もりけん語録
テーマ:「導師の誕生パーティー」
書き込み期間:2000/02/08〜2000/02/26
要旨:
導師の誕生パーティーがあるというので、私はシンセンに行きました。シンセンでは踊りの練習や、これから出版される『不思議の科学3』についての話し合いなどもしました。
まずワダチについて、導師は「あれもこれも」という話をしました。導師は主婦業も子育ても創作もしながら、道教を教えて仙人の修行をしています。どちらかを捨ててどちらかを選び取るのではなくて、両方とも同時に続行するのです。「あれもこれも」の考え方でいけば、ハンドルを握るのも離すのも両方アリなのです。
私は導師から「徳がある」と言われました。ところが、道教が意味する徳の内容を聞いて驚きました。道教でいう徳とは、「法(三次元ノウハウ)」「財(お金)」「侶(異性」「地(不動産)」の四つを指すというのです。一般的な精神世界ではこれらへの欲望を否定しますが、道教では、これらから自由自在になっていることが「徳」だといいます。
道教では和光混俗という、俗世間で和合する意味の言葉があります。あくまでも俗世間を捨てないのが、道教の修行なのです。

誕生パーティーの後は、導師が講演会と伝授会のために来日することになっています。その日のことで、導師は大変な問題提起を投げかけてきました。充分に数の足りるエネルギーグッズを、参加者の半数にしかあげないことを提案したのです。
私は当然、参加者全員を平等に扱いたいという意識があります。しかし導師の真意を考えているうちに、いかに自分が平等という名の偽善を生きてきたかを思い知らされました。「道教には愛という言葉はない」と導師は言いました。平等という世界に愛はないこと・・そして不平等が出来ずに道教を理解したことにはならないと、私は痛切に感じたのでした。
導師の挑戦は、物凄いものがあります。

もう一つ、導師を見ていて凄いと感じるのは、切る人は切る、という行為が徹底しているところです。それも瞬間的に、直接相手に向かってにダメだと言います。人にはっきり言いたいことを言う私でさえ「そこまでしなくても・・」と思うほど、躊躇なくバッサリ切るのです。一般に「器の大きな人間になりなさい」とよく言われますが、導師は器が小さいどころか「無い」のではないかと思いました。
しかしここで重要なのは、彼女は「選択」をしていないのです。道教に「有為」という行為はないからです。彼女は常に真っ只中に生きて、正確に瞬間的に反応しているだけなのだと思います。切られる人は、ある意味では自分でその状態を作っているとも言えます。つまり導師は本当の意味で「切って」はいないのです。

道教に愛はないと言いますが、私は導師の愛をとても感じます。それも、作られた愛ではありません。
私は、道教で愛を言わないのは、本当に大事なことだから言葉にしないのではないかと思います。タオは言葉で言うことは出来ないと言われています。本当にするべき事は定義しない、というところもあります。つまり、言っていないことの中にこそ、本当に道教が目指すものがあるような気がするのです。
あえて言わないことで、道教は「自発」を作り出そうとしているような気がします。それが「為さずして為す」ということなのだと思います。定義されれば、それは価値あることになります。愛も慈悲も救済も定義しない、すなわち価値を付けないことによってのみ、それらが究極の価値になり得ることを、道教は知っていたのではないでしょうか。
結論づけないこと、方向性を持たせないところに、道教の神髄があるような気がします。
目次
○ 空気(2000/02/08)
○ あれもこれも(2000/02/10)
○ 徳(2000/02/10)
○ 弟子の話の続き(2000/02/10)
○ 導師の食卓(2000/02/11)
○ 踊り(2000/02/11)
○ 天人合一の図(2000/02/11)
○ 導師の問題提起(2000/02/11)
○ 導師とのやりとり(2000/02/12)
○ 当日の問答(2000/02/12)
○ 東京と大阪(2000/02/12)
○ 返嬰童之体功(2000/02/12)
○ みんなでワイワイ(2000/02/13)
○ 導師一族(2000/02/13)
○ 二つの教え(2000/02/13)
○ 午前中の練習(2000/02/14)
○ タオ(2000/02/14)
○ 時空にいだかれる(2000/02/14)
○ 自発(2000/02/14)
○ 道教におけるあの世(2000/02/15)
○ 方向性(2000/02/15)
○ 自発はおしまい(2000/02/15)
○ 子供好きな導師(2000/02/15)
○ 徳の四点セット(2000/02/15)
○ 中井氏の本(2000/02/16)
○ 選択(2000/02/17)
○ 六次元の図(2000/02/17)
○ 導師の弟子達(2000/02/18)
○ みなさん、ありがとう(2000/02/18)
○ 小心者(2000/02/19)
○ 導師が作った電気の笠(2000/02/19)
○ 器(2000/02/20
○ 徳と器の大きさ(2000/02/20)
○ 徳のない弟子(2000/02/20)
○ 不思議研究所を始める前の10年間(2000/02/25)
○ 0.7ミリ(2000/02/26)
○ 七次元の根拠(2000/02/26)
○ 導師は「切って」いない(2000/02/26)
空気(2000/02/08)

シンセンの、いつものホテルに着きました。ここは導師の家から2、3分です。
前回、筆記試験のための勉強をした所です。天人合一は香港でした。
ここに着くと、「空気」が変わります。日本にいるもりけんではない、シンセンのもりけんになってしまうのです。とても不思議です。
さっきからやった事と言えば、まず下のレストランに行ってチャーハンを食べてきました。そして部屋に帰ってきて、前回の天人合一の修行中に撮ったビデオを見ました。自分の中に天人合一のエナジーを再度、引き出すためです。
そして、踊りの練習を少ししました。それだけで私の中を流れる「空気」が変わるのです。
成田から香港まで5時間、そしてシンセンまで陸路を4時間・・
香港もシンセンも店という店は、全て閉まっています。まだお正月休みなのです。シンセンの出入国管理局もガラガラでした。
しかし困ったのは、そこを出た所にはいつもタクシーが行列していたのに、今日は一台もなく、タクシーを拾うために30分も歩いてしまいました。
今、こちらの時間は21時半。
先ほど少し瞑想したら、宇宙から一直線にエナジーが降りてくるのを感じました。すると、旅の疲れなど吹っ飛んでしまいました。
あれもこれも(2000/02/10)

挨拶もそこそこに、まず『不思議の科学3』の内容から話は始まりました。
まず、ワダチの件です。導師は「あれもこれも・・」だと言いました。
私達はいつも「あれかこれか」を悩みます。人生は選択だと言われ、選んだり決心したりします。そのたびにストレスを覚えます。
同じような感じは、ワダチ理論にさえありました。
「車が右に行ったのは、どうしてでしょうか?」これは私がワダチ理論の時に出した問題です。そして回答は「無意識が選択し、意識は言い訳をしているだけだ」と書きました。
私だって、「無意識が選択し」というフレーズで選択という単語を使っていたのです。
しかし「あれもこれも・・」だとすれば、選択の必要はありません。
具体的な例を出しましょう。
導師は主婦で子育てをしながら、風水を見るというビジネスをしながら、道教を教えながら、生活美術品を作りながら、ピアノを弾きながら、仙人食を栽培しながら、飲めや歌えのパーティーをしながら、それでも忙しいという単語は口にしません。
似たようなことは弟子にも感じます。香港でハードなビジネスに追われながら道教を楽しんでいます。それは「あれもこれも・・」なのです。
一つの事を捨ててから別の道に行くのではなく、別の道に行ってからある事を捨てる・・もしくは捨てる必要がなければ両方とも続行するのです。本当に忙しくなればその時考えれば良いのです。同時進行可能なら、「あれもこれも・・」なのです。

さて、この意味はもう一つあります。
ハンドルを握るという行為からハンドルを放すという行為に移行するのが良い・・と書きました。ワダチ論のときにです。
ある人が「ハンドルを握っていても良い時もあるのではないか・・」という書き込みをされ、それを受けて誰かが「それを聞いて安心しました」という書き込みをしたときがありました。
ハンドルを離すという選択しか無いのではないのです。「あれもこれも・・」だとすれば、両方アリなのです。
もともと道教は陰のみ、あるいは陽のみではありませでした。
あれ・・はハンドルを握ることかも知れません。これ・・はハンドルから手を離すことかも知れません。
つまり、両方の価値観において整合性がとれるということを知っておくことだけが重要なのかも知れないと思いました。

報告はまだあるのですが、きょうは弟子の一人(男)が私の部屋に泊まり、朝まで話したいと言っているのです。この報告は彼がお風呂に入っているときに書きました。そろそろ出てくるので、この辺にします。
徳(2000/02/10)

昨夜は遅くまで弟子と話しました。
これから10分後に出かけなければならないのですが、あまりに価値観の反転がある話があったので、書きたいと思います。
彼は導師の弟子の中では最も歴史が長いのです。彼と導師は同じ年です。
彼が道教に惚れたのは大学生の時、そして導師がまだ若い頃に出会いました。その時から導師は既にあるレベルに達していました。
彼は導師を見習い、山中に入って三年間も修行しました。この関連の話は別に書きたいと思います。それよりも面白い話があるのです。
導師は彼に「あなたは徳が無い」と言い続けてきました。うーーむ、徳・・か・・と、私も考えました。
実は私は導師から「シンデンシェンは徳がある」と言われたことがあります。彼には徳がない・・しかしとても良い人なのです。
さあ、みなさんは自分のことを、徳がある人だと思いますか?
さあて、以下のことをズバリと書くと、おそらく私に批判的な人にその材料を提供することになそうです。しかしそんなことは、知ったことではありません。
徳とは、
1.法(三次元での生活等の方法のこと、つまりノウハウ)
2.財(お金のこと)
3.侶(異性のこと)
4.地(場所のこと)
なのです。
私はこれを聞いた(弟子は紙にまで書いた)時、徳と反対の事を言っているのだと思いました。しかしノウハウ、金、女、土地・・これが道教の徳なのです。

ああ、もうすぐ出かける時間です。ここでおしまいにすると大変なことになりそうです(笑)。
まず、上記の四点セットは、実際に無ければなりません。
三次元で生きていくノウハウはあった方が良い・・お金もあった方が良い・・異性の友達もいた方が良い・・不動産もあった方が良い・・
一般的な精神世界はこれを嫌います。否定します。しかし、道教はそれらを「否定する心」を持つことを否定するのです。金があってなぜ悪い、女がいてなぜ悪い・・。
いえ、実はもっと話の次元は上がります。これらから自由自在になっていることが「徳」なのです。
弟子は、ある時期から三次元の生活を捨ててしまいました。そして山中に入ってしまいました。だから再び山を降りた時、彼には財産もなく、異性の友達もなく・・。
導師はそれに気づき、もっと早く山を降ります。
決してお金や異性の友達は、沢山ある必要はないのです。持っている人を嫉まず、持っていない人に優越感を覚えず・・
では、行ってきます。
弟子の話の続き(2000/02/10)

弟子は3年も山で修行をします。彼はそれを「苦苦追求」という文字で表現しました。彼は毎日瞑想しました。それは「悟」を求めていたのです。
彼は導師のマスターと同じ場所にいたにも関わらず、マスターは彼に会いませんでした。そして導師を通じて間接的な形で彼へのフィードバックがありました。
「悟を得てどうするのですか?悟は一瞬です。そんな一瞬が欲しいのですか?山を降りなさい。そして和光混俗するのです」・・と
和光混俗・・それはまさに俗世間で光と和合しなさい・・というメッセージでした。
次の喩え話も言われたそうです。
「泥が釜に入ると、次第に美しい瀬戸物になります。それは一瞬で変わるわけではありません。一瞬で悟ったとしてもあなたが救われるだけです。美しい瀬戸物は多くの人を魅了し、さらにそのプロセスを人に伝達することによって、他の人も救えます。あなたは徳を作ることから始めなければなりません」
一度も会えなかったマスターからのメッセージでした。そして先に書き込んだ「徳」の話になるのです。
マスター自身は、水上歩行や空中浮遊、さらにテレポーテーションが出来ると(導師から)言われています。ですので俗世間と山中を同時に生きることも可能なのです。
しかしマスターは俗世間の方を優先しなさいと彼に言いました。悟ってはならないとも言いました。
彼は山を降り、銀行に就職し、今に至ります。目下、徳を積んでいる最中です。
彼の家はそれほど遠くないのに私の所に泊まったのは、導師の指示なのです。彼は少しばかり英語が喋れます。だから道教に関する私への情報提供の目的がありますが、私からもなにがしかのものが彼に行くと思ったのです。 マスター、導師、弟子、私、そしてこれを読んでいるみなさん・・何か、偶然でないものを感じたりもします。
ところで彼は、学生時代から徳がないと言われていたらしいのです。ですので「法」と「財」と「地」など関係ない時からです。つまり具体的なものではなさそうなのです。
導師の食卓(2000/02/11)



この写真は導師の家で食事をご馳走になっているところです。ペントハウスに住んでいるとは言え、普通の家でしょう。私はここで食べるのは4回目です。
ちょうど今日が導師の子供の4歳の誕生日でした。
右から私、導師、導師の夫、導師の父親、導師の友人です。
今回食卓に並んだ食べ物は、普通の中華料理です。修練の時と普通の時をはっきりと分けています。
英語が分かる人は誰もいないので、私とまともにコミニュケーション出来る人はいません。しかし、私は全く何も感じなくなりました。つまり普通の日本の家で食事をしてきたような気分です(とは言え、導師は極めて簡単な英語なら喋れますが・・)。
この食事を食べる前、リビングでビデオを見ました。それは導師がこの旧正月に北京の人民大会堂で「20世紀知的文化人」として道教を代表して表象されたビデオです。
彼女は確か、1999年の10月の中頃、私と一緒に香港に行きました。そのとき「子供のことは心配ですが、それを気にしていては相手の人に失礼です」と書きました。
そのあと私は帰国し、さらに12月に香港に行き、天人合一の修行をし、お正月を日本で迎えました。
しかし、導師はあれから一度も帰ってなかったのです。香港で過ごし、北京に行ったのも全て一人です。帰ってきたその日に、私と弟子を自宅に呼び、夜までいたのです。
とは言え、子供はママ(導師)にとてもなついています。
彼女はいったい、何を目指しているのでしょうか。
踊り(2000/02/11)



これは昨日、導師の家で行われた踊りの練習風景です。
導引術のような動物踊りではなく、ちゃんとしたエネルギーダンスです。天人合一の修行の最終段階で行ったものです。エネルギーを外に出し、相手との一体感を得るものです。
導師が来日した時に、私と踊るらしいのですが・・(笑)。
天人合一ではこういうダンスをして瞑想して、またダンスをして瞑想して・・これが繰り返されました。
このダンスは、一人でやるよりも、二人でやるものです。ソフトな動きの中に時々ビシッと決まる瞬間があるのです。
ところでこの踊りのための道パウ(道教の服のこと)を頂いていまいました。まだ上しかありませんが、色は白です。私は上だけそれを着て、下は白のジーンズです。
天人合一の図(2000/02/11)

まず、『不思議の科学3』の話から始まりました。
天人合一の図を見せると、「わおー」と言って感動してくれました。私の描いた基本路線は大満足でした。特に三次元に戻ってきてクロスするところなど、素晴らしいと言ってくれました。
欲を言えば、三次元のクロスするポイントが、陰陽の交差する感じになると良いという意見をくれました。高次元の「善」だけが三次元に降りるからではないそうです。
これで『不思議の科学3』の基本路線は承認されたわけです。
もちろん承認されなくても私はあの図を出すつもりでした。高次元がそのまま三次元に帰って来るというのは、おそらく他の道教の文献にはないと思います。
ですので、私の体験がそのまま道教、いえ、仙道に繋がるか、今回は興味もありました。私のオリジナルな解釈は間違っていなかったわけです。

さて、問題点を書きましょう。
彼女は天人合一の図の周りに「無限、無止、無境、無容」と書きました。最後の無容は字が違います。図は二次元なので、この四つの言葉をまわりに置くことで、広がりを出す必要があると言うのです。なるほどその通りです。
次は六次元の領域の部分に書かれている「無の世界」という言葉を、「無為の世界」に変えた方が良いと言われました。
仙道に無の世界というのは無いのだそうです。それはまさに昨日の弟子が瞑想で追求し、マスターからも無視された世界なのです。
しかし中国語と道教の知識に詳しくない私は、「無為の世界」を説明できないのです。おそらく私自身は体験をしていると思うのですが、体験と言語化は別のような気もするのです。
いわゆるチャネラーにメッセージを送る指導症候群の領域を指差し、「方(にんべんが付く)声領域」と言っていました。何か、これも当たっていそうです。
道教では上から降ってくる言葉とか教えは、完全に無視しますから・・。それが神の化身や観音様や菩薩であってもです。道教というのは孤独な宗教かも知れないなと思いました。
囚われ領域も信念体系領域も「この通りだ」と言いました。
既に不思議研の通販で販売済みの「いのちの世界」に間違いはほとんどないとのことです。この図を自分のものとして理解したあとに天人合一の図が来るのが良いと言いました。

今度は別の図を出しました。「子供から永遠の子供へ」と書かれた図です。そこにはタマネギをいっぱい付けた大人が還童功によって子供に返り、永遠の子供になるということを表現してありました。
それを見てまず言ったことは、「還童功はエネルギーを高めるためだけであり、それによってタマネギの皮が取れることはありません。還童功はティーンエイジャーに戻ることです。タマネギの皮を取るためには、シンデンシェンが天人合一の修行の際に行った幼児、あるいは胎児に還るということをする必要があります。」
さて、最後は『不思議の科学3』に出すための写真を見せました。9点ほどを候補として持ってきました。
私には出したい写真がありました。マスターの描いた絵と、屋上で栽培している仙人食の写真は出したかったのです。
もう一つあります。それはマスターが導師のために書いた伝授書です。
しかし、それらの写真をじっと見つめて言いました。「マスターの書いた伝授書はダメです」と。
『不思議の友』の中にも出てきますが、その伝授書は導師のためのだけ書かれたものです。彼女はその伝授書の前では完璧に謙虚になると書きました。それはマスコミに乗らない書物だと書きました。
そして『不思議の科学3』でもやはりダメなのです。何故でしょうか。
一つの理由は、伝授書の一ページしか写真には写っていないのです。それも「男女和合」という部分です。私も興味半分でそのページの写真を撮りました。だからその一ページだけが一人歩きすると困るのです。
道教、あるいは仙道は、トータルで見る必要があるのです。たぶん、徳の四点セットもトータルで見ない限り、意味は分からないのでしょう。

さて、私の訪中の大きな部分の一つが終わりました。『不思議の科学3』の件です。
私は難しい文献など一つも引用せず、どちらかと言えば子供のようになって、まるで遠足の体験を作文に書くように書きました。図も自分で考えました。
しかし導師は私の天人合一の図を、「素晴らしい」と言って、ずっと眺めていました。私だって見せる瞬間は、ハンドル離しのエクスタシー状態でした。あわわわわわわーーー
私達の目指すところは遠い所にあり、そこに行くにはそれ相応の意志力が必要だという考えがあります。
天人合一の修行にしても、やってみれば楽しくてしようがないものでした。そこに行けるか行けないかは、トランプで決まりました。
となると、世間にある道教の本は、いったい何なのでしょうか?大人のために書かれた大人の本・・そんな気もします。
伝授書を載せてはいけないという導師の思惑には、大人の心で子供心を分析して欲しくないという気持ちもあるのかも知れません。
とは言え、私は知りたいのです。知るという行為は、やはり大人の行為です。
それでも悪戦苦闘して書いた図を、導師は否定したりはしません。
一体、どうなっているのでしょうか?ループの中を回り続ける私がいます。
導師の問題提起(2000/02/11)

導師が来日したときの話が出ました。導師が来日したときに講演会と伝授会をやります。講演会は200人、伝授会は20人を予定しています。
さて、伝授会の20人ですが、電話が繋がったという順番だけで選別しないで欲しいと言われました。少しだけ体験してみよう的な、自分自身を出来事の外に置くタイプの人はダメだと言われました。
それと徳のない人もダメだと言われました。選別のためにちゃんとしたアンケートをとって下さいと言われました。ですので順番が後ろでも、参加できるチャンスは充分にあります。
講演会の参加者には導師からプレゼントがあります。外丹を使ったエネルギーグッズです。体を浄化するエネルギーが入っています。道教ならではの、非常に珍しい外丹です。
今日その外丹の数を数えたら400個以上ありました。しかし導師は言ったのです。
「これを参加者全員にあげてしまったら、道教が何たるかを理解しないで帰ることになります。半分しかあげません。参加チケットに番号をふっておき、私がサイコロを振って出た目の数で貰える人と貰えない人とを分けましょう」と言ったのです。
これは一体、何を伝えようとしているのでしょうか。私も解答を得ていません。
平等ということに対する問題提起
偶然ということに対する問題提起
意味付けということに対する問題提起
病気の人、障害者、災害、世の中の不平等に対する問題提起
たぶん、ここら辺にあるような気がするのですが・・・。
導師とのやりとり(2000/02/12)

エネルギーグッズの件です。
グッズの数を数えたら、ゆうに1000個はあるのです。講演会の出席者の数くらい目じゃないのです。私はその段階でホッとしました。だって同じお金を払って参加する人たちは、平等に扱いたいという意識はありますから。
しかし導師はしばし天を見上げ、突然言ったのです。
「これは参加者の半分に上げましょう。全部に上げるのは道教的ではありません」と。
私一人ではこういう発想は絶対に出てきません。
思った通りに生きた方が良いといいながら、いかに自己表出が怖いのでしょうか。人は平等という安全パイを生きます。
導師は「道教には愛という言葉はない」と言い切りました。しかし私は半分しかあげないという行為に、何というか愛のようなものを感じるのです。
私はさっきまで半分の理由を捜していました。そして少し涙が出た時もありました。
吐き気を感じた瞬間もありました。いかに自分が偽善を生きてきたかを思い知らされたのです。平等という名の偽善・・・。
さらに我々は意味付けが好きです。
「まだそれを貰う時期ではないんだ」「貰わない方が良かったんだ。」
人は多くの意味付けをします。しかし道教はそこからも独立しているのです。
もともと世界は平等などではなかったのです。導師の挑戦は、物凄いものがあると思います。

明日詳細を書き込みますが、導師は東京と大阪で別々の講演をする予定なのです。今日はその確認を取らされました。
「シンデンシェン、私は同じ講演会などする気はないのです」・・と。
さらに内容を詳しく聞いた後、彼女は言いました。
「東京と大阪のどちらが重要なのですか?重要だと思う方にあなたの気に入った内容を持っていきましょう。どちらが重要か、指さして下さい。」
私は東京と大阪という二つの文字を書いた紙を、指さすことが出来ませんでした。
「では私が決めます」と導師・・。
今日は私の得意な「知ったこっちゃない」という言葉すら、自爆しました。
平等という世界に愛はない・・私はそれを痛切に感じたのです。一体どこまで我々のタマネギは厚いのでしょうか。
それとも、抜ぎ捨てたという綺麗事に浸っているだけなのかも知れません。
あなたが講演会をやるとしたら、これを出来るでしょうか?
みんなに配らないのなら、もともと配らない方が良いと思うのではないでしょうか?
それが出来ずに、道教を理解したと言えるのでしょうか?
当日の問答(2000/02/12)

サイコロを振るのではなく、単に「これをみんなに回して下さい」と言ってグッズの入った籠を回してもらう方法もあります。半分くらい回ったところでそれは無くなります。
「すみませーーん、ここで終わりました。続きをお願いします」と誰かが叫びます。
「それしか用意はありません」と私が言います。
そのグッズがいかに貴重なものであるかの説明をした後、会は閉会になります。
勇気のある人は全体の前で発言するでしょう。「どうやったら手に入るのですか?」
私たち主催者はそれを無視して後片付けを始めます。すると数人が詰め寄ってきます。
「同じ金を払っていて、これはないんじゃないの」と言ってきます。
「後でも良いから、送る方法を考えるべきです」と言われます。
おそらくこの時点で『平等』は正義と化します。平等は理屈抜きの正義なのです。
いつから平等は正義になったのでしょうか?不平等に扱われたという意識は、被害者意識に発展します。
そこで私の対応は二つに分かれます。
一つは「あなたがどんな時でも人を平等に扱ってきたのなら、送りましょう」と言う方法。
もう一つは「あなたは今、大変なものをプレゼントされました。不平等に対する気付きです。講演会から得るものは物質ではありません。半分の人が貰えた小さな袋の中には何も入っていません。確かに物質は入っているでしょう。しかし何の気付きも入っていません。貰えた優越感に浸っているだけです。彼らが講演会で得たものは物質だけです。」
道教に関する講演会をするときには、この不平等を作り出すというのは非常に面白いと思うようになりました。
実は、世界そのものを言っているのですよね。陰と陽があって世界は成り立つ・・のですから。
東京と大阪(2000/02/12)

「東京と大阪のどちらが重要ですか?」導師は訊きました。
東京が1000人で大阪が50人ならば、私が「東京です」と答えたとしてもそれほど不平等は発生しないでしょう。しかし同じ200人なのに「東京です」と答えれば、どうなるのでしょうか?
さて、二つの場所のそれぞれの内容ですが、『仙道』『道教』なのです。つまり、内容が違うのです。
どちらをどちらにするか、導師は当日まで言わない様子です。
例えば東京と大阪のどちらでも同じ距離にある人は、予約をかける時点からしてワダチそのものですね。
最初、導師は「伝授会の20人は、希望者の中から、私が選ぶ」と言ったのです。
しかし遠方から来る人は宿泊の準備もあります。さらに選ばれたという意識を持つ人も相当数いるはずですと言いました。
そこでやっと「選別はシンデンシェンに任せます」ということになりました。
しかしそこでも「徳のある人を選びなさい」と念を押されました。
導師が言った「私が選ぶ」ということですが、当日、講演会の後ずらっと並ばせ、「あんたはOK、あんたはダメ」とやる方法です。
返嬰童之体功(2000/02/12)

キーポイントは返嬰童之体功だと言われました。これは天人合一の際にメインの修行として行われたものです。
何のキーポイントと言えば、天人合一であり、タマネギの皮を取ることです。
私は自分の講演会では還童功がポイントだと言ってきました。しかし子供に戻っても、劣等感は依然あるというのです。
そうですよね、子供の頃にも比較意識は既にありました。他の子供が持っているオモチャに嫉妬したものです。子供に還っても、タマネギは取れないのです。
どこまで帰らなきゃいけないかと言えば、胎児の時期までなのです。
ですので『不思議の科学3』のタマネギの皮が取れる図は、最後は胎児の絵にしなさいと言われました。
返嬰童之体功・・それは胎児に還る修行なのです。リトンビン・スリーピングもその一つです。でも重要なことは、この大人の意識のまま還るのです。

隣のコーナーで、中心気質のことが話題になっています。ある人が書き込んでいますが、対象の距離を無くするとが天人合一なのではないかと・・。私もそう思うのです。
天人合一の最後の方は、周囲の音を聞く練習でした。エネルギーを外に出す練習でした。それはまさに周囲との距離を無くすことだと思います。
導師は無の世界ではなく、無為の世界だと言いました。無為とは「為さず」の意味だと私は思います。
有為・・これは空間軸的生き方でしょう。無為・・これは時間軸的生き方でしょう。
本当の自分と遭遇したくて内へ内へと無の世界に入るのではなく、音という時間の流れに乗り、外の世界と合一しなさいと言っているのだと思います。
音というのは、時間が停止すれば無くなってしまいますから・・。しかも、音は三次元にしか無いのです。
事象との合一は、音を聞くように、時間の流れ・・すなわちプロセスの中での自己を体験しなさいと言っているのだと思います。
徳の四点セットは、あまりに三次元的でした。それが重要なのは、和光混俗にあるのではないでしょうか?

徳の無い弟子は、今でも徳がないと言われ続けている様子です。
私の目から見ると、彼は魂を磨こうとしているです。魂という本元の存在を磨いてしまえば、素晴らしい生き方が出来ると思っているのです。魂磨きが先で、三次元の生活は後なのです。
しかし私が知った限りでは、道教は逆なのです。三次元の生活を一生懸命にやった結果としての魂なのです。
道教は、大きな中心気質者を目指していると思います。しかし、それは一瞬で取る方法(悟り)であってはいけないのです。瀬戸物が美しく焼かれるように、ゆっくりと・・でOKなのです。
さて、これから導師の誕生パーティーの準備が始まります。
みんなでワイワイ(2000/02/13)



ちょうど真ん中の向こう側に、ちょっと小さく見える男性が徳の無い弟子です(笑)。
彼はこういう時に遠巻きにしています。しかしその後、カラオケになった時にはほとんどマイクを離しませんでした(決して歌は上手くない・・が)。
道教のパーティーとはいえ、この写真のように、道教の服を着ている人は誰もいません。一見、道教関係とは誰も思わないでしょう。
会は、いきなり私のスピーチから始まりました。
「日本を代表してシンデンシェンにスピーチしてもらいましょう」と司会者から言われ、私の拙い英語を香港の弟子が中国語に通訳すると形でやった。
その後、このようなワイワイのパーティーに移った。
ところで写真の右側に西洋人が写っていますが、これは香港の弟子が会社の同僚を連れて来ただけで、道教のことはよく知りません。

ケーキ入刀

もちろん、旦那さんと・・

踊り

0時を過ぎ、ダンスホールと化した会場で、踊りを披露する導師と私
導師一族(2000/02/13)



私を除き、ここに写っている人全員が導師の一族です。
私の隣のおじさんは導師のパパです。パパは真面目に写っていますが、実はとても陽気です。場を盛り上げるおじさんです。その隣は導師のママです。パパが陽気に各テーブルを回るのに対し、ママはどっしりと座っています。
とは言え、全員がとても明るい一家です。家族は道教どっぷりではありません。
もともと、道教にどっぷりという状態はないのではないかとさえ思います。何か権威のあるものに縋るのならともかく、どちらかと言えば捨てていくタイプの宗教ですから・・。
今日アップした数々の写真も、宗教感というのは少ないのではないでしょうか?
娘が道教の導師となったとしても、この一家には天からのご加護など、何もないのですから・・。
導師は小さい頃、ほとんど目が見えなかったといいます。そのとき一人で出かけていった山中で、出会った仙人について一緒に遊んでいるうちに次第に見えるようになってきたのです。私が時空の旅から帰ってから視力が上がったのに似ています。
道教はパーティーのために修行をしているのではないかと思います。時空の旅の時も一週間、仙人食を食べました。そのあとはブタの丸焼きまで入ったパーティーがありました。
私のローブ授与式もパーティーでした。天人合一の修行のあともパーティーでした。そこでは飲めや歌えの大騒ぎをやります。
仙人がカスミを食べることが出来るのは、その後の打ち上げパーティーがあるからではないでしょうか。
今日もこれから踊りの修行です。では、導師の家に行ってきます。
二つの教え(2000/02/13)

<反対の動>
導師は「反者道之動」と書きました。反は道(タオ)の動なり・・・
対立する二つのものが、世界の動きをつくるというものです。
男女、プラスマイナス、NとS・・一方はもう一方の「矛盾」です。
ここで講演会のグッズの話にいきます。
全員に与えるのは道教的ではないと言ったのは、「反者道之動」にそぐわないのです。
貰える者と貰えない者があって、初めて「動」が生じるのです。つまり、導師はそこから生まれる動的な気付きの方を優先していると言えます。
と考えると、宇宙は不公平があるから動的に動いていると言えるのかも知れません。

<益と損>
導師は「為学日益、為道日損」と書きました。
為学日益とは、学を為し日に益すということで、学ぶことによって身に付けるということです。為学日損とは、道を為し日に損なうということです。
その後に「損之又損、以至於無為」と書きました。これは老子も言っています。無為、すなわち道教の境地にいく方法であり、タオの神髄でもあります。
タオは決して学ぶという行為を否定してはいません。むしろ、タオの最初は学ぶことから始まるのです。しかし行き着く先は損をするという表現を使っていますが、おそらく捨てることではないでしょうか。
損して、損して・・それが無為に到達すると言っているのです。
しかし、学んだ事を捨てるのか、別の事を捨てるのか、分かりません・・。
午前中の練習(2000/02/14)



弟子(主婦)も一緒に私の部屋に来て、踊りの特訓となりました。
約3分程度の踊りなのですが、全部に陰陽の要素が入り、同時にエネルギーを高める作用もあるのです。
道教のことですから、講演会の聴衆に見せるためではありません。自分達のために踊るのです。もちろんそれは会場全体のエネルギーアップの効果に繋がります。
今回の私への指導は、どちらかと言うと三次元の話が多いように思います。徳の話とか、グッズの話とか・・。
しかし、トータルに考える必要があります。
この踊りに陰陽の両方が入っているように、同時に物事を考える必要があると思います。
時空の旅で体験した「全体の世界」、その後の「ワダチの世界」、そして「天人合一の世界」です。それらを全て合わせ、さらに今回の三次元の考え方を合わせる必要があると思います。
タオ(2000/02/14)



今日は導師に幾つかの文献を頂きました。その中に漫画がありました。写真はそのヒトコマです。
 右側は、意すなわち目的を持ってタオを捜すと、ますますタオから遠ざかると言っています。左側はお茶を飲んでいる絵で、無心(目的がない)求道者はタオに近付くと書いてあります。
 さらに別の所にはこんなことも書いてあります。
「最平凡的事物着最高深的道」「最困難的事物着最簡易的方法」「日常生活即是道」
時空にいだかれる(2000/02/14)

今日も『不思議の科学3』の話題が出ました。
天人合一の際に返嬰童之体功という、胎児に還る修行をしましたが、あれはお母さんのお腹の中を通り越し、時空に浮かんでいるポーズに達すると良いのです。
時空全体に胎児化した自分が包まれているのです。『不思議の科学3』の挿し絵はそれに変更になります。
その状態に達するには、時空を信頼することが必要です。胎児はまさにその状態です。
そして天人合一では、その状態からいきなり三次元に戻され、外の音と一体化する修練に移りました。
これは時空の彼方で経験した合一を、三次元に引き下ろすことを意味すると思います。
音を聞く・・これは脈を感じることとも非常に似ていると思います。でも出来るだけ外へと広げるのです。
外へ、外へ・・感覚を外に開いて、開いて・・。
今回の訪中では三次元の話題が多いですが、いったん高次元の果てまで行って、帰ってくることが大事だと思います。
でも、私の天人合一の図を見てもらえば分かりますが、三次元からでも上に行くことは可能なのです。体外離脱と体内離脱が究極では同じ所に行くことにも似ています。
自発(2000/02/14)

道教には愛は無いと書きました。しかし、無いわけはありません。私は導師の愛を非常に感じます。
明日がシンセンに泊まる最後になります。明後日は香港経由で日本に帰ります。
この間、導師はほとんど付きっきりで私を指導をしてくれました。そこに作られた愛を感じないからホッとします。
さて、以下は私が道教体験で感じた事がらです。どこの著書にも書いていないと思います。主観が100%です。
道教というのは、「自発」を目指しているのだと思うのです。というのは、愛だの慈悲だの救済だの創造力だのということが、道教では一言も言われないからです。
講演会のグッズの件もそうでした。あれでは反平等とさえ言われかねません。おまけに道観で中心に祀られているのは、コントンです。完全だから悪がある・・ここまで言いました。
まったくここまで「いいこと」を言わない宗教も珍しいのではないでしょうか?
道教を批判する気になれば簡単です。「それであなたは成長できるのですか?」と言えばよいのですから・・・。「それで世界が良くなりますか?」と訊けば良いのですから・・・。
しかし私は、本当にそうなのだろうか・・という疑問があります。言葉の額面通りに受け取って良いのだろうかと・・。
私は、本当に大事なことだから、言っていないのではないかと思います。
これは自分に問いかけても良いと思います。本当に大事なことは、言葉にしたくない・・という風なことはありませんか?
本当に相手のためにしたことなら、ありがとうさえも言って欲しくないような・・。
相手を愛しているのだけれど、出てくる言葉は逆のことになってしまうような・・つまり反意語の世界のような・・。

道教は「自発」だと思うのです。だから上から言ってはいけないのです。
でも「自発」という言葉さえ道教では一言も出ません。なぜなら、自発を意識した途端にそれは自発ではなくなるからでしょう。
気の修練のようなことをするのは、自発力を高めるためだと思います。
自発の反対は他発でしょう。他発とは、他に発動させられることです。タマネギの皮で行動することに相当するのだと思います。
本当にするべき事は、定義しない・・ここだと思います。
だからマスターや導師の生活芸術は、定義されていないのです。愛も同様なのです。
老子の言った有名な言葉「為さずして為す」・・これは「他発せずして自発で為す」だと思います。
タオは言葉で言うことは出来ないと言われています。
つまり、道教のあらゆる文献の中に、そして道教のあらゆる導師が言っていないこと・・実はそこにこそ、本当に道教が目指すものがあるような気がするのです。
災害で死ぬ人も幸せ・・ここには多くの反論があると思います。しかし本当の道教を知った人は、たった一言「知ったこっちゃない」と言わねばならないのです。
私のこの書き込みが本当だとしても、「ケッ、シンデンシェンは何もわかっちゃいねえ・・」と蹴散らさないといけないのです。
人は正義が好きです。正義の言葉を求めます。それをタマネギの皮として鎧を作ります。
私の言っていることは、当たっているでしょうか?当たっているとしたら、何度も言いますが大声で言ってはいけないのです。

道教が「自発」を作り出そうとする宗教だとすれば、これは凄いことです。他の多くの宗教は反自発・・すなわち他発の方だと思うからです。
導師が人を愛することは、何の価値もないのです。だってあれだけ道教に入れ込んでいるのに、道教では愛を定義していないのですから・・。その定義していないことをやっているのですから・・・
マスターや導師が生活芸術を創作しても、何の価値もないのです。それも定義されていないからです。
道教で定義されていないものを集めると、きっと我々が正義として大事にしてきたものが集まると思います。
本当は道教も目指すものは、他の宗教と同じなのです。しかし道教は知っていたのです。その方向には救いがないことを・・・。救われるのは自己満足だけだということを・・。
だから、愛や慈悲や救済や創造を、無価値なものに引き下ろしたのです。
無価値だからこそ、自発が起こると、それは究極の価値になるのです。
道教におけるあの世(2000/02/15)

道教ではあの世を定義していません。老子ですら何も言っていないのです。
ただ、死ぬことは羽化と呼んでいるのです(天使をイメージさせますね・・)。
道教があの世を定義していないことを知って、ある時期、私は悲しくなりました。私自身あの世の研究もしていますので、道教からのヒントが欲しかったのです。
でも「いのちの世界」を導師に見せたら、これはよくできていると言うではないですか。信念体系領域とか囚われ領域も、その通りだと言いました。
さて、道教ではなぜあの世を定義していないのでしょうか?多くの宗教はそれを定義しています。
むしろ、あの世の解釈の仕方をエサに布教させているフシもあります。因果応報しかり、カルマの法則しかり・・。
この世はまるであの世のためにあるような解釈をする宗教が多いです。
判定を下されるのは、あくまでもあの世に行ってからです。この世は修行の場なのです。

しかし道教ではそれを定義していません。これは「自発」の気づきから言えば、道教で定義されていない事は、非常に奥行きが深いのです。
分からない事を想像で解釈し信じさせるのではなく、分かっている事だけを使い、宗教という体系を作っているような気がします。それも偏見を取り去り、裸の現実を我々に直視させようとします。そういう意味では、道教は科学に近いかも知れません。
科学者は「あの世などは見たこともない、だから想像で定義するのはやめよう」と言います。道教も同じなのです。この三次元の現象を正確に見つめることによって、なにがしかの真実に到達しようとしているように思えます。
では、道教に入ることのメリットは何でしょうか???
あの世を定義していないので、入信することによって、天国の良い位置に行けるわけではありません。入信することによって神に近づけるといっても、神は「コントン」です(笑)。何もしてくれません。
普通、宗教に入れば、孤独感から解放させる何かが待っていますが、道教には何もないと感じます。一体・・・????
(今日は導師と弟子達がマイクロバスで迎えに来て、またまたパーティーです。)
方向性(2000/02/15)

道教が最も嫌うのが「方向性」ではないかと思います。方向性が有為、あるいは人為なのでしょう。漫画でも「意を無くした時タオに近づく」と書いてあります。
しかし一般的な宗教、あるいは精神世界は方向性を示すことにありました。授業で言えば道徳の時間のようにです。
しかし道教は、いわゆる自習にあたるのではないでしょうか。
それも先生は「俺は女をはべらせて酒をかっくらっているけど、文句あっか??」という感じです。そして生徒が「平等が大切だ」なんて言い出せば、「てめーら、いい子ぶってんじゃねぇ」とか、ちゃちゃを入れてきそうです。
ところで今日は、シンセンの市内に繰り出します。ここはどちらかと言えば、山中なのです。混俗をしに出かけます。身も心も俗に浸ってきます(笑)。
自発はおしまい(2000/02/15)

道教における愛は「自発」だと書きました。おそらくこれは一般的精神世界では「OK」とされることです。
20世紀後半の人類は、作り出す愛という名の落とし穴にはまりました。精神世界の本では、愛とは崇高なものに祭り上げられています。
私が今回の訪中で、「道教でも愛は究極の目的だった。なぜなら自発で目指すものだから・・」と結論づけてしまうと、大きく道を誤ると思います。なぜなら、その方向性は道教の逆なのです。
道教の情報の中には、愛を肯定する文章があってはならないのです。これは今までのことをずっと読んでいるみなさんなら、分かると思います。「愛という単語はありません。」たとえ愛の国から非国民と言われても、これを言い続けないといけないのです。
ですので自発は、これにてお終いです。しかし道教研究においてはアリなのです。愛の鎧を付けなければ良いのです。
自発については、道教研究のためならOKですよ。「これこそ気付きだ」なんて言われると困るだけです(笑)。
ところで私達が言うところの自主性は、たぶん他発なのです。ですから、自力本願もほとんどは他発だと思います。どちらかと言えば他力が自発なのです、こちらの感覚では・・。
子供好きな導師(2000/02/15)



自分の子供といる時にはべったりの導師です。
この写真は今日の午前中に私の部屋で踊りの練習をしている時の休み時間の風景です。
両親とは、子供に入り込む初めての「社会」だと思うのです。さらに子供は両親を選んで産まれているという仮説に、私は賛成です。
だから子供は、両親のある時は勝手な「判断」を求めていると思うのです。
私は、子供は綺麗事で育てるべきではないと思っています。ありのままの親であればOKだと思います。
徳の四点セット(2000/02/15)

道教に方向性がなく、我々が先頭を切っているとすれば、道教がいうところの徳の四点セットは、そのまま受け取っても良いのかという疑問はあります。
別の日に導師に訊きました。すると彼女はこう言いました。「おなかが空いたー・・と言いながら道教の修練は出来ません」と。当たり前の話なのですが・・。
乞食をしながら修行した仏陀と、自分の食いぶちは自分で稼いできてから修行をする道教・・・。どちらがどちらとも言えないですが・・。

導師は私に訊きました。「シンセンと日本の往復航空運賃は幾らですか?」
「10万円です」と答えると、「ほーーらね」と他の弟子に言いました。
つまり自分(導師)の誕生パーティーのためにわざわざ日本からやってきてくれたと思っているのです。
そして弟子の一人が今晩のパーティーの費用を持つことになりました。
そういう費用を出すことは、弟子の持ち回りになっています。今回は誰それ、次回は誰それ・・という感じです。
しかし、その輪の中に徳のない弟子は入っていません。実のところ、彼にはそれほどの収入がないのでしょう。
徳・・すなわち、実際上の財力も関係しているのです。
ところで全く道教では定義されていない愛とか人情ですが、これほどのものを私は受けたことがありません。
道教に愛はないといいながら、彼らは真っ只中ではないかと思います。
中井氏の本(2000/02/16)

往復の飛行機の中で『個人とその家族』(中井久夫著・岩崎学術出版社)を読みましたので、その報告をします。
中井氏は精神科の医者です。この本の中で紹介しているいくつかの面白い話を書きましょう。

<三時間で人は変わる>
精神科に入院した患者が外泊で家に帰るときは、できるだけ一緒についていくのだそうです。そして三時間ほどその家にいるのだそうです。精神科の医者は歓迎されないので、針のむしろに座っているようなものだと言います。それでも訪問するのは、その波紋は家庭内の空気の質を変え、患者を好転させる働きをする可能性があるからだと言うのです。
たった三時間訪問しただけで人をも変えてしまうことがあるというのを知り、私は驚きました。我々が「人は変わりにくい」と言っているのは、大きな誤解ではないかと思うのです。

<損得が良い>
善悪がまかり通る環境は、人の健康状態を悪くすると書いています。ですから中井氏は「それは君、損だよ」と言うのだそうです。善悪だと、一方が善ならもう一方は悪になってしまうわけです。しかし損得は、両方とも得という場合もあるし、損をお互いに痛み分けする場合もあるというのです。この本全体の中で、彼は関西人を大変に評価しています(笑)。

<偶然>
「生命とは絶対の必然と絶対の偶然の中間の領域、ゆらぎの世界に属している」と書いています。そして精神が健康でなくなるのは、偶然性が少ない環境にいる場合が多いのだそうです。予期しない、突拍子もない出来事が人に生命を吹き込み、健康にするのだそうです。

<人生とは別離である>
これは人間同士の別れというような外部的なことを言っているのではありません。自分自身の何ものかとの別離を言っているのです。対象は二つあります。一つは所有したものからの別離、もう一つは所有しなかったものからの別離。所有したものからの別離とは、価値ある習慣、掲げてきた目標とか・・なのだそうです。所有しなかったものからの別離とは、出来なかったことからの別離なのです。その別離をいかにポイとするかがポイントだと言っています。
諦めとは、明らかに見るということだとも書いています。これが上手く出来ないと、老けていくらしいのです。

さて、これらの考え方は、道教的のような気がするのですが、いかがでしょうか?
今回の訪中の体験さえも、それに囚われるべきではないというのが、今の感想です。
選択(2000/02/17)

「選択をしないこと」・・これは老子の言葉です。しかし、導師は選択をします。つまり人を「切る」のです。
私は中国では多くの人の協力を得ています。最初、その中の一人を導師に紹介しました。
するとその日に「あの人はダメです」と言ったのです。ほとんど瞬間的にです。
それも、直接その人に言いました。目の前で・・。
人間として付き合ってみれば良い点もあるでしょうに、そういう過程は無視しました。
私の目から見ればその人は、その時点では・・良い人でした。まさに人それぞれ・・でした。
しかし時は半年ほど経ちました。その頃になると彼を紹介した超能力者達が「森田さん、あの人は・・、どうもね・・」と言うようになったのです。
結局今はその人との付き合いはありません(その人の本当のところが分かったのは今になってからですが、ここでは書きません)。
私はあの時、導師の一言を信じられませんでした。瞬間的に言った「私はあの人と二度と会わない。森田さんもあの人を切った方が良い」という言葉。
そして私は随分と考えました。道教の言うところの「選択をしないこと」という意味を・・。
道教は度量が狭いのでしょうか???いえ、導師の感覚が鋭いのでしょうか・・。さらに、他から何と言われようとも瞬間的に行動してしまう導師は、やはり凄いのでしょうか・・。
何故この話を書いたかと言えば、これを抜きに道教は語れそうにないのです。でも実は、彼女は「選択」をしていないのです。分かりますでしょうか?この意味が・・。

私は、「真っ只中」「時空の信頼」「ワダチ」・・それが全て関係していることだと思うのです。
導師の洞察力・・これは置いておきましょう。私の問題にしたいのは、「切って」しまうという行為です。わざわざそこまでしなくても、と思ったり・・。
つまり、他の宗教では考えられないのです
切るという現象も、中心気質の一つの現れだと思うのです。道教は中心気質者を製造しているのではないかと・・。
導師は相当な中心気質者だと思います。空になれるのもその一つだと思います。
弟子になる可能性まで全部切られると思います。なぜなら導師という人は、人を裏切れないからなのだと思うのです。
導師は「うーーん、森田さん、どうしよう・・」なんて悩んだりしないのです。一気に「ばっさり」これって選択してはいないと思うのです。
つまり、彼女にとって、選択の余地はないのですから・・。

導師の「切る」に対抗する方法は・・簡単です。こちらも「直感全開」で行けばいいのです。
普通相手と話す時には、必ず「思考」が入ってしまうものです。思考には計算があります。思考が入るとエネルギーが落ちてしまいます。
直感とはいえ、やはりマイナスの感情が入るとダメみたいです。嫉妬とか怒りとか・・そういうのが入るとエネルギーが落ちるようです。
しかしそれが入らない時は、導師とて対等になれます。対等になった時、導師は大抵「シンデンシェンの言う方にしよう」ということになります。
エネルギーって、何でしょうか?「生きている」という何かだと思うのですが・・。
六次元の図(2000/02/17)

導師の瞑想ルームの天井には「六次元の図」がかかっています。今回、私はそれをグラフ用紙に写してきました。そして今、綿密に確かめてみると、本当に六次元立方体が書かれていることが分かりました。角の数は64個、辺の数は176本・・。
彼女の制作過程のデッサンも見せてもらいましたが、次第にその次元の数を増やす方法で何枚にも渡って書き、そして最終的な完成図を作ってありました。
彼女はこれを、右脳で作ったのでしょうか?以前このHPで募集した時も、誰も作れなかったのに・・(でも、私は既に七次元まで制作したけど・・)。
六次元の図は、単に幾何学的な図です。情念とかインフォメーションは何もありません。
あと、六次元の世界を道教がどうこう言っているわけではありません。あれはあくまで私個人の体験で、同じように時空の信頼という言葉も私の発言です。道教が定義しているわけではありません。
導師の弟子達(2000/02/18)

私の目から見て、弟子達は「自分のこと」に一番の興味があるようです。導師を通し、道教に接することによって自分自身の成長、レベルアップ等をしようとしています。
まあ、通常はこれが当たり前でしょう。
私はと言えば、自分の成長にはあまり興味はありません。道教に接して以来、もっと興味はなくなりました。
中心気質という概念に接してからも、もっと興味はなくなりました。
私は嫌な人がいれば、その人に向かって「お前は嫌いだ」と言ってしまう性質があるのです。それでどれほど損をしているか分かりません。私の生きていく過程は敵を作っていく過程のようなものです。
私には「大人の行動」・・つまり「自制した行動」がとれないのです。
しかし、それも諦めました。私は既に自分を成長させたいとは思いません。

さて話は元に戻り、では何に興味があって道教の体験をしているのでしょうか。
それは宇宙や時空に興味があるのです。この点では導師もそうだというような気がします。彼女は自己成長の欲は、私が見る限り、無いのです。
でも、「私は宇宙に興味があります」という彼女の言葉を読んだ方は多いと思います。10月の時、シンセンから香港に行く直前にアップしています。導師は宇宙のことを考える時が一番好きだと言いました。
そして今回、私の書いた「天人合一の図」をずっと眺めていました。「ユースタディベリーグッド」と言いました。私が弟子の中では一番早く天人合一の修行を受けました。
自分自身を成長させようとしている弟子に、彼女はあまり興味がないのです。おそらくフィードバックが少ないからではないでしょうか。
「切る」ということが出来るのも、彼女は時空と繋がっているからでしょう。
時空への興味は、結果的に人をも変えてしまうと思います。
みなさん、ありがとう(2000/02/18)

今回もリアルタイムで報告が出来ました。
雪の東京から冷房のシンセンに移動し、現地の暖かさにびっくりしました。
シンセンでは椰子の木がゆらゆらとなびいていました。仙人・仙女はその下で昼寝でもしているのでしょう・・・というわけではありませんでした。
今回も朝までどんちゃん騒ぎのパーティーが・・。翌日、仙女は二日酔いで(笑)。
やりたい放題をやっている感じです。
「半分しかあげません」これにも驚きました。彼女の中には客からどう思われるかという視点がないのです。「それよりも大切な事を伝えたい・・」というわけです。
『不思議の科学3』の写真として、マスターの書いた絵を出しても良いことになりました。もう一度、ちゃんと撮影しました。中国ではなく日本で初めて人目に触れることを、マスターは知っていたでしょうか?
それともそんなこと、知ったことではないかも知れません。描いた時点でマスターの気持ちはその絵から離れていると思うからです。
過去に固執せず、時間の流れに身を任すこと・・。
彼女が来日するまで私は、会うことはありません。
和光混俗も良い言葉でした。日常生活即是道も良い言葉でした。
小心者(2000/02/19)

人は皆、小心者だということは、基本的な事項だと思います。
それが小心者として写るか、大心者として写るかは・・私は「直接的」かどうかということにかかっているのではないかと思います。
直接的という意味は二つに分かれると思います。
一つは、意見を言いたいと思った相手がいる時、その相手に直接言えるかどうかではないかと思います。
導師が「切った」話をしました。彼女は私の前でもその人の欠点を言いました。しかし、その100倍くらいを直接その人に言ったのです。
「森田さん、これを伝えてくれませんか?」と言われたりすれば、それは既に「間接的」です。
ところが世の中では一般的に、事なかれ主義があります。事を婉曲に、すなわち間接的に済ますのが良いとされているフシもあります。根回しをして持っていこうとします。
ですので間接的の方が、どちらかと言えば正義なのです。
だから、やりたい放題をやる導師は、相当なワルとして写っているはずです。中国国内でも、彼女のワルぶりを批判する人がいます。
私もこのHPの中では直接的に言ってしまう方なので、それが時には地雷として作用してしまうのでしょうか?

さて、もう一つの「直接性」があります。それは自分自身とダイレクトに繋がるという意味です。
理由抜きが直接的、理由アリが間接的・・だと思います。
理由というのは、合理化であり、正義だと思います。
人は自分自身が信じられないときに、理由探しをするのではないかと思います。そのプロセスに入ると、本来の感情は抑圧され、「うまくやっていこう」とか「直接言っても分からないだろうから、間接的に言おう」という結論になるのだと思います。
中心気質の人は、直接的だと思うのです。理由付けは不要なのです。
対象物との距離感が少ないということは、相手という人間との間に距離が少なく、さらに本来の自分の感情との間の距離が少ないという意味があるのではないでしょうか。
ここに書き込む人は、失礼ですが小心者だと思います。小心者だから人の意見も聞きたいし、人と直接的にコミュニケーションを取りたいのです。
しかし矛盾しますが、小心者ではありません。書き込むことが出来るからです。
一方では小心者で、一方では小心者ではないのです。強いてネーミングすれば、小大心者なのでしょう。

司馬遼太郎が歴史上の大人物についてのことを書いてあったのを読んだことがあります。
まず、大物になるには「可愛くなければならない」と書いてあります。
歴史上の出来事だけを見てしまうと、その人達はかわいげが無いように見えますが、実際に取材していくと、他の人よりも可愛いのだそうです。
そして次に挙げたのが、「小心者であり、なおかつ、その反対の性質も重ねて持つこと」だそうです。そして司馬は、本当の小心者は本当の大心者になる・・というようなことも書いてあったと思います。
導師が作った電気の笠(2000/02/19)

今回は、電気をつけて撮影しました。これは『不思議の科学3』には白黒で載ります。しかしHPではカラーで出すことが出来ます。

器(2000/02/20

私のようなリーダー(三次元では社長をしていますので・・)は、「大きな器」ということに悩まされてきました。
私は不思議研究所を始める前、とても暇だったので、経営者を対象とする幾つかのセミナーに出ました。そのとき言われるのが、器という問題でした。
器が大きい人間・・これは特に男性にとっては魅力的な誉め言葉だと思います。
しかし私は、ずっとなれませんでした。人に反論をし、人を切るたびに、「俺ってなんて器が小さいんだろう」と悩みました。
ある時期から、次第に吹っ切れるようになりました。その一つの原因は、時空の探求の方が自己成長よりも楽しくなってしまったのです。
自分はこれでいいのか?なんて悩みよりも、時空はなんて美しいんだろう・・いったい、どうして?という悩みの方が優先されるようになってきたのです。
そして、決定打が来ました。導師との出会いです。
道教の導師・・しかも仙女・・おお、きっと器のでかい人に違いない・・。
しかし、それは大振りの三振に終わりました。全く器の小さな人が、そこにいたのです。
実は正直言うと、孫さんとの出会いの逆なのです。孫さんには器の大きさを感じました。
しかし導師は器が小さいどころか、「無い」のではないかと思ったのです。
目の前でバシバシ人を切ります。端で見ていると、そこまでしなくても・・と思います。
器の広いことを言う人は、許容します。考えが違う人を受け入れることによって、彼はますます大きな器になります。
しかし彼は自分の城に帰ってから、やっとその人を批判します。

今までのレポートで、導師が一般的に言うところの「常識」や「器の広さ」を持っていないことは、伝わっていると思います。
それでもみなさんは、特に男性の方は、器の広さに憧れるのではないでしょうか。
「あなたの大きさで、私を包んで・・」などと女性に言われたら、包んでしまいたくなるのではないでしょうか?
「もりけんさんて、もっと器が大きいと思ってました・・」この台詞は効きます(笑)。
しかし、時空さんも大変ですよね。「どうして私の願いをかなえてくれないのですか。もっと器が大きいと思っていました。」
しかし器などというものは始めから無かったものであり、それを大きくするなどということをすれば、真っ只中で生きることが出来なくなってしまいます。
孫さんが器が大きいことを言うとき、私は友達になれそうにありませんでした。
でも、孫さんの裏の面、すなわちちょっとした嫉妬心のようなものを出すとき、私は友達になれると感じました。
ドキドキする人生は、まず「器」捨てること・・だと思うのです。
徳と器の大きさ(2000/02/20)

道教の徳には、精神的部分がありません。「法、財、侶、地」
なぜ精神的な部分がないかが、やっと分かってきました。
徳とは器の大きさだなんて言おうなものなら、それだけで道教はアウトでした。
徳とは、我々にとっては精神的な指標を意味します。こういう人に精神的徳があると言えば、信者はみんなその方向を向きます。
道教に一貫するものは、そういう精神的な方向性を排除することにあると思います。
中井氏も書いています。「なれなかったことを手放しなさい」と。彼に言わせればなれたことより、なれなかったことの方が執着を生むというのです。
おお、ここでやっと無為という単語も結び付きそうです。

徳が物質的なものだと知り、「ケッ、くだらねえ教えだ」とケツをまくっていくヤツを作り出したいのです。
「半分しか配りません」・・いったいどこまで我々をバカにしているのでしょうか。
災害で死ぬ人も幸せ・・いったいどこまで敵が欲しいのでしょうか。
しかし、「だから、どうした」という道教側の声が聞こえそうです。
「叩くなかれ、扉は開いたままだ」これは老子の言葉です。しかし、道教は全ての人に平等に扉は開いていない。それどころか、叩いても開かない・・。
他の宗教はどうでしょうか。拒否する宗教など、ほとんど無いと思います。
では、いったい・・・
叩く余地のない人には、いつも開いている・・これかも知れません。

導師が心の中では「切る」べき人を否定しているにも関わらず、そのままOKという感じでいってしまったらどうでしょうか。いえ、一般にはそうなのではないでしょうか?
孫さんが「器が大きい」時、私は友達にはなれそうにはありませんでした。もちろん指導者として見れば、OKです。
では、導師はどうでしょうか?彼女は指導者なのでしょうか?
おそらく本当の指導者なら、切るべき人は切らずに、彼女なりの正しい道を指導したかも知れません。
しかし私の目から見ると、彼女は指導者ではないのです。自分でも言っています。「私は、自分のためにしかやらない」と。
つまり彼女にとって相手の人間は、教える・教えられるの関係ではなく、人間関係そのものだと思うのです。
人間関係そのものの中に、器の大きさは出てくるものでしょうか?彼女が「切った」のは、物凄いことだと思います。
フォーカス35では全ての人は繋がっています。導師もその人も、繋がっています。だから、彼女はいつも本気なのです。ある意味では本気で「悪」をやるのです。
道教には愛がない・・しかし、これは反意語であり、「切る」ことは切っていないような気がするのです。
そういう時、器なんて吹っ飛びそうです。
徳のない弟子(2000/02/20)

彼は末席でした。そもそも導師と同じテーブルに着けなかったのです。導師と同じテーブルには、どちらかと言えば三次元で頑張っている香港の弟子(社長)が着きました。
メインのパーティーが終わり、香港の弟子は引き上げました。実際早く帰らないと、シンセンと香港の間のゲートが閉まってしまうのです。でもまだまだお客はいます。
カラオケが始まりました。徳の無い弟子は、とても歌が下手でした。でも私と一緒に『北国の春』を歌い終わった時、彼は私とハグハグしました。何度も握手をしました。
それから延々3時間・・彼は場を盛り上げるために頑張っていました(もちろん私も)。
私は翌日も午前中から踊りの練習です。それを知っていた導師は「シンデンシェン、もうおやすみなさい」と言ってくれました。
エレベータまで見送りに来たのは、導師と徳のない弟子でした。私は導師とは握手をし、弟子とはまたハグをしました。
彼は本当に徳がないのでしょうか?一番末席に座らせられましたが(席は導師が決めた)、導師は彼が歌い終わるといつも拍手をしていました。
そして会場で私が導師と例のダンスを披露している時、天人合一の一番最初の技を使い、私達にエネルギーを送っていたのです。
ウサギと亀の競争ではありませんが、徳がなくても導師はちゃんと見ているのではないかと思いました。
私が一番仲良くなれそうなのが、その弟子なのです。

彼は私と会った翌々日、パーティーに来ました。実は彼がパーティーに来たのは、私がシンセンに行くようになってから、それが初めてなのです。
ローブの授与式は、授与式のみ出て、そのあとの二次会(笑)には出ませんでした。彼はとても真面目なのです。
私と泊まったホテルでは、彼は酒を飲みませんでした。真面目な話だからいいと断ってきたのです。だもんで、私が誘ったのです。今度、飲もうよ・・と。
導師が彼を拍手していた(他の人には別に拍手しなかった)のは、ひょっとすると、彼にブレークスルーが起きたのかも知れません。それを導師が分かったのかも知れません。
少し過大解釈しすぎているかも知れませんが・・。
「道教は徳を作るためじゃない。徳は別で作って来い。」こんな感じのことを言ったときもありました。
修行をするためには徳がなければならないのですが、その目的は道教を趣味にするためではないかと思ったのです。宗教は生活の本質ではなく、趣味・・。
本当にやりたいことは、いつでもやめられること・・・実は趣味がそれかも知れません。
徳がない・・それは、きっとその弟子は「いちず」だったのでしょうか?
(でも、孫さんは逆なのですよ、「徳が大切だ」と言います・・。)
「俺の取る道は、これしかない」このスタンスは、実はワダチとは逆なのかも知れません。
「これが私の天命の仕事です」と言った瞬間、導師からバッサリ切られそうです。
「道教で言う法・財・侶・地(ノウハウ、金、女、土地)」・・・これを肯定できない人は、タオからも遠ざかる・・。
無くても肯定できればいい・・私はそう思うのです。
でもね、道教の徳の一つが財であると言われたとき、私はかなりショックでしたよ。お金を取り出してまじまじと見てしまいました。
不思議研究所を始める前の10年間(2000/02/25)

会社の近くにマンションの部屋を借り、昼休みから午後の3時までの2時間半をそこで過ごしました。昼寝をしたり、本を読んだり・・。
ある時、不思議研究所を始めることにしました。でも何も変わらない日々が続きました。
最初、不思議研究所という名前ではなく、四次元研究所にしようかと思いました(ああ、そんな名前にしないで良かった・・)。
結婚10周年記念パーティーというのをやりました。ホテルの結婚式会場を借り切り、結婚式とほぼ同じ事をしました。妻は二度目のウエディングドレス。
その時、最後のスピーチで不思議研究所を作ることを初めて発表しました。興奮して喋りましたが、何の反応もなし・・(あれから8年が・・)。
それから本格的に始めるまでに3年を要しました。会社を安定化させたかったです。無借金にしたかったです。
始める直前にオウムの事件が起こって、超能力と宗教が否定されました。でも私の中では何の障害にも感じませんでした。
それでもスタートのきっかけはありませんでした。そして健一事件が・・。
神よあなたは一体??・・再びこの問題がのし上がりました。
きっかけは映像でした。
家族でニューカレドニアに旅行しました。そのときベランダで一人飲んでいると、突然映像が見えました。
四次元空間があったとしましょう。その空間の厚みがたった一ミリでも、この宇宙は無限に入ります。その映像が見えたのです。その瞬間に私はシフトしたような気がします。
旅行から帰ると早速「びっくり人間募集、不思議情報募集」の広告を出しました。日刊ゲンダイと夕刊フジに。しかし雑誌ムーからは、胡散臭いと言われ、広告掲載を断られました(あの雑誌に胡散臭いと言われるくらいだから、よほどだったのでしょう)。
0.7ミリ(2000/02/26)

これ、つまり0.7ミリって、何だか分かりますか?七次元までの距離です。
1ミリの中に無限の宇宙が入ると書きましたが、もっと薄くてもOKです。たとえば四次元は0.1ミリでも。
その0.1ミリの中に、この私達が住む宇宙が1億個以上も入ってしまうのです。高次元の許容量というのは、膨大なのです。たったの0.1ミリでOKなのです。
そうやって七次元まで達するのには、0.1×7=0.7ミリしか必要ありません。
いえ、0.1ミリというのは仮の話です。本当はもっと薄いのです。
だとしたら、六次元や七次元はすぐ近くにあるとは思いませんか?
何故ピーナッツから芽が出るのでしょうか?
なぜ導師はあれほどの時間と労力をかけて私を導こうとしたのでしょうか?
今日は四次元の図を書きました。やはり私は高次元に興味があります。こんなに美しい図が書けるのですから・・。
私はまた進みます。私だけのために。もう、どんな善行もしません。
七次元の根拠(2000/02/26)

佐佐木康二さんに言わせると、三次元空間にはそれぞれ時間次元があるらしいのです。縦時間、横時間、高さ時間です。そしてあと、私たちの周りを流れる時間があります。それを全部足すと7次元です。
私の体験で、六次元のとき時間の流れがストップしたのは、私達の周りを流れる時間が抜け落ちたのではないかと思います。
空間にしろ時間にしろ、向こう側では「振動」として考えるのがニューサイエンスです。
もしも縦時間と縦空間の振動の位相(山と谷)が180度ずれていたら、つまり山と谷がお互いに打ち消し会うようだったら、向こう側の世界に行くと「無」を経験できるはずです。
こちら側の世界には、片方(つまり空間)が足を突っ込んでいるのてす。
それで六次元ではすべてが無くなり、七次元では再び時間のみが出現するのではないでしょうか?
それがダイレクトに三次元に帰れるのは、自分の中で縦時間と縦空間を自動的に切り離すからではないでしょうか。
上記の仮説で面白い点は、次元が高くなるほど足されるのではなく、逆に打ち消しあいを起こして、引き算されていくという点です。
上に行けば行くほど、打ち消し合って、減るばかり・・。
この仮説でいくと、この三次元の世界が最も次元が高いのです。
導師は「切って」いない(2000/02/26)

今朝、香港の弟子からメールが来ました。『不思議の科学3』に出したい写真に追加が発生したからです。
船井直感力研究会で私の部屋に来てくれた人が、「この写真は『不思議の科学3』(やはりこう呼びたい)には載っていない。しかしこの写真は凄くいい」と言った写真なのです。導師からはOKが出ました。
さて、私のメールでは「選択」とか「切る」とかいうことも訊いてあります。それに対する答は「切ってもいない」「選択してもいない」でした。
考えてみれば、道教の世界に有為という行為はありませんでした。
有為・・すなわち積極的に何かをするという行為です。
導師は単に反応しただけなのです、たぶん・・。その反応が正確なだけなのです。
つまり、切られた人がそれを作り出していたのです。
作り出すという行為は精神世界では良く言われる言葉ですが、その人が作り出す世界に入ろうとしたところ(入り口)までが、その人にとって行けるところなのです。
でもその人は当然入り口を越えて中に入ろうとします。その時点で彼女は「切る」のです。ですから切ってはいないのです。

もう一つ切る基準があります。それはその人が、行く先を「不可能」だと感じているような場合です。
弟子達が時空の旅や天人合一に参加できないのは、彼らが高次元に行くのを不可能だと思っているからだと思います。不可能どころか彼らには高次元のイメージすらないのです。
でもこれは中国全般に渡って言えることです。超能力を高次元現象だとは捉えていないのです。
導師は切ってはいないのです。切られる人は、切られるべくして切られているのです。
時空の旅は、私から言い出したわけではありません。導師が誘いました。
天人合一は違いました。その修行法のことを事前に聞いたため、私は「いつさせてくれるんですか?とても興味があります」とせがみました。しかし答はノーでした。
完全に諦めたとき、トランプという方法でOKが出ました。
これって、無為そのものだと思います。今朝、気づいたのです。
となると、導師の能力を引き出すのは弟子なのですね。
弟子が無為に行けると思うところまでしか、導師は連れて行かないのです。
無論不可能だと思えば連れて行かないし、作り出すもの(有意)でも連れて行かない・・。
となると、伝授会等で彼女の能力を引き出せるのは、参加者なのかも知れません。
「なーんだ、大したことないじゃないの。」もしこういう結果になったら、それは自分自身に対して言う言葉かも知れません。
書き込み期間:2000/02/08〜2000/02/26