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テーマ:「船井総研本物研究会」 |
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書き込み期間:2000/09/18〜2000/10/01 |
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要旨:
本物研究会の講演会で私は、仙人・仙女の世界、環境適応業、そして中井久夫氏による精神健康の基準をレジュメに記載しました。
本番では、「空間から時間へ」と書いたスライドからスタートしました。
経営者の中には仙人的な生き方に憧れる人が多いのですが、大半が願望実現型です。
しかし私が講演会で喋ったのは、目標は持たない方がいいということでした。
環境適応業であるということは、ビジョンや主体性を取り去ることです。仙道の教えもそれに通じていると言えるでしょう。
講演会で紹介した「中井久夫氏による精神健康の基準」は、「私たちはどこから来て、どこに向かっているのか?」という問いの、非常に大きなヒントになるのではないかと思いました。
中井氏の基準とは一言で言えば、いい加減であるということです。私達がその方向に向かっているのだとしたら、「神は何のために我々を作ったのか」という問題も生まれます。
微弱な直感ですが、私は神の意図として我々がいい加減な生命体として作られたという仮説は、正しいのではないかと思い始めています。これは私の常識をかなり覆しました。
中井氏の基準は「こうあるべきだ」というものを取り去ったものであり、「私は誰でもない」を別な形で言っているようでもあります。この基準は、輪廻の最終段階の可能性さえあると思えます。
私がこれほど中井氏の基準に興味を引かれるのは、そこから神と輪廻の姿が垣間見られるようで、私に多くの問いを投げ掛けてくるからです。
私は意識型成長系を空間系、無意識型成長系を時間系と呼んでいますが、何故これらの両方が必要なのかを考えました。
私達が常に時間系の状態に入れない理由は、孤独が怖いからです。それで空間系に属するノウハウ本などに頼ります。
少しずつハンドルを離せるようになって時間系に乗れていくことが、本当の成長ではないかと思います。ですので、自分の生き方をアップさせるというような、一般的な意味での成長には興味がありません。
空間系というのは、孤独に対する一種の保険です。人は保険がないと生きられないのです。そして神は保険を必要なものとして作ったのです。
私達は保険をかけて(後退して)はまた前進することを繰り返しながら、一生かけてエデンを出続けているのです。
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○ 本物研究会レジュメ
○ マーケット(市場)は生き物
○ 目標は持たない方がいい
○ 中井久夫氏による精神健康の基準
○ 環境適応業
○ 選択はすべてエゴか?
○ 限定された個人の時空
○ 選択の余地
○ 時間と空間と選択肢
○ 私は状態が好き
○ 新幹線の中からの報告
○ 私達はどこに向かっているのか?
○ 神の意図
○ エデンからの脱出
○ 愛を生きる
○ あの世の構造が変わる
○ 人世のパノラマ
○ 両親を選んで生まれてくるのか?
○ どこに行くのですか?
○ マニュアル本
○ 時間系の中にあるもの
○ 好きだから・・したいから・・・
○ 目標
○ なぜ空間系と時間系が両方とも必要か?
○ 概念が変える、成長させる
○ しかし、成長・・・
○ 壊すのは簡単、作り上げるのは時間がかかる
○ 神も保険をかけていたというこの話題
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本物研究会レジュメ
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<仙人・仙女になるには>
●不老不死の社会になると
肉体は自由自在、好きな性別、好きな容姿の顔を選べる
食べる必要が無くなる
瞬間移動は思いのまま
経済体制はひっくり返る
恋愛観もひっくり返る
子育てはなくなる
家族のきずなは、無くなる
死ぬということがなくなれば、生まれるということもなくなる。
●不老不死になるには
不老不死になるには、永遠の生命を得る必要があります。
私たちの生命は一見、断続した形に見えます。
なぜ断続的にする必要があるかと言えば、過去が現在の行動を縛ってしまう生き方をしているからです。
ですので生まれるときに、記憶を強制的に消しているのです。
永遠の生命を得るための第一ステップは、過去に縛られない行動ができることです。
このまま地球が不老不死の世界に突入すると、分かった風なことを言う人ばかりが増え、ガチガチの地球になるような気がします。
不老不死の第一ステップは、過去世が戻ってくることだと思います。そしてその過去にとらわれない自分になることです。
●和光混俗
三次元の中で暮らしながら光を得ること。
日常生活即道
悟りはマーケット(市場)の中で起こらなければならないとも言います。
仙道では四徳があります。
財・・お金
法・・ノウハウ
侶・・異性の友達
地・・不動産
これは他の宗教では否定されるものばかりです。
●山頂を目指さない
「仙道では山頂を目指さなくても良いのです」と言われました。
山頂とは、目標のことです。目標を持たなくても良いのです。
●ワダチに沿って生きよう
人生を車に例えたとき・・の例。
車が右に曲がりました。どうして右に曲がったのでしょうか?
それは右にも道があったから・・
この場合の道はタオです。
ワダチは一瞬一瞬私たちの目の前に作られます。
それを無視して私たちはハンドルを切ろうといます。
ワダチに沿って生きようというのは、直感で生きようというのに似ています。
●時間は未来から過去に流れる
●生命は自在なもの
時間は未来から過去に流れるように、自分というものも未来から過去に流れるものと考える。
●当面、会社は「環境適応業」となる
私の会社はソフトウエアの開発ですが、それは「ソフトの開発を通じて環境に適応するのが仕事」という意味です。
あなたがたの会社は、××業ではありません。
××業である限り、取り残されます。
これからは「環境適応業」が業種です。
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マーケット(市場)は生き物
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本物研究会の講演会は、クローズドな会です。ですので一般参加が出来ません。
一発目は12時半から15時まで、二発目は15時半から17時半で、そのあと船井さんの話があり、その後、懇親会です。非常に長いです。
聴衆は経営者です。さて、経営者向けに何を話しましょうか・・。
私は貨幣経済を批判する気など、全くありません。むしろお金儲けを肯定しています。
しかも、私が今まで研究(何を?)してきた成果によれば、お金儲けと人格(私には無い)は反比例しないのです。
私はレジュメでは、一番最後の部分が重要だと思っています。
みなさんのほとんどは、仕事をしていると思います。
「あなたは誰か?」と聞かれたとき、仕事の内容を答える人は多いのではないでしょうか・・。
しかし、それは本当にあなたがやっている仕事でしょうか?
会社の視点に立ったとき、××業であると答えると、もう終わっている(笑)と思うのです。
でも、会社の場合には「何の会社でもありません」と答えるのはやり過ぎだと思います(笑)。
私の答は「環境適応業」なのです。
実は個人に対する質問「あなたは誰ですか?」の質問に対しても、この答はかなり良いと思っています。「私は環境適応人だ」・・・と。
つまり、××をするため・・という主体性を取り去るのです。
会社の場合に立ち返ると、環境適応業に業種転換すると、具体的な方向性は360度になるのです。
親父が創業した会社だから・・・もう随分と資本をつぎ込んだから・・
こういう理由付けで現在を縛らなくて済みます。
この発想の原点は、マーケット(市場)は生きているということに関係しています。
過去は、どんどん過去に流れます。
自在な人間が変化をしながら生きているので、市場も未来から過去に流れます。
生きているという時、市場を支配する要素も生きてきます。
ですので単純な経済学を越えたものが出てきます。それを察知するのが経営者の手腕です。
この環境適応業で生きるためには、増田さんが言った「受動的創造力」を働かせる必要があると思います。
能動的に売る時代は終わったのです。受動的に売る時代です。
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目標は持たない方がいい
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これは私の会社が中小企業だから言えるのかも知れません。
目標を持たない方が、利益が上がるのです。どうしてでしょうか?
普通、逆に言いますよね。ビジョンを持てと。そういうことを言う経営セミナーは多いです。
しかし、目標なりビジョンを持って売り上げを上げていき、その結果はどうなったのでしょうか?
きっと大したことはないと思います。(でもこれは推測です。私はやったことはないので・・)
だって売り上げ目標とかビジョンとか、ちっとも面白くないではないですか・・。
目標となる指標に達して、どうだと言うのでしょうか・・。
同じことは精神世界だってそうです。
愛の満ちあふれた環境にしよう・・なんていうビジョンを作って、その目標に向かって・・
いったいどうだと言うのでしょうか。
きっと大したことはないと思います。(でもこれは推測です。私はやったことはないので・・)
目標というのは、毎日作り換える方が良いと思います。
つまり、そんなものはない方がいいのです。ない方が会社は伸びるのです。
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中井久夫氏による精神健康の基準
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これもレジュメに入れました。
「神戸大学精神科教授、中井久夫氏による精神健康の基準」
●分裂する能力。精神を無理に統一しない能力
●いい加減で仕事や追求をやめる能力
●未解決のままで保持できる能力
●いやなことができる能力、いやなことは自然に後回しにする能力。できたらやめておきたいと思う能力。
●一人でいられる能力。また二人でいられる能力も必要である。
●嘘をつく能力。
●いい加減で手をうつ能力。意地にならない能力。
●しなければならないという気持ちに対抗できる能力。
●現実処理能力を使いきらない能力
●上手に妄想する能力。
何故これを入れたのかは、このことを分かっていないと、経営者としてうまくいかないと思うのです。社員に対してもそうです。無理な要求はいけません。
もっと重要なのは、マーケット(市場)に対してなのです。
なぜなら社会は人間で作られているので、この「精神健康の基準」に則って動いているからです。いい加減さには必ず市場が発生します。
本を例に挙げましょう。
神との対話という本があります。あれは人間がいい加減だから・・つまり答を求めようとするから・・市場が発生したのです。
嘘をつく能力・・これがあるからマクドナルドのマニュアル化ができました(言い過ぎだって?)。だってあの笑顔は嘘じゃないの?
上手に妄想する能力・・これがあるから『不思議の科学T〜V』は売れました(笑)。
でも、「精神健康の基準」で最も大事なのは、社員に目標を設定さたせらダメになるということです。
その社員は、無二の人生を生きています。なのに目標で縛ると、その人の本領発揮が出来ません。
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環境適応業
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すべての生物はこれをしているわけです。これに失敗すると、死滅します。
恐竜は、隕石の落下という環境変化に適応できませんでした。イルカも、海に戻らなければ死滅したかも知れません。
企業で単一の業種しかないのは、極めて危険です。限られた売り先しか持たないのは、極めて危険です。
それは小さくても恐竜の二の前になります。自分はエライ恐竜様だぞ・・と思ったらお終い。
自分は環境適応している生き物だと思わなければ生き残れません。
人間が万物の長になったのは、その汎用性にあったのではないかと思います。
つまり頭を使って環境に適応していったからです。
仙道の教えも、究極のところ、この環境適応のノウハウにあるとも思います。
環境とは、時空のことなのです。仙人は、時空適応業をしているのです。
まるで風のように・・・
経営者の中には、仙人願望を持っている人が結構います。
きっとあの飄々とした、世間を超越した感じが良いのでしょう。
でも、彼らにはなぜか願望実現型が多いのです。
五年計画とか言って、会社の未来予想図を披露したりします。そういう願望(方向性)を持っていることが成功の秘訣だと言います。
確かに、彼らは凄いです。私の会社よりずっと売り上げがあります。
しかし彼らと私の違いもあります。私は、仕事が忙しいということがありません。
彼らの手帳はスケジュールで一杯です。私の手帳にはスケジュールがほとんどありません。
何ヶ月かに一度の講演・・中国ツアー・・こういうものしか書いてありません。ほぼ空白です。
手帳がスケジュールで一杯で、仙人になれるでしょうか?
もちろん、「市場で悟れ」とは言われました。しかし目標は持ってはイカンのです。
「私」という主体を持っては・・・う〜ん、どちらだと思いますか?
ワダチの概念からすれば、一般的主体は無いのです。
つまり彼らは「仙人DOING」をしているのです。
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選択はすべてエゴか?
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私はずっと長いこと「自由とは、選択肢の多いことだ」と思ってきました。
選択肢を狭めることは、自由を狭めることだと・・
そして私が仙道(道教)で初めて出会った概念が「選択肢を捨てる」ということでした。
ハッキリ言って、こんなに爽快なことはありませんでした。
私達は多くの情報に縛られています。例えばCMです。
コンビニで商品を選ぶとすれば、それは潜在意識にインプットされている可能性があるのでよく考えろと心の声が言いました。
「メディアセックス」という本で、サブリミナル(一瞬の画像)が暴露された時には、そういうことをやるマスコミに怒ったものでした。
しかし選択を捨てたら、どうでしょうか?
自分が何の情報をインプットされていようが関係なくなるのです。
だとすると、人は自動人形になると思いますか?
実際に選択肢を捨ててみると、自分の感性により近付くことがわかります。
私は今まで「選択の幅」という信念に縛られていたのです。
選択肢とは、理由付けのことだと思います。
「選択をしない」というのは、理由付けをしないということにもなります。
幾つかの選択肢があったとします。そのどれを選ぶか・・・
どれを選んでもそこからは無限の選択肢が生まれます。
つまり選んだ選択肢が正解かどうかは、時空の始まりから終わりまでを見てみないと分かりません。
選んだ伴侶と不幸になっても、それは時空の終わりまでを見てみれば、正解かも知れません。
私の会社は私がいなくても機能します。しかし、一つだけ必要なことがあります。
それは私が情報を共有していることです。
もちろん全てでなくてもいいのです。少しだけでも共有することが必要です。任せてしまってはいけません。
それさえしておけば、社員に選択してもらっていても問題はないのです。
しかし、これが何故なのか、分かりません。
目的が発生するから選択が生まれると思います。
商用ならば問題なのですが、これが個人の人生に関わると、問題ではないでしょうか?
私達は人生の目標を決めます。この「決める」という事自体が問題ですが・・・。
そしてそこに到達する幾つかの選択肢を考えます。その中には「自分をこう変えよう」なんてのも含まれます。
そしてその目標の肯定化を始めます。これは自分のためではなく、人のためなんだ・・とか。
選ばれた選択肢は、既に個人を越えています。「あなたのためにこっちを選んだのよ」なんて言い出します。おまけに人にまで選択することを宣伝し始めます。
私には選択は、エゴと結び付いてしまうのです。エゴと結びつかない選択って、いったい存在するのでしょうか?
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限定された個人の時空
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私達の個人の時空は、非常に限定された状態だと思います。つまり20世紀後半の世界に生まれ、この森田健という肉体に宿り・・・
そこで切り取られる人生は、やはり限定されてしまっているわけです。
私は不思議研究をしたくてしようがない自分として生まれました。これは無言の目的と化しています。
この無言の目的には、エゴはないのではないかとさえ思います。
誰が何と言おうと、エゴだと罵ろうが、私はこれをやりたいからです。
言うなれば、自分は誰かという疑問・・そういう神への挑戦がしたいのです。
しかしこれは限定されています。限定されてはいますが、私が無意識に選ぶ道でもあるのです。
ハンドルを離せば、楽しくてしようがない方に、自動的に向きます。
しかし、これが時空の終わりまでを見てみたとき、正解かどうかは分かりません。
ハッキリ言って、そんなことは、知ったことではありません。
あらゆる選択は善しとするのですが、この限定された私に限っては、そうではありません。
但し、この私の特性が永久にこのままだとは言い切れません。
会社を上場することが楽しくてしようがなくなるかも知れません。
サンリオの社長の話に出てきた社長の話です。彼は、計算ずくで工場を建設する方向に行きました。
しかし、施行式の日に、その工場がうまく行かないことに気付きます。
そして施工式を中止します。自動的に選んだと思います。
さて、これは時空の終わりまでを考えれば、工場が潰れても善かったのかも知れません。
しかし良くなかったのです。この善と良の違いではないでしょうか?
限定された彼の人生の中では、工場が潰れることは、ちっとも楽しくないのです。
しかし、問題はそこにあるのでしょうか?
彼はその施工式の日に「生きた」ということが大事ではないでしょうか?
彼は理由なき直感に生きることが出来たのです。それがどういう結果になろうが・・・
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選択の余地
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私の場合、まず会社を辞めたとき、一瞬何もかもをも拒否してしまったような気がします。
そしてその10年後に、不思議研究に入ろうと思ったときは、そんなことをやり続けることができるのだろうか・・まぁいいや、その時はその時だ・・と思いました。
どちらにしても、既存の何かを積極的に選択するというものではなかったと思います。
となると・・・選択という行為は、期待を天秤にかけるのではないでしょうか?
その後不思議研究をしようと思い立った後、私は二つのことを始めました。
一つは、カルチャー教室の「小説の書き方」に通ったこと(笑)。もう一つは、純文学を多読したこと。表現技術を身に付けようと思ったのです。
不思議研究という職業には、私にとっては、お手本となる人がいませんでした。
全く未知の職業だったわけで、それが職業として成り立つかも分かりませんでした。
選択という行為は、比較対照できるとき、生じるものだと思います。
比較対照できないとき・・それを選択の余地はないと言うのではないでしょうか?
ビジョンを先に作ると、そこから抜けることが難しくなります。
選択という土台に乗らないと、つまりあらかじめ作られたビジョンとの比較対照ができないと、それは捨てられるのではないでしょうか?
だからビジョンによる人生、あるいは経営法は、チャンスを逃してしまうのだと思います。
「私って誰?」この問いは、解答不可能だと言われます。いくら問い詰めても答は得られないと。
お釈迦様でさえそう言ったらしいですね(本当かどうか・・)。そんな無駄なことはやめろ・・と。
これって通常の人生の選択で、随分と遭遇すると思います。「そんなことをしてどうする?」
出来もしないことを選択するのは、いったい、選択と言えるのでしょうか?
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時間と空間と選択肢
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選択肢は空間系の中にしか存在しないのではないでしょうか?
一歩立ち止まってみる、選択の時間が必要だからです。
と考えると、時間をある目的のために使うのが、空間系だとも言えないでしょうか?
時間が空間の手段になるのです。
時は金なり・・この一節も時間か金の手段です。
時間と空間の主従関係がひっくり返ったらどうでしょうか(同等だという人は多いでしょうが、あえて同等にはしません)。
これは「私」というものを、主体と捉えるか客体と捉えるか・・にも関係すると思います。
「私」を客体として捉えると、「私」とはコントロール可能なものになります。
この状態は空間が主体です。意識は常に「私」に置かれていて、選択肢を選択します。
どうあるべきかを選択しながら生きています。
時間が空間の手段にならない時は、「私」は主体になると思います。
自我のレベルから「私」をコントロールするのではなく、私は時間の流れに沿って感じる存在になります。
この時点でエゴは消えてしまいます。消えてしまいます・・などと書きましたが、確信はありません。ただ、経験上そう思うのです。
このとき、選択は感情の動きに沿って行われます。ですので選択をした意識は、残りません。まさに選択の余地のない状態なわけです。
左脳と右脳は行き来をしますが、右脳の理由なき選択の方が優先されます。
人は、より良い結果が得たいのでしょうか?
会社経営において・・オリンピックにおいて・・
人はより良い結果が得たいのでしょうか?
もちろんより良い結果は欲しいでしょう・・。
しかし私に関して言えば、それだけではないのです。
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私は状態が好き
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こういう(ボーっとした)状態でいることが好きなんです。この状態に入るのに、時間は必要ありません。
結果ですか?お釈迦様でさえ「そんなことを考えてもムダだ」と言っているのです。
結果が出るわけはありません。でも、状態が好きなんです。さまよっている状態が・・
状態が目的だとすれば、結果は手段なのです。ふ〜う。面白い・・
たぶん会社の仕事だって、状態が好き・・な方がいいんです、きっと・・
私には、生き甲斐って無いんじゃないかと思います。
だって生き甲斐って・・なんか・・これが生き甲斐だ、という強いものが存在する必要があるような・・
私の場合、そういうのがないんです。
目指すものもないし・・作りたい社会像もないし・・人生を賭けているものもないし・・
生きがいは無いけれど・・生きがいのない状態に突入するのが、とても好きなんです。
一瞬一瞬を0%で生きる、この方が合っているみたいです・・
だって美味しいコーヒーを飲んでいる時間は、「100%生きている!!」なんて気にならないから・・・
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新幹線の中からの報告
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講演は、「空間から時間へ」と書いたスライドからスタートしました。
この表題のスライドは、わざわざこの講演会のために作ったものでした。
まともに「時間」を論じた、初めての講演会となりました。
増田俊男さんが言った「能動的創造性」と「受動的創造性」の話をしましたら、私の後に講演した船井さんが解説をしていました。
受動的創造性は直感そのものだと言っていました。
中井氏の「精神健康の基準」のレジュメを読み上げましたが、読んでいるとき、とても説得力を感じました。
あの「基準」は意味の深いものではないでしょうか・・。
その後に読み上げた「中心気質」よりも深いと思います。
時間系に関するテーマですが、中井氏の「精神健康の基準」は、とてもそれに関係します。
精神病院に入った人は、中井氏の基準に向かおうします。しかし私達の大半は、その基準を否定します。それは自分がダメになるという理由からです。
正常な人になるということは、ダメな人になるということなのです。
その後、船井さんが面白い事を言っていました。「自分をすべて正直に話せる人がいますか?もしいれば、その人の前であなたは子供に帰れます」・・と。
う〜ん・・なかなか素晴らしい言葉です。
しかし、私達は人の前では自分を飾ってしまいます。それどころか、自分に対してさえも、自分を飾ってしまいます。
一度でいいから「自分を正直に話す講演会」というのをやってみたくなりました。
しかし、それでも意識したら、出来そうにありません。
自分を正直に出している時って、やはり時間の流れに乗った時ではないでしょうか。
「無為」と書いたスライドも出しました。
モンローさんが言ったHuman doing(有為)とHuman being(無為)の話をしました。
そして最後に出したのが、時間系のリングを、空間系のリングと90度ずらした「天人合一」の図。
これは船井さんから「シンプルではない」と批評されました。
確かにシンプルではありませんが、信念体系領域とか指導症候群のマスターの領域などを書いたからです。
現在、多くの精神世界を支配する「常識」をそこに書き入れてしまったからです。
ですので、そういったものを取り去れば、シンプルになります。
一度、シンプル版を作ってみたくなりました。
有為に関して船井さんは面白い事を言いました。
「フランス革命が掲げた自由、平等、博愛は、有為ではないか・・」と。
そして「自由、平等、博愛は、それぞれ矛盾している」と言いました。
なかなか面白い視点だと思いませんか?
そのあと懇親会がありました。私は乾杯の音頭をしました。
この会(本物研究会)は、講師として出るのは二度目です。
ほとんど同じ人たちに対して再度講演を出来るというのは、幸せなことです。
わざわざ別の会(直感力研究会)からの飛び入りの参加者もいました。
私が講師の時は、会が活気づくと言われました。有難いことです。
変化の中にいる私にとって、その変化をお伝えできることは、とても嬉しいです。
懇親会ではCGビデオのダイジェスト版を流しました。みんなテレビの前に集まってみてくれました。
その後、私は個人的な懇親の輪に入りました。その時こんな情報をくれた人がいました。
「光の記憶という本をご存じですか(私は知らないと答えました)。その本の中に2002年に変化が起こると書いてあります。2002年に光が降りるそうなのです。それがオババたちの言う2年後(不老不死)にピッタリなので・・」と言うのです。
この人、「昨夜、森田さんの講演が明日あると思っただけでドキドキしてしまいました」と言っていました。
彼は『神との対話』の話もしました。
「あの本の中で答えている神は、やはり指導症候群のマスターなのでしょうか?」
私は答えました。「はい、そう思います。神は質問には答えないと思います。だって答えたら、宇宙を作った意味がなくなってしまうと思うのです。」
彼は言いました。「神こそ問いを発しいている存在・・これって何か、発想が逆転していて、なんかいいですね・・」
直感力研究会から飛び入り参加した人は言いました。
「森田さんの講演があると聞いて、特別参加させてもらいました。森田さんの講演ではいつも”安心”を頂いています。成長しなくていいんだと言われると、とてもホッとします。講演に参加する費用は、その”安心”を頂くためのコストなのです。安いものです」と言っていました。
これを言った彼は、春に行われた直感力研究会で、私の部屋を訪ねてきた人です。そして言いました。
「「不思議の友」は、素晴らしい。だって結論がないんだもの。今後もその方針でいって下さい」・・と。
この助言を受けて、『「不思議の友」4』は、より「混沌」傾向に近付いたのです。
ところで今回の講演会で私は、「空間系から宇宙を解釈しても、解釈できます。時間系から解釈しても、解釈できます。私にはどちらが良いか、・・何となく時間系のほうが良いのではないかという感覚はありますが、はっきりとした理由が分かりません」という一節で終わりました。正直なところなのてす。
この話題は懇親会でも出ました。
「空間が良いか、時間が良いか・・その比較すら出来ないような・・。だってどちらもその気になれば大変に説得力のある理論構築が出来ます。」
その横で別の人が言いました。「いや、時間系という概念からでもひとつの体系がでるということを言った森田さんは、やはりグーなのではないか・・」
もう一人の人が言いました。
「どちらが良いか確信が持てない・・この事って宗教家の人に是非持ってもらいたいことです。私たちは確信が持てないことをあたかも確信が持てたように言ってしまうから・・」
私自身、経営者対象ということで、具体的なノウハウのようなことを喋らなければならないというプレッシャーがありましたが、それは取り越し苦労でした。
経営者にとってもやはり「宇宙はどうなっいるか」、「私とは何か」という問いかけに興味かあるのです。
最後に船井さんが言っていました。
「2000年1月13日の京都幸塾に森田さんが出ます。良かったら来て下さい。森田さんは日々変わっています。その変化を知ることか出来ます」・・・と。
変化と言えば、「五歳の頃に戻る誘導瞑想」というのを、やってみたくなりました。
ひょっとしたら京都でやるかも知れません。
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私達はどこに向かっているのか?
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私は「私たちはどこから来て、どこに向かっているのか?」ということを問い続けています。
この問いは二つに分かれています(fromとto)。
今回、そのうちの一つである「私たちはどこに向かっているのか?」という問い(to)に対し、私は一つの大きな仮説に到達することが出来ました。
大それた問い「私たちはどこに向かっているのか?」・・・・
その大それた問いに対する一つの答えは・・
9月20日に行われた、船井総研「本物研究会」の中でヒントがありました。
私は次の件を発表しました。
<神戸大学精神科教授、中井久夫氏による精神健康の基準>
●分裂する能力。精神を無理に統一しない能力
●いい加減で仕事や追求をやめる能力
●未解決のままで保持できる能力
●いやなことができる能力、いやなことは自然に後回しにする能力。できたらやめておきたいと思う能力。
●一人でいられる能力。また二人でいられる能力も必要である。
●嘘をつく能力。
●いい加減で手をうつ能力。意地にならない能力。
●しなければならないという気持ちに対抗できる能力。
●現実処理能力を使いきらない能力
●上手に妄想する能力。
これは精神科治療の最前線にいる中井氏の本の抜粋です。
「経営者としてはこの基準を良く知っておく必要があると思います」ということを喋りました。
そして「これが今日お話ししたいテーマである”時間系へ”ということに関係すると思うのです」という台詞が口をついて出ました。
中井氏の基準を喋った時には、説得力がありました。だから、それから後の講演は、非常にスムーズに進みました。
懇親会ではこんなことを訊く人がいました。
「私は嘘をつかれ、騙されました。騙された私が悪いのでしょうか?」
私は答えました。「先ほどの講演会でも言った通り、人には嘘をつく特性がありますから・・」
さて、PHP新書から『生命の軌跡(副題:DNAから私へ)』という本が出ています。
その中に『「私」が生まれる』という章があり、そこには面白い事が書いてあります。
チンパンジーやオラウータンといった類人猿には、面白い事実があるのです。それは他の猿が食べているとき、あたかも危険が迫ったような叫び声を上げるヤツがいるのです。
食べている猿は、びっくりして逃げます。そのスキにヤツは餌を食べてしまうのです。
これを観察した動物学者は、これこそが「私」と「他者」を区別する証拠だと言いました。
これは意図的欺瞞と言います。故意に相手を騙すことです。
相手を騙すためには、自分が相手からどのように見えているかということを想像できなければならないからです。
さて、中井氏は精神治療の最前線にいます。最前線にずっといたいから、本はあまり書かないそうです。
「あの先生は、こういう方法で対処するんだ・・」といった先入観が患者さんに起こるからだそうです。
中井氏は、正常になったという基準として、上にあげた「精神健康の基準」を作りました。
作りましたという表現をしましたが、これが壁に貼ってあるわけではありません。日常の治療をしていくとき、心の中にだんだん出来てきた基準なのです。
ですので本などを読んで、机上の理論から出たのではありません。まさに体を張った治療生活から出たものです。
私がこれを知ったのは、ある人のクリニックで出している医院便りからでした。その医院便りは待合室に置いて、患者さんに無料配布しているものです。
それをある人が、たまたま私のところに送ってくれたのです。
私はそれを幾つかの講演会で紹介しました。そのたびに軽くウケたという感じでした。
しかし船井総研の本物研究会の日、二次会でこの話題を(私が)出しました。
「精神健康の基準は、とても面白いと思う。ひょっとすると私たちの価値観をひっくり返すんじゃないのかなぁ。だって私たちが欠点だと思っていることばかりなのに、それになると健康として認定される。もしかすると私たちそのものの行き着く先が、あの中に書いてあるんじゃないのかな。」
隣に座った人が「そうかも知れない」と言いました。
この会話が私の潜在意識に入り、丸一日経過した昨夜、突然芽を吹いたのです。信号は微弱でした。
中井氏は、別に世の中の方向性を書いたわけではありません。ただ、自分が体を張って作り上げた基準を紹介しただけでした。
あれを講演会で言うと、みんなから微笑みと共に、笑いが起こります。何か、ホッとしたという感じの・・
でも、私を含めて大半の人はこう思っていたと思います。
「あれは病院を退院するための基準だから、人間としての最低線のものだ。社会に出れば成長しなくちゃいけない。最低線に自分が当てはまったとして安心しちゃあいけない。」
これは私達の常識・・すなわち「成長常識」から発生するものです。
「全ては意識でコントロールするものだ。嘘をつくより正直なほうが良いに決まっている。途中で投げ出す人よりも、最後まで頑張る人のほうが良いに決まっている。私たちはそういう方向に向かっていかないといけない。」
しかし、あの基準が「最後のもの」だったら????
つまり、何を言いたいかと言えば・・
あの基準そのものが「私たちはどこに向かっていくのか」の答えだとしたら・・
自分の中に発生したこの仮説は、微弱信号でした。
ひょっとして過去にこの基準を達成した人はいないか・・・と思った瞬間、モーツアルトが出てきました。そうです。モーツアルトは中心気質者です。
そして中井氏の基準は、中心気質を具体的に書いたようなものなのです。
中井氏の診断は意識のレベルを観察したのではなく、おそらく無意識のレベルを診察したのだと思います。無意識のレベルとは、時間系のことです。
「自分は今、どういう行動をすべきか」ということを考えてする行動は、空間系です。
中井氏は、患者さんが時間系、すなわち真っ只中の行動に入る時を観察したに違いありません。
時間系の中に突入すると、すべてはオートマチックです。自動調整を始めます。
必要ならば嘘もつきます。必要ならば、仕事を引き延ばします。
しかし、そこにはエゴがありません。
中井氏はこんなことを言います。「精神分裂病は、精神統一病だ」・・・と。
つまり精神を統一しようとして意識が常に自分をコントロールしているのです。怖くてハンドルを離せないのです。
本当の話かどうかは知りませんが、『宇宙人ユミットからの手紙(徳間書店)』によれば、宇宙人ユミットの星では個が発達しませんでした。
星が小さいのが原因で、大陸が一つで言語も一つで、戦争もほとんどありませんでした。
それで個が発達しなくて、芸術が出ませんでした。
だから「地球にはなぜ芸術などという不効率なものが存在するのか?」と疑問に思い続けています。
争いがあり、善も悪もある星・・地球。
その地球をアセンションさせるためには、芸術家狩りをしなければならないと言い出しました。目下ユミット星ではその準備中だと言います(笑)。
さて、「精神健康の基準」が芸術を生み出すのだとすれば・・・それはきっと人間の本姓に根ざしているものだと思います。
一方のアセンション系、すなわち「気付き」「選択」を理性でするタイプは、人間の本姓に根差していないとも言えます。
それでこの大胆な仮説が出てくるのです。
「私たちはどこに向かっているのか?それはあの中井氏の基準に向かっている」・・・と。
さて、もしもそうだとすれば、私たちの大半は逆を向いていると思います。
嘘つきは良くない・・投げ出すヤツは良くない・・・
しかしです。時間系に乗ると、それらは自動的に、それもエゴ無しに起こるのです。
さて、この大胆な仮説が本当だとしましょう。すると次の問題が出てきます。
「神は何のために我々を作ったのだ」・・・という問いです。
もしも我々が神だとすれば、「神は何に向かっているんだ」・・・という問いです。
こんないい加減な生命体として人間を作ったのでしょうか?
こんないい加減な生命体に向かわせるために人間を作ったのでしょうか?
これをいい加減仮説と名付けました(笑)。
今さら言うまでもないですが、私は自分の生き方をアップさせようなどと言う気はありません。
私はテスターなのです。私は私自身を試験台として使い、「神とは何だ?」という問いを発しているのです。
そのテスターとしての私が微弱信号を出しました。「いい加減仮説は、正しいかも知れない・・・」と。
だとすると、未来はバラ色でしょうか?
小学校の頃、未来予想図と言えば、数学的にきっちり計算され尽くしたようなピチピチの服を着て(決して嫌いではないが・・)、エアーカーで高速を滑るように走る車に乗っている絵でした。
理性が勝利を収めている絵でした。正直で、完璧で・・。
しかし、仮説通りにいくと、嘘で塗られ、いい加減で(笑)・・・そういう世の中が来るのです。
これはバラ色でしょうか?これがアセンションでしょうか?
デセンションという言葉の方が合いそうです(笑)。
しかしよく考えてみれば・・ここにはエゴはないのです。
理性でコントロールするところにエゴが発生するのですから・・
私は長いこと「嘘をつかない人間になろう」ということを目標として掲げてきた時代がありました。でも無理なので、諦めました。
中井氏の「基準」が送られてきたのは、もう四年も前の話です。でもずっと、限られた病院内の話だと思ってきました。
それが昨夜の微弱信号と共に、とんでもない仮説として浮かび上がりました。
これは始まりです。私の中の何かの・・・
これは時間系という問いを解くための、大きなヒントになると思っています。
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神の意図
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私が一番興味を持っているのは、神の部分です。
神の意図として、元々こんなにいい加減な知的生命体として計画したのでしょうか?
これって、私の常識をかなり覆したのです。
だとすれば、いったい何に向かって輪廻転生をするのでしょうか?
神の意図として、元々こんなにいい加減な知的生命体として計画したのなら、これは本当に深いのです。
私が神様というときは、擬人化しています。神というときは、擬人化していません。
神は時空そのもの・・私達自身でもあります。だから混乱しないで下さい。
私が神と言うときは、キリスト教の神とは違います。混沌の世界そのものなのです。
私がここに書いているのは、あくまでも仮説です。
ですから、「私たちはどこに行くのか?」という設問に対して「どこにも行きません」という答えも考えられます。
しかし、今回ここではあくまで行き先があるという前提の仮説を作り、それを遊んでいます。
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エデンからの脱出
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私もオババに会うために奥地に行くと、同じようなことを感じます。
彼らは「これでいいんだろうか?」とか「私は誰?」なんてことはあまり考えていないのではないかと・・。
それがとても幸せそうに見えたりします。
孫さんが来日したとき(能力開発研究会で)孫さんは言いました。
「赤ちゃんはみんな天目が開いています。ほとんど直感でママと繋がることが出来ます。でも五歳を過ぎた頃から天目は閉じ始めます。私はなぜか閉じなかっただけです」・・と。
中国の山奥に超能力者が多いのは、これが原因かもしれません。
ひょっとすると彼らはエデンを出ていないのではないかと・・。
さて、導師は逆のことを言います。「出て行かなければ、戻ることができないでしょう?」・・と。還童功とはまさに戻る修行です。
今はオリンピックの季節です。水泳競技をやっています。
彼らは飛び込んでから泳ぎまくり、出発点に帰ってきます。
戻るくらいなら、行かなきゃいいだろう・・ と思うかも知れません。
空間的には何も変わっていません。しかしその間、選手達は時間系の中を生きています。
さて、ここで中井氏の「精神健康の基準」を思い出しましょう。
彼の本を読むと「分裂する能力。精神を無理に統一しない能力」のところにこんなことも書いてあります。
「二重人格と言いますが、二重くらいでは少なすぎます。私たちは多重人格にならないといけません。その都度その都度、私たちは変化をしています。私たちはその変化を変化させないよう、つまり人格を無理に統一させようとしています。」
今、原本がないので正確ではありませんが、このようなことが書いてあります。
エデンの園を抜け出し、行き着く所はどこなのでしょうか?
エデン脱出の際に手に入れたものは、「私」という感覚でした。
それは孤独(孤高ではありません)を作り出します。「私」と「自然」は切り離された存在であることを認識するからです。
孤独は耐え難いものです。孤独は、何とかしなければなりません。
そこには二つの方法がありそうです。
一つは、空間的に解決する方法。もう一つは、時間的に解決する方法。
空間的に解決する方法とは、魂を磨く方法です。自分というものを確立し、それを一生懸命に磨くのです。
理性という布で磨きます。感情はコントロールされます。気付きが大事です。気付いてそれをコントロールします。
時間的な方法は、まさに中井氏が言う方法です。もっと分裂しろと・・瞬間瞬間、前の自分は捨てて、新しい自分に身を任せろと・・
そうするとき、魂を磨くどころではありません。だって魂がどんどん入れ替わるのですから(笑)。
多重人格になるためには、流れに身を任せることが大切です。流れに身を任せるとき、孤独は解消されます。
分裂し、時間の流れに乗ることによって、モーツアルトは作品を作ったのではないでしょうか。
さて、エデンの園を出ないで創造的芸術はあり得るものでしょうか。
(エデンを出た直後は受動的芸術のような気がします。古代原人の壁画とか・・)
(嘘か本当か分からないですが)ユミット星人は、地球人の芸術が理解できません。
芸術家は、理性で「自分はこうだ」と規定することが極めて少ないと思います。
言葉に出来るような気付きは、ないのではないでしょうか?
それを言葉以外で確認したくて、言葉にならない芸術行為をするのではないでしょうか?
エデンにいる限り、創造力はないと思います。受動的にしろ、能動的にしろ・・・
そして創造力のアンテナを宇宙に開く方法が、中井氏の基準ではないでしょうか。
輪廻最終ランナーとは、その惑星においてあらゆることを経験し、ある意味では悟り、次の惑星に旅立っていく人のことを言います。
ロバート・モンロー氏は、面白いことを言っています。
「輪廻最終ランナーは、ほとんど目立たない存在として一生を終わる」・・と。
これを船井さんに話すと、「私もそう思います。アメリカ人なんかは目立ちたがり屋だから、魂が新しいのでしょう。日本人は逆の傾向があるので、魂は古いのでしょう」と言っていました。
そして本物研究会の二次会では次の話も出ました(そこには船井さんはいません)。
「キリストや仏陀はひょっとすると全く新しい魂なのかも知れません。」
そうだとすると、教えようとする聖者は皆、魂が新しい可能性もあります。
さて、輪廻最終ランナーが目立たない存在だとすると、彼らは中井氏の精神健康の基準に則っているような気がしてなりません。
「私たちはどこへ行くのか?」という問いの答があの基準であるならば、それは充分に考えられることです。
中井氏の基準は、私に多くの問いを投げ掛けています。
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愛を生きる
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本物研究会の二次会で、「時間系とはどういう状態か」という話題が出ました。私は次の話をしました。
フェルルを連れて散歩していると、楽しい事がたくさんあります。
まずよくあるのは、「まあ、可愛い」と言って笑顔で犬に接してくる瞬間が見られること。
あの瞬間て、エゴがゼロなんですよね。そして愛が100%。
だって笑顔と共に、自分を全部外に開いている。
次は、フェルルとは関係なく起こること・・
例えば花が咲いていると、たまたま公園にいたおばあさんが「綺麗に咲いているねぇ」と言うのです。
私は単に「ええ・・」と答えます。
とても清々しい時間に変わります。おばあさんは無防備です。エゴ0%、愛は100%。
これを相手に言ったら、どう感じるだろうか・・などという推測は無いのです。自分を客体化していません。
こういう状態って、一つの時間系だと思います。こういう状態って、心を外に開いている状態です。
私はこういう状態が、何よりも素晴らしい愛の状態だと思います。相手に何かを与えようなんて気は、無いんですよ。
この状態になるのに、何らかの修行が必要でしょうか?
キリストやブッダには、こういう状態は多発したのでしょうか?
フェルルに近寄って来る人は、フェルルに対して愛を作り出したわけではありません。
おばあさんは、私を愛していたわけではありません。
しかしこの二人は、愛の中にあったと思います。愛とは、状態だと思います。
愛を生きるのに、ステージやレベルが必要なのでしょうか?
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あの世の構造が変わる
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中井氏の基準を話題にしていますが、私にとっては私を磨くために(私自身を振り返り、そこから何かを得るために)やっているのではありません。
興味があるのは、例えば神のこと・・輪廻のこと・・なのです。
だから中井氏が書いた内容の詳細はどうでもよいのです。
ああいういい加減に見える内容だということが重要なのです。
そしてそれが精神病院という一部の中に当てはまるだけでなく、世界全体に関係するのではないかと思っただけなのです。
あの基準は、輪廻の最終段階だという可能性もあるということを書きました。
さて、私は人類が時間系という生き方を始めたとき、あの世の構造も入れ替わるのではないかと思います。
信念体系領域とか囚われ領域とかは、空間系に属することです。最後の審判とか自分の人生を反省するとかは、空間系です。
いえ、それよりも、輪廻という概念も消滅するような気がしてなりません。
輪廻というのは、時間の要素を全く別物として捉えているからです。
そこでは何がいいかという価値観は、消滅すると思います。
となると、その前哨戦として、中井氏の基準があるような気がするのです。
中井氏の基準は、一言で言えば「柔軟性」あるいは「汎用性」ではないでしょうか。
「こうあるべきだ」というものを取り去ったもののように思えます。
「私は誰でもない」を別な形で言っているような気がします。
導師のマスター達は時間系に生きている・・だから空間系の輪廻の図である「いのちの世界」の外側にいるとも言えます。
その外側の世界が何なのか、私には今のところ分かりません。
空間系の価値観は無いとは言え、何かがあるはずだと思うのです。
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人世のパノラマ
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人は死ぬと人世のパノラマを見ると言われています。
臨死体験者は、この現象に遭遇するようですが、体脱者は遭遇しません。体脱者は輪廻に入るわけではないからでしょう。私も人世のパノラマを見たことはありません。
さて、人世のパノラマを見る意味は、ものの本によれば「反省する」という点にあるようです。
しかし私達は時間系を生きるとき、反省の余地はありません。唯一無二の人世を生き切っているからです。
とすれば、臨死体験者の経験する人世のパノラマとはいったい何でしょうか?
これは「人生は成長するためにある」という幻想が作りだした二重の幻想なのではないかと思います。
空間系の反省をした者は、空間系の輪廻転生体系に突入する・・その図が、私の書いた「いのちの世界」なのでしょう。
もしも時間系に生きてきた者に人世のパノラマを見せたら、非常に白けると思います。
「俺の人世はあれ以上でもないし、あれ以下でもない。なぜこんな無意味なものを見せるんだ。そんな過去はどうでもいいではないか。時間は未来から流れている。こんな映像よりも、死そのものを体験するという素晴らしい今に突入させてくれ。」
こんな風に言いたくなるはずです。
死とはひとつの「区切り」に当たるというのが今までの考え方でした。
しかし・・不老不死とは、この区切りがなくなることではないでしょうか?
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両親を選んで生まれてくるのか?
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私達は両親を選んで生まれてきたと言われています(真偽は不明です)。
深い関係を持つ人は、ソウルメイトだと言われています。課題を持って生まれたと言われます。
精神世界の人は苦労している人によく言います。
「それはあなたが選んで生まれてきたのです(ですからその課題に取り組んで下さい)。」
しかし時間系に生きるとき、そこには選択という概念がありません。選択がないから、責任もありません。
強いて言えば、自分とお陰様が同時に選択し、同時に責任を取ってしまって(完了形)いるのです。それは未来に持ち越されません。
親は子供から選択されたことで大きな喜びを感じるみたいです。
実際に空間系のあの世にいた霊は、親を選択したと思います。
しかし少しでも時間系に入ることが出来た霊は、選択という行為をしたのでしょうか?
以前ある人が「生きるのに、なぜ肉体という不自由なものに入る必要があるのでしょうか?魂だけのほうが自由でいいではないでしょうか」という質問を(このコーナーで)していました。
この質問に対しても、精神世界の人は一様に答えます。「それはわざわざ不自由な体を選んだのだ」・・・と。
私はこの質問には答えられません。
ローリー・モンローさんはFOWの講演で「私達は肉体以上の存在である」と言っていました。
そしてホテル横浜の講演では「私達に分かっているのは、それだけです」と言っていました。
実際にモンロー研で体脱を経験してみると、「分かっているのはそれだけです」 というのは、とても解るのです(笑)。それ以降の世界は、主観的に探査をするしかないのです。
さて、選ぶという行為は、不自由だから起こるような気がします。あれもこれも持てないから選ぶ・・
しかし、あれもこれも・・の世界に入ると・・そこには選ぶという行為があるのでしょうか?
例えば死と生を両方選ぶことが出来れば・・あの世とこの世を行き来できるとすれば・・
私達はこの肉体を自由に着たり、捨てたりすることが出来るようになります。
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どこに行くのですか?
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「あなたは誰ですか?」「あなたはどこにいますか?」「あなたはいついますか?」
これはCGビデオに出てくる有名な(笑)三つのドアの質問です。
それで、「あなたはどこに行くのですか?」という質問もありそうな気がしました。
これは私達が生きている間に遭遇する質問なのです。
「体験を積んで人間として完成する方向に行く」と答えたとすると、そういう事が肯定された世界、すなわち観音様とか菩薩様がいる世界に行きそうです。
つまり、そこにはステップアップの段階があるという世界です。
輪廻で一歩一歩登っていく世界です。そこには頂上があります。過去の宗教家がその道を示してくれています。
もう一つの答えは、「私はどこにも行かない」という答です。
この答の世界はいったい存在するのでしょうか?
あるとすれば、いきなり神の世界と合一するような気がしてなりません。
それは上の世界ではありません。まさに、ここです。
これも大いなる仮説です。
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マニュアル本
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世の中にはマニュアル本というのがあります。数々の精神世界の本のほとんどはマニュアル本かも知れません。
さて、もしも中井氏の基準が輪廻最終ランナーの基準、あるいは私たちが行き着く先だったらどうでしょうか?
ほとんどの人は「そんなバカな・・」と言うと思います。
だってあれを講演会で言ったりすると、その後の懇親会では「まるで私のことを言われているみたいだ」「あれなら満点が取れる」と言う人が多いのです。
中井氏の基準を本にして「これが精神世界の最後の基準だ」と言って売れるでしょうか?
売れないでしょう(笑)。
あそこには崇高な事が書いていないからです。崇高どころか、私達が否定すべき事すら書いてあります。
喜びに生きなさいとは書いてありません。愛に向かって生きなさいとも書いてありません。マイナスな感情をコントロールしなさいとも書いてありません。
キリストが言っても、聖書から外されるかも知れません。ブッダも同様でしょう。あの世界に無があるのか・・と。
精神世界のマニュアル本は、その人を成長させなければなりません。気付きを与えないといけません。空間的な気付きを・・・です。
中井氏の基準に惹かれ続けたのは、パラダイムをシフトさせている点でした。
あれを病院内のことだと決め付けていたのは、私の傲慢さかも知れません。
正常になっても、その先は長いんだよ・・という。
私は神という概念に惹かれ続けていました。
聖書から来る神のイメージ。神との対話から来る神のイメージ
どれも、それなりに理解でき、しかししっくりとはきませんでした。
道教における混沌の神。う〜ん・・。
しっくりと来ましたが、その先の一歩が出ないのでした。
しかしです。
中井氏の基準から垣間見られる神は、私の内部にズシンと来たのです。
世界は広い・・まさにこの言葉がピッタリの神です。
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時間系の中にあるもの
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「花が綺麗に咲いているねぇ」と言うおばあさん。
その世界に入るために、精神世界のマニュアル本は要るのでしょうか?何かの修行をする必要があるのでしょうか?
この世であれあの世であれ、時間系の中に存在する世界に、私はとても魅力を感じます。
風の中にマスターが住んでいるというのは、本当かも知れません。
「花が綺麗に咲いているねぇ」この台詞を五歳以下の子供は言うでしょうか?
(もちろん言うかも知れませんが、見ず知らずの人に対して・・という意味です。)
彼らはエデンの中(自然の中)そのものなので、そういう表現を知らない人にしないと思います。同じように子供は、ありがとうを言いません。
動物は真っ只中です。それもある種の時間系です。
しかし、私が言いたいところの時間系との差は何なのでしょうか?
やはり、エデンから出ていった存在というのに関係があると思います。
綺麗だと言えること・・ありがとうと言えること・・何か共通項があるように気がします。
表現(力)・・かも知れません。
大人の孤独感と表現力を持ったまま、子供の頃の手放しの自分に戻る・・これかも知れません。
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好きだから・・したいから・・・
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今、オリンピックをやってますね。
柔道女子78キロ超級三位決定戦で、残りゼロ秒で一本勝ちした山下まゆみさん。
その山下さんがインタビューでこんな一節を言っていました。
「メダルの可能性は無いと言われていました。ですのでメダルよりも、好きな・・いえ、好きだと思う柔道をやりたいと・・・」
私は彼女が「好きだと思う・・」に言い換えたところにピンとくるものがあったのです。
この前日に次の書き込みをしました。
「中井氏の基準にはどうして“したいことをする能力”がないのか?」
好きだからする・・したいからする・・というのは、理由に当たります。
しかし、中井氏の分裂する能力と多重人格の能力からすれば、「好きだから」という理由を掲げて良いものでしょうか?
もちろん良いには決まっています。それで理由付けをしたい人は、それでOKです。
私も「不思議研究が好きだから・・」という理由付けをやってきましたから・・。
しかし本来のところ、その理由付けは無くても良いのではないかと思うようになったのです。中井氏の影響です。
好きなことをしなさい・・・と言われ続けてきた人は、多いのではないでしょうか?
「自分の好きなことが見つからない・・」そう言って嘆いてきた人もいると思います。
ここで言う好きなこととは、永続的に好きなことに当たると思います。だから答えるのが難しくなるのだと思います。
ある意味では、嘘つきの能力をだいぶ持っていないと「これが好きだからやるんだ」とは言えないと思いました。
みなさんは、自分の仕事を好きだからやっているのでしょうか?
そんなことはないと思います。強いて言えば、理由なく・・ではないでしょうか?
「花が綺麗にさいているねぇ」これを言うおばあさんは、そういう事を言うのが好きだったのでしょうか?
自分というものを客体視せず、感じるままの主体の流れとなれば、好きとか嫌いとか悲しいとか嬉しいとかは、分析できなくなると思うのです。
但しこれも大いなる仮説であり、もちろん私は「不思議研究が好きだからやる」と言い続けます。私には嘘をつく能力があるからです。
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目標
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シドニーオリンピックの女子マラソンで高橋尚子選手が優勝しました。
テレビスタジオのインタビューで次のように言っていたのが印象に残りました。
「35キロ地点あたりは、ルーマニアのシモン選手と競り合っていましたが、あのままずっと一生その状態でいたかったです。今、金メダルをもらいましたが、ああもう終わってしまったんだなぁ・・と感じます。」
これは目標設定から起こることだと思います。
高橋選手が退席した後アナウンサーは、「これから高橋選手は、世界記録という目標に向かうと思います」と言っていました。
目標があったから高橋選手は頑張れたのでしょうか?
同様のことは、科学でも言えそうです。科学にも目標が設定される場合が多いからです。
同様なことは、精神世界でも言えそうです。自分を磨くための目標を設定するからです。
みなさんには、目標がありますか?
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なぜ空間系と時間系が両方とも必要か?
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私が講演会の演台に立っている時、私はすべての時間でリリースしているわけではありません。
リリースとはぶっちゃけた言い方をすれば、ノッている状態です。それが訪れるまで、私はスライドにノラされています。
心の中では「う〜ん、これでいいのかなぁ・・」なんて考えています。
こういう状態は、外から見ると存在感がありません。私が100%の私ではないのです。
導師が来日したとき、講演会の感想である人が入れていました。
「導師は講演会のとき、ずっとスキがなかった」・・と。確かにそうだと思いました。
内容はともかく、彼女は彼女の仙道を100%喋っていました。
「つまならい講義はこのくらいにして・・」あの一言は、私達に向けられていたと思っています。
で、私の講演はそういうわけにはいきません。ある瞬間は、スキだらけです。
呑まれているのです、周囲に・・・。そういう状態が空間的なのです。
ノッてくると時間系に入ります。もう「俺はこれでいいか?」なんて考えません。ブチ切れています。
なぜ常に、その状態に入れないのでしょうか?それは「怖い」のです。恐怖心です。
何がって・・一言でいうと、孤独が怖いのです。皆と一体になれない孤独が怖いのです。
それで自己防衛をしようとするのです。そして思います。「俺はこれでいいのか?」
ノウハウ本が空間的だと言うのは、このためです。
100%自分に自信があれば、ノウハウ本などには頼りません。
神との対話??ふざけんじゃねェ・・俺には俺のやり方がある!!!
そう断言できるはずです。自分の生きた経験だけで対応できるはずです。
しかし・・それほど人は、強くないのです。孤独に対して・・です。
孤独が怖いから、神との対話なんて買うのです。そこに書いてある答が欲しくて・・・。
問いは、孤独です。空間系がなければ、私たちは、生きていけません。
でも、少しずつハンドルを離せるようになってきつつあります。何もマニュアルの無い世界に・・・
ふと思ったのですが・・、空間系の時は・・つまり「これでいいのかなぁぁ」なんて思っている時は、外側に対して大きな力は出ないですよね。
つまり引いていて、腹を括っているように見えない状態だから・・。
しかし時間系の時・・つまり自分を前面肯定している時は、外側に対して大きな力が出ます。
だとすると、それが続いた状態って、すごいですよね。しかも本人はリラックスした状態だから、あまり疲れない。
これってやはり、魅力があります。生き方としても・・・
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概念が変える、成長させる
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私は少しずつ変わってきています。少しずつ、時間系に乗れてきているように思います。
それは、私がそういう目標を持っていたからではありません。何らかの目標を持てば、どんどん遠ざかっていたと思います。
私は自分の生き方をアップさせようとは思いません。だって、そんなことをして何になると思うからです。
何になるのですか、みなさん?凄いと言われたいですか?人の上に立ちたいですか?教育したいですか?・・そんなの、まっぴらです。
私は全体論に興味があるのです。「私達はどこから来て、どこに行くのか?」という設問は、全体論なのです。
そして「私」が何者か解ることがその一歩だと思っています。
でも、私はここにいるじゃないですか・・何で、私が私を分からないのでしょうか?
それは、よそから与えられた情報ばかりで考えたのが原因の一つだと思います。一方方向から考えたのが原因だと思います。
私は世界を考えました。そして幾つかの仮説に辿り着きました。
それは間違っているかも知れません。しかし、そういう見方でも説明できるということにビックリしました。
その世界観が間接的に私を変えるのです。世界観は私に「手を離してもいいんだよ」・・と言います。
ここでやっている議論は、間接的に私達を成長させていると思います。
輪廻について、初めてまともに議論したような気がします。
でも、パノラマショーとか、過去の反省とか、本当にあるかないか、真面目に考えたことは、ありませんでした。
みなさんから色々な意見が聞けたことは、とても嬉しかったです。
私達はいつ死ぬか分かりません。そして死んだ瞬間に遭遇するのです。この問題に・・・
でも、一度この議論をしただけでも、行き先がより自由な方向になるような気がしてなりません。概念が生き方を変えるのに似ています。
みなさんの書き込みを何度も読みました。
本当は死んでからでしか分かりませんが、問い続ける限り、私達には自由があるような気がします。
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しかし、成長・・・
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なぜ空間系(意識型成長系)と時間系(無意識型成長系)が存在するのでしょうか?
私は空間系を、保険だと思っているのです。孤独感に対する保険です。
今を生きるとか言っても、人は保険が欲しいのです。
この保険は商品としての保険ではなく、生き方としての保険です。
商品としての保険は、今を生きるのに役立っているとさえ思います。
微細な信号が届いても、私たちは往々にして外部の強力な信号に従います。
「今、それをしてはまずい・・非常識だと言われるから・・」といった具合にです。
この強力な信号が、私が言うところの保険です。
人は保険を求めて精神世界の本を買います。
保険のかかった生き方と保険のかからない生き方の中間点にいるのが、私であり、あなたです。
保険は、あの世にまで影響を及ぼしています。
しかしですよ、パーフェクトな神は、保険を必要なものとして作ったのです。いやはや、本当にパーフェクトです、神は・・・
私達は中間点にしか、生きられないのです。それは中間点の微妙さが生きることそのものに関係しているからです。
仏教での無も道教の無為も、この中間点の状態を非常によく表していると思います。
ではこの中間点を少し時間系に近付けるには、どうすればよいでしょうか?
まず、精神世界の本や常識が言っているところのもの・・いわゆる一般的成長論から脱却することだと思います。
いえ、脱却するというその方向性にあればよいとと思います。
教育によって深く刻まれた「成長せよ」の刻印は、なかなか抜けないと思うのです。
そして同時に心の振動に従うわけですが、ここで孤独感と真っ正面から向き合うことになると思います。
心にはとても微細な線が張られていると思います。
通常、それは外部の振動で揺れていますが、自分の振動もよく聞けば聞けるはずです。
さて、私達はエデンを一生かけて出ています。
エデンを出た(完了形で)という人が多いですが、私はそういう完了形の状態は、宇宙の未来を考えても永遠に来ないと思います。
人は(神は)、永遠にエデンを出続けるのです。その旅が時空の歴史だと思います。
神は、決してループしてはいないと思います。前進しているのです。
そしてエデンを出るには、保険が必要なのです。
保険(後退)と出る行為(前進)を行き来しつつ、エデンを出続けるのです。
行き来しつつという部分が、一見、ループに見えるのです。
しかしですよ、出る行為と後退する行為は、混じっているわけではないのです。どちらかがONのときは、片一方はOFFなのです。
(あーー、これは全て私の経験から来る仮説ですからね・・)
エデンから出る方向は、私は、それこそが成長だと思うのです。
私は成長などくそ食らえと言っていますが、ここで言う成長とは、精神世界で言うところの愛に向かって生きよ・・となどという成長のことです。
これはエデンへの後退なのです。なんと、成長が後退なのです。だから私はそれを保険と呼ぶのです。
本当の成長は、そういうエセの成長を捨てた時、すなわち保険を捨てたときにやって来るのです。
でも、それは瞬間、瞬間にしか起こりません。保険を手放し、生きることに乗れた時、それは起こると思います。
でもね、神すら保険をかけたと思うと、私は楽しくてしようがないのです。
エデンを出るとたった一人です。すると怖くて戻りたくなります。その時、マニュアル本を買います。
エデンを出つつする還童功・・これがエデンを、もっと出る行為だと気付きます。
ここでループが起こるのですが、「私」は「成長」します。
でもこの成長は、誰にも成長だとは思われません。気付かれるようでは、空間系なのです。
人に教えることも、とても難しいはずです。だって「これだ」と言った瞬間に逃げていますから・・・
時間の中にしか存在しない成長なのです。
コーヒーを美味しく飲み、花が美しいと言い、ときには君は美しいと嘘をつき(笑)、時間系に突入し、私はさらにエデンを出る。
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壊すのは簡単、作り上げるのは時間がかかる
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「しかし、成長・・・」というタイトルで書き込んだ内容ですが、私にとってはおそらく最大の問題点です。私のCD『失われたマリア』はこの問題を論じています。
私は今までもここに何度かこの問題を出してきましたが、ほとんど議論として成立したことはありません。
拒否されるか、誤解されるか・・なのです。
モンロー研でも出したことがありました。その時も拒否されました。
しかし、それがきっかけでフォーカス35に行けたことは、『不思議の科学』に書きました。
今回は久々の挑戦でした。私はこの問題をしばらくここでは論じません。
でも、私の中で私の中で時間をかけて沸々と煮えてることだけは確かなのです。
エデンに関するみなさんの書き込みを見ていると、既にエデンを出てしまったように感じている人が多いみたいですが、私は違います。
しかしこの問題が嫌われるのは、そういう自分を見つめるのが好きではないからだと思うのです。辛いです、孤独とか・・・。
でも、私は自分の中でこの問題を壊しません。
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神も保険をかけていたというこの話題
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いつか、本格的に議論したいです。
この問題は、なぜ我々は愛だけに生きられないのかという問題を含んでいますので、おそらく最も重要かも知れません。
この問題は議論をするとき、とても大変です。
その理由の一つは、人によってエデンからの距離が違うからです。
国民によっても違うと思います。なぜなら、自然環境が違うからです。
「日本人の・・」という、集団を一束にする状況が生じます。
もう一つの理由は、問題が多岐にわたります。末端の問題だけに議論が集中するとまずいです。常に全体を見ながら議論していく必要があります。
もう一つの理由は、ハウツーとしての得るところがないと思われる点です。
今までの探求は、なにがしか、得るところがありました。しかし保険議論は、それが無い可能性の方が高いのです。
たぶん、分布定数回路の方がマシだったということになると思います。
「しかし、成長・・・」の書き込みでその口火を切ったので、いずれは展開したいのです。
私は精神世界の本で、この問題を取り合っているのを見たことがありません。
しかし、道教にはありました。道教は神の保険という問題を、しつこく追求しているのです。
精神世界の本は、一方を否定してもう一方を肯定します。エゴはいけなくて、愛はOKという具合です。
でも、よく考えてみて下さい。エゴも神が作ったのではないでしょうか?
それは保険だというのが私の考えです。
つまりです・・エゴが無ければ、私たちは生きてはいけないということです。
だから、エゴを無くせと言うほどエゴな発言はないのです。
道教は、キリスト教でずっと否定されてきたことを肯定しようとしました。今度は、それを統合したいのです。
この問題は、私の家族以外の誰とも共有したことはないのです。私の妻とは、共有しているのです。
私が作ったラジオドラマ『失われたマリア』に出演したのがきっかけでした。
多くの時間をかけないと、議論できないのです。
私も学生時代とは随分と変わりました。
今ここで議論することは、ひょっとすると、大きな突破口になるような気がするのです。
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書き込み期間:2000/09/18〜2000/10/01 |
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