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テーマ:「孫さん来日」 |
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書き込み期間:2000/04/14〜2000/04/27 |
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要旨:
中国中級ツアーの時、孫さんがポラロイドフィルムに松の念写をして見せました。その後私は、孫さんが念写した写真と同じ風景を目にすることになります。その風景を孫さんは記憶していたのです。
人は、生まれてからこれまでの全ての風景を潜在意識に記憶していて、顕在意識側はそれをわざと忘れているだけだと言われています。人間にとっては、忘れる能力の方が重要なのかも知れません。
私は、「人は忘れる方向に進化している」という仮説を立てました。人類は大脳の発達に伴って忘れるようになってきたといいます。それは環境に適応し、生存率を上げるためだそうです。
社会では記憶力が試されますが、本当は忘れやすい人の方が進化しているという考え方も出来そうです。私はHPでリアルタイムに報告を書き込みますが、それは忘れてクリアーするためとも言えます。忘れて手放した方が、次を掴みやすいような気がします。
潜在意識は書き換え可能かという問題について考えました。
私は、潜在意識に体験させることで怪我を治す治療法があるという話から、インプットもアウトプットもあり得るのではないかと思いました。
孫さんに意見を聞くと、一度インプットされたものは、あとはアウトプットだけなのではないかと言いました(断定ではありませんが)。
孫さん自身は、見た風景を精密に覚えているわけではありません。念写する時には、風景を見た時の気持ち良さを思い浮かべながらやるのだそうです。それでも実際の写真には詳細まで写っています。
顕在意識で全て覚えていなくても、潜在意識には全て記録されているようなのです。
私は「潜在意識には全てが記憶されている」という仮説に、一つの疑問があります。何故なら、コマ割り(時間切り)の間隔をどんどん狭めていくと、記録媒体が無限に増えていくことになるからです。
そこで、潜在意識はビデオカメラの様に、一秒間に何コマという感じで間引きをしているか、もしくは圧縮処理をしている可能性があると考えました。
だとすれば、孫さんに時間指定の風景を念写してもらうというのは、出来ないかも知れません。またあるいは、風景を見て印象に残った時、その感情に影響されて潜在意識の記録が起こっている可能性も考えられます。
これらの問題には、簡単に結論を出せそうにありません。焦らず少しずつ調査を進めていきたいです。
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○ 松の念写
○ テレパシーの記憶
○ 人は忘れる方向に進化している
○ システム思考
○ 潜在意識は書き換え可能か?
○ 神
○ 他の惑星からの書き換えと、100匹目の猿
○ 『共時性の宇宙観(湯浅泰雄著)人文書院』より
○ 『身体の宇宙性(湯浅泰雄著)岩波書店』を読んで
○ 感情の記憶
○ 孫さん到着
○ 新しい瞑想テク
○ 福来心理学研究所
○ 潜在意識はアウトプットのみか?
○ 新聞の念写と速読と感動
○ エビの蘇生の瞬間の撮影
○ 潜在意識は部分記録しかしていないのではないか?
○ グラデーション
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松の念写
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下の写真の左は、中国中級ツアーの時、孫さんがポラロイドのフィルムに念写したものです。参加した人は全員その時の状態を見ています。
突然孫さんはみんなに瞑想をするように言いました。しかし目は開けておくように言いました。
そして孫さんは「はい、出来ました」と一声(笑)。
「松が天目に見えました。それを念写しました。しかし天目の映像がそれほど鮮明ではありません。我慢して下さい」と言ってポラロイドを開いたのがこの写真です。
私は全員が帰国してから彼女に訊きました。「これは実際に三次元に存在する世界ですか?」
「そうです。日本の風景です。でも地名を知らないのでここだと言うことが出来ません。」
そして時は経ちました・・・。
一昨日のことです。私は導師と泊まった熱海の旅館で朝風呂に入っていました。
「いい湯だなぁ・・、海も見えるし、松も見えるし・・あれれ、あの松は???」
私はノーパンの上に浴衣だけを羽織り、カメラを取りに走りました。そしてもう一度湯舟に浸かりながら撮った写真が右側です。
どかーーーーーん。
写真を焼いてみると、やはりそうでした。この風景を孫さんは記憶していたのです。
人は、生まれてからこれまでの全ての風景を潜在意識に記憶しているといいます。顕在意識側はわざと忘れているのだそうです。忘れないと、やっていられないのだそうです(脳はすごいメモリ量だ)。
スキャナで読み込んだ画像だとそれほど鮮明には分かりませんが、私が持っている生写真は鮮明です。念写にはちゃんと小道まで入っています。
これを不思議研の女性達に見せたら、鳥肌が出た人もいました。
念写の生写真は、中級参加者には全員に送ります。
それにしても、すごい・・。潜在意識の中では、全てが記憶されているのですね。
精神世界では「思い出しなさい」というフレーズをよく使いますが、忘れる能力の方が重要みたいです。
少し画像処理をして、小道まで見えるようにしました。
<補足>
孫さんもこの旅館に半年前に泊まり、ここのお風呂が大変に気に入ったのです。
ですので、上の画像は孫さんが過去に見た映像なのです。たぶん・・
たぶん・・と書くのは、リアルタイムにアクセスした可能性もあるからです。
もちろん、未来を予知した可能性も捨て切れません。
さらに、トリックだってやれば出来るわけです(そう考える人はそれを楽しめばいい)。
白い点は、孫さんがエネルギー放射をしてしまった箇所だと思います。
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テレパシーの記憶
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特別取材記に宇宙人シャクティとの遭遇記が載っています。遭遇した本人はサカさんといいます。
シャクティとの遭遇記には否定、肯定・・沢山の意見がEメールで寄せられますが、ここはひとまず本当の遭遇であったと仮定して話を進めましょう。
さて、私がとても興味を持った事があります。
それは、シャクティはサカさんと三次元の遭遇を始める一年ほど前から、テレパシーによる通信を始めます。
サカさんは、テレパシーを受けた時には全文をノートに記載します。しかし手元にノートが無いときもあります。
すると何と、ノートに書き出すまでは完璧に覚えているというのです。それが何日でも、一字一句覚えていると言うのです。
しかしそれをノートに書き出してしまうと、忘れるようになると言うのです。
サカさんは言いました。「テレパシーで受けた情報は、忘れないような領域に書き込まれ、ノートに書いてしまうと忘れる領域に移動するみたいだ」・・・と。
テレパシーは三次元の顕在領域の通信ではなく、潜在意識側の通信なのだと思います。
テレパシーを受けることにより、潜在領域のある領域が刺激され、何らかの理由で顕在側に表出するのではないでしょうか?
これはまったくの仮説ですが・・。
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人は忘れる方向に進化している
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これは20年ほど前、ある大学教授の論文で読んだものです。
人は忘れる方向に進化している・・。
原始人は何でも覚えていたのだそうです。それが大脳が発達するに従って忘れるようになってきたというのです。何故かと言えば、環境に適応するためだそうです。
昔のやり方に従い、昔のモノサシで判断する種族よりも、何でも忘れていく種族・・すなわち「今を生きる」種族の方が生存の確率を上げてきたのだそうです。
人は、エデンからの距離が広がるにつれ、忘れるようになった・・。
還童功によって子供に戻り、不老不死を獲得する。
人間が死ぬのは、全てを忘れることが出来ないからかも知れません。死んで記憶をクリアーされ、また新しい生で生きないと、新しい環境に適応できないのです。
ですので、過去世を知ることはこれに逆行します。
入学試験とかでは、記憶力が試されます。
しかし「人は忘れる方向に進化している」とすれば、学校は進化していない人を入学させていることになります。
その進化していない人が社会の中枢に上り、世の中を動かします。
忘れっぽい人は落ちこぼれます。しかし、その人達が本当は進化しているのかも知れません。
でも、進化している人は何も社会の中枢に行こうなんて気はありません。
ですから、このままでいいのです。
2000年2月に、船井さんが主宰している直感力研究会というところの講師をやりました。その時、最後に船井さんがまとめを喋りました。以下はその抜粋です。
「最近、森田さんのやっているホームページが面白いと聞きます。私のところにもハードコピーを持ってくる人がいます。森田さんは中国の山奥までパソコンを持っていき、その場でその日の出来事を書き込んでしまいます。しかし、私が思うに、彼は書き込んだ後、それを忘れてしまうのではないかと思います。クリアーするために書いているのかも知れません。」
私がリアルタイムで報告することを評価する人はいますが、「忘れるために」と言われたのは初めてです。
しかしこれは当たっているのです。手放した方が、次を掴みやすいのです。
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システム思考
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「モヤモヤしたつかみどころのないものをつかまえるということは、精神の非常な集中と執念を必要とする・・・。」
これは、朝永氏が湯川秀樹について書いた一節です。
私は「混沌」という単語に「システム的」というイメージが重なるのです。
以前、短期ですがフランスに留学したとき、私の書いた論文は「日本はシステム的経営」という題名でした。
私は、システムという単語に「キッチリとした」、「決まった」というイメージを持ちません。事象と事象が結びついたというイメージを持ちます。
ですのでシステムの反対はハイアラキー(上から下への命令系)です。
欧米はアイアラキー経営で、日本はシステム的なのです・・というのが論文のテーマでした。
湯川秀樹も科学の結論に迫ります。
日本の経営も、ある結論に迫ります。結論を出さなきゃ行動しようがないからです。
しかし、それをシステム的だと私が呼ぶのは・・まず「混沌」とは結論を出さないことではないと思うのです。
情報を「置いておく」ことだと思うのです。情報を切り捨てないのです。
日本の会社がシステム的(混沌的)なのは、他の部署の情報も自分の部署の情報と同様に扱う性質を持っているということです。
導師が日本最後の日、私に言いました。
「森田さんはなぜそんなに手広くやっているの。仙道だけをやればいいではないですか?」
私は言いました。「手広くやっても目指す先は同じです」と。
似たようなことは、孫さんからも言われます。弟子達(のような人)からは、もっと強烈に言われます。しかし・・
その翌日、朝風呂で気付きます。孫さんの念写したのはここであったと・・。
今回導師が来日しなかったら、この旅館には二度と泊まらなかったかも知れません。
まったく偶然の為せる技ですが、孫さんと導師という二人が私にヒントをくれました。
潜在意識から顕在意識に情報は行くのだと・・
主導権(インプットする側)は顕在意識にはないのかも知れないと・・
念写は潜在意識側の情報を出すことだと仮定します。その上で、次の実験が考えられます。
孫さんに、「この松の写真を、変えてくれないか」と。
つまり、それが可能なら潜在意識側の書き換えが可能かも知れないということになります。
ただし、これらの実験をするときにも重要なのは、混沌を混沌のまま・・すなわちシステム思考を忘れないことです。
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潜在意識は書き換え可能か?
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このHPの特別取材記に、「潜在意識の書き換えによる治療」というのがあります。以下はその中の一節です。
「本来の自我(内なる自分)は実体験もリアルなイメージも区別しません。
例えで話します。ドアで指を潰してしまうと、猛烈な痛みがあります。
その時もう一度、指をドアに挟まれる体験をさせるのです。もちろん潰れる寸前で止めるのです。それを20回〜30回くり返すのです。
内なる自分が指をドアに挟まれても潰れもせず、痛みもしないことを学習すると瞬時に傷ついた指を治します。これは試してほしい。」
孫さんの念写等から、潜在意識は書き換え出来ないのではないかという仮説が生まれていますが、それは上の一節に反します。
いえ、反しないのかも知れません。
上の実験は、書き換えているのではなく、新たな事象を潜在意識に経験させているのではないでしょうか?
「潜在意識に経験させる」という単語を使った通り、「させる」主人公は顕在意識です。
これが本当ならば、潜在意識側に手を付けることは可能なのです。
私がインプットもアウトプットもあり得ると書いたのは、このレポートが元になっています。
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神
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以前体験した時空の旅は、潜在意識への旅だったのではないかと思います。
そこで初めて「お陰様」という概念的神に出会いました。
さて、
1.神という存在に我々は出会うことができるのでしょうか?
2.神はビックバンの引き金を引いたのでしょうか?
だとすれば、ビックバン以前、神は何をしていたのでしょうか?
上の二つの設問は、神をこの時空とは別個の存在として考えています。
時空の管理者が神なのでしょうか?
孫さんの念写をきっかけに潜在意識がクローズアップされていますが、神は潜在意識そのものではないかという気がします。
では、顕在意識は神ではないのでしょうか?
はい、狭義の意味では、顕在意識は神ではないのです・・・たぶん。
狭義の意味だと書いたのは、自分自身の常識を崩すためです。
私達はずっと顕在意識が神だと思ってきました。神は父なる存在だからです。
キリスト教の神は父的存在です。ですから欧米は潜在意識を認めたがらないのです。
規律を正し、私達に教えを垂れるのが父なる神です。それは顕在の世界です。ハンドルを切る世界です。
しかし潜在意識が神だとすれば、それは母的存在に変わりそうです。
この視点からすれば、ハンドルを手放すことは、神と一致することなのです。
どちらの神を考えるかで、生き方は逆転します(どちらもアリという考え方はここでは保留します)。
さて、神を潜在側だとすれば、いくつかの疑問も生じます。
1.意志はあるのか?(意志は顕在側なので当然意志は無いでしょうと・・)
2.神はワダチそのものか?(上の設問の続きになります)
3.目的はあるのか?(とても難しい問題です。以前の私なら「自由に向かう」と答えたいところですが・・)
4.罰するのか(顕在側への介入があれば、「罰する」という表現も正しいのかも知れません)
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他の惑星からの書き換えと、100匹目の猿
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徳間書店から『宇宙人ユミットからの手紙』という本が出ています。
文明の進んだユミット星の連中は、出来の悪い地球人(ほっといてくれ)を何とかアセンション(笑)させようとします。
最初、UFOの大群を率いて教育軍団を来地させる予定でしたが、彼らはふと気付きます。
「あのバカどものためにUFOの大群を動かすのはもったいない。そうだ、地球の集合無意識を書き換えてしまえばいい。集合無意識を書き換えれば、自動的に彼らはレベルアップするだろう。これこそオンライン教育だ。」
ところが、集合無意識書き換え装置(そんなのがあるのか?)をいくら使っても、地球人はあいかわらずグータラしています(笑)。
「ががーん、集合無意識は惑星間では独立していたんだ・・。こちらからの書き換えはできないんだ」と、やっと彼らは気付きます。
こういうことが本には書かれています。
ユミット星人の信憑性はともかくとして、私は潜在意識の書き換えによるレベルアップということに斬新さを覚えました。この仮説によれば、同じ惑星間なら可能なのです。
しかし本当にそうでしょうか?そうだとすれば、恐ろしいことです。
これが本当ならば、誰にコントロールされるか分かったものではありません。
孫さんは中級ツアーで、別の惑星を念写したいという意向を明らかにしました。
集合無意識で連結されていないとすれば、これは不可能なのではないでしょうか?
100匹目の猿現象は、集合無意識の為せる業なのでしょうか?
だとすれば101匹目の猿は、集合無意識によって変えられたことになります。
シェルドレイクの仮説実験でも同じです。
BBC放送が行った実験放送で、放送前と以後で、放送を見ていない地域の人たちが影響を受けました(これは本当なのでしょうか?)
いずれにしても潜在意識は、未知の領域です。簡単には結論が出せそうにありません。
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『共時性の宇宙観(湯浅泰雄著)人文書院』より
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この本を読んで、面白い点を書きます。以下は抜粋です。
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アプローチの方法
私(筆者)は東洋と西洋の哲学を比較する場合は、修行体験の問題に注意する必要があると考えている。というのは、修行論は西洋哲学の伝統には基本的に欠けているのに対して、東洋ではそれが哲学的思考のよって立つ主な体験的基礎とされてきたからである。
西洋の哲学的思考の伝統では、自己の外なる自然を対象にしたテオリア(観察、理論)の態度がその基礎に置かれているのに対して、アジアの哲学的思考は、修行を通じて自己自身の内面的世界とその変容に向かう傾向がつよい。
混沌(カオス)と秩序(コスモス)
形もなくぼんやりとしたもの、それはまさに混沌である。この道(タオ)と名付けられた根源としての混沌から発して流動するはたらきが、宇宙の万物を生成変化させていると、老子は言う。では、混沌(カオス)に対比されるべき秩序(コスモス)はどこにあるのか。それは地上の万物にそなわっている。
−中略−
西洋では天上にイディア(つまり完全の形の秩序)があり、地上の事物は混沌(カオス)を蔵している。言い換えれば、地上の万物の秩序は不完全であるとともに混沌に帰ろうとする本姓を持っている。
要するに、東アジアでは混沌が天上にあり秩序は地上にあるのに対して、西洋では逆に天上ら秩序があり、混沌は地上の万物に内在している。
−中略−
タオは完全な超越的存在ではなく、そこから発するはたらきが万物に宿ってそれらを生成変化させているからである。タオが「形をこえたもの」ではなく「形に先立つもの」であるということは、それが形あるものを生成変化させる「はたらき」としてとらえていることをしめしている。
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以下は私の意見です。
導師の時の講演で言いましたが、キリスト教では神は「創造主」と呼ばれ、これに対して世界は「被創造物」と呼ばれます。これは神の世界が上で、神は世界を超越し、その外に存在しているのです。
本の中に書かれている「秩序は地上にあり、混沌は天上にある」というのは、やはり斬新です。地上で我々が秩序をめざせば、天上の混沌とはますます差が出るばかりです。
そう言えば、熱力学第二法則によれば、すべてのものはエントロピーの増大により、混沌に向かっていきます。
神はどちらを望んでいるのでしょうか?
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『身体の宇宙性(湯浅泰雄著)岩波書店』を読んで
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この本の中にユングが言った言葉が書いてあります。それを抜粋します。
「精神訓練によって合理的知性の力を徹底的に破壊すると、意識には、できるかぎり完全な無前提状態という性格が育ってくる。そこでは、意識的な前提はできるかぎり排除されているけれども、無意識下の諸前提、つまり潜在していても意識されていない心理性向は残っている。それはまだ、純然たる空虚でも無前提(白紙状態)でもない。この心理的な性向は、自然が各人に与えた潜在的要因であって、もしそれが応答するときは−これが明らかに悟りの体験である−その答は、意識の表面まで反応を伝えることのできた自然(本性)の応答なのである。」
(森田のコメント)
ユングは、潜在意識を意識の表面まで持ってくることが出来ると言っています。
たぶん孫さんもこれをやって念写したと考えられますが、上の表現を言い換えると「状態に入る」という、一種トランス状態が必要とされるようです。
ここで話題になっているような、「潜在意識を書き換える」などという行為を意識した途端に、「状態」から抜け出してしまいそうです。
つまり、孫さんにそれを頼んでも、かなり難しいと思われます。
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感情の記憶
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今日、パーマ屋さんで思ったことがあります。
懐かしい曲を聴くと、突然その歌が流れていた時代に戻ります。
デジタル的な情景が浮かぶわけではありません。失恋をしたほろ苦い想いだけ・・とかが蘇るのです。
そう考えると、「感情」も記憶されるのではないかと思ったりもします。
しかし脳の働きの中にそんなことまであるのでしょうか?
感情は、まさに現在を生きているのではなかったのでしょうか?
いえ、やはり感情は二次的に誘起されたのでしょう。感情は現在の産物だと思います。
ワクワク感は、二度と戻らない・・。
今『身体の宇宙性(湯浅泰雄著)岩波書店』を読んでいる最中です。以下は抜粋です。
「知的判断は意識の作用であるのに対し、感情や情動は無意識の領域につながっている。」
陽明という人は、次のように言っています。
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日常的意識の下に隠れた無意識の最も深い根拠には、本来の自己の領域が潜在しているが、それは現世の道徳法則からみれば、善も悪とも名付けることができない性質をもっている。
無意識の情念の力が、日常的経験の場で、行動への意欲として現れてくる場合には、道徳法則との関係において、それは善への意志、あるいは悪への意志の動きという形をとる。
けれども、そこに本来の自己とつながった直感的認識能力としての「良知」がはたらくならば、経験に先立って、倫理的規範に合した善悪の先験的で直感的な認識が、われわれを行動へと導く。
そのような先験的直感に従って行為するならば、自覚的に意識しなくてもおのずと善を行い、悪を去る結果になるのである。
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さらに、「少しでも意(意識)にとらわれれば、それはいわゆる私心になってしまう。」とも言っています。
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孫さん到着
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空港にはこの服で現れました。元気溌剌でした。
空港でリムジンバスを待つ間に言った一言・・「日本はなんて空が綺麗なのでしょう!!!」
この台詞は以前も言ったことがありました。北京の空は黄砂などの関係でいつも灰色なのです。
東京ですらこんなに誉められるのですから、他の地域ならもっとでしょう。
リムジンバスで走る高速道路の脇には遅咲きの桜、八重桜等が咲き、ここでも感嘆の声を上げます。「日本はなんて植物が多いのでしょう。」
さて、ホテルに着き、激辛カレー屋さんに行き、そこで念写の写真を見せました。私が撮った現物の写真と一緒にです。
「わおーー」と驚いたのは孫さんでした。
孫さんは言いました。「三次元の世界にこの風景があることは知っていましたが、まさか現物の写真で見られるとは思いませんでした。」
そして導師が同じ旅館に泊まったことも喋りました。
沈教授が言いました。「森田さん、このアングルは孫が念写したアングルとまったく同じです。あなたは超能力者ではないですか(笑)。ところでこの二つの写真は、念写と潜在意識の関係を調べるための重要な資料になりそうです」と。
さて、私は次のように聞きました。
私「この念写は孫さん、あなたの潜在意識に記憶されたものを念写したのでしょう?」
孫「はい、そうです。」
私「この念写の写真に手を加えたものをもう一度念写することは可能ですか?例えば松の木をもう一つ増やすとか・・」
しばらく考えて・・
孫「可能だと思います。しかし追加するのは風景ではないと思います。例えば森田さんを入れるのは可能かも知れません。」
私「それはひょっとすると、風景の画像と私の画像をミックスする感じですか?」
孫「はい、そうです。一度潜在意識に入れた風景は修正できるものでしょうか・・・。それは思い出を変えることになります。潜在意識は一度インプットされたものは、あとはアウトプットだけなのではないでしょうか。しかしそう断定してしまうのも危険です。挑戦してみたいです。でもそれよりもバックに森田さんを入れることの方が簡単です。」
というわけなのですが、孫さんはずっと興味津々に写真に見入っていました。
とにかく今回も元気溌剌です。
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新しい瞑想テク
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午前中は区役所と出入国管理局に行き、具体的な書類手続きを終えました。
今回の来日の大きな目的はこれでした。
最後に出入国管理局で「これで好きなときに日本に来ることが出来ますし、好きなだけ滞在出来ます。」と言われ、玄関を出たところで「やったー」と叫んで大喜びの私達。
そしてお昼の待ち合わせ場所へ・・。
<超能力開発に効果のある瞑想補助>
孫さんの過去の伝授会で、超能力が開花した人がいました。
孫さんがその人の天目にパワーを入れている時、「あなたには超能力が発動しました」と言ったのです。
それが理由で、その人は伝授会の最後に一人残され、簡単なテストをされました。
孫さんが紙に文字を書き、それを丸めてその人の耳に持っていったら、その人は孫さんが書いた文字をその通り読んだのです。
これは孫さんが最初に超能力が発動した時と同じ現象です。
「出来れば不思議研のツアーで北京にいらっしゃい」と言われましたが、チャンスに恵まれずに今に至りました。
今日はその人と個人的に会ったのです。
その人は私以上に努力の嫌いな人でした。修練をした方が良いと言われていたにも関わらず、何もしていませんでした。
「あれから何もしていません。すみません。」
これがその人から出た最初の言葉でした。これからも瞑想さえやる気がない様子です。
「あなたには期待をかけても良いと思っていますが・・」と言う孫さんに、「期待なんてかけられても、応えようがありません」とその人は返します。
そこで孫さんは、「一日たった10秒でできる修練方法があります。それだったらいいでしょう?」と教えてくれたのが、動画でお見せする方法です。
これは特別取材記に出します。出るまでにしばらく時間がかかりますが、お待ち下さい。
さて、それは下の写真のように瞑想ポーズで座り、指を指定の方法で動かすだけなのです。
既に瞑想を続けてやっている方は、瞑想に入る直前にやってみて下さい。脳が刺激されて超能力開発にはとても効果的らしいのです。
瞑想するのが厄介な人、瞑想する時間が無い人にも向いているそうです。
一度に一回だけやれば良いそうです。ただし、両手の指は同時に動かして下さい。
これは超能力というよりも、脳の活性化なのです。だから「ボケ防止に役立ちます」と孫さんは言いました。
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福来心理学研究所
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仙台での主な目的は、福来心理学研究所に行くことでした。
この写真は黒田東北大学名誉教授に月の裏側の念写写真の説明を受けているところです。
黒田先生は、私の『不思議の科学』の前書きを書いてくれた人です。
このあと三時間に渡り、情報交換とディスカッションをやりました。
佐佐木康二さんも来ていまして、彼が念写の確率を上げる方法(機械)を黒板を使って説明すると、沈教授はそれをビデオ撮りしていました。
今回のことをきっかけにして、孫さん達は福来研と交流を持ち続けることで一致しました。
福来研は科学者が多いので、孫さん一行も、大変に気に入った様子でした。
この念写写真は、実際に太陽の光線の影なのか?・・という疑問があるのです。
太陽光線の影だとすると、相関率は70%ほどなのだそうです。
黒い影の部分は海ですが、月の裏側は山が多く、あのような影は出来にくいとのこと。
しかし、太陽光線の影ではなく、地質の違いによる模様だとすれば・・・
この写真の真偽は、一概に結論を出せない状態なのです。
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潜在意識はアウトプットのみか?
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硬い表題ですが、言い換えれば「思い出は書き換え可能か?」ということです。
さて、孫さんの松の木の念写(中級ツアーで念写したもの)は、三次元の風景そのものも含めてここに出しました。
私が孫さんに「この風景は書き換え可能ですか?」という質問をしたところ、当初は「この風景に何かを加えることなら可能です」と答えていたのですが、私の話の持って行き方がまずかったのか、次第に「風景そのものも変えることは可能です。私が絶対にやって見せます」などと言うようになったのです。
彼女は私が「あなたには出来ないのでしょう?」と言っている風に取ったのです。そこで挑戦好きの彼女のことですから「やってやろうじゃないのよ!!」という感じに変わってしまったのです。
今日、成田空港で食事をしているとき、教授がやっと気付きました。
「もりけん(彼は私のことをこう呼ぶ)の言っていることは、非常に面白いんじゃないか・・。彼は孫ができるできないを議論しているのではなく、念写のメカニズムそのものを議論しているんだ・・」と言ったのです。
この一言を皮切りに、最後の最後になって、やっとまともな(笑)話の展開になりました。孫さんは次のように言いました。
「私は松の木を念写したとき、あんな風な詳細な風景を思い出したわけではないのです。あのとき、画用紙に描けと言われたって描けやしません。ただ、松の木がある風景で気持ちが良かったものを思い出そうとしたら、あれが出てきたのです。ボヤッとした感じしか私の天目には出ませんでした。同時に気持ちがいいという感覚も出てきました。ただそれだけです。しかし念写したフィルムには詳細に風景が写っていました。まさに森田さんが撮った写真と同じです。他の念写をするときも同じです。私の意識には中心的なものしか浮かびません。しかしなぜか実際の写真には非常に詳細に写っているのです。」
この話も、潜在意識と顕在意識を研究するには良いデータとなりそうです。
彼女にとっても意識される風景は、概略的であり、気分的なのです。
しかし潜在意識は、現物を見た時の彼女の視点に関わらず、全てを記録していたのです。
思い出した時(念写したとき)ですら、彼女は全てを思い出していないのです。
しかし、フィルムには全てが出ていました。
念写は、潜在意識を写す行為だと・・やはり・・思いました。
私の仮説を話しました。「思い出は書き換え不能なのではないか」と。
孫さんはしばらく考え、「とても面白いです。解明してみたいです」と言いました。
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新聞の念写と速読と感動
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孫さんは、新聞を10秒ほど見て念写をしました。すると何と、新聞の文字が全て正確に念写されているのです。これでコピー機はいりません(笑)。
しかし、あの新聞を読むのには10分はかかるでしょう。なのに10秒で潜在意識には全て記憶されているのです。
だとすれば読むという行為は何なのでしょうか?
もちろん速読という方法もありますが、感情という問題を思うと、なぜか速読をマスターしたいと思わないのです。欲しいのは情報ではなく、感動ですから・・。
とすれば、速読には感動はあるのでしょうか?文章と文章の「間」をどう処理しているのでしょうか?
そして潜在意識には感動はあるのでしょうか?
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エビの蘇生の瞬間の撮影
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今回のメインの課題は、「エビの蘇生の瞬間の撮影」でした。
茹でたエビと撮影装置を常に持参していました。
孫さんはノセるとノルのです(笑)。ですのでお花見をして温泉につかり、ゲームに興じる傍ら、脇には常に装置がセットされていました。
孫さんは何度かそれを手にしたのですが、エビを蘇生するまでのノリが生じません。
もともと孫さんはエビの蘇生をまだ一度しかしたことはありません。
体調の問題、周囲のエネルギーの問題・・。たぶん、多くの問題があるのだと思います。
しかし、出来ませんでした。とは言え、私も早とちりをしています。
ピーナッツの蘇生撮影の方が優先されると思い直しました。
エビは、生き返ってそれで終わりです。しかしピーナッツは芽が成長していくシーンを見ることが出来ます。一瞬で伸びるのか、ゆっくりと伸びるのか・・。
撮影装置の側にも改善点がありそうです。マイクを付け、音声も録音したいと思います。
特にエビの場合は、「ぎゃー」と叫ぶかどうか知りませんが、何らかの音が出るかもしれません。
孫さんの日本での調査は始まったばかり・・焦らず、ゆっくりといきたいと思います。
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潜在意識は部分記録しかしていないのではないか?
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孫さんの松の木の念写をきっかけとして、「潜在意識には全てが記憶されている」という仮説が定説(笑)に浮上しようとしていますが・・果たして、本当でしょうか?
私にはこのことは、信じられないのです・・実は。
それでもって、アウトプットがどうのことのという「いじり回し」が出てきてしまったのです。
私が信じられない点は、以下の理由です。
ビデオカメラは、一秒間に60コマとかいう感じでタイムシェアリング(時間切り)をして記録してしています。
この「時間切り」の間隔がもっと狭まるとどうなるでしょうか?一秒を無限に細かくして記録していくわけです。すると、記録媒体は無限に増えていくと思うのです。
人間の脳をコンピュータにすると、高層ビル一個分に相当すると言われていますが、これでも足りないのではないでしょうか?
私が疑う理由は以上です。そこで次の仮説ですが・・・
間引きをしているのではないかと思います。ビデオの様に、一秒間に何コマという感じで・・・。もしくは、圧縮処理をしているのかもしれません。
とすれば、そこに「意味付けが無い」と言い切れるのでしょうか?
孫さんの念写ですが、彼女は念写をする時、少しトランス状態になります。その時は、顕在意識は遠のいている様子です。
つまり、何を念写したいか、具体的な事物を明確な形で特定できないのです。
潜在意識と顕在意識は、彼女にとっても双方向ではない様子です。
孫さんに「松の木の映像の0.0001秒後のヤツを出してくれ」と頼んでも、なんか出てこないような気がします。
それだけではなく、何月何日の何時何分を出してくれと言っても、出ないような気がします。
気がするだけで、出来るかもしれませんが・・
ひょっとすると、孫さんの「気持ちが良かった」という感情に影響されて、潜在意識のシャッターが切られたのかも知れない・・・という仮説もアリのような気がします。
つまり、潜在意識は、のべつまくなしに記録してはいない・・と。
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グラデーション
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先日、ある人からグラデーションについての書き込みがありました。それについて私の意見を少し書きます。
時間というファクターがあるかないかで、変わるのではないかと思います。
●時間というファクターが無い場合・・
つまり、「瞬間」という切り口の場合です。
少々難しい言葉を使ってしまいましたが、要は、「瞬間」ではグラデーションするかという問題です。
私は、「瞬間」においては、グラデーションは無いという仮説をとっています。
10ヶ月ほど前、ハワイからの書き込みで、初めてリリースという単語をリリースしましたが、その時にも同じことを書き込んでいます。
つまり人は、瞬間にはリリース状態(魂が外を向いている状態)か、非リリース状態(魂が内に向いている状態)の二種類しかないと思っています。
まるでスイッチのようにON/OFFをパチン、パチンと・・・中間段階が無いのです。
中間段階とは、自分を考えながら(自分がどう見られているかを考えながら)相手にリリースすることです。これは出来ないのではないかと思います。
道教の導師は、オフ会の席で一度も自分を振り返らず、スキが無かったと書いた人がいました。
自分を考えていない状態は、無に近いですよね。道教なら無為でしょうか・・。
逆に人の話を聞かない人は、魂は自分に向いているわけです。
●時間というファクターが入る場合
ある瞬間にはリリース状態にあったのに、ちょっと経ったら、魂が内に向いたりする時があります。
「ああ、あれで良かったのだろうか・・」と悩んだりする時です。
つまり、ある時間の幅をとると、リリース度××%なんていう具合になると思うのです。
私はそれがその人の「自由度」あるいは「成長度」ではないかと思ったりもしています。
リリース度100%の人なんて、たぶんいないと思います。
時間の要素が入ると、絡み合い、交差していくと思うのです。それがグラデーションだと思います。
以上、私の仮説でした。
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書き込み期間:2000/04/14〜2000/04/27 |
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