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テーマ:「道教修行1999.10(後編)」 |
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書き込み期間:1999/11/02〜1999/11/26 |
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要旨:
今、道教はシンセンや香港といった都会に出て行き、社会に進出しつつあります。しかし道長はこう言いました。「社会が無いということに注意・・」
私達は多くの正義を持って「なる」の世界に入っています。その最たるものは、「社会のためになることをやる」というものです。
私は大学生の頃、盛んだった学生運動にも参加せず、今でも「社会使命のためではない」とHPに明記しています。でも私は他の誰よりも社会使命を考えていると思っています。「社会が無いということに注意」と言った道長も、実は誰よりも社会を気にしている人です。
本当に社会を良くするのは、表面上だけで気にしているふりをしないことによってなのです。気にするポーズはむしろ社会を悪くするだけだからです。
道教修行からの帰国後、自由の問題について考えていました。
道教では、完全だから悪が入り込む余地があったと、善のみでは不完全だといいます。
これから人類は、かつてない自由の世界へ突入していきます。そうなったとき、自由に耐えてやりたいことをやれる人と、自由が怖くてやりたいことが出来ない人とに分かれていくでしょう。後者の人は、自分を肯定するために成長を目指すしかなくなります。
自由に耐えられるには、「すべてうまくいっている」と思えることです。それは、時間は未来から過去に流れていると思うことでもあります。
人はどんな境遇にあっても、自由という恐怖に直面しているという点において全て平等だと思います。自由の前には誰もが無力なのです。それは未だかつで誰も経験したことのない新たな自由です。だから、それについて上から教示できる人は誰もいないはずです。相手が癒されることがあるとすれば、自分の弱さを表出したときだけではないかと思います。
これまでの教育でやってきたことは、自由からの逃避でした。目標を掲げることも、意味付けや理由付けをすることも、自由からの逃避です。
自由に向かう方法の一つは自分の言葉で自分を表現すること、もう一つは、自分のやっていることに理由を付けず、“いつでもやめられること”を前提とすることです。
「いつでもやめられること」とは、導師が言った「山頂を目指してはいけません」と同義です。これと対極に「決してあきらめないこと」は頂上を目指す行為です。
理由を付けることは、ワダチにはまったハンドルを操作することになります。理由抜きで一瞬の心の動きに乗って行動できれば、その瞬間は100%自分のためでありながらエゴがゼロの行為になります。
「いつでもやめられること」は、不老不死と若返りのキーでもあるかも知れません。
でも、三次元の社会でやっていることを本当にやめる必要はないと思います。いつでもやめられるけど続けているような何かを、たった一つでも持っていれば良いと思うのです。いつでもやめるというのは、心の中でいつもやめて、次の瞬間にまた始めるということでも良いのです。そうしていると、結果的に諦めないことにも繋がります。
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○ 盆栽(1999/11/02)
○ 本当の自分とはどこにあるのか(1999/11/04)
○ 道教の考え方(1999/11/04)
○ 自由へ(1999/11/05)
○ 恩は返ってくるか(1999/11/08)
○ 人間の意志(1999/11/09)
○ 自由の問題(1999/11/10)
○ 明け方の気付き(1999/11/11)
○ 坂本竜馬(1999/11/14)
○ いつでもやめられること1(1999/11/14)
○ 理由(わけ)(1999/11/15)
○ 選択の実習(1999/11/15)
○ あがること
○ いつでもやめられること2(1999/11/16)
○ 劣等感(1999/11/26)
○ 自信喪失と自由と孤独(1999/11/26)
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盆栽(1999/11/02)
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道教のお寺には、このような盆栽が沢山ありました。私は、こういう盆栽がとても好きです。日本ならば、盆栽に仙人像を置くことはないでしょう。
日本の場合、盆栽のメインテーマは「自然」だからだと思います。しかし道教の寺の場合には、メインテーマが「人間と自然」なのです。ここでは人間は仙人です。
この写真をご覧下さい。仙人と仙女が仲睦まじく喋っています。
この盆栽の説明をした道長が言いました。「この盆栽には人間はいても、社会が無いことに注意して下さい。」
道教は中国の山中を追われ、シンセンや香港といった都会に出て行きつつあります。
それは単に行き場を失ったからではありません。道教は社会に進出して行こうとしているのです。「社会が無いということに注意・・」
私達は多くの正義を持っています。その最大の正義は、「社会のためになることをやる」これではないでしょうか?
地球のため、人のため・・自分以外のもののために自分を懸ける・・これは正義です。
また「これだけは譲れない」と言う人がいます。その「これだけ」とは何かというと「人を傷つけること・・人に怒りをぶつけること」だったりします。これも正義です。
そうやって、「なる」の世界に入ります。
さて、私も社会について色々と考え続けてきました。
私が大学生の頃、学生運動が盛んで、社会のために自分たちは何が出来るかを問われてきました。私はデモにも参加せず、当時のメンバーから見れば軟派な学生でした。
あれから30年が経ちましたが、実は、あの時の誰よりも社会を考えている自信があります。私が社会使命のためではないとHPの看板に書いてあるのは、誰よりもそれを考えたいからです。
さて、その社会がいかにして良くなるのか・・それはまさに、この写真のスタンスだと思うのです。「社会が無いということに注意・・」
人をバカにしたような表現ですが、道長はとても社会を気にしているのです。でも表面的に気にしてはいけないのです。気にするポーズが最も悪くすることを知っているのです。
木の下で談笑する二人、この二人はリリースし切っていると思いませんか?
肩の力が完璧に落ち、リラックスして、自由な状態に入っています。
道教のお寺にこういう盆栽が置いてあるのは、言葉を越えたものを伝えようとしているのです。
私の書き込みより、この盆栽の出す緩やかなエナジーの方が、ずっと説得力がありそうです。
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本当の自分とはどこにあるのか(1999/11/04)
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本当の自分と、仮の自分があったとします。今の自分は仮の自分で、本当の自分はここにはいないのでしょうか?本当の自分とはどこにいるのでしょうか?
今、仮の自分で生きているとすれば、その自分は否定されるのでしょうか?だとすれば、仮の自分は敵になってしまいます。
敵と戦ってどうするのでしょうか?勝つわけはありません。仮の自分も自分自身なのですから。
私は仮の自分と本当の自分とを一つの輪の中に書いています。中心が本当の自分で、その周りに仮の自分があります。仮の自分は社会と折り合いを付けるための自分です。
本当の自分はとても正直に生きたいのに、それをブレーキをかけるのが仮の自分です。
道教では「完全だから悪が入り込む余地があった」と言っています。
善のみでは不完全なのです。道教は、そこまで思考を発展させなさいと言っています。
私は、歴史は今後、二つに分かれていくような気がします。一つはやりたいことが出来る人、もう一つはやりたいことが出来ない人。
何故かと言うと、人が自由になっていくからです。その自由に耐えることが出来る人は、やりたいことが出来ます。しかし自由に耐えることが出来ない人が、やりたいことが出来なくなります。
やりたいことが出来ない人は、成長を目指します。だって、それしか自分を肯定する方法が無くなるからです。
やりたいことが出来る人は、自分を肯定する必要がなくなります。だってその人は、自分を解放してしまったのですから・・。
では、どうすれば自由に耐えることが出来るのでしょうか。
「今の自分は、すべててうまくいっている」と思ってしまうことだと思います。
人はうまくいっていないと、その自分を否定しようとします。うまくいっていないと、いかせない環境を変えようとします。
私は導師から「道教に正式加入しないと、これ以上の伝授はありません」と言われました。またとないチャンスでした。私にも欲がありました。
道教に入ること自体は、それほど自分の自由を妨げないでしょう。宗教に入ったという感覚がほとんどないのが道教だからです。
おまけに次のステップというニンジンがぶら下がっていました。おまけに「私は、××導師から正式に日本の道長に指名された」などと言える立場になるというニンジンもぶら下がっていました。
でも理由抜きに、その時点ではノーだったのです。次のステップが無くてもしようがない、諦めも肝心だと思いました。
でもそれでも、私はすべてがうまくいっていると思えたのです。それは本当に次のステップが無くてもそう思っていました。
私達は、時間というものは過去から未来に流れていると思っています。
しかし仏教は逆です。未来から過去に流れているのです。なぜなら、仏教では主体は私達ではないからです。
今がうまくいっていないと思う人は、時間が過去から未来に進んでいるのでしょう。
うまくいっていると思える人は、未来から過去に流れていると思える人かも知れません。
私は導師から「これ以上は、ない」と言われた晩、初めて時間の未来から過去を実感できたような気がしました。私は、すべてうまくいっていました。
時間が未来から流れてくるのなら、手を放すことが出来ます。ハンドルを放すことが出来ます。未来に向かって運転する必要がないからです。
ワダチに乗ったまま、私は360度の世界を見渡し、楽しむことが出来ます。
私にNOと言えるチャンスをくれた導師に感謝します。
しかしその後、彼女は「偶然」を装って次のチャンスをくれました。「森田さん、あなたの情熱に負けました」などと一言も言いません。ただ、偶然にトランプが集結したのです。
私は、そこでも時間が未来から流れてきていました。孫さんが好きな言葉・・自然に身を任せ・・。テレサの唄にもあります。
自由になるには、ハンドルから手を放す、すなわち時間の方向性を逆転することではないでしょうか?
性格はとても変わりやすい、しかし人は、性格を変えたくないのではないでしょうか?
もっと言ってしまえば、性格を変えないことを決断している、変えたくない努力をしている・・これが現状なのではないでしょうか。
それは自分に過去という投資をしてしまっているからです。
変わらない、変えられないのではなく、変えたくないのではないでしょうか。
自分のインスピレーションに従えないのは、ここに原因があるような気がします。
だとすると、自分の座標軸を決めるということは、せっかく変わりたいと思っている自由な自分に、枠をはめることにはならないでしょうか?
道教の中心の神がコントンだというのは、コントンでOKだと言う意味かも知れません。
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道教の考え方(1999/11/04)
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あなたが人格を培うのは、自分の実存を恐れているからでしょう。あなたが道徳を培うのは内なる不道徳を恐れているからでしょう。
あなたは自分にある一つの生き方を強います。なぜならば、もし自分が自発的に自然に生きたら、聖人ではなくて罪人になってしまうのを知っているからでしょう。
人格というのは鎧です。それはあなたを他人から守り、自分自身からも守ります。
一切の誰かさんであることsomebody-nessは外側のものです。内側には誰でもないことnobody-nessがあります。
生というのはそんなものでしょう。何の因果関係もありません。たとえ何かが999回現れたとしても、結論を下さないことです。1000回目は例外かも知れないのです。
幸せのあとを極端に追ってごらんなさい、あなたは世界で一番不幸せな人間になることでしょう。幸福であるためには、人は幸福を追い求める必要なんかありません。
時には人はそれを忘れなくてはなりません。時には人は、不幸を楽しむことすらしなければなりません。
笑いを生き生きとしたものに保つには涙もまた必要です。怒りも必要です。24時間、笑えるものじゃなでしょう。
不完全なままでいてごらんなさい、あなたは生き生きとしているでしょう。
あなたが完璧になれるのは、あなたがトータルでないときに限ります。トータルでない・・とは、あなたの中の何かを否定している状態です。
物質の世界とは、しわざ(doing)の世界であり、精神の世界とはハプニングの世界です。
やって(doing)ごらんなさい、そうしたらあなたは物質にしか行き着けないでしょう。
いて(beibg)ごらんなさい、するとすべてに辿り着けるでしょう。時は、向こうからやってきます。
レット・イット・ビー・・・なぜなら、すべてはうまく行っているのですから・・・
レット・イット・ビー・・・
もし神がアダムに殺人を禁じたのでしたら、我々にも理解できたでしょう。もし神がアダムにセックスを禁じたのだったら、世界の宗教はみんな理解できたでしょう。
ところが神はセックスでも暴力でもなく、知識を禁じました。どうも知識こそ原罪であるかに見えます。同じようにコントンが死んだのも知識でした。
あらゆる知識は未来を作り出します。あらゆる知識は自分ではない何かになろうという欲求を作り出します。自分であるところのものを楽しむことがありません。
知識というのは自分ではないものに向かって努力することに結びつきます。
あの蛇こそ、世界最初の先生でした。あの蛇が亀裂を作りました。あることとなることの亀裂です。あらゆる知識はあなたの中にあることとなることの亀裂を作ります。
それが一つの夢を作ります。夢は欲求不満です。人は夢を見て、未来に自分を託します。
楽園などというのは何か特別なものじゃないでしょう。楽園とはまさしくいまここで自分自身を楽しむ能力のことでしょう。
あなたは楽園にいます。が、なおかつあなたはそれを失くしています。それはあなたが今とここを楽しめないからでしょう。あなたは考えています。未来の計画を立てています。
なることの世界、それは欲望の世界でしょう。もう既に自分であるところのもの以外の何かになろうとする欲望でしょう。
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自由へ(1999/11/05)
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先日、新聞に五木寛之氏の話が載っていました。なんでも一年間に何万人の人が自殺しているのだそうです。この数は、戦争で死んだ人と同じらしいです。
だから彼は「今が、本当の有事だ」と書いていました。
一方では、戦争でやっと生き残った人もいます。かたや、中国では死を生に変える蘇生が始まりました。また、不老不死を目指しての修行法も表に出てきました。
五木氏の意見に対しては、自分で死にたきゃ、死ねばいいだろう・・とも思います。しかし、それで良いのか・・という疑問も残ります。
このHPに書き込む人は、何だかとても幸せに見えるという意見も頂きます。
さて、私は・・。
私は、全ての人間は平等に直面しているものがあると思います。それは「自由という恐怖に立ち向かっている」ということです。
戦争で窮地に立とうと、貧窮にあえごうと、毎日の忙しさに追われる仕事人も、家事をしている女性も、平等に対面しているのが「自由という恐怖」だと思います。
北欧も自殺が多いと聞きます。あれだけ社会環境が整った国でもです。
五木氏は、お陰様の世界を説明しています。ポジティブではなく、ネガティブも大事だと言っています。
今日、出版社の人が来て、色々と話してくれました。
私の本に助けられたというお便りがたくさん来るらしいのです。本来、売れれば良いという出版ですが、そういう数字に出ない価値の方が大切だと言われました。
戦争の話は、本人の体験だけに、説得力があるのだと思います。
私は、誰しも平等だと思います。自由の前には、人はとても無力です。現代は自由・・だから大変なのです。
2000年前の聖人の教えをもって、この、自由が解決できるでしょうか?私は出来ないのではないかと思います。
この現代の自由は、誰も経験したことのない、新たな自由なのです。それをどう突破するのか、それは個人の経験の表出だと思います。
マニュアル的に、上からものを言うように、悩んでいる人に対して指示すべきではありません。それは何の救いにもならないと思います。むしろマイナスに作用すると思います。
自分の弱さを表出したとき、ものすごい癒しのエナジーが出るのではないでしょうか。
それによって相手は癒される・・。
対等な関係の中での、対等なリリースが最も良いと思うのです。
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恩は返ってくるか(1999/11/08)
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今日、千歳空港でお昼を食べている時、私に対して突然怒り出してしまった人がいたことを話しました。
「某氏は最高だが、あんたは最低だ。こんなひどい人間に会ったのは初めてだ」と言われました。初対面の人でしたが・・。
私は時に、知らないうちに人を怒らせたり、傷つけたりしているようです。でも「怒っていないよね」などと訊くことも出来ず・・・。
最低の人間だと言われても、私は反省することはありません。
なぜその人が怒ったか、少し理由は分かります。その人は私に恩を売ったからです。これだけ恩を売っているのに、お前の態度は何だと怒ったのです。
恩を売るものではありません。恩を売れば、見返りを期待します。
私は、誰かのために・・と思っただけで、その人に恩を売っていると思うのです。
「今日もいいことをした、俺ってすごい。」そんな、自分の貯金を貯めるのが目的かも知れません。
人に親切をしてはいけません。親切は恩を売ることです。
全て自分のためにしていれば、恩にはなりません。その人も、返す必要がなくなります。
人に与えるという言葉は、自分の何かが減るようなイメージがあります。
リリースという言葉は、自分も得るようなイメージがあります。
私に「あなたは最低の人間だ」と言った人は某氏の友人でした。きっといつも某氏からお世話になっているのでしょう。
同じく某氏を知っている私に、普段の恩返しをしたような気がしてなりません。それは「某氏は最高だが・・」という言葉に出ています。
よく、人に良いことをしておけば、それはいつか人を回って返ってくるということを言う人がいます。彼はそれを実行していました。
だから彼の行為に、私は何の愛も感じなかったのです。それが「大人」なら、社交辞令でうまく乗り越えられるのでしょうが、私は顔に出ていました。
彼が突然怒った時の最初の言葉は「森田さん、五分前に言った言葉は何ですか?」
5分前??記憶の欠落している私は、何とも答えようがありません。聞くと「そろそろ帰らせて下さい」と言ったらしいのです。
帰らせて下さい・・たしかに失礼な言葉です。
しかし彼が恩を売っていなかったら、それほど問題は無い言葉だと思いませんか?
私はその一言で、親切の循環を断ち切ることが出来ました。私は、彼の愛のない恩を背負って帰ることが出来なかったからです。
人は人に何か良いことをすれば返ってくる・・これを断ち切るのは、意外に大変なようです。
孫さんが来日していた時で、孫さんも傍にいました。
「森田さんは、とても信念がある、ありがとう」と言ってもらえましたが・・。
彼のケースは、赤い羽根募金に対して10円を出そうとした時、箱を持った人から「あなたは本心で募金をしようとしていません。みんなが入れているし、赤い羽根が胸にないと格好悪いから募金しようとしました。そんなお金は要りません」と言われたようなものなのです。
「あなたは私にお金を都合して貸してくれようとしていますが、あなたに愛を感じません。だからあなたから借りたくはありません」と言われたようなものなのです。
人間は嘘をつく動物です。与える方も与えられる方も、嘘をついている場合が多いです。
私を最低だと言った人間、言われた人間(私)、その両者ともに、この事実に気が付いたのかも知れません。しかし彼がどう気が付いたかは・・。
彼はその後、だいぶ怒っていたと聞きました。しかしある時、某氏の重役の口から「彼の件で迷惑をかけて、すみませんでした」と言われました。
私はその時、その重役の顔を見たまま何も言いませんでした。
この事件をきっかけにして、私は「あなたに愛を感じない」と時々言う人間になってしまいました。自分が愛していないにも関わらずです。
私はよく「森田さんは親切な人じゃない」と言われます。でも、親切な人だと言われるよりも嬉しいです。
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人間の意志(1999/11/09)
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人間の意志が反映されないとつまらないという風に書いている人がいましたが、私は人間の意志など、0.1%くらいしか無いと思っているのです。
例えば、一日の生活を考えてみて下さい。私達は自由ではありません。衝動的に生きることが出来ないからです。
それは自分を変えたくないのが原因だと思います。一貫性のある人間でいたいから・・。
今日のスケジュールは、おそらく今日以前に決まっているでしょう。でも、それはあなたが決めたのでしょうか?どこかで決められてはいませんか?
20世紀後半で、日本に生まれ、結婚制度があり、法律があり、会社の決まりがあり・・それはあなたが決めた事ではありません。
だから自由なんて0.1%、いえ、それ以下です。
でも、こうやって言葉として言語化できる部分以外に、ものすごい部分で決められている何かがありそうです。それが私の言うところの時空の摂理です。
時空の摂理を計算に入れれば、自分の選択支など、0.0000000001%以下です。
精神世界では、あなたはすべてを選択しているというのが流行っています。決心をしなさい、選択しなさい・・と。
出来もしないのに・・言われる方は、苦しいばかりでしょう。
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自由の問題(1999/11/10)
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目的や目標を持つ限り、その人はエゴに生きています。それが愛を目指すだの、環境を良くするだのも、同様です。
エゴを無くそうという目標そのものが、エゴなのです。
動物はエゴがないから・・。動物のように自我を無くせば、エゴも無くなります。
いえ、人間と神は、いつもイコールだと思います。自由度というバロメータで、です。
自由が怖いから、「仮の自分」のような衣を着たいのです。
神の夢は、きっと本当の自由だと思います。
自由とは、心の自由のこと・・。それはどこにいても、何をしていても、できること・・。どんな観念にも縛られない自分であること・・。
自分自身で感じるだけでなく、外から見ても、社会観念に縛られていないことが必要だと思っています。
自由になると、意味付けが要らなくなります。偶然を楽しめるようになります。
神は愛の世界にいる・・という人は多いけど、自由の世界にいると言っている人は、他にいるのでしょうか??
教育は、自由からの逃げ方を教えただけです。本当の自由になることは、社会が許さないのです。
自由にならないと本当の自分とは言わないのか、それとも言うのか・・。
道教は私にとっても深すぎて、まだ分かりません。次のステップ待ちです。
だって、私も先入観は少ない方だと思ったのですが、今回の中国では、随分と固定観念を持っていることが分かりましたから・・先はまだまだ・・。
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明け方の気付き(1999/11/11)
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今日の明け方、色々な考えが展開されました。
●エゴとは何でしょうか
エゴは目標です。目標がある限り、それはエゴなのです。愛の世界を実現しようとかいう目標もエゴなのです。これは金儲けをしようというのと、全く同じです。同じだということを認識する必要があります。
どちらも、あなたの世界を実現しようとしているだけだからです。
客観的価値など存在しません。あなたを離れた途端、それは平等な価値観になるはずだからです。愛の世界の実現、地球環境を良くしようという組織を作った途端、それはとてつもないエゴの集団になります。このことに自覚があれば偽善者ではありません。
しかし、それによってエゴがなくなるという集団は、エゴイストであるだけでなく、偽善者でもあります。
●「本当の自分」とは何でしょうか。
本当の自分とは生まれつきのものでしょうか。もしも生まれつきのものなら、私達は本当の自分から、どんどん離れているのかも知れません。
しかし突然のトラウマにより、自分が大きく変更させられるときがあります。体験は人を変えます。変わらなければ体験とは呼べないかも知れません。
とすれば、本当の自分とは「先天的なもの+後天的なもの」ということになりそうです。
先天的なものは性質、後天的なものは性格なのでしょうか・・。
●自由とは何でしょうか
自由とは、自然からの距離です。どれだけその人が自然から抜け出しているか・・その距離なのです。それをどう使うか・・つまり自由の使い方を人は自由の意味だと誤解します。
本当の自由というのは、極めて静的です。ジワッと感じるのが自由です。決してドッカーーンと感じることはありません。人をポジティブにするのも、ネガティブにするのも、この自由が原因です。
自由こそ人間の証です。動物は落ち込んだりしません。自由ではないからです。
さて通常、人は自由が怖くてたまりません。逃げたくてしようがないのです。だから社会の価値観を取り入れようとします。そうすれば自分の価値観に責任を取らなくて済むからです。
だから愛が大切だのと言い始めます。そうすればその価値観に縋ることにより、自分を肯定できるからです。それは自由からの逃避の手段なのです。愛も、地球環境も・・。
そういう人は、支配したり支配されたりが好きです。支配することは自由からの逃亡の手段です。支配されることも自由からの逃亡の手段です。
自由をそのまま表現できるようになると、愛に生きます。地球環境も改善されます。それは結果です。自然が陰なら、自由は陽です。
人は、その人なりのレベルに応じて自由を獲得しています。
●何に向かっているのでしょうか
これは究極の問いである「私たちはどこから来て、どこに向かっているのか」という問いです。自由に向かっているというのが私の仮説です。愛に向かっているのではありません。間違えないように・・。
神がいるとすれば、あるいは天に意志があるとすれば、この三次元に自由な世界を作っているのではないでしょうか。しかし、自由を作ることは出来ません。自由は作ろうとした途端に不自由になります。ですから神は、究極のパラドックスに向かっているのです。
それも三次元で・・というところが凄いところです。でも、それは三次元でしか実現できないのです。
●どうすれば自由に向かえるのでしょうか
表現することです。あなたの知識、あなたの気持ち、あなたの感情・・こう思っている、こう感じているということを表現することです。
でも、そこにはいくつかの制限が付きます。自分の言葉で語ることです。他の人の言葉で語ることは、自由からの逃避です。正義をもって語ることも、自由からの逃避です。愛も正義にはなりません。もしも愛が正義になったら、あなたの愛は本物ではありません。
自分の言葉で語ることは、とても大変なことです。それができたとき、あなたは自由そのものの中にいます。神と一体化します。天と合一します。
表現すれば良いのですから、語る必要も無いかも知れません。微笑むだけで良いかもしれません。逆に怒るだけで良いかもしれません。しかし、怒りがあなたを防御するためではなく、本当のあなたから表出される場合です。
●それで幸福になれるでしょうか
もちろんです。幸福や愛は、おまけなのです。おまけだけを買うことは出来ません。
本当のあなたを表出した時、あなたは相手だけでなく、全体とも一致します。そこで初めて、自由としてのネガティブな部分・・すなわち孤独が解消されます。一体感というのは、表出した時のおまけです。
私達はよく「相手と一体であることを思いなさい」と言われます。一体感がもともとあると、どうなるでしょうか?そう、自由が消滅します。
動物は自然との一体感を持っています。動物同士との一体感もあります。ですから自由ではありません。自然との距離がほとんどゼロなのですから・・。
一体感よりも大切なのは、分離感です。あなたと私は違うという分離感があるからこそ、愛が生まれるのです。
あなたと私は違うからこそ、表出したいのです。リリースしたいのです。
●この方法で地球は良くなるでしょうか
もちろんです。リリースすることが幸福に繋がることが分かってくると、モノには無いことも分かります。
人は楽しい方向で改革する方が、ずっと楽しいです。楽しければうまく行きます。実践する必要もありません。むしろこれにストップをかける方が大変になるでしょうから・・。
しかしここまでの道筋には、いくつかの気付きが必要となります。ポイントは上に書いた通りです。私もまだ気付いていない部分が沢山あります。
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坂本竜馬(1999/11/14)
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明日は坂本龍馬の誕生日です。人は変わるものです。
私はずっと竜馬のファンでした。サラリーマンの頃、司馬遼太郎の『竜馬が行く』1〜8巻を読んで、自分もこういう生き方がしたいと思ったときがありました。
でも、それはそれでした。それはそれと言うのは、私が会社を辞めるときの、それは何の引き金にもならなかったからです。実は、彼の生き方に(司馬遼太郎が書いている生き方ですが・・)どこかで納得していなかったのです。
私が会社を辞めるとき、頭の隅にあったストーリーは、放送作家である山田太一の書いた『沿線地図』でした。これはテレビ放送され、本にもなりました。
人生に希望を持ち、高校を中退していく男女の話です。女子高生の父親は自営業で、男子高生の父親はエリート銀行員でした。二人の高校生は家出をし、学校を辞め同棲を始めます。それをやめさせようとする両親の一方同士が浮気をします。
社会的地位の嫉妬と、男女の嫉妬、さらには若さへの嫉妬・・実にうまく描かれていきます。地位に対する自負心から言えば、、エリート銀行員と自営業(電気屋)はいい勝負なのです。お互いが自分の方が上だと思っています。
さて高校生の方は、別にビジョンがあるわけではなく、高校を辞めます。高校を辞めた生活に入れば生き生きとした生活になると思うのです。
しかし彼女が妊娠してしまうのですが、男子高生の祖父が「こんなつまらない人生(祖父の人生)を味わわすために、お前らは生むのか?生むことはない」と言ったりもします。
本音の会話がビシバシと交わされるのですが、私が感動したのは、高校生の男女がビジョンを持たなかったことです。
私も辞めるとき、ビジョンすら考える暇もありませんでした。1秒でしたから・・。
さて、坂本龍馬はどうかと言えば、彼はどちらかと言うと、ビジョン派でした。「どちらかというと」と付けたのは、それでも他の親王の獅子と比べれば、ビジョンに生きていませんでしたから・・。ビジョンや目標は、全てエゴですから・・。
吉田松陰の弟子達は、みんなビジョンに生きていました。それには一つの理由があります。松蔭の最も尊敬するのが孔子だったのです。孔子は「なる」の世界を広めました。その反論として民衆から架空の老子が登場しますが・。
明治維新を評価する人は多いし、竜馬はその中では筆頭のヒーローでしょう。
しかし、私は最後の将軍、徳川慶喜の方が、ずっとすごいと思います。彼は「ある」世界のまま、日本を移行しようしました。しかし武力(なるの世界)に負け、敗退します。日本はそれ以来、「なる」でまっしぐらでした。
今でもそうです。松蔭塾をめざす精神世界のリーダー達は、とても多いです。彼らは日本を、世界を、宇宙に向かって門戸を開かせ、「変えよう」とします。ちょうど竜馬や勤王の獅子たちが日本を「変えよう」としたように・・。
大昔、ネアンデルタール人は「ある」に生きていたと言われます。当時、ネアンデルタール人はそれを「変えよう」としていたのでしょうか? そこへ技術を持ったクロマニヨン人が攻めてきて滅びます。
ネアンデルタールは江戸幕府、クロマニヨンは黒船・・ではなかったでしょうか。
日本は自分自身がクロマニヨンになることによって、国を守りました。いえ、そうしなければ守れなかったかも知れません。インディアンも滅ぼされていますから・・。
しかし精神世界で言われるように、今この地球の人達が「変化」しないと宇宙連合にも入れず滅びてしまうというのは、どういうものでしょうか。
私達は「変化」しないといけないのでしょうか。あなたは自分を、本当に、本当に、変えたいですか???もしも、無人島に住んでいたとしても、変えたいですか??
それが地球のためであれ、外部の目的のために変えてはならないというのが私の意見です。ましてや、変わることを宣伝するものではありません。
その行為は、坂本龍馬たちのやった事と同じです。これ以上、クロマニヨン化してはいけません。一時的に緑は戻っても、その後が怖いです。貸した借りを、人はなかなか忘れませんから・・。
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いつでもやめられること1(1999/11/14)
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もしも本当の自分がいたとして、その自分が何かをやっていたとしましょう。その最大の条件は何か・・それについての気付きがありました。
それは“いつでもやめられること”ではないでしょうか・・。
何で気付いたかというと、導師の言葉です。「道教では、頂上に達してはいけません・・」
これは“いつでもやめられること”と同義ではないでしょうか。
本当の自分は、とてもフニャフニャしています。つまり自在性があるのです。優柔不断で行き当たりばったりです。ワダチそのもので、何の意志もありません。
通常は社会の枠で押さえられているから、それは出来ません。責任だの、持続力だの、目標だのが生まれます。そうやって自在性を殺しています。
本当の自分を知る方法・・それは中に何が詰まっているかを知るよりも、出口を作ってやれば良いのです。初めてそこで具体的な形で認識できます。
さて、その時何を前提にすれば良いかと言うと、“いつでもやめられること”という前提を付けておくのです。もしもそれを付けてでもやり続けたら、それは本当の自分なのです。
これが実現すれば、人生全体が遊びになります。
「決してあきらめないこと・・」これは全くの逆です。これを言う人は、おそらく頂上を目指す人なのです。
さっき思い出しました。
私の大学の卒業式・・そのときの学長は、嫌いな××学長でした。彼は紛争のとき、いつも逃げていました。
その嫌な学長が卒業の最後の講話をしました。彼は言いました。
「みんな、これから社会に出たら、三ヶ月間だけ食べられる貯金をしておきなさい。自分の主張と会社の方針が違う場合があります。その時には、正直にケンカをして、ラチがあかなかったら辞めなさい。自分の生き方の方が大切です」
なーーるほど・・。あの学長にしては、ヒットなことを言いました。
私は「いつでもやめられること」というのは、ひょっとすると「自由」の条件かも知れないと思いました。
これは究極の表現としては「いつでも死ねること」になります。
いつでもやめられるとすれば・・それを続けているのは好きだからです。それしか、理由は考えられません。
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理由(わけ)(1999/11/15)
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私の場合です。私には時々、前日まで言っていたことを180度ひっくり返す時があります。会社の中でも起こります。
「どうしてですか?」と訊かれても、私は理由を答えません。なぜかというと、理由が無いのです。
人は、いつも理由付けや意味付けをして生きています。しかしその行為こそ、自由からの逃避だと思います。
ソウルメイトだから付き合うことになった・・前世ではこういう関係だった・・あそこで事故に遭ったのは、こういう意味があった・・今やっている苦労は、こういう修行のため・・・あなたには、こういうお役目がある・・・
これらは全て自由からの逃避です。これに限らず、意味付けは全て逃避です。おまけに意味付けは、ほとんどが間違った意味付けです。
私が時々、絶対に譲れない行動をとった時、そこには理由を付けません。『不思議の友』にも「森田の独断と偏見で・・」という文章がありますが、まさにそれです。
なぜ理由を付けないかと言えば、理由とは、社会とのつじつま合わせだと思うのです。
社会との整合性をとるために言語を使って説明しようとするのです。しかし本来、自由な気持ちから生まれたものは、社会の規範を外れているはずなのです。
そこで理由を言ったとしても、それは取り繕った嘘なのです。だから、意味付けは全て嘘です。そこで下手に理由を言うと、その理由に自分が縛られるようになります。
だから自分でも理由を言わないし、人にも訊かないようにしています。そこで理由を言うと、せっかくワダチにはまったハンドルを、操作することになるのです。
その瞬間は100%自分のために行動しているのですが、エゴはゼロだと思っています。
その瞬間は全体とも繋がっているし、理由抜きに相手にもリリースしています。その時は自分に対しての防衛もしていません。
それはムラッとくる瞬間です。しかしその一秒に乗っからないと、乗り損ねます。そういう経験、ありませんか?
人はいつも自分を統一したがっています。でもその統一の基準になるのは、社会の基準だと思うのです。ムラッときた瞬間は、その基準を越えたときなのです。
その時くらいハンドルを手放して、流れに身をまかせてしまって良いのではないでしょうか?
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選択の実習(1999/11/15)
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昔、自己変革セミナーに出たときのこと・・選択の実習というのがありました。
参加者が二重の輪になってそれぞれ向かい合います。そして目の前の人を選択します。
無視したい人なら1、目と目なら合わせても良いというのなら2、握手しても良ければ3、抱き合っても良ければ4・・を手のサインで出すのです。つまり相手によって番号を選択するゲームなのです。
私の前に、とても綺麗な未婚の女性が来ました。さあ、これを読んでいるあなたなら、どうしますか?あなたが女性なら、とてもカッコイイ男性が来たとして下さい。あなたより、ずーーーっと綺麗、あるいはハンサムです。
相手の気持ちを優先する人は、「本来は4を出して抱き合いたいけど、嫌がられるだろうなぁ・・。こんなオジサンでは・・」そう思って、3でも出すのではないでしょうか?
私は最初から4でした。そのとき80人の参加者の中で、しょっぱな4で攻めたのは私だけでした。
そのうち、4を出す人が増えてきます。だんだんと抱き合う人が増えてきます。泣く人も出てきます。
自分はこうやって人を選択してきたんだと・・・。相手のためとか言いながら、自分は自分の気持ちを正直に出すのが怖かっただけなんだと・・・。
そして最後は、最初から全員が4を出すようになります。
相手のため・・というフレーズは、自分が100%自分を出さないための言い訳のような気がします。
相手にとっても、自分のために何かフィルタリングのようなことをされて、本当に嬉しいでしょうか??相手によって自分を変えることなど、したくはありません。
あともう一つ、自分で自分が何をしたいのかさえ良く理解できないのに、相手が何を望んでいるか、分かるものでしょうか?
自分がまず先にリリースしてみるのが先ではないでしょうか?
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あがること
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私はあがります、バッチリ。講演会の直前、「内←魂」の状態です。貝の口をほとんど閉ざしてしまいます。あがっているのです。
でも、ある時からその「あがっている」状態を楽しむようになってしまいました。人生そういう時もないと、つまらないと思うのです。
昔、好きな女の子に全然ドキドキしないで「す、好きだ」なんて言っても何も伝わらないように、あがらないで講演会をやって、何かが伝わるものでしょうか??
自分のために、大切な休日を使って聞きに来てくれている聴衆がいるからこそ、最善のものを出そうと思ってあがるのではないでしょうか?
でも、だからといって他人のためにいるのではありません。もしも少しでもそれを思ったら、私はダメになると思います。方向性が「他」に向かっているとしただけでも、私はダメになります。
あなた達に必要だから私は喋っている・・そうではありません。それこそ、一般的な意味で言うところのエゴでしょう。
愛を絶対的な真理としてはいけないというのは、そこにもあります。
相手を本当に尊重しているならば、愛さえも相対的なもの・・・つまり自分にとっての価値だけに落ちるのです。そのとき、やっと愛が芽生えると思います。
私は、私のためにしか喋っていません。喋りたくもありません。
開始する前にドキドキするのは、これから喋ろうとする内容が、本当の自分か??という問題があるからです。
開始前、ドキドキの中での検証は、とても大きな気付きを与えてくれます。だから直前に喋る内容は決定され、しかも途中でどんどん変更が起こります。
スライドを使っていると、その変更が出来にくいのが難点です。
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いつでもやめられること2(1999/11/16)
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地球がどうして不老不死になれないのか・・それは老人の精神が若返れないからのです。
今の地球の老人は、人生に投資をし過ぎているのです。苦労して手に入れたものを手放して、若返ることが出来ないのです。経験を積んで成長してきたものを、手放すことが出来ないからです。
「いつでもやめることができる」これは不老不死と若返りのキーワードかも知れません。
私の言う「いつでもやめることができる」という意味は、通常の「やめること、諦めないこと」とはちょっと違うかも知れません。
一日の終わった夜、それはやめるのです。一日の始まる朝、それは始めるのです。
いつでもやめるというのは、心の中の問題かも知れません。心の中でいつもやめて、次の瞬間、始めれば良いのです。結果的に、諦めないことになります。
この三次元の社会で「いつでもやめられる」という状態は、なかなか出来ないと思います。結婚制度だって、やめさせない方向に持っていっているわけですから。
となると、たった一つでも良いと思います。いつでもやめられるけど、続けているような何かを・・。
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劣等感(1999/11/26)
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軽井沢講演の聴衆は歯医者さんが主でした。
私はそこで、歯医者さんは意外に劣等感があることを知りました。医師に対する劣等感です。
私は、自分でも劣等感は少ないと思っています。なぜなら目標が少ないからだと思っています。
目標は頂上を目指す行為です。頂上を目指す行為は、劣等感から来ると思います。
途中でやめることが出来れば、そこには頂上に対する劣等感はありません。
エゴは頂上に行くという目標から来ます。となると、エゴは全て劣等感から来ると言って良いかも知れません。
劣っているという感覚からは、誰かを追い越そうという気が生まれます。劣っているという感覚は、比較から生まれます。
しかし、選択という行為も劣等感から来ることが、理解できるでしょうか?選択という行為には目標が存在するからです。
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自信喪失と自由と孤独(1999/11/26)
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自信喪失は、誰でも持っていると思います。なぜかというと、私達は自由だからでは、ないでしょうか・・。そして自由だと孤独になってしまうからではないでしょうか。
人間は大変な世界に放り出されています。自由と孤独の世界です。だから自信喪失は、当然の結果と言えると思います。
では、それにどう対処すればいいのか・・。
自分を失うこと・・無になること・・これも一つの方法かも知れません。それなりの宗教に入れば、出来るかも知れません。
でもそれだと、大事なものを失いそうです。自由を・・です。
自信喪失は自由の裏側・・そんな気がします。
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書き込み期間:1999/11/02〜1999/11/26 |
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