もりけん語録
テーマ:「道教修行1999.07」
書き込み期間:1999/07/16〜1999/07/31
要旨:
 私を指導してくれている導師は、仙人のメッカと呼ばれる地域で生まれ、3歳から修行を始めた女性です。
 導師の瞑想室には、彼女の5歳の頃の写真が飾られています。そして瞑想することで、5歳の自分に還ります。この修行法を「還童功」というそうです。私達は大人になるにつれて成長していくと思っています。しかし仙人の世界では時間を逆行し、360度の可能性があった状態に戻ろうとするのです。
 導師は現在、シンセンという都市で暮らしています。シンセンは、中国の中でも最も経済的に豊かと言われている街です。導師はマンションの最上階に住んでいて、結婚して三歳の息子がいます。そして屋上で仙人食の栽培をしながら、風水の依頼を受けてお金を稼いでいます。仙人の修練をしながら、世俗の中で普通の生活を営んでいるのです。

 導師は私をマスター(導師の導師)の所へ案内してくれました。導師もマスターもグランドマスター(マスターの導師)女性です。歴史に残る仙人は、ほとんどが女性なのです。私は、マスターが100歳を過ぎてから描いたという絵を見て驚きました。他にも沢山の芸術作品がありました。導師もまた沢山の芸術作品を作り、ピアノを弾き、衣服を自分で作ります。仙女達は大変な芸術家でした。世間を離れて山にこもって修行していると思ったら、とんでもないのです。
 私はこのことで、自由と悟りについて大きなヒントを得ました。仏陀やキリストは何か作品を遺したでしょうか。芸術とは、善と悪が混在する俗世の中からしか生まれないものだと私は思います。自由とは自然からの距離だというのが私の仮説です。そして、分離感が創造エネルギーに昇華して芸術を生み出すのではないかと思いました。

 私は、マスターが導師一人のために書いたという伝授書も見せてもらいました。そこには「男女和合、陰陽和合」という言葉が書かれています。私はそれを見た時、「静」の状態が「陰陽分離」で、「動」の状態が「陰陽和合」だというインスピレーションを受けました。悟りを得たからもうお終いという状態はあり得ないのです。それを「動」の状態に転換しないといけないのです。仙女達は、創造するという行為、生きるという行為でもって、それを表現したのではないでしょうか・・。彼女達にとって悟りはゴールではなく、スタートラインだったのです。

 最終日には授与式とパーティーが行われ、私はついに仙人のローブを授与されました。
 パーティーでは歌って踊り、ロックミュージックをバックにエナジーボールを作る修練というのもやりました。ほとんど遊びのノリです。
 世俗の中で楽しんで生きるスタンスの道教らしいイベントでした。夜は弟子達に私の六次元体験を喋りました。
 道教修行の旅を終えた翌日すぐに、今度は孫さんのいる北京へ飛びました。孫さんからは、人間の蘇生の話、ソウルメイトと縁の話など、興味深い話を聞くことが出来ました。
 孫さんと話していると、常識に縛られていないのを感じさせます。私達は神を人智を超えた存在として考えますが、私達も神も対等というのが孫さんの考え方のようなのです。
 導師・孫さんとの旅行の中で私が感じたことは、自分も相手も肯定することが必要ではないか・・ということでした。
 私達は合一するために、悟りの旅に出る必要も偉大な芸術家になる必要もありません。日常の中での些細な創造行為で充分なのです。
 劣等感も優越感もなく、ただ今の私を認めるだけでいいと思うのです。

目次
○ 中国到着(1999/07/16)
○ 帰ってこられなかったはず?(1999/07/17)
○ 今日一日は導師と共に(1999/07/17)
○ 秘伝(1999/07/18)
○ 導師1(1999/07/18)
○ シンセン市内(1999/07/19)
○ 導師2(1999/07/19)
○ いろいろ(1999/07/20)
○ 私の部屋での瞑想(1999/07/20)
○ 禁断の写真(1999/07/20)
○ 導師の導師(マスター)(1999/07/20)
○ マスターが書いた絵の全体(1999/07/20)
○ マスターが書いた伝授書(1999/07/21)
○ ホテルのおネエちゃん(1999/07/21
○ 導師の作品(1999/07/21)
○ 導師のマスターのマスター(グランドマスター)(1999/07/21)
○ 仏陀の悟り(1999/07/21)
○ 寝ながらずっと考えていたこと(1999/07/22)
○ ローブ授与式(1999/07/23)
○ よもやま話1(1999/07/24)
○ よもやま話2(1999/07/24)
○ 香港最後の夜(1999/07/24)
○ 孫さんはプラントーンがお気に入り(1999/07/25)
○ アルファーシータC(1999/07/26)
○ 人間の蘇生(1999/07/26)
○ 陳林峰(1999/07/26)
○ 今日の報告(1999/07/27)
○ 孫さんの質疑応答(1999/07/28)
○ 全ての出会いはソウルメイト(1999/07/29)
○ 私の指導霊&「分」(1999/07/30)
○ 中国最後の夜(1999/07/30)
○ 成田エキスプレスの中で(1999/07/31)
中国到着(1999/07/16)



 香港には、弟子の一人が夫婦で迎えに来てくれました。彼は私よりも15才年上です。写真は香港空港です。私は香港が初めてでしたが、簡単にドライブしただけで、電車に乗り、シンセンに向かいました。
 ところで、香港は日本と同じように車が左側通行です。しかしシンセンに入ると右側通行になります。車で香港からシンセンまでダイレクトで車で行けますが、この場合、どこかで交差するのでしょうか?相当混乱するのではないでしょうか。
 なぜか頭が混乱していた私は、資料が入った紙袋をタクシーの中に置き忘れてしまいました。そこにはジャケットも突っ込んであり、簡単な食料まで入っていましたが、全てパーになってしまいました(笑)。

 さて、シンセンのホテルでは導師が待っていました。会議室を一つ借り切り、さっそく報告会が始まりました。その内容については、うまく言葉になりません。非常に奇妙な感じです。陰陽の世界・・。
 仙人のローブですが、このままいけば授与されそうな感じです。しかしそれは最終日に持ち越されました。修行は終わったわけではなさそうです。

帰ってこられなかったはず?(1999/07/17)

 昨日タクシーの中に置き忘れたものの中に、今まで中国で会った人の全ての名刺が入ったバインダーがありました。下の写真に写っている弟子が色々手配して、警察にまで電話してくれました。しかし戻っては来ませんでした。
 導師は笑ったまま「そんなの失くしたってどうってことないでしょう」という顔をしています。私だけなら悔やんだかも知れませんが、彼らといると、なぜか「どうってことない」という気分になります。背広が失くなったにも関わらずです。これも修行の一つでしょうか?
 昨日私が描いた陰の世界の図を見せたら、「六次元は陰だけではありません。全ての世界に陰と陽があります。六次元が陰だけなら、あなたは行ったきり帰ってくることが出来なかったはずです」と言われました。こういう一言は、なかなか理解し難いものがあります。
 今日のお昼は、導師の家です。私は彼女の家にある六次元の図を正確に描き取ってしまおうという魂胆があります。

今日一日は導師と共に(1999/07/17)


今日会った人達と記念撮影

 私がここにレポートしている導師とは、三歳の時から仙人について修行し、導師の称号を貰った人です。私はこの人の指導により、前回、六次元の旅というのに誘導してもらいました。
 仙人修行を受けている際、PCの使用を禁じられたのは、やはり外界との接触を断つためです。私はその時、食事さえも山で採った木の実やらを食べていました。
 今回導師の元を訪ねた最大の理由は、仙人のローブを受け取るためです。でも、すぐにくれるわけじゃないのです。やっぱり授与式は最終日に持ち越されました。
 今日は導師の家には行かず、導師に付き合って知り合いを訪ねました。
 導師はどこでも人気で、一緒にいると全てタダになってしまいます。最後はガイドブックにも出ている有名な日本料理屋さんでご馳走になりました。
 そこで一緒になる人達は、真面目に導師の話を聴いています。自然と人間の関わりやらを、一時仕事を忘れて聴いています。導師とは、一種の精神的指導者なのでしょう。
 ここに写っている写真は、たまたま一緒になった人達です。ご覧の通り、スケベなオヤジが写っているでしょう・・。女性の真ん中にいるのが私です・・ふふふ。
 導師には「私のことは外に出さないように」と言われているので、写真として登場することはありません。導師と一緒にいることも、修行の一環なのです。

 今日はいくつか面白い事を聴きました。
 道教のことを「道(タオ)」といいますが、その意味です。上の二つのチョンチョンは天を意味します。その下の横棒は太極を意味します。その下には自と書いてありますが、まさしく自分という意味です。シンニュウは修練を意味します。つまり修練によって天と自分が一体となることを「道」という字は言っているのだそうです。
 次に道教の最高の教えである「天人合一」についてです。私は「天にも意志はあるのか」と訊いたら「ある」と答えました。キリスト教の神のような細かいことには関与しませんが、大きな流れの意志は持っているらしいです。この宇宙そのものの流れです。
 天人合一とは、天の意志と人の意志が合一するのだけれど、そうなるとどうなるのか・・ここが面白いところです。
 導師は天をプラスと考え、人をマイナスと考えてみましょう。それが合一するとどうなるか・・そう、ゼロになるのです。合一して1+1=2になるのではなく、1−1=0になるのがポイントだといいます。陰と陽が出会うとゼロなのだそうです。
 私は六次元の旅のレポートを導師に送っています。そのとき、私という個が全体と合一して無になったということを書いていました。まさに、近いものがあるといいます。
 今日会った人達に言わせると、道教は奥が深すぎて、一般の人にはなかなか理解しづらいとのことでした。しかし彼らがこの導師を高く評価するのは、中国でたった一人、この導師だけが「ボジン密法」というのの直伝を受けている人らしいです。ボジンは現代中国語にもない漢字です。時空を操るという意味らしいです。

秘伝(1999/07/18)

 ところで「ボジン密教」ではありません。「ボジン密法」です。
 最初、凡人密法かと思いました(笑)。それなら既に完成していると・・。
 ボとは棘と言う字の下に人と書きます。ジンは人です。導師はこの密法を会得した三代目だと言われているので、導師の仙人と、そのまた仙人が出来たのでしょう。
 ところで、導師の師である170才の仙人は、本当に水の上を歩いていくそうです。
 「こんな風に・・・」と言いながら、まるでダンスのように歩く真似をしました。導師はまだこれは出来ないそうです。
 今日は一つ秘伝を教えてくれると言って、相手の怒りの気を受けない秘伝を教えてもらいました。しかし私には必要ないと思い、よく見ていませんでした。私は無になることによって、相手のエナジーを後ろに飛ばすことができると思ったからです。
 しかしその秘伝は、相手の怒りを鎮めてしまう働きがあることを後で知りました。それなら実験してみるという手もあります。明日、もう一度ちゃんと伝授してもらおう・・。

 ところで下の写真を見れば分かりますが、私は不思議調査で海外に出たときには、没個性の服装です。何故でしょう・・・自分でも不明です。

導師1(1999/07/18)


5才の時の導師

 導師は1960年生まれの女性です。導師が女性であったことは、意外に思うかも知れません。そう、私を時空の旅に誘導してくれた仙道の導師は、若干39歳の女性だったのです。
 江西省の生まれです。江西省といえば仙人のメッカです。彼女は3歳のときから仙女について指導を受けています。そしてボジン密法という時空を操る仙術を直伝された、唯一の伝人です。
 彼女の得意技は、時空を操る技の他に、美容の技もあります。サッと手を触れるだけで、しわを取ったり顔の整形をすることが出来ます。
 さらに、空間のエネルギーの流れを直接見ることが出来ます。これは風水を直接見る技として貴重がられています。

 さて、彼女の瞑想室には瞑想する方向から見て右側に、大きな写真が飾ってあります。これは導師が5歳の時の写真です。左側には現在の彼女の写真が掛かっています。
 この二つの間で瞑想します。そして瞑想から醒めたとき、身も心も5歳の時の自分に返っていればいいのです。
 この修練方法を「還童功(かんどうこう)」といいます。まさに児童に還る修行です。
 5歳の時の写真は問題なく撮らせてくれたので、おそらく公開OKだと勝手に判断してここに載せました。
 私達は「大人」になることを成長だと思っていました。経験を積んでひとかどの人間になることを人生の目標だと思っていました。
 しかし、少なくとも仙人の世界はそうではなさそうです。彼らはわざわざ時間をバックする修行をします。まだ360度の可能性があった時代に戻ろうとします。
 子供の頃、私達は無垢でした。遊ぶときは一生懸命に遊びました。未来のために現在の時間を使うことはありませんでした。もちろん起こった出来事に対する意味付けもありませんでした。その頃は過去も未来も無かったのです。そう、瞬間だけが全てでした。
 その時代に還る修行・・ひょっとするとその修行が一番大変なのかも知れません。
 私が経験した「時空の旅」は、還ることの出来ない大人が全体を経験することによって、その状態に戻ることだったような気がします。
 今日は、導師の修行部屋で長い時間を過ごすことが出来ました。天井には六次元の図が描かれた鏡がありました。その部屋にいると、時間が停止したような感覚を受けます。
 それは、この5歳の時の写真が持つパワーも関係あるのではないかと思いました。
 みなさんも良かったら、5歳の頃の写真を大きく引き伸ばして、瞑想部屋に飾ってはいかがでしょうか?

シンセン市内(1999/07/19)



 シンセン市内は、ご覧のように発展しています。
 高層ビルが建ち並び、中国というイメージとはほど遠いです。青山や西新宿でもシンセンには負けるでしょう。歩道も広く、街路樹も豊かです。何しろ椰子の木があるところが良いです。そう、ここは台湾よりも南に位置し、香港から車で30分の距離なのです。
 中国には最近、『自分の経済的位置を知りたかったらシンセンに行け。自分の社会的位置を知りたかったら北京に行け』ということわざがあるといいます。
 つまり自分は金持ちだと思っても、シンセンに行くと、シンセンの皆が自分よりも豊かだと知る、自分は地位が高いと思っても、北京に行くと、皆が自分よりも高いことを知る・・という意味らしいです。
 まぁ、上には上があると言いたいのですが、その時の経済関係の比喩にシンセンが使われるのです。それほどシンセンは経済的に豊かです。
 ここは、中国共産党が自由を保障する実験都市としてスタートしました。だから特別地区です。勝手に移住は出来ません。
 私ですら、シンセン空港からシンセン市内に入るのに途中でイミグレーションを通過しなければなりません。外国人はパスポートの提示で済みますが、他の地域に住む中国人は、シンセンに住む人の招待状がないと入れません。
 しかしシンセンの中に入ると自由なのです。当然若者はみな茶髪です。外国企業の進出も多く、求人数は求職者を上回ります。だから大卒は、大抵シンセンに移住を希望するらしいです。
 上の方の書き込みに私が二人の女性に囲まれてニヤニヤしている写真がありましたが、あれはシンセンの喫茶店で撮ったものです。北京では街の中に喫茶店はありません。
 しかしここシンセンにはあるのです。それもモカとかキリマンジェロとかの本格的コーヒーを出してくれる店です。値段もコーヒー一杯が400円もするから日本並です。そこの店がが繁盛しているのです。
 シンセンは今や、中国の模範都市になりました。上海ですら、第二のシンセンを目指しています。シンセンは中国では最もトレンディーで豊かな街なのです。
 さてここまでの記事は、今晩アップする導師の記事の伏線になるはずです。

 話は変わって、何故シンセン市内に私が行かなければならなかったか。それは上着が必要になったのです。
 私はタクシーの中に自分の上着を忘れてしまって以来、「今回はもういいや」と思っていました。ところが突然必要になってしまったのです。
 何故かというと、仙人のローブを私に授与するためのセレモニーを開くというのです。おまけにそこには何と、マスコミまで来るらしいです。おいおい、いったい何のこっちゃ・・。
 弟子達からは「シンデンシェン(森田健さん)、あなただけはフォーマルな洋服にして下さい」と言われました。仙人のローブを貰うのにネクタイ姿というのも面白いですが、まぁ、正式なセレモニーだというからしかたがありません。
 ローブを貰ってから「森田さん、何か仙人の技の一つでも披露して下さい」なんてマスコミ関係者から言われたら、どうすりゃいいんだ。そのまま開いた窓から歩いて出てみようか・・。
 ところで、仙人のローブは全て導師の手縫いですが、白だけではなく、黒も作っているといいます。シンデンシェンは陰の世界をよく理解してくれたと、導師は喜んでいるのです。だから私にだけ特別に黒のも作るのだといいます。
 黒のローブ・・なんか、迫力がありそうです。
 今日の午後は市内から戻り、導師は大変に大事な修行法を教えてくれました。「天人合一」の修行法です。私は今晩と明日、明後日とこれをやらなければなりません。
 実はほんの少し練習しただけで、私は大変なエナジーを出せるようになりました。自分でも分かるほどのエナジーです。しかし仙人は決して自分自身のエナジーを出さないで、宇宙のエナジーを出します。その方法も教わりました。
 宇宙と一体になるための「天人合一の法」・・しかしこれが完成しないとローブの授与はないかも知れません・・。

導師2(1999/07/19)




導師の家の屋上から二つの方向を見た風景

 導師はマンションに住んでいます。意外かも知れないが、現代の仙女はマンションに住んでいるのです。それもペントハウス(最上階)です。
 そして結婚までしています。そして子供までいます。旦那さんは京本正樹に似て、大変にカッコいいです。
 子供は三歳で、とてもとても甘えん坊です。導師が出かけようとすると「マミ〜〜」と泣き出してしまいます。男の子なのにです。導師はしようがないから引き返し、子供を抱きしめてあげます。すると泣き止みます。
 そう、彼女は主婦なのです。そう言えば孫さんにも子供がいます。彼女も主婦です。料理も大好きだと言っていました。
 導師の弟子の中で、前回、私の修行を手伝ってくれた女性がいました。私はてっきり
 女子大生だと思っていました。しかし彼女も三人の子供がいる主婦なのでした。今回子供が夏休みに入ってしまったため、私の修行の手伝いには来られなくなってしまった。
 さて、写真は導師のマンションの屋上で撮ったものです。最上階が導師の部屋なので、屋上は彼女のものらしいです。導師はここに仙人食のスープになる植物を植えています。
 そう、最近の仙女は、ガーデニングで仙人食を栽培しているのです(笑)。私は前回の時空の旅のとき、このスープをずいぶんとご馳走になりました。大変に美味しいです。しかし日本にはない植物らしいです。
 屋上の写真を見てもらえば分かりますが、一方は都会です。もう一方は山々です。
 そう、導師は都会と山の境に住んでいます。決して山の中にこもっているわけではありません。人里離れたところで暮らしているわけではありません。
 ここが重要なポイントです。本当の導師は世俗を生きなければならないと、私は思います。善悪の両方が充満するマーケットの中で生きなければなりません。
 真の覚醒は、山水画の洞窟の中では起こり得ません。そこで起こってどうすると言うのだ・・・と私は思います。

 同じことは悟りについても言えるでしょう。仏陀は家庭を放棄しました。キリストは放浪者でした。
 確かに彼らは凄いです。悟りを得ました。光明を得ました。人類を代表する覚醒者として相応しいでしょう。しかし私が一点だけ気に入らない点があります。それは彼らが世間を捨てたからです。
 私達は世俗を生きています。家庭を守らなければなりません。今いる会社を放り出して悟りの旅に出るわけにはいきません。仏陀やキリストはすごく参考にはなりますが、私たちとは基本的な生き方が違っています。
 私は思います。本当の覚醒は世俗の中で起こらなければならないと・・。
 私はずっと導師の真実をここに出しませんでした。
 「森田さん、仙女に会ったんでしょう? もちろん山の中に住んでいるのですよね」こう訊かれます。マンションに住んでいると答えると、「それ、本物じゃないわよね」と言われます。私達の先入観は恐ろしいです。イメージが合わないと、排除しようとします。
 主婦で子持ちでマンション暮らしで・・・もはやそれは仙女ではないと。
 しかしよく考えてみましょう。この方がインパクトがあるのではないでしょうか?だって物理的条件は我々と同じなのです・・・。本人はカスミで生きられても、家族は養えません。なのに彼女は我々とは違った世界を生きています。
 しかし導師はラッキーにも地の利のいい場所にいました。導師は長いこと香港にいて、それからシンセンに移りました。それで文化大革命もやり過ごすことが出来ました。道教を極める中で、その地区にこんなに風水が流行ってくるとは思わなかったに違いありません。
 今の導師は引っ張りだこです。毎日風水の依頼があります。導師は直接エネルギーの流れを見ることが出来るからです。風水版など何も要りません。
 「あーー、まただわ」と電話があるたびに呟きます。そしてマンションの下に降りると、黒塗りの車が迎えに来ています。会社の社長が導師を迎えに来たのです。
 最初私は、導師は何故こんなに顔が広いのかと思いました。理由は風水の依頼でした。経済振興都市のシンセンは、まさにぴったりの場所です。現代の仙女は食うに困りません。
 しかし導師は決して世俗に染まってはいません。修練を積み重ね、天人合一と時空の研究を続けています。

 さて、なぜ彼女は私に対して、これほどまでにしてくれるのでしょうか?実はこれは、私にとっても大きな疑問点です。何日一緒に行動しても、私がお金を払う必要はほとんどありません。だって、行く先々で導師にお世話になった人達が出してくれますから・・。
 それにしてもこれほどしてくれるのは、いったい何の目的なのでしょう・・。導師の経済状況から見て、日本マネーに興味があるわけでもなさそうです。
 やはりどう考えても、「同士」が欲しいのではないかと思います。それは私と導師の出会いから始まりました。私は導師と北京で偶然に出会いました。
 それは、別の人に私の調査結果を話しているときでした。近くで私の話を熱心に聴いている女性がいました。それが導師でした。
 「あなたはどうしてこんな研究を、自分の身を危険に晒してまでしているのですか?」
 「私が何故ここにいるかが知りたいからです。」
 この答を離れた位置から聞いていた導師は、その後、長いこと私を見つめました。うーーん、孫さんとの最初の出会い以来でした。すごい目で見つめられたのは・・。
 その後シンセンに招待され、今までの成り行きとなりました。
 「なぜ導師はここにいるのですか?」まだこの質問はしていませんが、おそらく「天の意志によるのかも知れません。私は天に背くことが出来ないのです」という答が返ってきそうです。彼女は、いつも全体(時空)と共に生きているように見えるからです。
 私が時空の旅で受けたインスピレーション・・本当の自分を知ることは、本当の自分であることとは別のことです。
 私は天(神)を経験した・・こんなことはおそらくあり得ません。私が神だとすれば・・。
 同じように、「ああ、これが本当の私だ!ああ、これが天命の仕事だ!」そんなこともあり得ません。本当の私であるとき、天命の仕事をしている時、意識できるはずがないから・・。
 だから世俗で悟ることは、いかに大変か・・。だってプロではないですから。
 主婦をして、風水で食べている彼女はプロなのでしょうか?毎日を平凡に暮らしている人達は道から外れているのでしょうか?
 誰しも仏陀やキリストのように、世俗を離れるのが良いのでしょうか?あなたは自分の生き方を変えるべきでしようか?そして私は、そしてあなたは、何故ここにいるのですか?

いろいろ(1999/07/20)

 こんな時間に起きてしまいました・・。だから、つれづれなるままに書きましょう。
 導師は、なんか厳しい人なんじゃないかと思っている人がいるかも知れません。彼女の写真は出してはいけないし・・。
 彼女はとてもよく笑う人です。いつもニコニコしています。いつも楽しそうです。三次元で生きている人(笑)に対して、怒ることなどないと思います。
 ただ、私達のような弟子(笑)が、彼女の教えに反する概念を言ったとき、「NO!」と言います。それだけは譲れないという感じで・・。
 だから彼女が反対していくのは概念だけです。私など何度「NO」と言われたか、分かりません。歯が立ちません(笑)。
 私と導師のパネルディスカッションをやったら、さぞかし楽しいと思います。私と導師は、けっこう頑固に張り合いますから・・。
 絵とかイラストがたくさん入った道教の本を日本から持ってきているのですが、これを導師の見せると、半分くらいは「NO」と言われます。つまり日本人が思っている道教は、かなり誤解しているようです。
 だって日本の道教の本には、天人合一とか還童功とか、出てきませんから。
 導師の写真を出せないのは、有名になりたくないという気持ちが多いからです。だから名前すら出せません。
「私の名前を出すのではなく、概念を出すのならOKよ」と言われています。

 道(タオ)には目的がありません。これは重要なポイントです。幸福になるとか、神の世界に行くとか、調和を目指すとか・・そういうのが無いのです。ただ、ひたすら「道」なのです。
 道(タオ)には目的がありません。目的は未来だからです。未来という概念は道(タオ)にはありません。
 状態こそが素晴らしいのです。状態を楽しめばいいのです。生を楽しみ、その先に何があるななんて考えずに・・今、この瞬間を生きればいい・・それが道(タオ)みたいなのです。
 世界には神がいない宗教は三つあります。仏教とジャイナ教と道教です。あとは全て神がいる宗教です。神がいる宗教は定義しやすい宗教です。例えばこの世界を神様がお作りになったと言えば良いのですから・・。
 しかし神がいない宗教には、基本的に道(タオ)しかないのではないでしょうか?
 明日は、導師の導師について書こうと思います。導師の導師・・それは本当の仙女です。まだ生きています。
 導師の導師の導師・・この話も面白いです。実は、みんな女性なのですよ。男性は一番弟子にはなれても、なかなか歴史に残る仙人にはなれないのです(笑)。
 この世界は奥が深くて、本当に面白いです。導師が夢物語のような話を始めると私が目を輝かせて聴くので、導師も乗ってきます。
 ここ数ヶ月で、導師は大変英語力がアップしました。これは香港の弟子から一生懸命に教わっているからです。その目的は私に伝えたいからだそうです。
 「だからシンデンシェン(森田健)は、中国語を勉強しないとね」と言われています。
 私は語学が嫌いなのです、ホント・・。
 明日は、いよいよ導師の導師の話を書きます。そのとき画像を使いますが、やはりインターネットの威力は大きいです。
 さて、そろそろ四時になります。また、寝ましょう。

私の部屋での瞑想(1999/07/20)


私の部屋での瞑想風景

 私は調査に出るときはいつもスイートルームを取ります。ここ中国では物価が安い関係上、この部屋でも6千円くらいしかしません。
 いつもこの部屋には誰かが出入りします。今日も導師が来たり、弟子が来たりしています。そして簡単な道場に早変わりします。
 北京でもスイートルームを取ります。それは孫さんの仮設実験室になるからです。
 同じ部屋にベッドがあると雰囲気が良くないし、お客さんの方でも訪れにくくなります。
 ご覧のように、この部屋はたいへん素晴らしい部屋です。何しろオープンしたのが昨日なのです。私はオープン前からずっと泊まっていたのです。ですから、全ておニューです。
 以前、時空の旅の修行をしたのは、もっと山の中のホテルでした。今回はふもとまで出てきたのです。
 しかし導師の家から3分の距離に、しかもこんな人里離れた場所にこんな素晴らしいホテルができるとは思いませんでした。

 さて、私の修行は人に言ってはならぬと言われているのです。その理由は以前書き込みしたので、ここでは省略です。しかし、このくらいはいいだろうと思って写真をアップしました。部屋を撮るついでに撮れてしまったと言えば済みます(笑)。
 道教の瞑想は通常の瞑想ポーズをとりますが、手がちょっと違います。片方の手が丹田の所に行っているのが見えると思います。そしてもう一方の手は、足の平に当てられています。このポーズを30分おきに左右を変えるのです。
 エネルギーの循環が道教のポイントです。エネルギーで天人合一をしながら、精神も天人合一をしようという訳です。
 私が着ているのは道教の修練服です。修練服は木綿か絹でないとだめだと言われています。私のは木綿です。工業製品はだめなのです。


仙人のスープの植物

 導師の屋上で栽培されているものです。中央の植物がそうです。この葉を茹でてスープにして食べるのが、仙人のメインの食事です。
 この枝を少し持ち帰って挿し木にしようと思ったのですが、検疫を通過したりするのは大変そうなので諦めました。
 とにかく、とても美味しい葉です。何か、うまい方法はないものでしょうか。

禁断の写真(1999/07/20)


パーティー会場での導師

 出してはいけないと言われていながら、この写真なら分かるまいと思ったのです。禁断の導師の写真です。少しピンぼけだし、これなら分からないでしょう。
 これは、私へのローブ授与式のセレモニー会場を、ホテル内で選定している時に撮った写真です。ダンスホールにいて、照明も点検していたときなので、こういう色の効果が出てしまいました。決して髪をピンクに染めているわけではありません。
 もともと導師は大変にエキゾチックな雰囲気を持っています。着ている服は大抵自分で作ります。どこに出ても、まったく物怖じしない点はさすがだと思います。
 この人が真っ白いロープを着て瞑想し始めると、凄いエネルギーを感じます。

<追補>
●瞑想
 通常はソファーの上ではなく、床で行います。そのシーンを撮ると、まるで瞑想がメインに見えるかと思ったのです。本来はちゃんと背筋を伸ばして行います。しかし普通の瞑想よりも疲れます。だって丹田に当てている手は宙ぶらりんですから。
●導師の写真
 導師は道教の関係の時には、ちゃんと道教系の服を着ます。それも自分でアレンジしたものなので、非常にトレンディーな感じです。オーソドックスな道教の人が見たら、ぶっ飛んでしまうかも知れません。
●私のPC
 導師もPCを持っています。弟子達はほとんど香港住まいなので、当然インターネットはやっています。やばいです・・ホント。
しかし、私の性格はもうばれているはずです。だから、このくらいは黙認されているのかも知れません。一つの救いは、日本語が出来る人が弟子の中にはいません。

導師の導師(マスター)(1999/07/20)


マスターが描いた絵

 導師の導師を導師はマスターと呼ぶので、ここでもマスターとしましょう。
 というわけで、この記事では導師という単語とマスターという単語がたくさん出てきますから、混乱しないようにして下さい。私が今会っているのが導師で、導師の先生がマスターです。
 さて、マスターはまだ生きています。女性です。たぶん150歳から170歳前後でしょうか・・歳はちょっと不明です。四川省なので、ここ広東省からは少し遠いです。
 四川省は仙人のメッカです。四川省に生まれた導師は、小さい頃から仙人に付いて教えを受け始めます。決して親が仙人の所に連れていったのではありません。自分でトコトコ歩いて通っていたのです。
 導師は結局13人のマスターから指導を受けます。その中でも最も親密になったのが今回お話するマスターです。
 導師はボジン密法という秘伝を直伝された三代目の仙女だと言われています。そう、二代目がこのマスターなのです。
 マスターは不溺法と言われる術で、水の上を歩くことが出来るそうです。その他にも沢山の技を持っているそうです。
 しかし、一番の得意技はボジン密法です。人を時空間を越えた世界に連れて行くことが出来るのです。私自身、「時空の旅」というものを経験させてもらいました。
 空間や力をコントロールできる仙人は沢山いますが、時空をコントロールできるというのはマスターと導師だけなのです。
 ですから、道教年鑑のグラビアページをマスターが飾っています。そのマスターの隣には、導師が写っています。

 さて冒頭の写真は、マスターが書いた絵です。昔の中国のランチ風景を描いたものです。
 私はこれを見て驚きました。これは100歳をだいぶ過ぎてから描いた絵です。
 絵そのものはとても大きいです。横は3メートルはあるでしょう。とにかく素晴らしい絵です。そのオリジナルの作品が導師の家にあるのです。たぶん、コピーはどこにも存在していないでしょう。
 この絵の他に、沢山の作品を見せてもらいました。素晴らしい切り絵もあります。
 そう、マスターは芸術家なのです。
 仙女は山にこもって修行している?とんでもありません。世間を離れて自然と共にだけ生きている?とんでもありません。
 マスターは俗世間で絵の具を買い、カンバスを買い、作品を作るのです。その合間に時空を操り、水の上を歩くのです。
 実は導師の瞑想室にはピアノがあります。導師はピアノを弾くのです。仙女がピアノ?まさにそうなのです。
 それだけではなく、導師も沢山の芸術作品を作っています。私は彼女が翡翠で作った亀の置物を頂きましたが、それはそれは素晴らしい作品です。
 導師は衣服も全て自分で作ります。だから私が貰える予定のローブも彼女自身の作品です。
 仙女の内側には、大変な創造エネルギーが秘められているのではないでしょうか?

 実は、私は自由と悟りについて悩んでいました。その解決のヒントをここで得たような気がします。
 「自由=自然との距離」と私は考えいますので、その距離が離れれば離れるほど人は自由です。自由・・それは創造エネルギーに昇華するものだったのではないでしょうか。
 仏陀は何か作品を作ったでしょうか?キリストは何か作品を残したでしょうか?
 もちろん生き方そのものが芸術だったという見方もあります。
 しかし芸術はどこかで俗世に埋もれていないと出来ないのではないでしょうか?私はそう思います。
 善と悪が混在する俗世で芸術は生まれるのではないでしょうか。分離感が芸術を生み出すのではないでしょうか。
 導師は主婦であり、導師であり、最後に芸術家でした。もうそれで十分です。教えを垂れる必要など何もありません。
 しかし私たち凡人は、偉大な芸術家になる必要はあるでしょうか?伝道師になる必要はあるでしょうか?世間を捨てる必要はあるでしょうか?
 平凡な中に一時一時を生きていくことが、天人合一のあるべき姿のような気がしてなりません。芸術は絵画や音楽の世界だけではないですから・・。
 私達にしか出来ない仕事をすること、これも芸術であり、天の道だと思います。
 ここにちょっとした書き込みをすることも、素晴らしい天の道だと思います。
 私たちが肯定的な眼差しで相手を見つめること、これも素晴らしい天の道です。
 そう、仙女達は「生」をとても肯定して生きているのです。理屈は二の次・・だから道(タオ)なのかも知れません。道(タオ)に目的がないように、「生」にも目的がないのかもしれません。
 明日は導師のマスターのマスターの話を書き込みましょう。

マスターが書いた絵の全体(1999/07/20)



 この他にもたくさんの作品があります。
 画像があるとは言え、画像がなければ、今回の記事はインパクトが無いと思います。
 しかし実際に絵を見ている私と、PCで見ているみなさんとの違いはどのくらいあるのでしょう?
 私はこの絵が140才前後で描かれたと知って、もうそれはそれは・・仙女のイメージを完璧にくつがえすものに充分だったのです。
 みなさんは、どうでしょうか?ふーーん・・だったかも知れません。
 私は仙人とは風のように生きていると思っていたのです。何にも逆らわずに・・・世間などどこ吹く風で・・・。
 しかしこの絵のインパクトは別でした。「創造力」という、何か仙人には相応しくないものを見てしまったのです。
 だからこの記事は面白いなどと、別のコーナーで宣伝したりもしました。
 しかし、仙人に対するイメージが崩れなかったみなさんにとっては、どうってことなかったかも知れません。
 生を燃焼させると早死にするのではなかったでしょうか?
 私はこの絵がとても好きです。導師の家を訪れたとき、毎回、見入ってしまいます。

マスターが書いた伝授書(1999/07/21)


マスターが書いた伝授書

 導師の瞑想室には大事なものがあります。それがこの写真です。
 これは分厚い本になっています。しかしたった一冊しかありません。なぜならマスターが導師の為に書いたからです。それを導師が製本しました。だからこれは墨で自筆で書いてあります。
 まず、写真に写っている部分を見て下さい。「男女和合、陰陽和合」という文字が見えるでしょうか?
 この本はマスターの教えのほとんど全てが入っていますが、あらゆるところに「和合」という文字が出てきます。
 そう、道教は陰陽に分かれることが強調されていますが、これは和合するためにあるといっても良いと思います。
 「静」の状態が「陰陽分離」で、「動」の状態が「陰陽和合」だと、私は勝手にインスピレーションで解釈しました。本全体から受ける印象がそうなのです。
 悟った状態・・それは道教で言えば陰陽和合でしょう。しかし止まっている状態ではないと思うのです。
 「ああ、私は陰陽和合した(悟った)。だからもう山の中に暮らしていても、いいんだ」こんな状態はあり得ないのです。
 「光明を得た。だから私は内側の世界で暮らしていけばいいんだ」こんな状態ではあり得ないのです。
 西洋は外側で、東洋は内側・・・なんと私達は誤解していたのでしょうか。
 内側に入って瞑想していればそれでOK?・・なんと私たちは誤解していたでしょうか。
 東洋は内側と外側でした。自由と悟りの問題・・このどうしても引っかかっていた点は、やはり重要なポイントだったような気がします。
 私達は悟った状態だけでは生きていけないのです。それを「動」の状態に転換しないといけないのです。
 全てに陰陽があると認識することは、キリスト教的に言えば、エデンの園から出てきたことになるのでしょう。この認識はとても大事です。
 世界の全ては分離している。男も女も、私もあなたも・・。
 それが一つになれば「無」になるんだよ・・仏陀はそう教えたと思います。実は道教も言葉の上ではそう教えています。天人合一は1−1=0だと。
 しかしそれはあくまで言葉のあやです。
 道教は決してマスコミに乗ることはありませんでした。マスターの書いたものは、出版してはならなかったからです。
 それが衰退する原因でした。インドから仏教が入ってきたとき、道教は為す術もありませんでした。あっという間に中国は仏教に支配されてしまいました。
 何故でしょうか。それは般若心経があったからではないでしょうか? あれはマスコミに乗ります。印刷によって大量生産がききます。仏陀の教えは印刷物の形で一気に広まりました。キリスト教も同じです。聖書によって大量生産されました。
 もしかして、般若心経も聖書もなかったら、仏教とキリスト教は、本物のまま伝わったかも知れません。権力の道具にはならなかったかも知れません。
 道教はどんどんマイナーになりました。一部のマスコミに乗った書物には、本当の道教は書かれていませんでした。

 私が導師の家で見た、この写真に載っている書物は、たった一人のためだけに書いたのです。その本から私が得たもの・・陰陽は、「動」で合一する。
 どんなに口で偉そうなことを言ってもしようがないのです。理論を体系づけてもしようがないのです。内側が全てだと言って毎日瞑想していても、しようがないのです。
 私達には相手が必要です。自分が陰なら相手は陽です。男が陽なら女は陰です。しかし、どっちがどっちでもいいのです。その定義の仕方は問題ではありません。そんな知識は知らなくても良いのです。
 分離した二つが合一すること・・相手が人間なら愛するという行為でしか出来ません。
 分離した二つが合一すること・・相手が自然なら創造という行為でしか出来ません。
 行為すること・・・これが全てだと思ったのです。ただしこれは、私がこの本全体から受けたインスピレーションに他なりません。
 私達はどこから来て、どこに向かっていくのでしょうか?
 行く所だけを言えば、私達はどこに行く必要もありません。身近なところで小さな合一を果たすだけで良いのです。
 このマスターは世界を変えようなどとは、思わなかったのでしょう。悟りをみんなに知らせようなどとは思わなかったのでしょう。たまたま知り合った人が道を求めていれば、その人にこの本を見せれば良い。そう思ったのでしょう。
 この本は素晴らしいです。何しろ文字が美しいです。ゆうに100歳を過ぎて、こんなに美しい文字が書けるでしょうか?
 導師はこの本を眺めて言いました。「マスターは素晴らしい。なのに私はほんとに、ちっぽけだ。」
 彼女は二度も、この言葉を言いました。片言の英語で「アイアム・ベーリーベーリー・スモール・・」
 もしも彼女がこの本を印刷物として手にしていたら、この台詞が出てきたでしょうか? 彼女はこの本と一体化しているから、この台詞が出てきたのではないでしょうか。
 それは世界にたった一冊しかないからです。彼女のためにだけ書かれた本だからです。だからこの本の前では、完璧に謙虚になってしまうのではないでしょうか。
 部屋の隅には、私だけのためにデザインされた、作りかけのローブがかかっていました。
 私達の周りにはかけがえのない人達がいます。家族、会社の同僚、友達・・こういう人たちを、自分の方法で愛すればいいんです、きっと。世界全体を愛する必要はないんです。
 マスターはそんなことを知り、教えはたった一人のために書き、誰にも売ろうともしない絵を描いて暮らしているのでしょう。
 導師は、私をマスターに会わせたいと言ってくれました。

ホテルのおネエちゃん(1999/07/21)




ホテルのおネエちゃん

 山のすぐ脇に立っているホテルにしては、中はゴージャスです。一階には素敵なレストランがあります。レストランのおネエちゃんも、ご覧の通りです。
 しかし、私は一人で中華レストランで食べることはほとんどありません。中華を毎日食べると、どうも調子が良くないのです。
 だから外の屋台に行って、小麦粉で出来たお餅のようなものを買ってきます。これはインドで言えばナンやチャバティに似ています。日本のお好み焼きにも似ています。これはシンセンの名物です。
 北京に行くと、鍋や釜がホテルに預けてあるので、それで自炊します。おかずはキャベツの茹でたのだけしか自炊しないので、簡単です。ご飯は天津米を炊きます。
 レストランではほとんど食べないのだけれど、おネエちゃんには毎回挨拶するので、最近は向こうから微笑みかけてくれるようになりました。ロビーを通過する時のひとときです(笑)。
 ホテルの外はご覧のように、すぐに山になっています。この道を2分ほど真っ直ぐ行くと、導師のマンションです。ここには写っていませんが、道の左側、すなわち山の中腹にあります。そこから見るシンセンの夜景は絶景です。
 それでも、山々がこんなに近くにあると、気分は最高です。私の自宅は世田谷ですので、こういう風景はありません。もしもこれを読んでいる方の中で山々が見えるところにすんでいる人がいたら、その人は幸せです。
 スイートは最上階(それでも8階ですが)にあります。外は35度の気温です。前回の時に時空の旅の修練をしてしまって、本当に良かったと思います。
 今は冷房の効いた部屋で、窓から外を眺めながら、天人合一の修練をしています。・・これで修練になるのでしょうか?
 ちなみに、導師の家にはクーラーはありませんでした。たぶん、経済的な理由ではないと思います。しかし山の中腹なので、風は涼しいのですが・・。

導師の作品(1999/07/21)


導師が作った電気の笠

 導師の家の天井には、導師が作った電気の笠がありました。もちろん、デザインを彼女がして、誰かに作らせたのです。
 彼女の家にはこういうものがたくさんあります。絶対に買った方が安いのに、その方が手間が掛からないのに、自分で作るのです。
 衣服のほとんどを自分で作ることは書きました。屋上に仙人食の菜園があることも書きました。
 しかし工業製品があるのにも関わらず、電気の笠まで作ります。たぶん、これが本来の生き方かも知れないと思いました。プロでない芸術・・。
 ホテルと導師の家が近いこともあり、私は何回か家で食事をご馳走になりました。世俗化されたオリジナルな仙人食が出てきます。これもまた、とても楽しいのです。
 ところで絶対に写真に撮らせてくれないものがあります。六次元の図が書かれた鏡です。
 正確には透視ミラーのようなものです。円形蛍光灯の下に付けてあります。だから瞑想室の電気を点けると、その六次元の図を通過した光で満たされるのです。
 「シンデンシェン(森田さん)、あなたは理系だから自分で作れるでしょう」と言われました。そうなのです。自分で作らなければならないのです。しかし正確な六次元の図を、未だに書くことが出来ません。
 しかしそうやって自分の空間を自分でアレンジし、瞑想を楽しむのも、実に良いと思いませんか?

導師のマスターのマスター(グランドマスター)(1999/07/21)




鶴に乗って昇天するグランドマスターとグランドマスターの像

 昨日は導師のマスターの話をしました。今日はそのまたマスターの話です。だから私が勝手にグランドマスターと呼ばせてもらいます。
 グランドマスターは張麗英(サンリュイン)といいます。
 この仙女は伝説化されています。道教では常識の仙女なのですが、私には全く知識がありません。まぁ、伝説を持ち上げて騒いでもしようがないのですがね。
 一つ重要なポイントは、グランドマスター→マスター→導師の流れが全て女性なのです。男性は弟子にしかなれなかったという話もあるくらいです。
 今回、初めて教えてもらった天人合一の修行法は、身体が柔らかくないと出来ません。身体の一部を柔らかく回転させて、時空のエナジーと一体化するのです。  「シンデンシェン(森田健)よ、あなたは堅い」と何とも指摘されました。
 柔軟性、柔らかさ・・どうも基本はこれにあるようです。だから男性向きではないのです。
 仙女は自分で植物を採取してスープを作り、自分でデザインして衣服を作り、さらに子育てをして、さらにピアノを弾き、さらに芸術作品を作ります。
 それはどうも男性には向いていないような気がします。男性はどこかで攻撃的であり、どこかで論理的なような気がするからです。
 日本に伝わった道教の半分が間違っているように、仙人という男性像も、どこかで日本人に存在する男性優位の意識が、仙女を仙人に入れ替えてしまったような気がします。
 このグランドマスターも、マスター同様に自筆の書き物を残していますが、それはそれは美しい文字です。芸術作品も多数あったと言われています。たぶん、マスターはそれに惚れたのかも知れません。
 現に導師は、鶴に乗ったグランドマスターの着ている衣に大変惹かれています。私にプレゼントするローブも、「これと同じのを作りたいんだけどねぇ」と言いながらも、「私の力が足りなくてねぇ・・しかしこのマスター・サンリュウインの着ているローブは素晴らしいねえ」呟いています。
 導師の瞑想室には祭壇のような所があります。そこには仏像があったので、てっきり道教関係の仏像かと思いました。しかしその像はサンリュインだったのです。
 像になるくらいですから、相当な女性なのでしょう。その像の上には老子の像がありました。それが道教の祭壇なのです。
 私へのローブ授与セレモニーは明日、7月22日となりました。そのとき、道教の大事な教えを書いた本もプレゼントしてくれるということです。
 「シンデンシェン(森田さん)、中国語を勉強してね」と言われました。
 グランドマスターはまるで天女です。しかし実在の女性なのです。

仏陀の悟り(1999/07/21)

 私は明日、何人かの弟子と合流し、修行をします。修行と言っても、みなさんが考えているものとは相当な差があると思います。山を散策することだったりするのです。
 修行法は内緒だとされています。だから導師を日本に呼んで講演会などということは、あり得るものでしょうか?
 私はここに仏陀やキリストの本も持ってきて読んだりしていますが、それとはかなり異質なものを感じます。
 仏陀は「全世界の人が救われるまでは、私はニルヴァーナ(天国)には入らない」・・とようなことを言ったらしいです。
 しかし道教、それも仙女に関しては、「世界など知ったこっちゃない」という、まさに私の台詞そのもののような気がします。興味は自分の目の前のあなただけなのだという・・・。
 私は仏陀の悟りを否定してはいません。しかし「全世界の人が救われるまで・・」という台詞は、ひょっとしてマイナスエネルギーとして残ってはいないでしょうか?
 もっとも、仏陀は別の意味で言ったのだと思います。「世界と私は切り離されてはいない。だから私と同時に光明を得たはずだ」と言ったのだと思います。
 しかし般若心経を残してしまいました(彼が残したのではなかったのかも知れませんが・・)。マスコミに乗り、「全世界の人・・」という台詞はマイナスエネルギーを持つようになったのではないでしょうか?
 全世界の人が救われるまで・・・よく考えてみて下さい。この台詞は現在、全世界の人は救われていないと言っているのです。おそらくこれは仏陀の台詞ではないと思います。この台詞には未来があります。仏陀には未来はなかったというのが私の考えですから・・。
 瞬間に生きるものに、未来はあってはならないのです。
 私は今回、導師だけでなく、マスターのマスターまで遡ることが出来ました。そこに感じたものは、私が思っていた仙人像を覆すのに充分なものがありました。
 芸術作品しかり、直筆の書しかり・・・どちらも生命に溢れているのです。
 生命エネルギーを節約して、長生きにだけ興味をつぎ込んだ人ではありませんでした。
 全く個人的に芸術を楽しむ人。それも身近な人に対してだけ・・そういう人でした。
 瞑想を重ね、内なる宇宙に酔っている人・・そんな人の対局にもあります。
 宇宙船地球号を救うため、人類の意識を高めようと触発しようとしている人・・そんな人の対局にあります。
 善行を重ね、良い人間に成長しようとする人・・そんな人の対局にあります。
 仙人仙女・・とても不思議な魅力があります。私はまだ、ほんの隙間を垣間見ただけなのですが・・。

 明日は深夜までパーティーでしょう。
 導師だって酒を飲みます。彼女は普段はワインを飲みますが、この間、日本料理屋に風水の仕事で出かけたときは日本酒を飲みました。何回もおちょこで「乾杯」をやりました。
 もちろん普段は肉も食べます。しかし明日の授与式には肉は出ませんが・・。
 パーティーは凄いです。広東式乾杯をされると、お互いに完璧に一気飲みしなければなりません。そのために、今からエナジー回転の修行をしておこうかと思います(笑)。
 弟子はかなりのインテリです。しかし何でコイツらが導師の弟子なんだ?と思わせる行動をいつもとります。瞑想を15分でダウンし、横になってグーグー寝てしまう人もいるのです。残った人は、そのいびきの中で瞑想を続けなければなりません。
 しかし導師は笑っているだけです。あとで弟子達が彼を羽交い締めにすることはもちろんですが(笑)。
 明後日は香港に行きますが、香港の一日を手配してくれるのは、いつも羽交い締めにされている彼です。しかし妙なところで彼から気付きを得たりもします。彼は既に仙人ではないかと思うときもあります。
 このスイートルームもそのうち彼らでごった返し、PCどころではなくなるはずです。それに間違っても、私が投入した画像が出てきてはまずいですから。
 道教は規律に厳しいという先入観がありました。それは全く逆です。
 仙人の芸術作品・・これは永久に個展などにはならないのでしょう。
 仙女は本当に「個」が無いのでしょうか?個がなければ当然エゴも無いですが、全体と一致しながら個を保っている・・そんな感じがします。
 自分の三歳の子供が泣き叫べば、当然怒ったりもします。あっちへ行っていなさいなんて言います。それは普通の主婦と違いはありません。
 「アイアム、べーりーべーりー、スモール」こう言う時の姿も、普通の人間です。いえ、普通以上に普通です。
 では、何が違うのか?・・と考えてみても、思い付きません。

寝ながらずっと考えていたこと(1999/07/22)

 仏陀に絵を描けと言ったら、描いたでしょうか?何が言いたいかというと、悟った人間に、芸術は出来るのでしょうか?ということです。
 芸術って、ある種の生の葛藤がないと、生まれてこないような気がします。だから仏陀やキリストが描いた絵なんて、そこに何かあるのでしょうか?何の葛藤もない世界を描かれたって、感動しないような気がします。
 宇宙人ユミットという本には、地球から悪が無くならないのは、芸術があるのが原因だと結論づける場面があります。そして地球をアセンションするためには芸術家狩りをする必要があると・・。
 これってよく分かります。悪が消えたときに芸術も無くなると・・。善だけの世界の芸術なんて、見たくもない・・。
 仏陀は世界中の人々から苦しみを除くのだと言ったそうです。そうでないと、私はニルヴァーナには入らないと・・。
 しかしよく考えたら、これは宇宙人ユミットのやろうとしていることかも知れません。人の苦しみ、人の苦悩は「勝手」かも知れません。
 宗教の布教は、マスコミを通じてやるものでしょうか?ここでいうマスコミとは、般若心経や聖書の「印刷媒体」を意味します。
 この世界から全ての教典が消えたら、人々は救われるでしょうと言った人がいます。私はその考えに賛成です。
 道教がとってきた個人的伝授は、やはり正解かも知れません。

 それにしても、仙女の作品には本当に感動させられました。
 彼女達は生きるという行為の中でしか、自然との分離(距離)を克服できないということを悟ったのではないでしょうか。その行為は、書物にすることが不可能なのです。
 自転車が止まればひっくり返るように、生は、止まった状態での無(自然との距離の消滅)はあり得ないと知ったのではないでしょうか?
 これは仏陀の悟りとは別なような気がします。
 瞑想して全て解決?・・冗談じゃないと仙女に言われそうです。
 悟り・・それはスタートラインなのです。彼女達にとって・・ゴールではないのです。
 これを読んでいるみなさんにも訊きたいです。「仏陀やキリストには芸術はあるのでしょうか?」いえ、どうして作品がないのでしょうかという質問でも良いのです。
 悟った・・すなわちスタートラインに立った彼らは、何かを創造したいという欲求はなかったのでしょうか?
 そういう欲求はエゴでしょうか? 個を落として、芸術があるのでしょうか?
 私は個を落としたら、芸術をする必要はなくなるような気がするのです。エゴが無い世界に芸術は無いような気がするのです。
 では、仙女の悟りは、悟りではないのでしょうか?
 私は長いこと、マスターの描いた絵に釘付けになりました。
 自由と悟り・・その問題は間違っていなかったと思いました。
 悟れば内なる世界で十分なはずなのに、彼女は物質の世界で作品を作りました。教典は書かずに作品を描いたのです。その説得力や、凄いものがあります。
 彼女は生を燃焼させています。なのにどうして長生きができるのでしょうか?芸術家は早死にですよ。きっと何かが違うのです。
 私が伝授された天人合一の修行法は、自然のエネルギーの取り入れ方です。やはりエネルギーに解答があるのでしょうか?
 色々なことが頭を巡り、とうとう書き込むために起きてしまいました。
 さあ、これからまた寝ます。だって今日は授与式ですから・・。

ローブ授与式(1999/07/23)




白のローブを着て記念写真を撮る私・・パーティーでの私

 とりあえず、経過のみの報告をします。
 授与式には約30名ほどが集まりました。道教の制服を着た長老、シンセン地区のお偉いさん、とにかく私は会場に入ってビビりました。私のスタイルは普通の修練服です。しかし革靴という妙な出で立ちです。
 授与式は中国語と英語で行われました。まず私の紹介があり、そのあと導師が喋りました。そして導師が「シンデンシェンにこのローブを授与したい」と言うと、長老達が頷きました。
 私が前に出ると、導師は中国式の素敵なお盆に二つのローブを載せて、私の前に持ってきました。そこには白と黒のローブがありました。
 とうとう私は仙人のローブを授与されました。
 その後、道教の大切な教えが書いてある書物と、導師の瞑想室にある道教の図を授与されました。そして司会者が「シンデンシェンのスピーチです」と言いました。
 私は英語でスピーチしました。フィリピンのことや、ブラジルのことや、モンロー研究所のことを喋りました。それを通訳が同時に中国語に直しました。
 ローブを着た写真は授与式が終わった時、弟子達と撮ったものです。残念ながら、黒のローブの写真はありません。
 その後ネクタイ姿に着替えて、主要メンバーと食事をしました。
 その後ホテルの宴会場はカラオケ会場となり、まず私と導師が「北国の春」、「サウンドミュージック」、「ソーラン節」をデュエットしました。導師もなかなか上手いです。
 二時間ほど歌ったでしょうか、会場の電気が少し暗くなり、社交ダンスに切り替わりました。写真の通りです。
 さて、そのあと会場は、なんとディスコと化しました。私は踊りまくりました。深夜までみんなも踊りました。
 これが道教の授与式の一部始終です。

よもやま話1(1999/07/24)

 ローブ授与式のよもやま話をしましょう。
 式が終わると、私はマスコミのインタビューを受けました。
 「六次元はどうだったですか?」「六次元では何かの存在に会いましたか?」
 実は二番目の質問が焦点となりました。私は誰にも会わなかったと言いました。
 するとインタビュアーは「でもそういう世界に行った人は、大抵、何かの存在に会っています。会って、なにがしかのメッセージを貰っています」と突っ込みを入れてきました。
 「そういう存在に会うのは五次元までです。六次元で遭遇するのは『全体』です。つまり拡大された自分自身です。分離した何かに会うということは、まだ次元が低いのです、おそらく・・・。」
 まぁ、これを英語で表現するのはかなり大変だったのですが、それをさらに傍で同時通訳が中国語にします。それを聞いたいた導師が、私の言った内容にいちいち頷いていました。
 やはり存在達がいる世界は、一つ次元が下なのです。彼らのメッセージをいちいち真に受ける必要はありません。
 さて、カラオケの話です。私はもともと音痴なので、カラオケは大嫌いです。ほとんど行きません。だからそれが始まった時は「まいったなぁ」と思いました。
 それでも私が主役だから歌わないわけにはいきません。弟子達がジャパニーズソングを選び出しました。北国の春がスタートしました。
 その時、導師がすっと立ってステージの私の傍に来て、私と一緒に歌い出したのです。
 彼女はものすごく上手でした。彼女は中国語で歌い、私はか細い声の日本語で歌いました(笑)。そのままサウンドオブミュージックのドレミの歌とソーラン節(笑)を二カ国語でデュエットしました。
 満場の拍手の中を席に戻りましたが、「シンデンシェンの声があまり聞こえなかった」とある弟子に言われました。私は「導師を立てたんです」と笑いながら言いました。
 その後、ソーシャルダンス、ディスコダンスに移りますが、いったい、これが道教のセレモニーなのでしょうか?私はディスコは大得意なので、私の踊りは大ウケしました。
 その後ロックミュージックに乗って、エナジーボールを作る修練が始まったのです。ほとんど遊びのノリです。このエナジーボールを作る動作は、まるでドラゴンボールの世界です。それを全員でロックに合わせてやったのです。
 仙女の修行は山の中では、あり得ないのです。

 ほとんど睡眠不足で朝を迎えましたが、朝は導師の電話で起こされました。半分中国語、半分英語です。一緒に朝食を食べましょうと言うのです。ホテルの一階で、導師の家族と食事をしました。
 そうそう、旦那さんも昨日の宴会には来てカラオケを歌いましたが、京本正樹に似ている彼は、抜群の歌唱力でした。負けます・・ハイ・・。
 そして食事が終わると、旦那さんがシンセンから出る香港行きのバス停まで連れていってくれました。
 そしてバスで香港まで行ったのですが、通関で二度もスーツケースごと降ろさなければならないのには閉口しました。私の荷物は孫さんへの実験器具のおみやげで、35キロあるのです。フーフー言いながら通関しました。
 シンセンから香港に入った途端、バスは日本と同じ左側通行になります。同じドライバーだと相当に混乱すると思います。
 香港では弟子達が待っていました。私は彼らにずっと案内してもらいました。



 この写真はビクトリア・ピークという、100万ドルの景色を見る場所です。ケーブルカーで上がっていきます。写っている女性は弟子の一人です。
 彼女が導師と出会ったのは、香港で原石装飾品展というのが開かれた時でした。3年前のことです。
 会場で作品に見入っている女性にとても惹かれ、声をかけたら導師だったのです。導師自身は自分の作品を出典しているわけではありませんでした。
 導師の弟子には何人かの女性がいますが、専業主婦は彼女だけです。彼女は道教に惹かれたのではなく、何となく生き方に惹かれたのでしょう。
 彼女は香港で生まれ香港で育っているので、仏教です。そう、香港は日本と同じく、ほとんど仏教なのです。しかし仏陀の世界と老子の世界はほとんど似ているのではないかと言っていました。

 この写真には出ていませんが、親しくなった男性の弟子がいます。彼も香港の人です。
 ビクトリアピークでコーヒーを飲みながら、私達は長いこと喋りました。彼ら弟子達が私を香港に呼んだのは、語りたいからだったのです。
 何故かって、彼らは長いこと導師の弟子でありながら、まだローブを貰い受ける話をされていないのです。何と、伝の中では新参者の私が最初だったのです。
 私は、黒いローブを貰ったのが最初なのだと思っていました。しかしローブの授与式というのは、弟子達も始まって以来の出来事だったと言うのです。
 35歳の彼女は式のとき青いロープを着てましたが、「それ、なかなか似合うじゃない」と言ってもフンフンという顔しかしなかったのは、自分のローブではないのが原因でした。式が終わるとすぐに導師に返したのです。
 コーヒーを飲みながら彼女は言いました。「みんな、シンデンシェンに嫉妬しているかもよ(笑)」と。
 その後、私の六次元体験を喋りました。
 過去と未来を捨て去る経験をしたこと。個を捨て去り、全体と一致する経験をしたこと。
 ここまで喋った時、弟子達が言いました。「それは仏陀の悟りだ」と。
 しかし私は続けました。何週間かその状態に漂っていましたが、あることに気付いたのです。それはこの種の悟りはスタートラインであることを・・。
 仏陀は最後の悟りだとしています。それはそうです。だって個を捨て去れば、そこには何も残りません。あとは何もすることはありません。あとは全体(神)に身を任せるだけです、やることは・・。永遠のニルヴァーナが得られます。
 しかし、私はそれを越えたいと思ったのです。永遠のニルヴァーナ・・大変に誘惑される世界ですが、そこに浸ると、いわゆる成長はないのです。それでお終い、ジ・エンド。

 私は仙人の世界から何を感じたか、・・そう、陰陽の違いは常に意識して良いのです。それを私は「陰陽の差取り」とでも名付けたいです。陰陽を合一するのは「行為」でするのです。だから菩提樹の下で黙って座って悟って、それでOKではないのです。
 仏陀は教えを広めるのではなく、こんなにビューティフルな生活が出来るのだということを、生活で示せば良かったのです。弟子は黙ってそれを見ていれば良かったのです。
 なぜ仏陀はそうでないかというと、ジ・エンドだからです。悟りが「お終い」なのです。
 だから仏陀系の悟りの人は、一度悟れば二度と悟る必要はありません。その一度を求めています。なぜなら、一度悟れば個は全て落とされるのですから、二度と必要ありません。
 しかし、よく考えてみて下さい。個は歴史の中で発展しています。それには何かの理由があるのです。創造主の・・。
 個は一瞬、一瞬落とすべきなのです。それは創造的行為においてです。
 創造的行為というと凄い芸術を思い浮かべますが、そういうことをする人は、往々にして生活を切り離しています。
 それではいけません。下手をすると仏陀やキリストになってしまいます。所帯を捨ててエラソーな事をする人になってしまいます。
 そうではないのです。ほんの小さな自己実現を繰り返していくのが良いのです。あくまでも生活の中で・・・。
 そんなことを弟子達の前で喋りました。
 「シンデンシェンはすでに導師になっている。ローブが与えられたのは意味がある」と妙に感動して言ってくれました。
 もちろん私は永遠に旅の途中だと言いました。ローブも一時の通過点だと。
 さぁそろそろ、また彼らがこの部屋に来ます。今日も香港見物です。

よもやま話2(1999/07/24)



 授与式の様子を撮った写真が出来たのでアップしました。
 向かって左にいるのが司会者です。その脇から出て来ようとしているのが私です。まだ修練服の私です。導師はその右側で、ローブを渡そうとしています。
 しかしそのあと導師は突然引っ込めてしまい、私は大変に慌てました。オットットという感じで、前につんのめりそうになりました。
 なぜ引っ込めたかと言うと、導師が渡す順序を間違えたのです。ローブが先ではなく、道教の教えを書いた伝授書が先だったのです(笑)。
 結局私へのローブは、一番右にいる、青いローブを着た35歳の主婦に着せてもらったので、導師が私に手渡すという瞬間は撮れなかったのです。



 この写真は黒のローブに着替えたところです。
 向かって左の女性が主婦です。右が司会者です。司会者と私は、ほぼ同じ歳です。彼は私の六次元の旅の時、一緒にバンガローに泊まり込んで、手伝いのボランティアでした。
 この人です、15分しか瞑想できない人は・・・。そして六次元の旅の時も、15分でいびきをかき始めてしまいました。
 今回も彼は太っているので、なかなかローブのボタンが掛かりませんでした(笑)。
 しかし彼は大学の教授です。彼も今回の私の香港旅行に色糸とお手伝いをしています。彼と私は非常に親しくなり、8月の始めに彼は日本に来て、私と色々話す予定です。
 私が貰ったこのローブですが、結構重みがあるのです。特に黒は冬を想定して作られているのです。
 私はローブと一緒に、仙人の靴もプレゼントしてもらいました。これでバッチリというわけです。
 彼ら弟子の家族もこの会場には来ています。家族達もとても協力的です。
 しかし仏教なら分かります。仏教はお寺に行ったとき、先祖供養という名目があり、それはどこかに見返りを求めているところがあります。キリスト教も似たようなところがあります。教会に行って、神からなにがしかの見返りを求めないでしょうか?
 しかし道教は何があるのでしょうか?道(タオ)のみです。天は意志を持っているとはいえ、個人に働きかけるようなものではありません。
 実は、さっきの弟子達とのディスカッションで、道教にも神のような存在はいると聞かされました。それは老子なのです。
 老子は昇天して神仙になったと言われます。これはいわゆる神であり、修練を積んでいくと、必ずどこかで神仙のバックアップがあると言うのです。ある意味では道教も見返りがあるのです。
 さて、これから香港の夜景を見ながら弟子達と食事をします。ではまた。

香港最後の夜(1999/07/24)



 これは夜景をバックに思いにふける私(笑)です。私は全然見えませんが、ちゃんと笑っています。
 一流ホテルで食事をすると、どこのホテルからでもこのような夜景が見ることが出来ます。ここはリージェントというホテルで、かのマイケルジャクソンも泊まったと言われるホテルです。まぁ、誰が泊まろうと知ったことではないですが・・・。
 私はこのホテルの半額の名もないホテルに、弟子にさらにディスカウントしてもらって泊まっています。今日は私のホテルは、修学旅行生でごった返していました(笑)。
 しかし、リージェントホテルの夜景をバックに時空の話をするのも悪くありません。
 私は香港に泊まる予定はありませんでした。だって目的とするのは不思議な調査であり、それは香港にはないと思ったのです。しかし弟子達がどうしてもと言うので泊まりました。
 でも、たくさんの話を聞くことが出来ました。
 最初は、シンデンシェン(森田健)はシックス・ディメンション(六次元)に行ったらセックスが強くなっただろうとか、軽い話題で盛り上がったのですが、だんだん真面目な話になりました。
 その一つは、導師が超能力が出来るという話です。彼女は透視が出来ると言います。
 35歳の主婦は、導師と同じマンションに引っ越しました。導師に近づくためです。
 ある日、導師が事細かに彼女の生活について喋ったらしいのです。もちろん、プライバシーに関わることはOFFにしたと言いました。導師は、導師の住む7階から主婦の住む1階まで全て透視してしまったのです。
 またある日、枯れた花を、見ただけで若々しい花に生き返らせてしまったらしいのです。
 もうこれは孫さんがやっていることです。しかし導師は普通は見せないと言います。特にシンデンシェンのような好奇心が強い人には、見せないらしいのです。
 ところで私たち弟子が行っている修行の90%は、エナジーに関することです。
 ドラゴンボールZのようなことをやっています。自然からのエナジーを自分に蓄えて、それを一気にエナジーボールで飛ばしたりします。その修行が仙人といったい何の関係があるのか?おまけに私が教わった天人合一の修行法もエナジーに関わることです。
 エナジー系の人にはとても興味はあるでしょうが、私にはほとんど興味は無いのです。しかし修行しなさいと言われているので、少しやってみようかと思います。

 日本を出たのが先週の金曜日でした。今日が土曜日ですので、まだ一週間です。でも色々な事がありました。
 私は仙人や道教のことについては、これからも調べていきたいと思います。それも外から調べるのではなく、内側を体験する形でです。
 私はローブを授与されたことで、日本で導師の資格もあると言われました。しかし伝導する気などありません。同じ体験を共有する機会を提供するのなら出来ますが・・・。
 仏陀やキリストは、なぜ教えようという気になったのでしょうか?
 老子は最後まで、弟子など取らないというスタンスだったと言われます。
 ここの導師も同じような感じです。弟子とは言っても、私たちが自分で弟子と呼んでいるだけの話です。導師にしてみれば、単にパーティーに集まるメンバーのように捉えています。仙人遊びをするパーティーなのです。
 顔に関して言えば、仏陀はどうか分かりませんか、少なくともキリストに関してはとても辛そうな、悲しそうな顔をしています。あれが悟った顔ですか?
 もしも私がキリストの弟子に加わっていたら、まずバカなことをやって、シッチャカメッチャカにして、キリストを笑わせたいと思います。
 少なくとも、導師の弟子は軽い連中ばかりでした。六次元の旅のとき蛙の声がとてもうるさかったので、教授は、「いつかは食っちゃうぞ」と外に向かって言っていました。それが原因で、授与式の後の食事会では蛙の天ぷらを出してもらったのです。
 彼(教授)は蛙の天ぷらに向かって「お前の声のおかげで六次元に行けなかったのだぞ。食ってやる」と叫んで食べていました。
 私達は悟るということを、とても重いものに考えてはいないでしょうか?
 しかし、仏陀のように全ての個を落とすのは大変です。とても努力が要ることです。個を落とせばエゴも無くなるのですが、果たしてそれでいいものかとも思えます。
 一度体験すると、その世界に入るのは比較的簡単です。というよりも、抜け出すことの方が大変です。個がない世界・・言い換えれば過去も未来も無い世界・・瞬間に生きる世界・・全体と一致した世界なのですが、その世界は非常に居心地がいいのです。
 死ぬときはその状態で死ぬのがベストです。おお、違います。その状態は既に死んでいます。個が無いのですから、死んでいると同じなのです。
 「私は40年前(悟ったとき)に死んだのだよ。」この仏陀の言葉は合っています。
 彼によれば、生きて苦悩して芸術を作り出すことは、悟っていないことなのです。
 だって悟れば苦悩は生じないし、それほど苦しんで芸術をする気は起きないでしょう。
 だから、私達は常に悟った状態に入らなくても良いのです・・・というのが私の今回の考えです。常に「誰でもない状態」でいる必要はないのです。

 私は今、奇妙なループを描きながら、元いた場所に帰りつつあります。
 生活は何も変える必要はありません。大それた修練は必要ありません。個を落とすために特別な瞑想も必要ありません。
 なぜなら、私たちが全存在をかけて何かをするとき、個は落ちているはずですから。
 全存在をかけて何かをする・・決して大それたことをしなくても良いのです。子育てで充分です。会社勤めで充分です。そこにあなたがあなたとして行為していれば良いのです。
 愚かな人など、この世に誰もいません。
 仏陀になる必要はないのです。世間を捨ててはなりません。世間を捨てて、放浪して見つけた自分など、意味がありません。
 前回の六次元の旅は、私のベクトルは一つの到達に向いていました。自分自身という中への到達です。
 しかし今回の一週間は、再び元いた位置へリターンしました。元いた位置とは、普段の生活をしている私です。
 導師が何を教えたわけではなく、一連のイベントを通してこの気付きがありました。香港での弟子達との交流も、その原因の一つでした。
 だから私だけでなく、他の弟子達もローブを貰うべきなのです。
 いえ、逆に言えば、私がまだ、ある領域に達していないからこそのローブだったのかも知れません。彼らはそれを貰う必要はないのかも知れません。
 人間って、何でしょうか?一人ひとり、本当に深いものがあります。
 私は明日、早朝に北京に向かいます。北京では積極的に超能力をやることによって、科学に役立とうとしている孫さんが待っています。
 では、シンセン&香港からの中継を終わります。

孫さんはプラントーンがお気に入り(1999/07/25)



 プラントーンとだいぶ遊びましたが、まだ慣れないせいでしょうか、魂と交流して、その照合結果までは出ませんでした。
 プラントーンの向かって右側はお菓子のお皿、左は4Dメータです。孫さんの隣にいるのは教授です。孫さんは今までここにいました。
 私は仙人の世界から、突然科学の世界に変わってしまいました。

アルファーシータC(1999/07/26)



 この写真の機械(アルファーシーターC)を孫さんに付けて実験しました。
 この機械には、写真のように二つのダイアルがあります。左が音量で、右が周波数です。
 その周波数のつまみを、写真の位置にして下さい。この位置は天目に共振するそうです。
 孫さんはこれを付け、このダイヤルの位置でしばらく瞑想していたら、天目に紫の光が現れたそうです。これはとても良い兆候だそうです。
 私はこの機械も、孫さんにプレゼントすることになりました。
 実は紫という色は、天目(アジナチャクラ)に共振する色でもあります。私はモンロー研究所で、自分のブースの中を、紫の光で満たしていました。
 これも体脱に何か影響があるかも知れません。

人間の蘇生(1999/07/26)

 孫:人間の蘇生は昨日、最初の実験をやりました。
 森田:えーーーーーー
 孫:ハーバード大学が脳死の患者をここまで運んできて、私が直接やったのです。しかし目の前では蘇生しませんでした。結果はまだ分かりません。私の能力がまだ足りないのか・・。
 森田:そういうこと、よくやるんですか?
 孫:やりません。大学の要請だったからです。
 森田:もしも孫さんの能力か上がったとして、骨からの蘇生もあり得ますか?
 孫:かなり難しいと思います。さっき森田さんが蘇生の原理を説明しましたが(私は『不思議の科学2』に書いた原理を長々と話しましたが)、それは正しいと思います。つまり蘇生される側でアンテナが必要なのです。人体のアンテナは脳だと思います。だから脳が破損しているとかなり難しいような気がします。まぁ、こういうことを言って先入観を作ること自体は、あまり良くないのですが・・。私は、死体がほぼ完全に残っていないと無理だと思います。
 森田:他に問題はありそうですか?
 孫:私はエビの蘇生があれ以来できていません。ピーナッツの精はどこにでもあります。しかしエビになると、魂の世界があります。エビとしてのあの世です。その世界から戻る気にはならないようです。
 森田:エビと人間の違いはどうですか?
 森田:人間をやったことはないですから、違いを言うことは出来ません。しかしエビの場合はピーナッツと違って、三回光が降りました。私は高等生物は三つの魂を持っていると思います。死ぬと、まず一つが上の世界に行くのです。そして偵察します。そして上の世界がOKだったら、全ての魂が上に上がっていきます。OKでないと死にません。つまりどんな死に方をしても、本人は同意の上で死んでいるのではないかと思います。この世に生を受けている意味、死ぬ意味、全てあるような気がします。だからと言って、私が実験をやめるという意味ではありません。相手の魂と通信すれば良いのですから、全て相手との同意の上です。

陳林峰(1999/07/26)


陳林峰と私のツーショット

 陳さんのことは『不思議の友』にも書きました。中国一の予知能力者と言われている人です。
 以前は私が出した課題である競馬を外してしまいましたが、それには理由がありました。私が競馬を一度もやったことがないからです。
 しかし彼は、去年の関東地方の水害を当てました。
 きょうは陳さんの所に行ってきました。新しい通訳を紹介するためでもあり、陳さんには次のリョウさんツアーでオプションとして出演してもらうためでもあるからです。
 通訳の相談にはバシバシと乗っていました。来月財布を落とすと言われて、かなり焦っていました。
 さて、次のリョウさんツアーでは、彼はそれぞれの参加者の人生の予知をしてもらいますが、その準備に向けて次のやりとりをしました。
 森田:例えば結婚問題などを相談する場合、相手の写真は必要ですか?
 陳:必要ありません。
 森田:普通、未来を見る人は、写真をよく使いますよ。
 陳:私には何も必要ありません。
 森田:では会社関係の人が自分の会社を見てもらうとき、事務所の写真とかは要りませんか?
 陳:何も要りません。
 森田:なぜ何も要らないのですか?
 陳:それは相談する人が全部知っているからです。  森田:???????  陳:人は自分の未来を全て知っています。それを自分で分からないのは、色々な観念が邪魔をしているからです。クリーンになれば自分でも分かります。  森田:なるほど・・・。  陳:私は単に相談者の潜在意識から読んでいるだけです。だから何も必要ありません。  森田:ところで未来は変わるのですか。例えばこの通訳の人の財布がなくなると言いましたが、その未来は変わらないのですか?  陳:未来はどんどん変わります。私が予知するのはあくまで現在から見た未来です。客観的未来など、どこにもありません。未来は今まさに、あなたが作っています。自分が作っていない未来など、一つもありません。
今日の報告(1999/07/27)

★リョウさんに会いました
 彼は相変わらず、二枚目で上品な物腰・・・。
前回のツアーで、日本人の認識が変わったとのことです。日本人があんなに素晴らしいとは思わなかったと・・。
 また、彼は外国人に対して能力開花を教えたのは初めてでした。通訳のための時間をもっと取られるかと思ったら、瞑想に入ると、ほとんど通訳の時間は関係ないことが分かったといいます。ツアーのみなさんによろしくとのことでした。
★孫さんに会いました
 実は孫さんは、今まで私のところにいました。彼女は今日、とても落ち込んで来ました。
 しかし私と食事をしたら、とても元気になってくれました。孫さんを元気にしたのは既に何回もありますが・・。意外に彼女は落ち込むのです。
 なぜ落ち込んでいたか、それは弟子の教育が原因です。
 毎年夏休みになると、弟子が師を訪ねてきます。弟子とは超能力がある中学二年の男の子です。師とはもちろん孫さんです。
 弟子はあるとき孫さんに会いました。そこで蘇生を見てしまい、孫さんを師として弟子入りするようになりました。弟子も凄い能力があります。
●割り箸くらいの太い棒を、念力だけで折ることが出来る
●密閉された空間の透視が出来る
●密閉された箱から、テレポーテーションで出ることが出来る。
 これは孫さんを超える部分もあります。
 実はこの子を森田さんに紹介したいと、孫さんからは前から言われていました。
 しかし今日は、孫さんは悲しそうな顔で私の前に現れました。
 彼は一週間の間、孫さんの元で修練を積みました。そして今日は最終テストをする日でした。そこには教授達も何人かいました。彼はテストに応じました。
 しかし彼が今日調子の悪いことを、孫さんは知っていました。
 彼はこの状態でどうするのだろう・・孫さんは見ていました。
 テストは滞りなく終わりました。しかし孫さんの天目はごまかせませんでした。
 孫:「あなた、ずるをしましたね。」
 彼:「・・・・・・。」
 孫:「なぜずるをしたのですか?」
 彼:「親が見ていたからです・・。」
 孫:「どういうこと?」
 彼:「親が僕に対して100%を期待しているからです・・。」
 孫:「ああ、そういうことだったのですか・・。」
 孫さんは親を呼んで、期待しないようにお説教したといいます。そして彼に向かって
 孫:「あなたの今回の超能力は素晴らしいものがありました。しかしあなたはまだ、修練が足りません。」
 彼:「ここまで超能力が出来ても、まだ修練が足りないのですか?」
 孫:「人間性を上げるという修練です。それが上がらない限り、人に超能力があっても意味はありません。その修練は超能力の何百倍も大変なのです。あなたに100点をあげることが出来る日は、人間性が上がったときです。調子が悪いときには調子が悪いと言える能力、正直に自分を出せる能力、この能力を身につけることは、超能力よりも大変なのです。あなたはまだ、森田さんという日本人に紹介できる人ではありません。出来ない時には出来ないと言える人間になって下さい」と言ったそうです。
 落ち込んだときには、落ち込んだ自分を表現できる能力・・これも素晴らしい能力のような気がしました。

孫さんの質疑応答(1999/07/28)

 質問の一部について、解答する時間を持てました。
 ●孫さんにとっての人間性って何ですか?自分の感じた事を、感じたまま言えることですか?他の人に対して迷惑がかかると思った時は・・・・・。やっぱり、心の持ち方ですか?こだわらない心なのでしょうか?
 孫:相手によって、態度は全て違います。人間関係に一定のルールはありません。その時の直感によって決まります。

 ●瞑想中、上唇から鼻にかけて圧迫感があるようになりました。ところが最近、瞑想してない時もこの圧迫感があり、いつでもどこでも起きてきます。鼻を触ると消えます。神社など参拝している時は必ず起きます。また、時々匂いがやってきます。その時々で違った匂いです。気が溜まっているのかなあ・・??と思ったりしてますが・・。
 孫:良い兆候です。あなたの言われている位置は、人中(ジンチュウ)というツボです。これが開いた証拠です。このツボは天目のような働きもします。おそらくあなたのマスターが指導したと思います。

 ●目(目つき、目の色等)が変わる・・とよく言われます(自分では自覚できない)。これは・・・??
 孫:上と同じで、良い兆候です。

 ●自分の後にいる存在とコンタクトをとる方法を教えて下さい。
 孫:完全にリラックスすると会えます。

 ●自分をレベルアップする方法は・・??よろしくお願い致します。
 孫:静と無を修得することです。

 ●もりけんさんの中国紀行の中にもありましたが、やはり体が柔らかい方がいいですよね。柔らかいというのは、気の流れとか巡りとか良さそうですから。孫さんも柔軟なのでしょうね。気の巡りを良くする方法と労穴や源泉穴の通りを良くする方法、アドバイス下さい。
 孫:柔らかい方がいいです。労穴と源泉穴は字が違います。労宮穴と涌泉穴です。涌泉穴を開ける方法ですが、まず素足で床に瞑想します。そして涌泉穴からエネルギーが流れ出ることを意識しながら瞑想します。 労宮穴は両手で胸の前にエネルギーのボールを作り、それを大きくしたり小さくしたりしながら、労宮穴を意識します。労宮穴は天目のように使うことが出来ます。透視をするときは手のひらを見れば良いのです。もちろん治療するときには、手かざしで出来ます。

 ●真言のバリエーションを知りたいです。
 ・風邪を引いた時に
 ・頭痛があるときに
 ・気力がない時や落ち込んだ時
 ・運気が落ちた時
 ・目を覚ましたい時
 ・願い事をかなえたいとき
 ・瞑想などで集中したい時
 ・リラックスしたい時
 ・能力アップしたい時
 など、もし使える真言があれば紹介して欲しいです。
 孫:ここに挙げた種類の真言は出来ないでしょう。なぜなら、これは真言で達成する種類のものではなく、あなたが生活の中で達成していくべきものが多いように感じるからです。なぜ生まれてきたか、どんな使命を持っているのか、そういうことに関係しています。これは真言の領域ではないかと思います。あなた自身が生活の中で色々な気付きかあるからこそ、人生には意味があるのではないでしょうか。

 ●今までは風水は迷信だと思っていましたので、孫さんが風水のアドバイスをすると聞いて意外な感じがしました。風水が良くない為に運勢が悪くなるという事は、本当にあるのでしょうか?また、名前や印鑑等でも運勢が変わることはあるのでしょうか?あるとすれば、それはどうしてでしょうか?風水等について、風水の詳しい方に見てもらうことや、知識を得ることは大事だと思いますか?私としては、そんな訳の分からない物で運勢を決められるのは遠慮したいと思っていますが・・・・。幸せを願う気持ちがあっても、風水の知識がなかった為に不幸になってしまうというのは、納得出来ないのです。
 孫:世の中の全てのものにはエネルギーの流れがあります。私たち人間も、そういうエネルギーの流れの中で生きています。決して環境のエネルギーと切り離して存在していません。大きくは天体の動きから、小さくはあなたの家の構造から、全てあなたに関係しています。信じる信じないの問題を越えて、私はその流れが見えてしまいます。天目の中にエネルギーの流れが展開されるのです。しかし印鑑で運命が変わることはありません。これは迷信です。印鑑という物体の影響は少ないからです。それでも名前の影響はあります。見た時に受ける印象と、発音した時に受ける印象です。この印象は陰陽に分かれるからです。例えば森田健という名前は陽です。しかし森田さん自身は陰なのです。
 森田:えーー、私は陰ですか?
 孫:そうです、森田さんは陰です。男性はほとんど陽なのですが、森田さんは稀に見る陰です。
 森田:それは陰気だということですか?
 孫:そういう風に短絡的に陰陽を考えては困ります。女性はほとんど陰なのです。だから森田さん流に言えば、女性はみんな陰気になってしまうでしょう・・。そうではありません。この陰陽の分類は常識で判断できません。話を戻すと、普通、男性は陽だけの人が多いのです。しかし森田さんを陰だと言ったのは、森田さんの内部に女性的要素が非常に多いのです。これは稀なことです。しかしとても良いことかも知れません。そして森田健という名前が陽なので、バランスがとれているのです。森田さんは自分の名前がとても好きなはずです。それは名前とペアーになったとき、陰陽がゼロになるからです。

全ての出会いはソウルメイト(1999/07/29)

 孫さんが「縁と分(ぶん)」について喋りました。
 まず、この世で会う全ての人はソウルメイトだそうです。だから特定の人だけソウルメイトだという考えはおかしいそうです。出会う全ての人は前世との繋がりがあるのです。
 そして、そのソウルメイトを中国流に言えば縁なのです。縁があっても、それを良い縁として発展できるかは本人達にもよります。
 だから「ソウルメイトを探せ」というのは、どこかでおかしいのです。ソウルメイトは探すものではないのです。
 さて、次に興味あるのが「分」です。正確には分という字に、にんべんが付きます。
 結論から言えば、分がないと結婚には至りません。
 では、分とはいったい何だと思うでしょう。これが面白いのです。
 それは、分とは「貸し借り」なのです。つまり男女で前世において貸し借りのないソウルメイトは、結婚できないのです。
 どんなに愛し合っても、どんなに仲が睦まじくても、貸し借りがない・・つまり全くゼロの状態の二人は結婚できないのです。
 結婚しない人・・こういう人は、前世で貸し借りのない男女関係を営んできたのです。だとすれば、とても良い関係だったのかも知れません。
 今世で結婚するのは、前世の貸し借りがあったからなのです。
 うーーーーーむ。孫さんという人は、何てユニークに人なのだろうと思いました。
 全ての人はソウルメイト・・しかも貸し借りが結婚に結び付く・・。
 全ての出会いがソウルメイトだということは、天が出会いを作っているのだそうです。
 その天の出会いを充分自分のものにする方法が「自然にまかせる」のです。計画性、あるいは主体性を持っていると、天の出会いを生かせないのだそうです。
 だから本当の生き方をするためには、「天人合一」しないといけないのです。天人合一をすれば自分自身はゼロになるのだそうです。無になるのです。
 そうすれば自分の中に天が入ってきて、天として生きることが出来るのです。 天が自分を通して生きるのです。

私の指導霊&「分」(1999/07/30)

 前から孫さんに言われていたのですが、「森田さんの指導霊は道教のマスターです。」
 さらに「私の五人の指導霊の中で最初の指導霊は、やはり道教のマスターです 。実は教授にも道教のマスターが付いています。私たちの出会いは、これらのマスターがいなければなかったし、関係が長く続くというのもマスターのお陰かも知れません。」
 また、私が昔会社を辞めた時のことを話すと、「その日はバレンタインデーで、チョコレートが欲しくて最後まで会社にいたら(つまり辞表を出さないでいたら)、マスターは去っていったかも知れません。女との遊びを取るか新しい道を選ぶか、マスターの出した一つの課題だったのかも知れません。」
 私は心の中で叫びました。「おーーい、マスター、くだらない課題を出すんじゃねえ。」
 ゆうべ書いた全ての人はソウルメイトという話は、孫さんから聞きながら納得していました。貸し借りという言葉は、とても誤解を生む表現です。
 願望や希望も「分」に入るのではないかと思います。どこかで意志に関係しているような気がします。
 自然から見れば、意識は貸し借りかも知れません。人間のマインドは自然に対して、ある種の貸し借りを発生させると思うのです。創造的行為もおそらく「分」です。
 逆に言えば、時空は貸し借りを楽しんでいるのです。
 縁に意志が加わったとき、それは結婚に結び付くのではないでしょうか?
 「分」はカルマに似ていますねと言ったら、孫さんは、そうかも知れませんと言っていました。

中国最後の夜(1999/07/30)

 本日二時に孫さんが来て、私の装置で蘇生に挑戦しました。
 孫さんの実験は4時間も挑戦してもらいましたが、出来ませんでした。やはり私の作った実験器具に慣れていないせいでしょう。
 教授も「もしも成功したら、蘇生の瞬間を撮影した世界初の出来事として、明日発表しよう」などと言っていたため、それもプレッシャーになったのかも知れませんでした。
 実験は私がこれから時間をかけて行えばいいです。
 さて、そのあと食事をした時、面白いことを聞きました。
 まず、孫さんはお酒を飲んで瞑想するときもあると言います。牛肉をたらふく食べてワインをたらふく飲んでも、修練にはいっこうに差し支えないといいます。
 そういうことがいけないというのは、全く常識に縛られている考え方なのだそうです。座るのが億劫な時は、寝てやるといいます。
 次に、神に対する考え方・・
 私達は、人知を越えていることは神のことだと考えてしまいます。しかし孫さんはこう言いました。「何故そんな風に考えるのですか?」
 この台詞の持つ意味は大きいです。天命?運命?神様?それって何ですか?と言わんばかりです。
 「宇宙のルールは私達が考えているよりも、もっとフレキシビリティに富んでいるかも知れないですよ。」これは教授の言葉です。
 つまり言わんとすることは、『私達こそ神』だということかも知れません。ふーーーむ。
 そのあと教授と随分と話しましたが、教授の言った「孫さんを研究しているのは、彼女を通して私達そのものの起源を見ることが出来るんじゃないかということです。私が何故ここにいるか、その理由を死ぬまでに見つけたい。たぶんそれはシンデンシェンと同じだよ」と言った言葉が印象的でした。
 今回の旅はたった2週間でしたけれど、一年も行っていたような感じです。
 なぜ私はここにいるのか・・私もその理由が知りたくて・・。
 今日は北京最後の夜・・これからパソコンをしまいます。
 みなさん、私の旅行記を読んでくれてどうもありがとう。

成田エキスプレスの中で(1999/07/31)

 今回の旅行について、具体的なことではなく、今の私が感じていることを言えば・・
 自分も相手も肯定すること・・。これが必要ではないかと思いました。
 孫さんの教授が言いました。「私には劣等感も優越感もないと思います。孫さんと付き合っていくとき、これはとても大切な要素かも知れません。」
 私もそう思います。人は劣等感を持つから優越感を持つのだという気もします。劣等感は優越感の裏返しなのです。一方が消えればもう一方も消える・・。
 導師には陰陽の分類を学びました。宇宙は分離から成り立っていると言われました。しかし導師のマスターの書いた伝授書には、「合一」という文字があらゆるところにありました。
 分離を合一に持っていくのが現世の我々の生き方かも知れません。
 自由とは自然との距離だというのが私の仮設です。距離が増せば増すほど、合一したときの喜びは増えます。
 歴史は自由度を増す方向に進化していると思います。
 これは合一すべき課題が増えていると同時に、合一したときの喜びも増えているのです。
 自我を落とす方法でも合一できます。しかしそれでいいものかどうか、私は大変疑問に思います。
 ほんの小さな愛、ほんの小さな創造が合一させるのではないでしょうか?
 それが大きな芸術になる必要はないと思います。
 日常の些細な事でOKなのです。世間を捨てて悟りの旅に出る必要はありません。
 今の私を認めてしまえばいいのです。劣等感もなく、優越感もない私自身を・・。
 これが今、感じていることです。

書き込み期間:1999/07/16〜1999/07/31