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テーマ:「負け感覚」 |
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書き込み期間:2005/06/18〜2005/06/29 |
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要旨:
私が今まで観た中で最も感動したドラマに『ああ、新世界』と『祝辞』があります。どちらも主人公が完璧な負けを味わう話です。
私は、負けを認識することはとても大事なことだと思います。さらに、勝ち負けを考えることは時空の問題を解く上でも重要な鍵になると思います。
人類は運命の前に為す術もありません。一度も勝てたことがないのです。達成感のうちに死んでいくより、負けを認識した方が良くはないでしょうか・・・。
過去の歴史の中にも、負け感覚を持っていたと思われる人物がいました。徳川家康がその一人です。彼は戦いに敗れて一人で逃げ帰った時の自分を肖像画に描かせて、それを飾っていたといいます。それは常に本来の自分と対面することだったのです。
徳川慶喜は、自ら権力を放棄して徳川幕府を閉じた人でした。日本は「負け」が歴史を動かしている国であるような気がしてなりません。西欧諸国は、「勝ち」だけで歴史を動かそうとします。それが戦争を引き起こすことにもなります。人類全体が負け感覚を持てれば、戦争もなくなる気がします。
私は、負け感覚を持つことが自由に繋がるのではないかと思っています。100%勝ちに行くと、自由を失うのではないかと思います。言い換えれば、ハンドルを手放して受身に徹することです。これの逆が、自分で選択して決める行為です。
社会では理由や決定が求められます。日本人は自分で選ぶことが出来ないと批判されたりします。しかし私は、たとえ運命通りでも流れに乗ってしまうことに自由を感じるのです。
ところで、時空は勝ちに向かっているのでしょうか、負けに向かっているのでしょうか。
時空の勝ち負けは保険的なのかも知れません。自由もそうかも知れません。つまり勝ちを求めれば負け、負けを認めれば勝てるような仕組みになっているのかも知れません。
そうだとすれば、「ハンドルを手放せ」「無為自然」「自然に任せろ」といった概念は、真理を突いていると思います。
「勝ち負けはない」と言う人もいますが、勝ち負けという切り口に徹底的にこだわって考えてみることでこそ、見えてくる真実があるような気がします。
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○ 負け感覚1
○ 負け感覚2
○ 負け感覚3
○ 負け感覚4
○ 負け感覚5
○ 100%勝ちに行かない人生
○ 勝ち負け・・どちらが「生きている」か?
○ 勝ちと負けと自由
○ 国際イメージコンサルタントの前で、私は負けている
○ 「私」を決定しないと勝てない
○ 保険的勝ち負け
○ 運は、生き物か?
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負け感覚1
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事の始まりは、次の書き込みでした。
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『ああ、新世界』・・それは北海道の町役場の職員が主人公でした。彼は昔、東京のオーケストラの楽団員でした。それを辞めて、地元に戻りました。そしてそのオーケストラが札幌にやってくるということになりました。昔のよしみで参加させてもらえることになりました。でもシンバルです。新世界という曲にはたった1回、シンバルを打つ場面が最後にあるのです。他の楽団員は華やかな東京人になっていました。「芸術」を語る楽団員。練習の休み時間に相手にされず、ひとりぼっちの彼・・。でも当日、役場の全員がマイクロバスで見に来ます。そして演奏が始まります。今までの半生が走馬燈のように出てきます。彼の「芸術」はカラオケの無い当時、宴会で茶わんを叩いて歌の伴奏を作ることでした。みんなが彼の伴奏に楽しそうに歌う場面・・。半ネクタイで踊るように茶わんをたたく彼。そしてビシッとした燕尾(えんび)服で決める団員。借り物なので燕尾服が体に合わない彼。冴えない彼の人生。頭が真っ白になった彼は、たった1回のシンバルが打てなかったのです。楽譜のその部分に大きく赤丸をつけてあったにも関わらず・・。そして次のシーン・・。誰もいなくなった舞台に彼だけが残っています。誰もいなくなった客席に役場の人たちだけが残っています。彼はじっと前を見ています。涙すら出てきません。そこで、やっとシンバルをたたきます。思い切りたたきます。たった1回。ドラマのバックを流れる新世界という曲・・。外ではタイヤが雪を踏む音。大役を果たせなかった彼・・。
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隣のコーナーの書き込みでは、「自分の意志で、わざわざ叩かなかったのではないか」というのが多かったです。つまり叩けば勝ち組に入ってしまうので、自分はあんな奴らとは一緒になりたくなかった・・と。
しかし私は、主人公は完璧に負けたと思います。
普通は負けにも、「理由」があるものが多いです。主人公の意志がそこで反映されて、「負けても意味があったんだ」などと言います。
しかし負けを認識するというのは、とても大事だと思います。なぜなら、それが欠如していたために、人類は一度も勝てていないと思うからです。
負けているくせに「俺はやった」「私は学びを達成した」などと思って死んでいくのは、本当にバカみたいです。人類は、ずっとそうやって死んでいったのです。
負けを認識しろよ・・と言いたいです。
ここ数日、メインコーナーでは幸福論が続いています。幸福は自分ではなれない・・諦めることが幸福に繋がるのだ・・という書き込みをしました。それと「負け」は、とても似ていると思います。
私は、負けの感覚が無ければ時空の解明は出来ないと思っています。それを最初に感じたのは、チベットのお馬さんでした(笑)。
故障したランクルの前をトコトコと歩くお馬さんは、私たちを横目で見ていました(笑)。
私はその時感じました。「負けた・・、人類に勝ち目は無い」・・と(笑)。
さて、シンバル奏者の話に戻ります。
彼は自分の楽譜にたった1回発生する音符に、赤丸を付けました。演奏は進み、赤丸に迫ります。
考えてみれば、赤丸は空洞です。他の演奏家が自分の打つ時間を決定するからです。そこを埋めるのが彼の仕事です。
大抵はこのようにして、私達の行動は決まります。
組織で働いている人は、特にそうだと思います。自分の仕事は自分で決定するというよりも、他から要求されるのです。
一方、運命からの要求事項もあります。それは卦に表すことが出来ます。官鬼(仕事)が月日から剋されていれば、その仕事はうまくいきません。
主人公の演奏者は、その両方からの要求に応える形で行動していました。その結果、シンバルを打てなかったのです。官鬼が弱かったからです。
彼に為す術はありませんでした。同様に他の楽団員も、為す術はないはずです。
我々人類は、みんな負けているはずなのです。
さて、このドラマを書いたのは倉本聰です。私がもう一つ好きな『祝辞』という番組は山田洋次でした。二人ともその後、巨匠になりました。
たった1回のドラマに未来の巨匠がぶつけてきたテーマは、「負け感覚」なのだと思いました。
イチローも松井も、勝ち続けています。彼らは一体何なのか・・。
宮本武蔵も無敗でした(最初の柳生石舟斎との試合を除いては)。
その底辺には、「負け感覚」があるような気がしてなりません。
彼らは空洞を「ヒット」や「本塁打」で埋め尽くしています。
でも彼らが「ああ、新世界」を見たら、彼は俺だ・・と言うような気がしてなりません。
自分の空洞を感じた瞬間、バットがボールに自動的に当たっているのだと思います。
(人類全体に負けの感覚が来れば、戦争もなくなると思います。そのとき初めて、勝ち負けのない世界に入れると思います。)
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負け感覚2
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歴史上の人物で負け感覚を持っていたと思われる人を、何人か挙げてみたいと思います。
徳川家康がまず一人・・。彼の肖像画の一つに、ブルブル震えているやつがあります。
それは武田信玄との戦いに敗れて、馬上で脱糞しながら浜松城に向かって一人で逃げ帰ってきたとき、その自分を描かせたのです。そして自分の部屋に飾ったと言います。
負けたときの自分・・
本来は一番忘れたい事だと思います。なのに家康はそれを自分の部屋に飾ったのです。
自分の本来の姿はこれだ・・・と。
自分が頂点のときの写真や絵を飾る人は多いです。しかし彼がそれをしたら、天下は取れなかったのではないかとさえ思います。彼は負けた自分といつも対面していたのです。
そして関ヶ原の直前、家康は100を超える大名に、直筆の手紙を出します。
豊臣も、これをやっていたら勝っていたかも知れません。しかし豊臣にはメンツがありました。勝利者としての豊臣が、配下の大名に直筆で出したらメンツがなくなる・・と。
孫(家光)が庭で剣の練習をしていたとき、家康は言いました。
「そんなことをしても無駄だ」
幕末の千葉道場でトップクラスだった桂小五郎は、一度も剣を抜いたことがないと言います。
京都で(新撰組かなんかに)捕らえられたとき、トイレをもよおしたと言い厠に入り、便器から下の肥溜めに飛び込んで、一方の出口から脱出します。糞尿にまみれて・・・。
宮本武蔵とて同様です。彼はきたない手を使い過ぎます(笑)。遅刻して小次郎をイライラさせる・・小次郎の剣よりも30センチも長い櫂を使う・・
それは剣だけで勝負したら負けることを知っていたからだと思います。
「鳥の声を聞け」・・これは剣だけでは負けるというメッセージでもあったのです。
負け感覚、それを持つことは、本来の自分との対面するような気がします。
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負け感覚3
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『前世療法(ブライアン・L・ワイス著)』という本があります。読んだ方も多いと思います。
過去世の行いがカルマとなって現世に影響しているという話です。つまり今がダメなのは(笑)過去の行い(多くは過ち)に原因があるので、今はその苦労を苦労として受け止め、魂のレベルアップのために励まなければならないという論旨です。
ガイドだの天使だの愛だのレッスンだのという単語が多発する本です(笑)。
人は人生を自由意志で選択しているという路線なので、「私は原因」の代表格の本です。
さて、つい最近ワイス博士(なぜか外人の著者は「博士」と付ける(笑)。日本人は博士号を持っていても付けない(笑))は『未来世療法』という本を出しました。
アマゾンには次の説明が出ていました。転載させてもらいます。
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全世界でベストセラー!日本のスピリチュアルブームの扉を開いた、『前世療法』『魂の伴侶――ソウルメイト』の著者が綴った感動の書。▼米国屈指の精神科医であるワイス博士は、治療中の患者が前世の記憶を語り出したことから、神秘の世界の存在に気づく。その後、治療体験を重ねるうちに、患者を過去世だけでなく、未来世へと導くことができるようになる。過去と未来へのドラマチックな心の旅で、輪廻転生の意味に気づき、未来は決まったものではなく、現世の生き方や選択によって変わっていくものと知る。▼◎サマンサは、ギリシャの建築家であった前世、そして、内科医として名を馳せている来世の自分を見て、学生時代の挫折を克服◎ゲイリーは、来世をかいま見たことで、うつ病と自殺願望から解放された◎ポールは、来世でもアリスンと愛し合うことを知り、アリスンの闘病を助けるために現在の生活を一変させた…etc.傷ついた人生を癒した真実のドラマ。
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実際にこの本を読むと、患者が未来を見に行く場面が出てきます。それもかなり詳細に・・。
実は、ワイス博士は今回の本を出すに当たって、大変なのではないか・・・と思っていました。だって未来が見えるということは、未来が決まっているということです。まともに切り込めば、今までの成果は全部フイにするかも知れません。
どこまでが決まっていて、どこまでが決まっていないのか・・変更できるとすれば、その要因は何なのか・・博士は、グサグサと切り込んでいくと思っていました。
だから私は、ワクワクしながら読み始めました。で、読み終わりました・・
なんと、今までの仮説に全く変化は無かったのです。「私は原因」を少しも疑わず、「自由意志」を前面に出したまま終わりました。
ある程度運命が決まっているとすれば、少なからず自由意志は揺らぐはずなのにです。
誠に失礼ながら、ワイス博士は負けることが出来ないのだと思いました。
博士は白紙に返すことが出来ないのです(どてっ)。
負けの感覚というのは、いつでもスタートラインに立てることだと思います。なぜならそれは往々にして、自分の栄光ある過去を否定しなければならないからです。
もちろんワイス博士は、心底「私は原因」に疑問を持たなかったのかも知れません。
しかし一般的に言って、過去に言ったことをくつがえす本は、数少ないと思います。
本の作家だけの問題ではありません。私達は個人の生活でも同じ問題にぶつかります。人と人とがぶつかるのは、大抵この路線です。
「あなた、××と言ったじゃないの!!」
言った事には責任を取らなければなりません。
個人に閉じられた時でも同様です。自分がコロコロと変わるのが許せません(笑)。
しかし生きているということは、定点を持たないことだと思います。定点が欲しいのは、自由が怖いからだと思います。
そして定点を放棄できるのが、「負けの感覚」だと思っています。
家康が負けたときの「困った顔」の肖像画を描かせたのは、後生になってからでした。たぶんその頃は勝ちが積み重なって定点が出来つつあったからではないでしょうか。
あの時の、どうして良いか分からない浮遊したような自分に戻り、定点を放棄したかったのだと思います
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負け感覚4
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徳川家康は江戸幕府を作った人ですが、今日は江戸幕府を閉じた人の話です。
十五代将軍徳川慶喜は、大政奉還と江戸城明け渡しという、とてつもないことをした人です。
封建体勢が崩れるときは、どこの国もひどいです。それは一度権力を手にした人は、なかなかそれを手放さないからです。
豊臣は関ヶ原のあとも生き続けていました。しかし大阪夏の陣、冬の陣で滅亡します。
家康は豊臣に厳しい条件を出したとは言え、それをのめば存続を保証していました。
しかし勝った者の面子がそれを拒みました。家康の配下に下るくらいなら、滅亡した方がマシだと・・。
ところが徳川慶喜は、自ら権力を放棄しました。
もしも十五代将軍が家康だとしても、同じことをしたような気がしてなりません。
徳川幕府は、負けに始まって、負けに終わったような気がします。でも世間はそれを負けだとは評価しません。まったく不思議な政権だったと思います。
幕末の関係の本を読むと、徳川幕府側の力の無さを書いたものが多いです。
天下太平に気を良くして、武器などの研究や新型兵器での戦闘訓練を何もしてこなかった・・・と。そういう怠慢さがああいう結果になったのだ・・と。
しかし家康は孫の家光に言いました。「剣など練習してどうする・・。」
それは剣などで勝ってどうする・・という意味かも知れません。
大阪城で官軍を前にして、船に乗って江戸に逃げ帰る慶喜の話は有名です。それは武田信玄を前にして、ひとり馬にしがみついて浜松城に逃げ帰る家康にも似ています。
一方、西郷隆盛は勝ちたくてしようがありませんでした。「勝てば官軍」というフレーズすらも作りました(笑)。それが最後には、西南戦争を引き起こすのだと思います。
人間の心の中には「勝ち」と「負け」があります。
日本の歴史の根本部分は「負け」が動かしているような気がしてなりません。
西欧諸国でこんな国があるでしょうか・・。ないと思います。それは合理主義だからだと思います。彼らは「勝ち」だけで歴史を作っていきます。
こうして考えると「負け」というのは、時空を考える上でも意味の深いことだと思います。
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負け感覚5
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富士通を辞めるとき、女子社員の一人に言われました。「森田さんもこれで終わりね・・・」
当時、この言葉がまったくピンと来ませんでした。しかし今なら分かります。
私は外から見て、勝っていたのです(笑)。
・総合企画室という部署で10年先のビジョンを作っている
・留学させてもらう
・男性人気投票で一位
・数ヶ月後にニューヨーク駐在員に内定
これを蹴る・・
「森田さんもこれで終わりね・・・」それはそうかも・・(笑)。
しかもビジョンが無いので「今に見ていろ、必ずこれを超えてみせる」などとも、言えません(笑)。私は「えっ?やはり・・」と言っただけ(笑)。
「富士通の森田から世界の森田になるんだ」と、矢沢永吉みたいなセリフが喉まで出ましたが、言いませんでした(笑)。だって矢沢みたいに勝てないことは分かっていたからです。
そして翌日から奇妙な感覚に襲われました。昼間ブラブラしている時です。
「こんなことをしていて、いいのだろうか」と思ったのです。
それまでの人生は、どこかで勝ちにいっている要素がありました。
高校受験しかり、大学受験しかり、就職試験しかり、そして富士通での生活しかり・・・
どこかに目標(ビジョン)があり、それに向かっていたのです。
「こんなことをしていて、いいのだろうか」というのは、何もビジョンが無くなったことなのです。
しかし、それだけではありません。ここには「勝ち」の要素が秘められていたのです。
不思議研究所を始めたときも同じ事を思いました。「こんなことをしていて、いいのだろうか。」
富士通の同窓会には、「森田さんもこれで終わりね」と言った女性は来ませんでした。
その代わり別の女性が言いました。「森田さんもあれで終わったわけではなかったのね。」
ところで本音を言えば、あれで終わりにしたかったのです。
「森田さんもこれで終わりね」という言葉は、私自身が言いたかった言葉です。
「森田さんもあれで終わったわけではなかったのね」という言葉も正しいです。
本当に上位の勝ちから解放されていれば、「こんなことをしていて、いいのだろうか」というフレーズは出てきません。いいに決まっているからです(笑)。
人が対面しなければならない大きな概念が「勝ち」なのです。それは私とて同様です。
『ハンドルを手放せ』という本が売り出され、アマゾンで上位です。
「山頂を目指すな」と書いてあるのに、山頂付近にいます(笑)。
しかも私はかなりの戦略家です。時間限定特別手記を、以前の6時間から、一週間に延長しました。アマゾン上位を延命させるためです。
しかもメルマガの2割を、まだ出していません。弾を撃ち終わっていないのです。残り弾は、明日出します。さらに金曜日、だめ押しのメルマガを全員に出します。
こんなに戦略的な作家は珍しいと思います。普通は出版社まかせです。しかも自分でメディア(「不思議の友」)まで持っています。
このジレンマに、彼(もりけん)は、板挟みにならないのでしょうか(笑)。
でも私は、これがやめられないのです(笑)。
作家が本を書いて、売れない方がいいなどと思うはずはありません。しかし本が売れることを「勝ち」にしてはいけません。
自分は何万部売った作家だ・・そんなことを誇りに思いたくありません。
売れた冊数と真理は、何の関係も無いからです。
勝ちからの解放、それは自由への一歩のような気がします。
しかし、私のやっていることは一体・・
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100%勝ちに行かない人生
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今回の『ハンドルを手放せ』で行ったキャンペーンの合い言葉は「出し切らない」です。
私、これが得意です(えっ、何の話?(笑))。
実は『私は結果』の時は、1回でイッてしまいました。まだ若かったのです(笑)。
それでも今回も、1回で出しすぎです。アマゾンは1日三桁の冊数が売れれば一位になれます。しかし今回も売り出してからの2日間とも、四桁台に乗ってしまいました。
売れすぎなのです(笑)。次回はもっとセーブしようと思います。
さて、ビジネスの世界では次の法則があると思います。
(1)8割を売るのには、2割の労力で済みます。
(2)しかし10割を売るのには、8割の労力が必要です。
これは私が作った法則なので、あてになりません(笑)。
私は法則(1)でやっています。ほとんどの人は(2)でやっています。
社員の書く文書などを全てチェックし、会議も頻繁に行って、会社の仕事に入れ込んで得られる売り上げが10割だとすれば、2割の労力で8割の売り上げが得られるのです。
私が毎日りんごの部屋に行けば、会社の売り上げは落ちます。でも8割に落ちているだけだと思います。
しかし努力をすればあと2割上げることは出来ます。でもその労力は4倍の時間を必要とするのです。
4倍働いて売り上げが伸びるのではあれば、世の中の社長はその道を選びます。労力なので、経費が増えるわけではないからです。
だから世の中の社長は、がむしゃらに働くのだと思います。
私は(1)と(2)の間に、勝ちと負けの境目があるような気がします。ここで言う負けとは、やれば出来るのに、やらないことです。
やれることを最大限やるのが、人生だと思います。人事を尽くして天命を待つという諺もあります。しかし私は、人事を2割しか尽くしません(笑)。
実は下位の問いを追究する上で、これは基本です。私は残りの8割を、下位の問いに使うことが出来るからです。
でもほとんどの人間は、自分の主たる分野では、能力を出し切って生きていると思います。それはやはり、勝ちたいからではないでしょうか・・。
一昨日、久しぶりに『プロジェクトX』を観ました。IH(電磁調理器)という商品の開発チームの話でした。
松下電器の新入社員が、火の出ないコンロを開発せよと言われます。彼と私はほぼ同じ歳なので30年も前のスタートです。
彼はそれ以来、火の出ないコンロに、サラリーマン生活の全てを懸けます。
新婚当初で子供も生まれたというのに、彼は会社の近くのアパートを借ります。帰る時間も惜しいからです。
何度も失敗がありました。鉄の鍋はOKなのに、アルミの鍋はダメなのです。電磁パワーが足りないということで、パワーを強くします。すると何と、鍋が浮き上がりました(笑)。
私はそれを見て叫びました。「おおこれは、UFOの番組か?」(笑)
そして最後に完成します。松下の役員が見守る中、試作器にスイッチが入ります。
30年かかって出来た試作器です。彼は「鍋よ、浮くな」と祈ります(笑)
鍋は浮かず、何と二三分で鍋の水が沸騰しました。
彼はそれが信じられず(何度も失敗してきたので)、彼は熱湯に手を突っ込みます。
「アチチ!!」彼は涙声で叫びます。正真正銘のお湯でした。
手を突っ込んだ気持ちは分かります。この瞬間のために30年があったからです。
番組のメインテーマが流れます。私も涙が出ました。
全身全霊でぶち当たり、それがうまくいった時、誰でも感動します。泣けるのは、そういう時です。そして多くの人は、そういう生き方を絶賛します。
途中で手抜きをする男は、プロジェクトXには出ることが出来ません(笑)。
「手を抜いて生きる法」・・こんな本を書いても、売れないでしょう。だって人が嫌う生き方だからです。しかし、私がそれです(笑)
手抜きで、そこそこの人生・・それはあえて勝ちに行かない人生だと思います。
100%勝ちにいかない人生・・それが時空的人生ではないでしょうか(笑)。
今回の『プロジェクトX』は松下電器が舞台であり、それは私が行く可能性がありました。電気科を出た学生の多くは家電メーカーに就職したからです。
富士通よりも面白いかも知れません。だって製品が小さいからです。10人ほどのグループで開発できてしまうからです。
そして30年もかかり、やっと開発して、それがバカ売れを始めたら、それこそ技術者人生として悔いはないと思います。
留学をしたときは、技術者は私だけでした。だからその後行われる同窓会は、文系ばかりです。かたや上智の電気科の同窓会は、当然技術者ばかりです。
その差は歴然としています。技術者の方が幸せそうです。部長になったのとかは、話題にも上りません。今、何を開発しているか・・そういう話ばかりです。
部長になるよりも、火のないコンロで水がお湯になる方が大事なのです。それに涙することすら、出来るのですから・・。
そういう気持ちがよく分かるので、どうもあの手の番組には、泣けてくるのです(笑)。
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勝ち負け・・どちらが「生きている」か?
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『祝辞』という番組は、結婚式で祝辞のスピーチに失敗するというストーリーでした。以下、過去に書き込んだものをそのまま載せます。
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17才の時に見たNHKのテレビドラマが、私が感動したもののうちの一つでした。その題は『祝辞』でした。
主人公はある会社の課長です。部下が結婚することになりました。
課長は祝辞を言うことになります。
彼は、部下がしでかした面白い、そして暖かいエピソードを思い出します。
その課長は元々内気なほうです。
一週間前から原稿を書き、それを妻の前で何度も読みます。
毎晩それをやり、完全に記憶します。
夜な夜な、妻のしてくれる拍手が、だんだん聴衆の拍手とダブってきます。
彼は自信満々で結婚式に望みますが、そこでも心配になり、トイレでブツブツ繰り返します。
外でおしっこをしている人たちは、首を傾げながらトイレを出ます(笑)。
そして式は始まりました。みんな素晴らしいスピーチが続きます。
彼の前は部長でした。しかし・・
なんと部長は、まったく同じエピソードを話し始めるのです。
ここでドラマから音声が消えていきます。
部長の話に笑い転げる聴衆の顔、顔・・、そして次第に青ざめていく課長の顔・・・。
私はここで課長になりきってしまいました。
たぶん、テレビを見ていた大半の人はそうだったと思います。
「ああ、俺だったらどうしよう・・」
いよいよ課長の番になりました。
ワイヤレスマイクが回ってくるのですが、彼は手元にあった大きなスプーンを持って立ち上がります。
スプーンを持った手が震えています。隣の人がマイクを教えてくれます。
課長はマイクに持ち替えます。
30秒ほどの沈黙の後「お・・、おめでとう・・・」と言って席に座ります。
場内は数秒間、しーんとします。
でも慣れている司会者は
「あまりの感動で言葉を失ってしまったのでしょうか・・。ありがとうございます。さて次は新婦のご友人である○○様に・・・」
○○さんはニューヨークに住んでいて、この結婚式のためにわざわざ飛行機で来た・・なんてことを英語のジョークまで交えてしゃべります。
下を向いてる課長・・しかし奥さんが言うのです。
「私、あなたと結婚してよかった」・・・と。
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以前の書き込みは、以上です。
この話は、続きがあります。
夫婦には、大学生の息子と高校生の娘がいました。彼らは親父をバカにしていました。
そして大学生の息子は、裸足で通っていました。
でも祝辞事件の後、一つ変わったことがありました。子供達が親父をバカにしなくなったのです。そして息子は、翌日から靴を履いて行くようになりました。
当時、「裸足で歩く」ようなことが、はやったのです(笑)。
ビートルズの『アビーロード』というアルバムで、ひとり裸足で歩いているヤツがいます(笑)。ジョンかポールか・・。
当時は、体勢対個人でした。体勢に迎合しない個の生き方が、カッコ良かったのです。
もちろんそれは、大衆から秀でる形でなければなりません。
ということは、息子は「裸足」で勝とうとしていたのです。
息子も、親父が毎晩練習していたのを知っています。しかし親父は、粉砕してしまいました(笑)。
何が息子を変えたのか・・
それは論理的な言葉にするのが難しいです。だから山田洋次はとてもすごいドラマに挑戦したのです。
でもそれは「生(せい)」かも知れないと思いました。
ドラマを見ていると、親父の「生」に圧倒されるのです。
「生」・・・
親父は負けました。でも会場の誰よりも親父には「生」を感じました。
息子は、思ったに違いありません。「俺の『生』は、たかだか、裸足でカッコつけることか・・。」
彼は「生」で、親父に負けていることを知ったのです。
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勝ちと負けと自由
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つい最近のニュースでは「新入社員の77%が自らを就職活動で、どちらかといえば『勝ち組』」と考えている」とのことです。
人生でも億万長者になる方が勝ち組らしいです。そのために、内面を操作する方法まで書かれた本が多いです。
そういう本は、良い仕事をゲットしたり、お金をたくさんゲットすることそのものに、何の躊躇もしていないように感じられます。
裏を返せば、「皆さんも、そういう夢があるんでしょ?」と言わんばかりです。そしてあわよくば自分もそうなりたいと思い、人は、「幸せ金持ち願望本」を買います(笑)。
一昨日は2割の努力で8割の売り上げをゲットすると書きました。もしも人生が「お金」と「努力」だけにあるのならば、当然10割の売り上げを追うべきです。
でもそれによって何かを失っている・・・私はそう感じます。それが「自由」だと思いました。
しかし人によっては反論するはずです。
「自由は、何かをするためにあるのでしょ?自由を行使しなかったら、無いと同じです。」
でも私にとって、何かをすることが自由の行使ではありません。
最近『ハンドルを手放せ』という本を出しました。『運命を変える未来からの情報』の中にも似たような話は出てきます。タイヤに乗って川下りをする話です。
あれはまさに「受け身に徹してしまったら、どうなってしまうのだろう」という問いから始まりました。
カヌーに乗ってオールを握っている人の方が、一見自由に見えます。自由自在にコントロールしているからです。
しかし私にとっては、オールを手放した方が逆に自由を感じられたのです。まったく不思議な現象です。
オールがあろうが無かろうが、どちらにしたって運命通りに川を降りているのに・・です。
しかし・・カヌーは、初めから勝とうとしています。タイヤは、初めから負けています(笑)。
カヌーを競馬で言えば、何頭も走るレースです(当たり前)。どれが勝つかを考えて馬券を買います。
タイヤに喩えれば、一頭しか走らないレースです。だから誰も買いません(笑)。
賭けるか賭けないか、その選択しかありません。しかも賭けて勝ったとしても、負けたとしても、配当金は同じです。
そこに何の意味があるのでしょうか・・。
あります。馬は自由に走れます。途中で道草を食っても構いません。私もおやつを持参して見に行きます(笑)。
タイヤ下りをしたとき、まさかカヌーが何艘もいるとは思ってもいませんでした。初めから競争するつもりなどありませんでした。
しかし彼らは妙に意識してきました(笑)。「あのタイヤで我々カヌーに戦いを挑むのか」・・と。それが「バカ野郎事件」になりました(笑)。
こっちだって負けてはいられません(笑)。そういう時に熱くならなくて、生きていると言えるでしょうか・・。
うう、だいぶコーフンして、横道にそれました。
カヌーは練習すれば、レベルアップする可能性があります。しかしタイヤには、そんなものありません。ただ毎回、川を下るだけです。流れに身を任せて・・。
私が「自由」に持つイメージは、ここにあります。
多くの選択肢から一つを選んでいる姿に、私は自由を感じません。
しかし人は批判します「日本人は食べ物すら、自分で選べない。」
しかし私は、ランチでは定食以外、ほとんど食べません(笑)。それが自由への道だと思っているからです(笑)。
私の運命を決めているのは、私以外の全てです。これって凄いことじゃないでしょうか・・・。
ハッキリ言って、完璧に負けてます。なのに、なぜ勝ちに行くのでしょうか・・。
私は空洞なのに、どうして勝ちに行くのでしょうか・・。
周りが動けば空洞が動くだけです。それは水が動けば、タイヤが動くのに似ています。
もしも実態ある私が存在するとすれば、向こう側にしか存在しません。
勝ちに行く行為とは、空洞の私に焦点を当てることです。勝ち目はありません。
負けるということは、向こう側への視点移動だと思うのです。
勝ち負けの話題が続いていますが、時空を解く鍵の一つになりそうだからです。
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国際イメージコンサルタントの前で、私は負けている
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勝ちの目標は、レーダーに映った敵機のポイントのようです。それを攻撃(ゲット)して、勝ったと感じます。
今までの人間の歴史で言えば、みんなそうやって発展したように思います。問題を明確化して、中心点を撃つのが仕事でした。
本のコーナーに『議論の余地しかない』(森博嗣著 PHP研究所)という本が紹介され、それには次のくだりが書いてあるそうです。
>「世の中に存在する問題の大半は、問題自体がどこにあるのか、何が問題なのか、ということが明確に提示されない。それが最大の問題なんだ。わかる?」
>問題を把握できたときには、問題の大半は解決している。
>問題を解決したときには、新たな問題がすでに始まっている。
私の問題は、把握できています。「なぜ私がここに存在するのか」・・です。
しかし何も解決していません。当然、新たな問題も始まっていません。
私は17歳からずっと同じ問いに向かっています。
しかし、この問いに攻撃をかけて粉砕することは、たぶん可能です。出来合いの答えを当てはめることで、です。多くの問題は、こうして解決されています。
しかしアンテナの権威であるゼミの先生は言いました。「電波がなぜ飛ぶか、分かっていないんだよ・・。」
推理小説で言えば、犯人は判明しました。しかし彼がなぜ殺したか、そこが問題です。
その殺人の動機が肯定されなければ、本物の推理小説ではないと思います。
大半の推理小説は、殺人を否定して終わります。
「殺人=悪」という図式の元に「的(まと)」を射れば、当たります。
しかしそれは、答えではないと思います。
おそらく「的(まと)」以外のすべての部分が、本来の「的(まと)」なのです。
なぜなら「私」は、「私」以外のすべて・・だからです。
ハンドルを手放すか、オールを手放すかしてタイヤに乗ったとき、私の進路は周囲が決定します。
そのことを知ってしまうということが、私は自由に繋がると思っています。
別に進路を変えなくてもいいんです。起こるべき事が起こるという世界を、受け入れてしまうからです。
神田さんから送られてきた『企業実践オーディオセミナー』というCDには、国際イメージコンサルタントという女性の方とのインタビューが収録されていました。その中で彼女は言っていました。
「日本人はワインすら選べない。その点、欧米人は時間をかけて自分で選ぶ。」
私はワインが好きです。しかし選んだことがありません(笑)。だっていつも「どれが美味しいですか?」と訊くだけです(笑)。そしてソムリエの推薦に対して「それをくれ!」と言うだけです(笑)。
国際イメージコンサルタントの指摘に、返す言葉もありません。
しかし選ぶ人は、次の作業をしているはずです。
今日の自分の気分は何か→その気分を満たすワインは何が良いか(笑)→過去に飲んだものの中から「これにしよう」と言う→いつもの味を飲んで満足した気分になる(笑)。
私は次の作業をします。
ソムリエに聞く→「それをくれ」と言う→意外な味に驚く(笑)。
どちらに自由を感じますか?どちらも運命通りとは言え、私には後者に自由を感じるのです。
しかし、国際イメージコンサルタントの前で、私は負けています。だってスーツの着こなし方とか、ネクタイの戦略的選び方などをレクチャーしているからです。
そして、相手が自分のことをすぐに理解できる格好をしなさいと言っています。
だから、国際イメージコンサルタントに会うときは、美少女戦士の格好で行きます(笑)。
そして私は彼女に訊きたいです。「このもっこりを、どう処理すれば良いでしょうか・・。」
「ふざけないで下さい。」
「でもこのコスチュームを着るときの、最大の悩みなのです。国際イメージコンサルタントさんなら、なんとかしてくれると思って・・。」
「何故そんな服を着るのですか?3000人の前で失礼です。」
「私が誰か、自分でもわからないから、着るのです。」
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「私」を決定しないと勝てない
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国際イメージコンサルタントの話を聞いていると、服装というのは「私」を表現するためのもののようです。つまり「私が誰か」を確定し、それを的確に表現するためのコンサルが、彼女の仕事です。
なので彼女とコンサル契約をするときは、「私は誰か」が決まっていないといけません。
さらに彼女は、出かける日は何の日かを決める必要があると言います。
契約を取る日なのか、それとも前段階のネゴなのか・・・。それによって選ぶネクタイの色が違ってきたりするからです。
つまり前もって目的を決めることが必要です。そうしないと勝てません。
しかし・・私は時々訊かれます。「森田さんは何のために女装をするのですか?」
それはこのHPでも言われるときがあります。「ああ分かりました、森田さんはそのために女装していたのですね」・・と。
実は昨夜「みんな聞いてくれ」コーナーで学歴の話をしたとき、「辞表を書いた理由を初めて知りました」という書き込みがありました。
私はバッサリと斬ったのですが、これなども同様です。
つまり人は、理由を探すのです。しかし私の動機は、無いのです。だって空洞なのに、あるわけ無いでしょう?
しかし世の中は、どれもこれも「私」ありき・・です。
私がFOWで美少女戦士の格好をしたいと言えば、国際イメージコンサルタントは「何のためにそんな格好をしたいのですか?」と訊いてくるに決まっています。その動機によってコンサルの仕方が違ってくるからです。
昨日は「私とは誰か?」を知りたいのだと書きました。でも正確に言えば、それは違います。「私とは誰か」に興味はありません(笑)。それを含む世界全体を知りたいのです。
もしもそう言った時、国際イメージコンサルタントはどうするでしょうか・・・。
私たちの多くは、「私」というものを決定づけて生きています。相手に対しても、決定づけようとします。
ここまで書けば、「もっこり」はあっても問題無いことに気づくでしょう。男がお化粧して美少女戦士の格好をして、何故「もっこり」があるとまずいのでしょうか・・・。
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保険的勝ち負け
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「私」が空洞で、私以外の全部が私の原因だとすれば、その勝ち負けの概念は、保険のそれと似ています。
事故が起こらなければ保険金は無駄になります。事故が起こったとき、初めて保険金が生きています。
そすうると、事故が起こらなかったことが勝ちなのか、それとも負けなのか?
事故が起こったら、勝ちなのか、それとも負けなのか?
同様に、私に焦点を当ててしまえば、私の原因を見ることが出来ません。私から離れれば、私の原因に出会えます。
何故こんなことを問題にしたかと言えば、時空は勝ちに向かっているのか負けに向かっているのか、知りたくなったからです。
もしもある目的に向かっているとすれば、その目的を達成出来なかったら負けです。
しかしその目的以外のもの全てを達成することが目的ならば、負けることが勝ちになると思います。
時空は自由になりたいのではないかという仮説を持っていますが、もしも表記の法則が当てはまるのなら、自由も保険的かも知れません。
つまり個の自由を求めれば負け、個の自由を諦めれば勝てるような・・。
となると、「オールを手放せ」という概念は真実を突いていると思います。
さらに言えば、道教の「無為自然」や孫さんの言う「自然に任せろ」も同様です。
いい子ぶった言い方の中に「真実の世界には勝ち負けはない」というのがあります。勝ち負けに囚われるな・・ということでもあります。
しかし私は、一週間以上、勝ち負けというテーマにこだわってきました。もしもこだわらなければ、ここには到達できませんでした。
勝ち負けという切り口は、おそらく時空の謎を解く一つの鍵だと思います。
世の中はプラスとマイナス、NとS、陰と陽といった二極から成り立っています。
そんな中で「真実の世界にはプラスもマイナスもない」となどと言っても、始まりません(笑)。
勝ち負けというダイナミックな世界の中に、真実が隠されているような気がします。
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運は、生き物か?
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「勝ち負け議論」の話の発端は、ドラマ『ああ、新世界』と『祝辞』でした。
完璧にボロ負けする主人公の話でした。こんなに負ける話も、珍しいです。
しかし二つのドラマには共通点があります。それは観客がいることです。主人公は、観客の前で羞恥プレイをさせられたのです。
さて、主人公の二人が無人島に行ったとしましょう。
そこで勝手にシンバルを叩きそこなっても、全く落ち込まないでしょう。
無人島には部長はいませんから、予定通り喋れるでしょう。
無人島でコインを振って恋愛運を占ったとして、意味があるでしょうか?
無人島でコインを振って金運を占ったとして、意味があるでしょうか?
無人島でコインを振って官職運を占ったとして、意味があるでしょうか?
無人島では、世爻しか用神となり得ないのではないかと思います。
他者との関係性が生じて、初めて世爻から独立した用神が出てくると思います。
新世界でシンバルを打つのを占えば、用神は官鬼です。祝辞がうまくいくかを占えば、用神は官鬼です。
世爻でも応爻でもないところに用神が現れるのは、人間関係というネットワークの出現が原因ではないでしょうか・・。
何が言いたいかと言えば、彼ら主人公は、観客によって失敗させられたのです。
新世界では、前列中央に陣取った役場の連中の視線でした。彼らがいなければ、目の前には知らない顔ばかりで、主人公はそれほど上がることもなかったのではないでしょうか・・。
(しかし役場の人達を責められるわけはありません。彼らは応援するために来たのですから・・。)
祝辞では部長が原因ですが、それだけではないと思います。
流暢な司会や、他の参列者の上手なスピーチもプレッシャーを増大しました。
他の参列者の中に一人でもヘボがいれば、課長は切り抜けたかも知れません。
ドジな主人公にばかり目がいきますが、運命の流れは、やはり周囲かも知れません。
用神が独立して出現するのは、仕事運(祝辞・シンバル)は、ネットワークの中に存在するからだと思いました。それも自分を空白にして、他者で構成されたネットワークです。
だから無人島に行ったとたん、ネットワークが切れて、占えなくなるのです。
こうして考えると、世爻から独立した用神というのはいったい何なのでしょうか・・。
仕事運等は、まるで生き物のような感じすら受けます。
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書き込み期間:2005/06/18〜2005/06/29 |
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