」なら、胴元は裏切りを出したほうに大金を払います』という記述がある通り、相手が正直者で「協調」を出す人ならば、自分は「裏切り」を出す方が儲かるのです。
 ゲームはまず、相手がどういう出方をする人かを調べながら進むはずです。そして自分の取る手が次第に決まってきます。被験者はみんな素人であり、「しっぺ返し」を自分のルールとして使う心理学者ではないからです。
 測定の結果、大変に面白い事が分かりました。
 裏切りをして相手から大金をせしめようとする人は、ほとんど前頭葉が働いていないのです。
 逆に、協調の札を出すときが多く、相手と出来れば協調関係に入りたい(実はこれがお互いに一番儲かる)人は、前頭葉がフルに活動しているのです。
 前頭葉は高等動物にならないと現れません。
 上記の事を考えると、前頭葉というのは、協調のために作られたというのが一つの目的のようです。
 自分の国の安全のために他国を攻撃するというやり方を取っているブッシュは、前頭葉が働いていないのではないかという仮説まで登場するのです。
 これを拡大すれば、例えば男女がケンカをする時は、前頭葉は働いていません(笑)。動物的な脳の領域が働いているのです。協調関係に入ろうと動き出す時、前頭葉が働くのです。
 動物に比べて人間は残虐だと言います。古代人よりも現代人の方が残虐だとも言います。
 しかし前頭葉の発達によって淘汰されずに生き残った人類は、まだ成長過程にあるのかも知れません。前頭葉をもっと使うようになったとき、平和が訪れるかも知れません。
 しかしこの話は、講演会の中では、唯一、希望に満ちた話だったのです(笑)。
 明日からは、悲惨な報告をしなければなりません・・(笑)。
 我々の自由はどこにあるのだという・・。

脳は不要?

 今日から悲惨な書き込みが始まります。心臓が弱い人は、読まない方が良いです。
 さて、講演会のテーマは「前頭葉」でした。
 しかし脳は本当に必要なのか?・・という問いのもとに、ある実験をした人がいました。
 可哀想に、このために、頭を切断されたカエルがいるのです(悲惨)。これは、「断頭カエル」と名付けられました。
 断頭カエルの背中の右をコチョコチョします(悲惨な上にそこまでやるか)。
 すると断頭カエルは「くっ、くすぐったいよ・・やめてくれよ」と思いながら、右足をその部分に持っていきます。そしてコチョコチョする人間の手を振り払い、自分の背中をなでなでします。
 しかしサドな科学者はもっとすごい仕打ちをします。右足を縛ってしまったのです(悲惨な上にさらにそこまでやるか)。
 そしてまた、右をコチョコチョします。断頭カエルは、最初右足を動かそうとします。しかし右足は縛られています。すると断頭カエルは、おもむろに左足を上げてくるのです。
 これが頭を全て切り取ったカエルが、するのです。
 本当に頭は、必要なのか・・・
 実は、頭がついたカエルも同じ事が出来ます(当たり前)。でも少しだけ反応スピードが速いだけなのです。
 頭は、反応スピードだけに必要なのか・・
 ここまで読んだ人は、それなりにドツボにはまったはずです。
「やっぱ、頭は必要ないのか・・ここまで実験するヤツがいたのか・・」
 しかしです。不思議研はこんなものではありません。
 生まれ変わりの村の人たちはどうでしょうか・・・
 彼らは死んで肉体から離れても、頭が存在するのと同じように考え、全てを記憶しています。あの世ので生活、生まれ変わるまでの事を克明にレポートしています。
 ここの不思議な世界では、断頭カエルどころの話ではありません。
 しかし科学の世界では、頭をチョン切って、やっと実験できたのです。
 講演会のテーマは「前頭葉」でした。科学者達は問いました。「前頭葉って、必要なの?」

前頭葉のトリガーは無い

 今日からは断片的な言葉が1行出るだけです。今日は表記の言葉・・
「前頭葉のトリガーは無い」
 トリガーを日本語に訳せば引き金のことです。前頭葉の引き金がない・・
 どういうことかと言えば、まず、前頭葉は人間のクリエイティブな思考を創り出すところなのですが、そこに対する引き金がない・・
 えっ、まだ分からない・・そうでしょう・・
 ぶっちゃけて言えば、全く無の状態からの「引き金」となるべきパルスが発見されていないのです。
 もしもそのパルスが発見されれば、それこそが、「自由意志の引き金(パルス)」だと言えそうです。
 脳関係のテレビ・ドキュメンタリーは多いです。しかし全くゼロの状態から発生するパルスなど、聞いたことがありません。
 私達は誤解していませんでしたか?ゼロから発生しているパルスだらけだと・・。
 だって私たちは自由に考え、自由に行動していると思っているからです。
 その全ては「自分で創り出している」・・すなわち、「ゼロからのトリガーだらけ」だと・・。
 ところが、前頭葉のトリガーは無いのです(まだ発見されていないだけかも知れませんが・・)。
 私はこれに対して、一次元高い時間次元からのパルスとして、励起パルスと仮定しました。「問い」は、そのパルスがトリガーだと思うからです。しかしこれも単に仮説に過ぎません。
「科学」と「不思議」は、もはやラップ寸前です。
 科学でここまで分かっていながら(分かっていないと言った方が正解)、自由意志を言い続けている人類なのです。
 下條さんてば、結構正直(笑)、いや、真剣・・。
 トリガーが無いと言うことは、自由意志が無いということには繋がりません。だって、いつか見つかるかも知れないからです。
 でも、自由意志が無いということも、否定できないということです。
 こんな大事なことが分かっていないなんて・・
 でも下條さんは言いました。「この講演会は科学が分かった事を発表する場ではありません。分かっていない方に焦点を当てています。」
 やはり、分かった気になっていただけのようです・・今までは。 。

主体的自由の定義

  
 主体的自由とは何でしょうか?
 自由があるとか無いとか議論する上で、主体的自由とは何かを定義しておく必要がありそうです。
 こういうところをちゃんと押さえるのは、やはり下條さんは科学者だと思いました。
 主体的自由とは下の図の通りです。


 
 主体的自由を縦軸に書き、欲望の強さを横軸に書きます。つまり主体的自由を、欲望の関数として現したのです。
 欲望が少ないときは、主体的自由も少ないです。それは鬱状態と言います。欲望が増えるに従って主体的自由が増えます。欲望さえあれば、何でもデキルというわけです(笑)。
 そしてあるところで下降を始めます。それは中毒になった状態です。
 私はこの定義に賛成です。しかし反論もあるはずです。主体的自由とはこんなにも簡単なものかという意見はあるはずです。
 例えば次のような人です。「俺はやりたいことは山ほどあるけど、出来ているわけではない。うつ状態でも中毒状態でもないのに・・」
 この人は例えばA点の状態なのです。欲望が少なすぎるのです(笑)。もっと多ければ、実際に行動に移しているはずだからです。
 
 ところで自由と主体的自由は、違うと思います。主体的自由は、あくまで自分が行動できるかどうかだけです。
車に喩えるとエンジンです。馬力が無いと坂を上がれません。でもエンジンをふかしすぎるとオーバーヒートします。
 自由とは、ハンドルやブレーキを全部使い、走り回れる状態です。エンジンがあってこその自由なのです。そのエンジンが、あるかないか・・というの問題なのです。
 欲望を持っていない人は、いないでしょう・・。それもみんな適度な範囲に入っている人ばかりだと思います。
 なのにトリガーが無いというのは、優秀なエンジンはあるのに、バッテリーが無いようなものです。
 自転車ならまだマシです。こげば進みます。しかし高級乗用車は、こぐわけにいきません。
 では、「走ってる」と思っているこの前頭葉とは一体、何?

下條さんの考え方

下條さんの考え方は、日本的なような気がしてなりません。と言うのは、西洋は「個」を大切にして、いかにしてもっと個を伸ばして、自由に生きるか・・ということを追求すると思うのです。
 だから下條さんのような実験は、しないのではないかと思います。つまり問いが違うのです。上位か下位か・・
 日本はどちらかと言えば、個よりも全体を重要視します。「なる」よりも「ある」を大事にします。
 個性的に生きるよりも、自然と一体になる方を重要視します。あるがままの方を大切にします。
 でも、下條さんのエライ点があります。
 神戸大学の中井教授は、「二度とアメリカになんか、発表しないぞ」と言いました。
 しかし下條さんは、『ネイチャー』を始めとする学会誌に挑戦をし続けています。

「私が手を上げる」から「私の手が上がる」の差

「私が手を上げる」から「私の手が上がる」を差し引いたら何が残るか・・という問いは、ヴィトゲンシュタインの問いというらしいです。
(「私が手を上げる」とは、手を上げる意識を持つ前の状態からだと定義します。)
 下條さんは、何も残らない・・すなわちゼロだと言いました。
「私が手を上げる(事が始まる前)」から「私の手が上がる(事が終わった後)」を差し引いたら、普通は「主体的意志」が残るはずです。主体的意志がなければ手を上げる動作に入れないからです。
 しかしトリガーはありませんでした。さらに、下條さんの数々の実験により、引き金となる「意志」が存在することが確認できないのです。  
 手は、自動的に上がったとしか解釈のしようがないのです。
 仙人の教えに「ワダチ」という考え方がありました。車が右に曲がったのは、ハンドルを切ったからではなく、ワダチがあったからだと・・
仙人は、よく真理を究めていると思います。
 
 さて・・
「私が彼女に抱きつく」から「私が彼女に抱きついた」を差し引いても、何も残らない・・
「私が物を盗む」から「私が物を盗んだ」を差し引いても、何も残らない・・
 人は、「通過点」に過ぎないようです・・。
ところで、チベットでは次の書き込みをしたことがありました。
************************* 
さて、ミラレパの洞窟でのインスピレーションです。
 空の方程式です(笑)。方程式などと言うと、それだけで嫌悪感を示す人がいそうですが、まあ読んで下さい。
「空性=(今のあなた)−(あなたの身体)」です。
 バカにするなと思うでしょうか?
 今のあなたから、あなたの身体を引いたらそれが空性なのです。
 あなたの身体とは広い意味があります。DNAの情報もそうです。脳のそうです。
 つまりあなたの身体にまつわる部分すべてです。
 もしもこの式から何かが残るとすれば、それはあなたの空性を邪魔するものだと思いませんか?
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 やはり空性方程式は、正しいような気がします。
 今のあなたから、あなたの身体を引いたら、ゼロなのです。自由意志や意識は存在しないのです。ゼロでないとき、それがあなたの幻想なのです。
 と言うことは、逆もゼロですよね・・行為をした後から、する前を引いても、ゼロ。
 何をしても、何も残らない・・というよりも、何かをしたわけではない。
やはり、「個」の突破口はなさそうです・・。

自由意志はリアルな幻想である

 下條さんが言った言葉で重要なものを三つ上げて、今回の講演会の中心的な話題の報告を終わることにします。
●科学的アプローチの致命的弱点は、すべて受動的なメカニズムではないか?
 少し文章として変ですが、それでもこのまま載せます。
 脳を科学していくとわかるらしいのですが、発端となるトリガーが見当たりません。すべて受動的に信号が伝わっていくだけなのです。
 最初の入力が脳内で発生すれば「ここが自由意志だ」と言えますが、それが無いのです。
 つまり全ての入力は外から入るのです。
 
●からだが先に動いて「好き」が出る
 これは私が言ったことと全く同じです。「好みはあとから作られる」
 
●自由意志はリアルな幻想である  
 これは下條さんの結論でしょう・・(笑)。
 
 さて、科学者というのは寂しい職業かも知れません(笑)。私のように向こう側に突き抜けることが出来ません。
 励起パルスとかの、変な概念を出すわけにはいかないのです。
 だから「自由意志はリアルな幻想である」と言って、終わりになるのです。たぶん・・・
 それにしても、科学のサイドから六爻占術と同じ結論が出てくるとは驚きです。
 でも科学のサイドから「運命は決まっている」ということが出るでしょうか?
 現状では、出ないような気がします。
「人間には自由意志は無い」という結論が出ても、それは現状では運命論には行き着かないと思います。
 ではどこに行き着くのか・・・
 人間とは、環境に対して、反応するだけの動物・・・に、行き着くと思います。
 それでも下條さんは、ノーベル賞を取る割合(ノーベル賞の数÷教授の数)が世界で一番高い大学の教授です。日本人の教授が三人しかいないうちの一人です。だから立場としては良い位置にいるかも知れません(笑)。
 しかも、これからの人類が遭遇する領域の最先端にいると思います。それは下條さんですら知らないと思います。まさか運命が決まっていた・・などと。
 だからこれからが勝負です。そして私とほぼ同じ歳・・
 これからどうなるのでしょうか・・

ファイナルファンタジーの失敗

 ファイナルファンタジーの最新版は、あまり売れなかったらしいのです。
 その理由は、キャラが良くできすぎて、人間に似すぎてしまったためだと言われています。
 人間は自分と大きく掛け離れた存在に対しては、「キモイ」とは感じないのです。
 ところがファイナルファンタジーのキャラは、とても人間に似ていて、それが人間以上の技を持ったので、逆に「キモイ」と感じさせてしまったのです。
 ファイナルファンタジーは、やるのなら完璧な人間にすれば良かった・・
 少しの差を、気持ち悪いと思うのが人間なのです。でも大きく掛け離れると、今度は「圏外」に入ってしまうのです。
 
ここからが私の意見です。
 テレビに出てくるような人は、「圏外」なのです。だから彼らが女装しても「圏外」のままです。
 しかしそうでない私などは、キモイと感じられる対象になってしまうのです(笑)。
 少々の差は、「許せない」・・のです。
 だから会社の同僚などに、少しの給料の差でも、差が出ると、「許せない」のです。
 経営の本を読むと、これを逆手に取ったことが書いてあります。
社員の給与は、大きく差をつけてはなりません。競争心を煽り、それで沢山の仕事をさせるには、社員の給与は微々たる差にしないといけません。
 差を気にする人間の性質があるので、それに対して人間は潜在的に防衛していると思います。
 洋服を着たとき「なんか、おかしくない?」と訊くのが第一声です。
 社会の常識(ここではファッション)の範疇に入っていないといけないのです。
 しかも大きい差ができると、人間として扱ってもらえません(笑)。
 いずれにしても、「小差」を無視することができないのが人間なのです。

新奇性と親近性

 前回は「小差は許せない」という書き込みをしました。
 では、人は何に魅力を感じるか・・それは「親近性」に魅力を感じるのです。
「親近性」とは、いかに自分に「親しい」と感じるか・・です。
 例えば輪廻転生においても、近い人を選んでいるのではないかということを言う人が多いです。これも親近性なのです。
 親近性の逆は新奇性です。新奇性とは一言で言えば「名前が無いもの」なのです。
 定義されていないもの・・それを人は、嫌いになるどころか、排除しようとします。
 しかし、稀に新奇性を好む人がいます。自分から不安定の世界に飛び込む人です。
 でもほとんどの人は、現状の自分に対する安定感(理由付け)を求めるので、それが出来ません。
 六爻占術で言えば、親近性は「相合」だと思います。新奇性は、「相冲」だと思います。

快って何?

  下条さんの講演会で「快」という単語が登場しました。なんとまあ、脳科学の最先端は、私の後追いか?(笑)
 冗談は差し置いて、下条さんはいきなり「快」を使ったわけではありません。まずは「報酬」という単語を使いました。
 園児にお絵描きをさせる際の報酬の話は、既に『不思議の友』には書きました。
 園児を二つのグループに分けます。Aというグループには、良い絵が書けたら、ご褒美をあげると言います。Bというグループには何も約束しません。つまり報酬はゼロ・・
 結果は・・Bグループの絵の方が、断然良いのです。
 人は報酬を与えられると、仕事の質を落とすのです。
 下条さんの書いた『サブリミナルマインド』には、給与が高いほど仕事の満足度が減るというデータまで載っています。
 
 さて、ここまでは「報酬」でカタが付きます。ここからが問題です。
 講演会では100メートルを走る選手の話と、音楽を聴く人の話が出ました。
 100メートルを走る選手は、競技に勝って表彰台に登ることが報酬となるはずです。しかし疾走している間(約10秒間)、それがキーになるのでしょうか・・
 単に音楽を聴いている人は、何が報酬となっているのでしょうか・・
 ここで「快」という単語が登場しました。「快」で走る・・「快」で聴く・・としか考えられないと言うのです。
「快」とは、それだけで完結する「報酬」のことだと・・定義されました。そういう「単独完結」するものは、人間の体では少ないそうです。
 しかも「快」は不明なのだそうです。脳内モルヒネだとか、ドーパミンなど、出ている暇はないのだそうです。なのに何故、「快」を感じるのか・・。
「快」って、一体何?
 それにしても、最先端の脳科学者達が辿り着いた疑問点に、数年前から辿り着いていた私達って、何?(笑)
 しかも運命論では、数百年も先を行っているかも知れません(笑)。
 これで下条さんの講演会の報告を終わります。

書き込み期間:2004/11/20〜2004/11/29