人間の運命は生まれた時にほぼ決まっています! だったらどう生きればいいのでしょう。 ここで運命を肯定し、「おまかせ」状態で生きれば、ものごとはうまく回り出し、幸福感までが変化します。 人生のルールに気がついた「運命におまかせ」著者・森田健の、さわやか幸せ論! これは、講談社ウェブサイトMouRaで提供されたウェブ版「運命におまかせ〜いつも幸せを感じるあなたに〜」のアーカイヴです(2007年10月10日〜2008年4月4日毎週連載 2009年10月31日公開終了)。
これから、「運命におまかせ」というテーマで、運命と幸せの不思議な関係について、文章と動画を織りまぜながら、このサイトでお話ししたいと思います。 最初の今回は、まずは動画でお伝えしましょう。
幸せになりたいと思えば、簡単になれるでしょうか? 私の場合は、むしろ逆の生き方をしてきました。
中学、高校、大学、サラリーマンと、私は努力という言葉を忘れたことはありませんでした。努力は結果に現れると思ったからです。
しかし26歳のバレンタインデーの日を境に、努力とは縁を切ったのです。
その日、まさか辞表を出すとは思ってもいませんでした。その朝、会社に出勤してタイムカードを押し、席についたとたん、目の前の風景がセピア色に変わったのです。
心の中で「ここは私のいる場所ではない」という声がしました。
そのまま外に飛び出して便箋(びんせん)を買い、喫茶店で辞表を書いて課長に出しました。
当時、私はコンピュータメーカーに勤めていて、フランスの欧州経営大学院に会社の費用で留学させてもらい、そこから戻ったばかりでした。そしてニューヨーク駐在員の声がかかっていました。
コンピュータはアメリカが主流なので、その本拠地に赴任することは、エリートコースの一つでもありました。大学から一流企業に入り、その努力がまさに実を結ぼうとしていました。
それを、たった一瞬の「気の迷い」で棒に振ったのです。 今から思えば……。
私は「成功」を目指すということ、そのものがイヤになったのです。
こう言っては何ですが、私は会社での仕事ぶりからすれば、部長にはなれたかもしれません。間違えば取締役にもなれたかもしれません。いや、もっと間違えば社長になれたかもしれません。
しかし、それが何なのでしょうか?
部長や取締役になるためには、相当の努力をしないとダメでしょう。努力だけではなく運も必要でしょう。 いえ、そんな理由で出世競争を降りたわけではありません。目的を持った人生が、とても色あせて見えたのです。
セピア色に変わったということは、その職場に居続ける人生が、色あせてしまったということです。つまりバラ色ではなくなってしまったのです。
もうひとつ理由があります。それは成功することへの恐れが出たのです。このまま成功に向かっていけば「降りる」ことがもっと難しくなると思ったのです。
人は一度得た栄華(えいが)はなかなか手放せないものだからです。さらにもしもそこで幸せを感じたとすれば、それは本当の自分を偽(いつわ)ることだと思ったのです。
ではその後、私が幸せではなくなったでしょうか? そんなことはありません。あえていえば、もっと幸せになりました。
でも手放した幸せと次にやってきた幸せは、まったく種類が違うのです。 たとえば辞表を出すまでの一連の行為は、幸せでしょうか、不幸せでしょうか?
なぜこんな質問をするかといえば、私はその後、瞬間瞬間、辞表を出し続けるような状態に入ったのです。一般的に見れば、どんどん不幸になっていくような状態です。
でも逆でした。 幸せを手放し続けるという行為が、実は本当に幸せな状態をもたらすのです。だから幸せを手放すことから始めなければいけないのです。
なぜそうなのか、それはこの連載を読んでいくうちに明らかになるはずです。 まさに今の幸せ感を捨てることから始まるのです。
私は子供の頃から電気関係の機械をいじるのが好きでした。それをしていれば、時のたつのを忘れました。科学的なことが好きだったのです。
ところが今は不思議な現象を調べています。まったく正反対の分野です。 「好きなことをしよう」というだけの生き方だったら、今の私はありません。 人間の心というのは、簡単に決められるものではないのです。
でももっと大切な理由があります。それは、「好きなこと」が理由で何かをしても、本当の幸せには至らないからです。
「えっ? 好きなことをしても幸せになれないなんて変です」 という声が聞こえてきそうです。世の中の幸せについて書かれた本で、「好きなこと」をまったく勧めない本はないからです。
でもこれを読んでいるあなたは、好きなことが見つかりましたか? むしろ見つかっていなくて、そこで悩んでいるのではないでしょうか……。
「好きなこと」というのは、視点が自分にあります。そこには「自分から積極的に何かをしていきなさい。周りに流されてはダメですよ」という意味も隠されています。これがかえって幸せにブレーキをかけるのです。
自分というものくらい分からない存在はありません。分からないのに分かった顔をして「これが大好きだ」などと言い出し、本当の幸せ感から遠ざかるのです。
でも好きなことなんて決まるものではありません。
ではどうすれば良いのでしょうか……。 それは周りに流されてみることです。言い方を換えれば、外側からの縁を大事にすることです。
たとえばたまたま見つけた旅の広告、道で渡されたチラシ……、ふと小耳にはさんだ他人の会話、目の前に現れた人……。
そういう縁に流されてみることです。
「そんな生き方をすれば、自分が無くなってしまう」 そう感じる人も多いはずです。 でも本当の幸せ感というのは、自分が無くなったときにしか訪れる可能性はないのです。
もうひとつ理由があります。好きなことというのは、過去にやったことの中から好き嫌いを決めています。いずれ説明しますが、自分の周囲は問いへの答えで満ちています。そこには自分の未来へのヒントがあります。
過去の「好きなこと」にこだわっていると、それが見えなくなるのです。
まず手始めは「好きなこと」から解放されることです。すると何か、気が楽になってきませんか? それは、新しい幸せ感の世界に一歩入ったからです。
私は会社をやめた後、コンピューターソフト会社を立ち上げました。そのソフト会社はラッキーにも、順調に伸びていきました。
しかし、そこでも「成功」を目指すことそのものがイヤになった私は、不思議なことの調査を本業とすることを、ある日社員に宣言しました。収益を得ることはまったく考えずに。
そして私がしたことは、手帳をまっ白にすることでした。外からの一切の電話を受けずに。
私はスケジュールのない生活へ入ったのです。 そうすると、私にはいったい何が起こったのでしょうか。
今現在、私がどういう生活を送っているかを具体的に書きましょう。
私は毎朝、自宅を出るとプライベートな部屋に行きます。その部屋は、東京の新宿御苑(ぎょえん)からわずか5メートルのところにあります。部屋は見晴らしも良く、御苑の緑や黄葉を堪能(たんのう)できます。
こう言っては何ですが、都会で生きる仙人がいるとすれば、こんな感じではないでしょうか……。 私が「ひきこもり」であるかといえば、半分だけひきこもりだと思います。ひきこもりながら関わっていると思います。
この生活に入るまで「成功」を2回手放しています。ひとつは一流企業のビジネスマンとしての成功……もうひとつはベンチャービジネスとしての成功です。
ところが私は、次のように言われることが多いのです。 「森田さんは成功していますよね……そんな生活ができるのだから……」
でもこういう道を、よく考えて選んだわけではないのです。一流企業に居続ければこの生活はありませんでした。ベンチャー企業の上場に向かえば、今の生活はありませんでした。
でも私がこれを目指したかと言えば、違うのです。
会社員のときは、セピア色になった1秒が勝負でした。あのとき理性が頭を持ち上げてくれば、辞表を書く行為を止めたはずです。
不思議研究所を始めるときも同様です。 不思議なことの調査を本業でやるなど、誰もやっていないことでした。理性的に考えればあり得ないと思います。
あり得ないことになぜ入っていけたのかを振り返って考えれば、私は自分の本能や無意識の判断、呼びかけを信頼していたからだと思います。
今となって思えば、突然のインスピレーションは、私が起こしているのではなく、外側の世界からの声でした。 不思議探究の成果を踏まえていうなら、「運命」からの呼びかけが起こしていると思うのです。
それに乗れるか乗れないかは、その運命を信頼しているかどうかにかかっているのです。
ジェットコースターに両手を上げて乗った人がいると思います。あれは実は、両手を上げたほうが恐くないのです。
なぜなら全身の力が抜けるので、ジェットコースターという外側の運動の変化に、体が対応できるからです。つまり体が周囲と一緒になって動けるのです。
ところでジェットコースターは前が見えます。しかし私たちは未来を知りません。なので次の瞬間に何が起こるのか、分かりません。
ということは目隠しをして乗っているようなものなのです。そのとき、両手を放せるかどうかが問題になります。
たいていの人は手すりにガッシリとつかまるはずです。これで幸せを追うのが、普通の状態なのです。自分を固め、何か起こったら困らないように、いろいろと策を練ります。
これで本当に幸せを感じることができるのでしょうか? 私はできないと思います。未来の心配ばかりをしているからです。
本当の幸せというのは、目隠しの状態で両手を放すことなのです。するとあなたは周りと一緒になって動いていくだけです。
その状態にあなたが身をゆだねてしまえば、今まで感じたことのない世界との一体感、エクスタシーの世界が待っているはずです。
運命は信頼できるどころか、決まっているのではないかという話をしないといけません。
私の不思議調査とは、不思議な現象の中に、世界と私の存在の謎を解く鍵を見つけて解明したいというものです。
これまで超能力、生命蘇生、心霊治療など様々な現象に取り組んできましたが、中国での不思議調査の過程で、「六爻(ろっこう)占術」という占いに出会いました。
中国の考古学者王虎應(トラさん)が古文書から発見した漢時代の占いで、3枚のコインを6回投げて占うのです。単に裏表だけで占うわけではありません。
少しばかり複雑な法則に当てはめて計算し、八卦(はっけ)を2つ合わせた「卦」というものを作ります。そこで出た卦と、占った日の五行や十二支の関係から判断を下します。
普通の占いと違うところは、占った日の五行や十二支をからめることで精緻(せいち)さが増し、特定の事象に関して占うとき、ピンポイントで非常によく当たることです。
最初はまったく信じていなかったのですが、株価の動きも当たるというので、あるとき、ニッセンという通販会社の株を占いました。
すると、2ヵ月後からとても上がると出ました。「会社四季報」には減収減益と出ているのにです。
私はその株を買い続け、とうとう持ち金の3500万円をつぎ込みました。 これは運命というものが決まっているかどうか、占いがそれを当てることができるかどうかを、私の全財産を賭けて知りたいと思ったからです。
占いに「上がる」と出た日、株価はストップ高となり、半年後には8倍に上がりました。 そして私の資産は、一挙に2億円にふくらみました。
その間、インターネットのホームページには、翌日の株価の動向を占い、毎日書き込み続けました。すると当たった確率は90%にも及びました。
ここまで細かく当たると、運命の決定を受け入れざるをえません。
また、占いで事故が起こると出た日にバイクで出勤すると、やはり事故が起こりました。
娘の大学入試は占いの通りの結果となりました。 知人の結婚式の天気を半年前に占うと、それも当たりました。
元旦にはその年の出来事を前もって占いますが、3年間に渡って何から何まで当たり続けています。飼い犬が怪我をしたり病気になることも当たります。
ここまでの事実を見れば、占いとは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」などというレベルのものではなく、未来に起こることを、確実にキャッチして示していると思います。
だとすれば、私がこれからどういう人生になるか、つまり運命というものは、決まっているとしかいえないのです。
だとすれば、いくら努力をしてもムダになります。起こることは起こるべくして起こっているのですから。
そうすると、幸せになりたいと願ってもなれる人はなれるし、なれない人はなれないということです。
ではどうすれば良いかですって?
幸せになりたければ、その思いを一度手放してみることです。 手放すと実は、幸せの側から売り込みに来るのです。
もうひとつ私が研究している占いに、「盲師派推命占術」というものがあります。これは中国で、目が見えない占い師の間にのみ口伝で伝わり、彼らの生業(なりわい)を支えた四柱推命の一つです。
私の中国の親友に段建業(ダンさん)という人がいますが、彼は目明きにして初めて盲師派推命占術を伝授されたのでした。1999年のことです。
この占いは、前回の六爻占術とは対照的に、人間が生まれてから死ぬまでの大局の流れがわかることです。また普通の四柱推命より徹底しており、人間の願望や相性のレベルを超えて、結婚相手や職業などを言い当てることです。
私も占ってもらいました。生まれた日と時間を告げると、その日時の五行と十二支をもとに、ある計算をして、私の人生を事細かに喋り始めました。
父が大金を騙し取られたこと、私が早口なこと、多くの視点から調査していること、26歳で独立したこと、1996年から不思議研究所の本格的な活動に入ったこと、2001年には株で大儲けをしたことなど、私の主要なイベントはほとんど当てました。
当たる確率は90%と言われていますが、本当だと思います。すでに私は自分の死ぬ日まで知っています。
盲師派推命占術では誕生日の情報を「命式(めいしき)」と言って、運命を出すための式に書き換えます。そして毎年の干支(えと)と見比べながら運命を出していきます。
それが90%以上の確率で当たるのですから、つまり生まれた瞬間に私たちの運命は決まっているということなのです。
ちなみに占いにはこのほかにも、顔相や骨相から、また占うとき眼前に見えたものから判断するものなど、いまだに紹介されていない様々なものが、中国には存在します。
それらは、これまで知られている東西の様々な占いをも含めて、未来がどうなっているかを人々が探究してきた結果であると思います。
ダンさんは自分の子供が生まれるとき、命式の逆算をしました。そしてもっとも運命が良くなる日を計算して、その日に帝王切開で子供を産ませました。 実際にその通りの人生を歩んでいるそうです。
そこまではっきりと運命が決まっていることを知ったとき、私はお先真っ暗になりました。
何のために生まれてきたのでしょうか……。決まっている台本を演じるための芝居のキャストでしょうか? それとも私はロボットでしょうか? 誰かが筋書き通りに操(あやつ)っているのでしょうか?
しばらくの葛藤(かっとう)の後、私は運命が決まっているということを受け入れました。
するとどうでしょう……。矛盾するような表現になりますが、運命が好転してきたのです。少しだけヒントを書けば、未来が過去になるからです。
これはどういうことなのでしょうか……。 運命の決定の受け入れは、いい運命の流れそのもの始まりだということです。
でも多くの人は、未来を自分が筋書きを書き込むための白紙だと思っています。この認識の違いが、人を不幸にさせるのだと思います。
今回は私が運命が決まっていることを受け入れたときのことを、具体的にお伝えしましょう。
自分を変えることによって運命は変わると思っている人は多いはずです。そういう考え方を私は「私は原因説」と名付けました。
子供の頃からの教育も、すべて「私は原因説」で行われてきました。宿題をよく忘れる子はしかられ、立たされて、そういう欠点を直しなさいと言われました。
でもいくら欠点を直そうと思っても、やはり「三つ子の魂百まで」です。 同じ過ちを繰り返すので、「お前は学習ってものを知らないのか」と言われてさらに落ち込みました。 そしてダメな人間にはダメな未来しかないと思わされてきました。
ところがまったく逆だったのです。
たとえば自分に欠点があり、それが原因で不幸を手にしてしまうとすれば、欠点を直せば幸福はやってくるはずです。でも幸福はやってきません。 なぜなら欠点と幸福は無関係だからです。それどころか欠点を直そうとすれば、幸福はもっと遠ざかるはずです。
本当の幸福とは、今の自分を認めるところからしか来ないからです。 だから宿題をよく忘れる子に、欠点を直せと迫っても、そこからは何の変化も望めないのです。
その理由は「私は原因」ではなく、「私は結果」だからです。私は私以外のありとあらゆるできごとの結果として存在しています。まずそのことを知るべきなのです。
私やあなたが持つ欠点はおろか、今の性格を持って誕生したのにも、私やあなたに原因はありません。ましてや過去世(かこぜ)の行いにも原因はありません。
長い間、過去に原因があると考えられてきました。今が不幸なのは、すべて過去に原因があると……。 でも過去はもう変えようがありません。
ところが今、自分の中にある原因を変えて未来を良くしたい、良くすることができると思ってはいませんか?
でも私は物事の「原因」ではなく、私は物事の「結果」としてしか、生きて動いてはいないのです。頑張って今を変えることも、まして幸福を引き寄せることもできません。 なぜならすべてが、運命で決まっていたのですから。
私の責任も、主体性も、社会での約束の中での言葉以上になりません。 自分のことに対して何を思い悩んでも運命は良くなりません。悩めば悩むほど、その悩みで苦しくなるだけです。 なぜなら自分の悩みは、運命の善し悪しとは無関係だからです。
また自分を成長させるという考え方も不要です。成長という言葉の中には、今の自分を否定する気持ちがあります。 「私は結果」を受け入れれば、自己成長もしないで良いのです。今のあなたをそのまま認めれば良いし、それしかできないのです。
そうすれば、外とのつながりが見えてきます。外とのつながり、これが「運命」というものです。そして運命が決まっていたことに気がつくこと、これが本当の幸せを呼びよせてくれるのです。
ところで私はこれに気づくまで、自分を変えようとしてきました。年の初めには「今年こそ正直に生きよう」という目標を掲げてきました。
なぜならそれまでの私は、無意識の私と意識の私との間にギャップを感じていたからです。でも「私は結果」を受け入れるとともに、その目標を捨てました。
するとどうでしょうか、私は以前よりも正直に生きられるようになったのです。同時に無意識と意識の通信がスムーズになり、未来をも察知できるようになったのです。
運命は存在すると聞いて、どう感じたでしょうか。納得できましたか。あるいはがっかりしたでしょうか?
人生はすべて決まっていて自由などない、と。
ここが思案のしどころです。
以前私はタイヤに乗って川下りをしたことがありました。一応救命具を身につけヘルメットもかぶり、タイヤをかついで私はスタート地点に行きました。
そこには立派なカヌーに乗った人たちが何人もいました。それに対して私はタイヤに板を1枚はめ込んだだけで、パドルすらありませんでした。
カヌーのひとりが言いました。 「タイヤだと危険ですよ。パドルがないからどこに流されるかわからないですよ。しかも夕方までに下流に着きませんよ」 私は答えました。 「でもやってみたいのです。そのためにトラックの中古のタイヤを買ってきたのです」
スタート地点はプールのように水がたまった状態です。それで彼らはカヌーのパドルさばきを披露していました。
私はタイヤを水面に浮かべると、ヨッコラショとそれに乗りました。そのあとは、やることがありません。
カヌーの人たちは我先にとスタートしました。パドルをさばきながら、流れに乗ろうとしていきます。 私はひとり、取り残されました。だって水が流れなければ動けないからです。
でも次第に動き始めました。流れが細くなってきたからです。
そのうちものすごいスピードになりました。まるでジェットコースターのように滑り降ります。
しばらくするとカヌーの人たちに遭遇しました。彼らは一生懸命にパドルを漕いでいるのですが、岩にぶつかったりして壊れたりし、何艘かは途中でリタイアしてしまいました。
それに対し、流れに身を任せた私のほうが、適切なルートを通って早くゴールに着いたのです。しかも、タイヤも私も無傷です。 これは運命の法則をよく表していると思います。
パドルを一生懸命に握りしめている人は、自分の運命を握っているように見えますが、ただ流れに逆らっているだけで、結局カヌーは大破して「不幸」な状況です。ですが運命を認めてその流れに乗ると、物事はスムーズに進展していくのです。
私たちの人生も、コントロール可能なカヌーではなく、水の流れ(運命)に身を任せるしかないタイヤなのです。まずはこのことを認識して、運命に逆らうのを諦めることです。
逆説的なようですが、運命の存在を認めたほうが運命から自由になれるのです。 もちろん、運命を認めるか否かも、決まっているのですが。
一番先にゴールに着いた私のところに、後から到着したカヌーの連中が来て言いました。
「タイヤ、カッコイイね。まさかあんなにスムーズに流れていくとは思ってもいなかった。乗っている時のあなたの顔も最高だったよ。川下りをしている連中の中では一番楽しそうだった」
カヌーは一方の方向にしか進めません。行くか戻るかしかできません。ところがタイヤは違います。全方位に動くことができます。
水というのは、いちばん流れやすいところを流れます。なので水と一緒に下っていくと早く着き、しかも安全なのです。
これを人生にたとえてみましょう。水と運命とでは違いがあります。水の流れが運命の流れだとしたとき、私たちには水は見えません。そんなとき、「タイヤ的生き方」をなんと表現するかといえば「全方位的生き方」です。それは生きる方向性を定めないことです。
だから夢や希望があるとおかしくなるのです。夢や希望を持つことは、カヌーを漕いでいくようなものです。流れに逆らって漕ぐので、大半は大破してしまいました。
大破には至らなくても、傷ついてボロボロになります。そしてカヌーのコントロールに夢中で、外の景色を楽しむことすらできません。
タイヤに乗った私はフルスピードで降りていきました。水の流れそのものとして流れていくので、水を見ている限りはタイヤは止まって見えます。 でも水はもっとも効率の良いところをすごいスピードで降りていきます。 そうなのです。一見止まっているように見えるのは、錯覚なのです。
水の流れはどんどん変わります。川の地形に沿って変化していくからです。タイヤの進路も自動的に変化します。
これを運命に置き換えてみます。 運命が変化しようとして流れを変えたとき、タイヤのほうがその流れに乗れるのです。カヌーは今までの進路を保持しようとしてもがきます。そして流れに乗れず、岩にぶつかったりします。
しかしタイヤはどの方向にも行くことができます。だから運命が変化しようとしたとき、瞬間的にそれに乗れるのです。
でもここまで読んできたあなたは、何かヘンだと思ったに違いありません。運命は決まっていると再三言ってきたからです。
確かに運命は決まっています。しかし決まっていることを楽しむこともできるのです。そうするとそれは、変えることへと深くつながってくるのです。
これはどういうことでしょうか。 変えるといっても、今までの方法とは大きく違います。カヌーのように自分でパドルを漕いで進路を変えるのではないのです。水の流れそのものが変わるのです。 だからあなた個人は、全方位的生き方である必要があるのです。
ところで私は、日本から一緒にフランスに社内留学した時のメンバーの同窓会会長をしています。そろそろ定年を迎えるこの時期、手記を募集すると目標のようなものを書く人が多いです。外で何かをしなきゃならない……と。 それはまるでカヌーです。
しかし私はずいぶん前から「定年後状態」であり、毎日どう過ごしているかといえば新宿御苑のマンションで「引きこもり状態」です。引きこもりでも幸せなのです。全方位でタイヤ的生き方ならば……。
今回は、世界や人生に対して根源的な問いを持つと、それが自分の夢自体を融(と)かしてしまうことについて、お話ししましょう。
自分の力で生きることを「自力」と言い、自分以外の力で生きることを「他力」と言います。 あなたはどちらで生きていますか?
「自分の力で生きている」と答える人は多いはずです。でも自分の力で生きている人など、この世にはひとりもいません。運命はすべて決まっているからです。 これは天との関係において、自分の行動がある定まった流れの中に乗っている、という意味です。
自分で生きていると思っている人は、大変な錯覚をしているのです。そしてその錯覚が自分の力で幸福になろうとさせ、その結果、失敗するのです。
なぜでしょうか……。それは運命の流れとの間に、摩擦(まさつ)を感じるようになるからです。漕(こ)いでも意味のないボートを漕ぐようなものです。漕いでも思い通りにいかなくて、自分は不幸だと感じるようになるのです。
その逆に、自分は環境から生かされていると思える人は、幸せになります。 自分で幸せになることなど、できないのです。人は100%他にゆだねられています。
このことを本当に理解したとき、世界がひっくり返るはずです。主人公は自分ではなく、自分以外のすべてだったからです。私以外のすべてが私を形成しているのです。だから私は「原因」ではなく、「結果」だったのです。
最近の脳科学によれば、意識は無意識の信号を0.5秒遅れて受信しているそうです。つまりすべては無意識に行動していて、その結果だけを意識しているのです。「私は結果」だと言っている理由はここにもあるのです。
しかし問いは無意識の流れそのものを変えてしまう働きがあります。運命の変更が出来るからです。だから問いだけは結果から外れているのです。
でもその問いですら外側の世界から、無意識を通してやってきます。だとすれば「私」を手放して、無意識からの信号をできるだけ正確に受信したほうが運命も良くなると思うのです。
具体的な例を出しましょう。 私にとって、他力に身をまかせるのが中国紀行です。私は何の計画も立てません。実は主要案内人のトラさんも同様です。その日、誰に会うかすら知りません。彼は別の案内者にすべてを振ってしまっているからです。
しかし結果はどうでしょうか? 新しい占いや生まれ変わりの村の情報は、そういうところから誕生しています。私がすべて自分で計画していたとしたら、有り得ないと思います。
他力にまかせると、成果のある中国紀行がなぜできるのでしょうか? それはおまかせにすることによって私自身の狭い価値観を超えるからです。
私が中国紀行に出ている間、私の会社は社長抜きで運営されます。しかしそういう状態に移行したとき、かえって売り上げは伸びました。なぜかと言えば、やはり会社自体が私の狭い価値観を超えたからだと思います。
もう自力で生きるのはやめようではないですか……。 他力で生きれば楽になれます。他力で生きれば周りの景色もよく見えるようになります。
そして自力でいたときには考えられなかった方向に船は動き始めます。幸福はあなたが独自で行くところではなく、あなたの周りが連れて行ってくれるところなのです。
2008年、明けましておめでとうございます。
さて今回は、みなさんをウェブから私の自宅にお招きし、「快」に身を委(ゆだ)ねるということについて、お話ししましょう。
初公開の情報を書きましょう。
2ヵ月ほど前、中国から面相占い師の史(し)さんを呼び、セミナーを開催しました。
面相占いとは、人の顔に現れているホクロやしわや肌の色や骨相などの微細な特徴で、その人の人生を占うもので、数年前の中国不思議調査行で出会ったものです。
セミナーのとき史さんは、参加者の顔を見るだけで住んでいる階を次々に当てました。そしてその階に住んでいることが運に影響していることも喋りました。 住んでいる階を変えるか、あるいは顔を変えるかで運命が変わるそうです。 引っ越しをするのは大変ですが、顔を変えることはもっと容易なことではありません。
しかしセミナーの最終日に参加者からの質問で初めて分かったことですが、史さんは何と整形手術をしていたのです。
アゴの下の部分に注射器でシリコンを挿入して、膨らませていたのです。 そうすることで70歳を過ぎてからの金運が良くなるのです。
私に関しては次のように指摘されました。
「森田さんの面相はとても良いですが、これからの運を考えればひとつ欠点があります。 それは左側の唇の端が下がっていることです。 これが原因で60歳を過ぎてからの運に影響があります。 もしかして食べものを右側の歯だけで噛んでいませんか? そうだとすれば意識して左側でも噛むようにして下さい。 すると筋肉が活性化して上がってきますよ。 まだ60歳までには時間があるので、この方法で直ると思います」
まったく言われた通りでした。歯の右側だけで噛んでいたのです。
ところで多くの人は内面が変わることで運が開けると思っています。でもこの例からも言えるように外面が問題なのです。顔だけではなく服装ひとつでも運は変わります。
私は40代前半まで外見にこだわることはしませんでした。男はチャラチャラとお洒落(しゃれ)などするものではなく、中身で勝負だと思っていました。 そのときは会社の売り上げはずっと低迷したままでした。まさか外見が原因だとは思ってもみなかったからです。
私が六爻占術を知ることになった2001年、外見がキーであることに気づきました。運命の変更は、内側からは有り得ないことを知ったからです。髪型を変え、お洒落な服に変えました。もちろんシャツの色などは毎日変えます。
するとどうでしょうか、20年間にわたりトントンだった会社の売り上げが伸び始めたのです。
現在私はアスコットタイ(男性用スカーフ)を12枚持っています。 胸のポケットに入れるスカーフ(チーフ)は18枚も持っています。数枚はいつも携帯していて、場に応じてサッと着用します。
以前の私では考えられないことですが、これがハイテンションにさせるのです。そして結果的に運を上げます。
あくまで外側が内側を決めます。 なぜなら、外側とのつながりが私という個を作るからです。なので外見が変わればあなたの内面も変わります。逆はありません。 内面が現れたのが外面だということを言いますが、あれは嘘です。
ウキウキするからお洒落な服を着るのではなく、お洒落な服を着るからウキウキするのです。運を変えるのは外見からなのです。
中国には生まれ変わりの村と称される地域があります。
中国政府もそこを調査したことはなく、ましてや外国人が調査に行くのは、私が初めてだということでした。 六爻(ろっこう)占術を発見した考古学者のトラさんの故郷が、たまたまその村の近くだったのです。
「生まれ変わりの村」という名称はトラさんが付けました。 決して小さな村ではありません。大きさは川崎市くらいあります。鉱産物に恵まれて、川崎市同様に工業も盛んです。
しかしその地域の人は、過去世(かこぜ)をよく覚えているのです。しかも大体車で行ける範囲のところに生まれ変わるのです。
私はすでに7年間にわたってそこを訪れ、何十人もの人に面接調査をしました。「私の前世は中世ヨーロッパの貴族です」などと言う人もなく、現実的な生まれ変わりの事例がたくさん集まりました。
正直に言えば、最初そこを調査するのが怖(こわ)かったです。
私はアメリカのモンロー研究所に行き、幽体(ゆうたい)離脱によって「あの世」を見ました。しかしそれはあくまでも幽体離脱であり、「リアルな死から生」を体験したわけではありません。
過去世についての本も出版されていますが、多くは催眠術によるものだったりします。
そういう場合の過去世はアトランティス時代やエジプト時代である場合が多く、過去世についての具体的な調査ができない場合が多いです。
しかし生まれ変わりの村では違いました。前世はローカルな場所が多く、ほとんど追跡調査が可能でした。しかもリアルな死を語ったのです。
ある女性の弟として死んだ人が今度は女性に生まれ変わり、妹となって彼女に会いに行きました。その間、車で30分の距離だったので、私もその女性に案内されてお姉さんに会いに行きました。
お姉さんは弟さんが死んだ(狼に食べられた)ときの様子を外側から喋(しゃべ)ってくれました。
死んだ本人は魂の側から喋ってくれました。そして弟から妹に生まれ変わってきても、姉は「やはりこの女性は弟だ」と言いました。
死んで隣の家に生まれ変わった人もいました。一方ではお葬式をして、一方では子供の誕生を祝っていたそうです。
5キロ離れたところに生まれ変わった人は、孫と一緒の中学校に通いました。
そして私が取材したほとんどの人は、あの世のことも詳細に覚えていました。 それは私たちが常識として知っていたこととは違いました。幽体離脱で行く世界とも違いました。
実際に死んで、「死から生へとリサイクルする世界」は、生きている側から行ける世界とは違うようなのです。
まず、過去世を反省する場所はありませんでした。来世を計画する場所もありませんでした。
次に生まれるべき国や両親を選ぶ場所もありませんでした。来世でクリアすべき課題を決めるところもありませんでした。
とにかくこれらから言えることは、私たちは死んでも死ねないということです。
また過去世が未来に影響することも、ほとんど無いのです。つまり前世でどんな生き方をしようが関係はないのです。またどんな死に方をしても、同じなのです。
だとすれば私たちは何のために生きているのでしょうか? 生まれ変わりの村の情報は、運命は決まっているという占いから出た仮説と共に、根元的な問いに引きずり込むのです。
今回は、中国の生まれ変わりの村の地より、生死を超えたソウルメイトというものが存在しないことについて、お話ししましょう。
太田裕美という歌手がいます。私は彼女のファンでした。最近、その彼女がアルバムを出すという記事を見て驚き、アルバムと共に『太田裕美白書』という本まで買ってしまいました。
太田裕美は1955年生まれなので既に50歳を過ぎています。その彼女が往年の歌唱力そのままに新しいアルバムを出したのです。
ところで面相師の史さんによれば、彼女のような顔は内面が男っぽいというのです。 えっ? あの可愛い顔と、あの舌足らずな声の持ち主が男っぽいとは信じられません。
でも『太田裕美白書』には彼女自身が書いていました。「私は男だと思います」……と。
彼女の作詞を手がけていた松本隆も同じことを見抜きます。そして「ぼく」と「わたし」が交互に錯綜した「木綿のハンカチーフ」ができるのです。
おそらくそれは、太田裕美の内面に原因があると思う人がほとんどだと思います。 しかし史さんは外面(面相)がそうさせることを見抜いていました。そして整形手術をすれば内面まで変わることを示唆しました。
ところで太田裕美の面相は若い頃とは変わっています。若い頃の彼女からは今、新しいアルバムを出すことは読み取れません。
しかし今の彼女の面相にはそれが出ています。鼻の両脇から出る法令線が綺麗に発達し、アゴのふくらみも増しているからです。 おそらく彼女の今までの環境がそうさせたのです。
私の面相も大きく変わっています。2001年から私の運は良くなりますが、その前後で面相も変わっています。
鼻から下の部分を見比べて下さい。骨張った部分がなくなり、前にふっくらと出ています。その部分が50歳以降の運を現すからです。 むしろ今のほうが若くみえるくらいです。
面相が変わった最大の原因は、新宿御苑の近くに部屋を持ったことだと思います。
私たちの内面というのは、外の環境が作り出しているとも言えるのです。決して内面が先(原因)ではないのです。
そうだとすれば、相手のことを理解するということなどできるものでしょうか?
人間の心というものが、まるでボールのように閉じられたものであったら理解も可能だと思います。 その形状、大きさ、重さのようなものを、ボールそのものを見ることで推し量れば良いからです。
しかしその人の心が、ボール以外のすべてのものの結果だったとすればどうでしょうか?
あなたには計り知れないはずです。ボール以外の宇宙すべてがその人なのですから……。 だから上にも書いたように、相手のことを理解したなどということは、言えたものではないのです。
にもかかわらず人は不平をもらします。 「彼が私のことを理解してくれない」 「それは僕に対する誤解だ」
このように世の中には「理解されたい症候群」がはびこっています。
でも人間の心は計り知れないし、逆に理解されたときは、あなたが小さな枠に入れられただけなのです。 だから相互理解とかを求めないことです。
男女のつきあい方に関する本は多いです。女ごころとはこうだということを教えるものだったりします。
私は男として生まれたので、どんな手術をしたとしても女性そのものになることはできません。 なので女ごころは、女性が書いた本などから教えてもらうほかはありません。
しかし不思議なことに、そういう本が実際に役に立った経験はありません。
なぜでしょうか。私は男ですが、男を代表しているわけではありません。背の高さ、体格、体毛の濃さ薄さ、声のトーン、何を取っても他の男と同じではありません。
つまり性に関しての一般的教科書は存在しないと思うのです。
もうひとつの理由は、生まれ変わりの村の情報からです。 生まれ変わりの村で取材した半数以上の人たちは、前世と今世の性別が異なります。しかし「私」という感覚は同じなのです。
私は質問しました。 「性が変わってどんな感じですか?」
彼らは次のように言いました。 「小さい頃は違和感がありましたが、だんだん慣れてきた」
私は別の質問をしました。 「今は女性ですが前世では男性ということなら、男性の時代を覚えていると思います。だとすれば男ごころが初めから分かって、恋愛などに便利ではないですか?」
これに対しては、 「実は男ごころが分かるどころか、私の中にまだ男が残っているという感じがするのです。なので普通の状態では男性をそのまま愛せないです」 という答えをする人がいました。
彼女は赤ちゃんを育てている最中でしたから、もちろんセックスはしたはずですし、その最中では前世が男であったことも忘れているのではないでしょうか。
これから言えることは、意識の世界では対極の性を知らないほうが良いということです。 ではどうすれば良いのでしょうか? 恋愛は「意識」ではなく「無意識」の側にまかせるということです。言い方を変えれば意識のハンドルを手放すことです。
セックスだってそうでしょう。意識を手放さないと、いいセックスにのめり込んでいくことはできません。無意識の世界に一番近いのがセックスだと思うからです。
人間は、生活の大半を、意識でコントロールしていると思っています。 でもそれは本当は間違いなのです。意識こそが体からコントロールされてしまっているのです。 この誤解が初めて解けるのが男女関係だと思います。
どんなに知識を増やして策略を練っても無駄です。欲望を肯定して、その流れに乗ることです。それが私は愛だと思っています。
反対に策略はエゴです。自分の欲望に正直になったとき、それは自分を肯定する瞬間ですし、相手も肯定することだと思います。
そのためには、自分の中でドロドロと生きているものを表出することです。
相手が自分の前で解放してくれたとき、あなたも解放できるはずです。その解放の行為が、愛だと思うのです。意図的に与えるものは、エゴなのです。
だから男女の間こそ「ハンドルを手放せ」がものを言うのです。
想像してみて下さい。タイヤひとつで急流を下るとき、小さな滝を目の前にしたときなど、セックスのオーガズムにも似た感覚があります。 タイヤはものすごいスピードで下っているので、まさに滝に墜(お)ちていく感覚です。
そのときこそ、無意識の世界と合体した瞬間だと思います。
あれこれ悩むのが恋愛です。でもあれこれ悩まないのも恋愛なのです。どちらが「愛」に近いかと言われれば、私は後者だと思います。
ポジティブを辞書で引けば「積極的であるさま」と書いてあります。たとえば「ポジティブな生き方」とか「ポジティブに考える」とか……。
家庭でポジティブになると、ヤバイです。「頑張れ」とか「もう少しだから」とか言い始めるからです。家庭内暴力や登校拒否などは、もしかするとそういうことが原因かもしれません。
車だって車庫に入れば、ギアをパーキングにします。家庭内で前進ギアを入れておくと、休める場所がなくなります。
「頭ごなしに怒らないこと」と書きました。怒ることはポジティブなのです。
あれ? ……、怒ることはネガティブなことだと思う人は多いはずです。でも相手のネガティブな面を発見するから、ポジティブになって怒れるのです。
娘は毎晩のように私に相談してきますが、その大半は愚痴(ぐち)です。コトがうまくいかないから相談してくるのです。相談事は、大きな分類からすれば、みんな愚痴なのです。
でも相談されたとき、励ましたり、解決策を出してはいけません。なぜかと言えば、それはポジティブな行為だからです。それをされると、子供は次第に相談しなくなります。
私が娘に言うこと……それは「今のままでいい」ということだけです。愚痴を言っている状態そのものでいいということです。
そう言われれば、相談した側はホッとします。これでいいんだと思います。
すると踏み込んでいたアクセルが元に戻ります。糸で言えば、張りつめていたテンションがゆるむのです。
家庭内でそれができなかったら、いったいどこですれば良いでしょうか?
さて、話は家庭内どころではありません。外に出ても同じなのです。 ポジティブであるということは、パドルを握って一生懸命に漕ぐ状態です。それは体力を消耗(しょうもう)させ、精神的にも参り、おまけに周囲の景色を楽しむこともできません。
私たちは長い間、ポジティブに生きなさいと言われてきました。でも頑張った末に得たものは、愚痴だったのではないでしょうか……。
「こんなに頑張ったのに……」、「あの人なんて私よりも努力していないのに……」 だからその愚痴は、家庭内で出せたほうが良いのです。
私が家庭でポジティブにならないのは、私自身がそう育てられたからかもしれません。 両親は私の名前を健とつけましたが、健康に育ちさえすればあとは何もいらないと思ったからだそうです。
しかし高校の担任はポジティブでした。私が大学に受かったとき、言いました。 「これからは専門をしっかり勉強しろよ」
でも父は逆のことを言いました。 「専門は勉強しなくてもいい。山にたとえれば、まだ裾野を造っている段階だ。 裾野が広くならないうちに高くしようとすれば崩れてしまう。裾野を広くするのは専門知識ではない。 だから今は何をやっても良い」
結局、私が一生懸命に勉強したのは宗教学でした。電気電子工学科に入ったのに……。
そしてついに山を高くすることは無く、今に至ります。
多くの親は子供への投資効果を考えると思います。これだけ金をかけているのだからしっかり勉強しろとか……。専門くらいはモノにしてこいとか……。
これが子育てにとっては、ひとつのポジティブな行為だと思うのです。何をやっても良いと言えば、子供は遊ぶばかりだと思うからでしょう。
でも私がずっと根元的な問いを追求できたのは、山を高くしようとは思わなかったからだと思います。
今回は、恋愛や家庭で、相手を諦めることについてお話ししましょう。 私の包丁さばきも、ご覧ください(笑)。
「諦めたらそれで終わり」……運命に対しては、こう言われます。 相手を諦め、自分を諦めても、運命だけは諦めたくありません。だって不幸になりたくないからです。
目標を紙に書く人もいます。「彼氏ができますように」……とか。
運命が決まっているというセリフを使うのは、男性が女性を口説くときくらいです。 「君と僕は出会う運命にあった」……と。
それ以外は、運命は自分で作り出すものだと思っています。
娘も運命は自分で作り出すものだと思っていました。 だから願望実現の本とかをたくさん読みました。恋愛のハウツー本も買いました。自分を変えれば、運命も変わるものだと信じていました。
しかし私の影響を次第に受け、運命は決まっていると思うようになりました。時折、六爻(ろっこう)占術でコインを振って私に占ってもらうようになりました。
「次に彼氏ができるのはいつ?」 などと聞くようになりました。 それがバッチリ当たるので、できない期間は、のんびりと過ごすようになりました(笑)。
どちらが運が良くなったでしょうか? 後者なのです。 運命を諦めた人ほど、運が良くなるのです。
しかし運命を諦めている人がどれだけいるでしょうか。 なにがしかの形で自分の運命を変えたいと思っている人のほうが多いはずです。
このブログを読めば、もしかすると幸せにしてくれるのではないかと思った人もいると思います。
でもその一歩は、運命を諦めることから始めるとしか、言いようがありません。 それがなぜ良い運命への扉を開くかと言えば、次の理由です。
運命を否定することは、すでに書いたように相手を否定し、自分を否定することです。否定された相手は、あなたに何かしてくれるでしょうか?
諦めるというのは「あなたでいい」と思うことです。つまり肯定です。ポジティブではない肯定です。そのとき、運命のネットワークが始動するのです。
私が25歳のとき、父が保証人になったのが原因で、多額の借金が我が家に降りかかりました。家屋敷を売り払ってもまだ借金が残りました。
ところが私たち一家は、その運命に翻弄されてはいませんでした。
両親は静岡に行き、アパートで暮らすようになりましたが、母はずっと続いていたぜん息が、太平洋をのぞむ気候の下で完治してしまったのです。
その後父と母は大阪に行き、私の会社の大阪支店として活躍するようになりました。
農家だったふたりは長期の休暇が取れませんでした。 しかし今度は自分たちで仕事のやりくりをすると、クイーンエリザベス号に乗ってハワイに行ったり、ニューヨークに行ったりするようになったのです。
父はタキシードで、母は和服で船長と写っている写真が送られてきました。 それを見ながら思いました。
「あの事件が起こってむしろ良かった」……と。 私たち一家は諦めが早いのです(笑)。
とにかく一生、何が起こるか分かりません。それらにいちいち拘(こだわ)っていては次の波に乗れません。
運命を諦めるというのは、新しい運命を迎えるという意味でも、とても大切なことだと思います。
私は毎年立春にその1年を占います。そのほかにも中国に行って良く当たる占い師に一生運を占ってもらう機会が多いです。 それらの結果を合わせてみれば、私がこれからたどる人生は、前もってほとんど知ることができます。
それで私が気づいたことは何だと思いますか?
ふたつあります。
ひとつは未来をすべて過去にできることです。 過去は変えようがありません。同じように、私にとって未来もそのほとんどは変えようがないのです。
ところが多くの人は、変えようのない部分の未来を変えようとしてもがいています。変えようとする人はまだ救われています。人生の大半は決まっていると思っているからです。
夢を実現すると思っている人は、私の対極にあります。人生は白紙で、そこに絵を描くのは自分だと信じています。しかしよく見れば、そこには下書きが書いてあります。
下書きをなぞることに夢中になる人生よりも、私にはもっと大事なことがあります。
それが、ふたつめです。 下書きから顔を上げることです。
顔を上げると何が見えるでしょうか……。 そこに見えるのは自分の人生ではありません。大げさな言い方をすれば神の人生です(笑)。
いえ、「(笑)」どころではありません。神の人生が見えないで自分の人生が見えるわけはないと思います。
さて、占いを研究していて気づいたことがあります。 それは根元的な問いに関することは占いには出ないのです。つまり時空の下書き(プログラム)には根元的な問いは無いのです。
なぜそうなっているのでしょうか。私の考えでは、おそらく時空は3次元的な運命の流れは解答を出しているくせに、「私は誰」というような根元的な問いに対する解答を出していないのだと思います。 だから下書きから目を上げた世界は、真っ白なのだと思います。
この真っ白な世界を知ることと、決まった未来を知ることと、どちらがあなたはドキドキしますか?
前者ではないでしょうか。なぜなら私にとっては過去と未来は同じなのです。どちらも興味はありません。興味があるのは真っ白な世界のほうです。
3次元の「成功」は、真っ白な世界の解明に使っています。
ところが多くの人はまったく逆です。 例えば初詣で神頼みをして、3次元の「成功」のために真っ白な世界(神の世界)からの協力をしてもらおうと思っています。
未来と過去が同じであることも知らないで……。
未来すら過去と同じであることを理解することは、真っ白な世界があることに気づかせてくれます。 その世界は未踏の地です。神すら解答を出していない世界です。
だからあなたも、「未来」や「過去」の世界から顔を上げてみませんか?
ある惑星に、両性具有のおかしな生物がいたとします。この生物は5つの生物同士でセックスをするのが好きでした。
5つの生物をそれぞれ火、水、木、金、土と名付けたとします。木は火に結合し、火は土に結合し、土は金に結合し、金は水に結合し、水は木に結合します。この結合する方向を「生じる」と言います。
さて、この生物には胸があり、そこも性感帯です。木は土の胸を責め、土は水を責め、水は火を責め、火は金を責め、金は木を責めます。この責める方向を「剋(こく)する」と言います。
この図を見てもらえば分かりますが、「生じる」生物から生じられることはありません。「剋する」生物から剋されることもありません。 生じる生じられるという関係を持つ人からは、剋する剋されるということはありません。 つまりすべてが間接的なのです。
また両性具有なので、すべて平等です。どちらか一方が能動的で、もう一方が受け身的という関係もありません。
しかも誰を基準(中心)とするかという基準点というものを持ちません。
これが中国の占いのキーをなす、五行の関係なのです。
六爻占術にしても盲師派推命占術にしても、最終的には占う対象の様々な過去や未来の出来事を五行で判断します。
占う対象にも、それにまつわる人や物、方角、月日にも、五行のどれかが常に当てはまり、それらの生剋(せいこく)関係で、その対象の判断をするのです。
すると世の中の基本的な成り立ちは、五行によって出来ているといっても過言ではないと思います。
さて、この生物のセックスを考えてみます。 自分が結合した相手は、別の生物に結合しています。自分に結合してくる生物は、別の生物から結合されています。 自分が責めている胸は、結合関係にある生物とは全く別です。自分の胸を責めるのは、以上3つの生物とも別なのです。
倫理観を抜きにしたセックスだけを考えてみれば、これはものすごく興奮するのではないでしょうか? 自分は同時に4つの生物と関係しているからです。しかもすべての関係が間接的です。 こういう関係は、5人でしかできません。4人以下だと、どこかで直接的な関係が生じるからです。
五行の関係性が世の中の基本だとすれば、自分がしたことは間接的な形でしか返ってきません。人に与えても、与えられた人は別の人とつながり、別の人に与えています。
私たちは人に与えるとき、その人からなにがしかの見返りがあることを期待しなかったでしょうか? ギブアンドテイクと言われ、同じことをお返しされることが対等だと思ってきました。 盆暮れの贈り物など、その良い例です。直接的にもらっている人に、直接的に返す行為です。
ところが五行の世界は、間接的なのです。与える人にその相手から何かが返ってくるわけではありません。
私はこの概念の中に自分もいることを知ったとき、「私がこの世界に存在できてよかった」と思いました。間接的だとすれば、私は私で存在するだけで良いからです。
五行が世界の成り立ちの基本であるとすれば、私は何も意識しなくても世界全体とつながっていることになるからです。私が存在するだけで、間接的に他の人を生じ、他の人を剋します。間接的なゆえに、善悪の差もないでしょう。
善悪は意識によって生じると思いますが、五行は意識を超えたところで関係を結んでいるからです。だって誰を生じているか、誰を剋しているかすら、分からないからです。無意識の側が勝手に剋しているのですから、そこに善悪は生じません。
人に親切にしようなどと、言う必要もありません。それは直接的な関係だからです。 直接的な関係はうわべだけで、本質的ではないからです。すべての人は本質的な部分で誰かを生じ、誰かを剋しているのです。これは意識的な親切を超えてしまっています。
ましてや、ひとりが世の中を良くしようなどというのは、あり得ません。五行の図を見てもらえばわかりますが、私が全員を生じるというのはできないのです。
五行的生き方とは、間接的な人生であるということです。
ところで間接的ということを一番実感するのが占いです。ですが直接的なものほど当たりません。 直接的な占いの代表はおみくじです。あそこには直接的な言葉で書かれています。だから当たらないのです。 しかし私が会得した六爻占術はコインを3枚使い、それを6回投げます。
例えば1年の運を占ったとして、落ちたコインの裏表から直接判断することはできません。複雑な変換を通して卦というものに書き換えます。それを読むのも熟練が必要です。つまりとても間接的なのです。しかし良く当たります。
さらに運命を変更するときも、間接的というのはキーワードになります。ウサギ8匹を飼ってお父さんの病気が治ってしまった例がありますが、これも極めて間接的なのです。
しかし西洋医学は違います。病気に対して直接的に治そうとします。そういうことに慣れてしまっているために、間接性を受け入れることがなかなか出来ません。「それは迷信だ」のひと言で片づけられます。
でも六爻占術を会得した人ならば、ウサギ8匹がなぜ病気を治したか、理由を間接的にたどることで論理的に理解できます。
この間接性こそが時空を理解するためのキーワードだと思いますが、みなさんはいかがでしょうか?
五行の図の中で、ひとりがあなただったとします。でもあなたの五行が決まっていなくて、空洞だったとします。
でも五行は5つしかないので、もし世界に5人の人間がいて、他の4人の五行がそれぞれ決まったとすれば、そのときあなたの五行も当然決まります。 つまり、相対的関係だけが決まるのです。
これが世の中の成り立ちだと思います。 でも中には、俺は「木」だと言い張る人がいるかもしれません。
しかし実際に占うと、金運占いのときは自分は「火」になり、健康運占いのときは「金」になり、恋愛運占いのときは「水」になったりと、固定されていません。
自分が主体になれないのが、五行の世界なのです。だから、何の五行にもなれる「空洞」というのが、私たちなのだと思います。
しかも「私」を決定するのは、周囲の五行です。これは環境とも言えます。環境が私の運命を作り出してしまっている……。だから私の運命を変えるには、周囲を変えるしかないのです。
親戚で羊の携帯ストラップを付けることで、生まれるはずのない子供が生まれました。
あれは環境を変えたからです。羊の携帯ストラップが「環境」です。 六爻占術で計算して、正確に割り出した「環境」です。
「私が原因」だと思っていればいつまでたっても子供はできませんでした。病院通いを繰り返し、夫婦がお互いの中に原因を見つけようとして、疲れ果ててしまったと思います。 私もあなたも「空洞」なのです。
こう思ったとき、楽になりませんか? 私はなりました。たぶん子供ができないで悩んでいた夫婦も同様だと思います。自分たちには原因はなく、自分たちは「空洞」……。
ホッとしたと思います。でもそれが運命変更への第一歩だと思いませんか? なぜなら、自分が空洞だと思わなければ、周囲が変わったとき、なかなか変われません。
川の流れが変わったとき、それに抵抗してパドルを漕ぎ続けるようなものです。すでに川の流れはあなたに味方しているにもかかわらず……です。
パドルを漕いでどれくらい進むでしょうか? 自然に逆らって、どれくらい運命を変更できるでしょうか?
大事なのは全体の変化に自分がすぐに乗れることです。だとすれば私は「空洞」だと知ることがもっとも早く乗れる秘訣なのです。 自分で運命を切り開きたいでしょうか? でも自分は「個」でくくられるようなそんな小さな自分でしょうか? もしかすると、空洞以外のすべてが「私」ではないでしょうか……。
「私は空洞」を一番感じるのが、生まれ変わりの村です。 男から女に生まれ変わり、女から男に生まれ変わり、性格も全然違う人になり、朝起きて鏡を見て愕然とする人までいます。
それでも「私」という視点だけは変わらないのです。逆に言えば、「私」は何にでもなれるということです。
生まれたときから自分は生まれ変わりだと知っている人は、性差を乗り越えるのに少し時間がかかったと言い、大人になってもう慣れましたと言いました。
しかし私たちがもっている常識は、そうではありませんでした。「私」の経験は蓄積が可能でした。「私」が成長することも可能でした。だからこそ、カルマ論が出てきました。 前世で失敗した部分を来世で直し、もっと成長させようと……。
「私」にはたくさん詰め込むことが可能だと思っていました。でも空洞の「私」には詰め込むことも、成長させることもできないのです。
問いがネットワークの構成を変え、運命を良くします。でもどんなに問いを変えても、良い未来が見えてこない人がいます。 逆にいとも簡単に、いい問いによって良い未来を見いだしてしまう人がいます。
私が見る限りこの差は、自分を空洞にできるかどうかだと思います。自分を空洞にできる人は、いい問いに出会うことができ、いろいろなネットワークにすぐにつながれるからです。自分の五行を決めてくるのは外側です。
なのに「自分が原因」だと思ってガチガチの個にしがみついていれば、外側のネットワークはあなたに接続したくてもできません。
ネットワークに接続するというのは、自分を空洞化できる能力(アンテナ力)にかかっているのです。
言い方を変えれば、自分の個を手放して、周囲の流れに乗れる人……。周囲を自分の願望実現の対象にするのではなく、自分を周囲の影響下における人……。 そういう人は周囲を肯定している人です。
周囲を肯定したときには、ネットワークの側とはすでにつながっていたのです。ネットワークにつながるという行為は、能動的なものではなく、受動的なものです。
いろいろなネットワークにつながれるようになれば、いろいろなケースの未来を事前に知ることができます。
電気のコードを接続する端子に、プラグとコンセントというのがあります。プラグは差し込んでいくほうです。コンセントは差し込まれるほうです。
ネットワークに接続すると言うと、プラグを使って自分の側から接続していくイメージがありますが、これは違います。
差し込もうとしても、差し込むことはできません。なぜなら五行はあなたの側から決定することはできないからです。
私たちはあくまでも受け身なのです。コンセントのように、差し込まれるのを待つだけです。それは自分を空洞と思うことです。
でもそう思った瞬間、ネットワークは向こうから張られます。そのとき訪れた問いを受け止めて発し、やってきた答えでどのネットワークを採用するかが決まるのです。
受動的ということをひと言で表したのが「運命におまかせ」だと思います。でも恋愛とかで考えた場合、すべてをおまかせ状態にできるのは、相手に相当惚れているときだと思います。
そういうときは、もしも自分がコンセントで相手がプラグだったら、どんどん差し込んでほしいと思うはずです(笑)。
逆に相手が嫌なヤツのときは、身を固くしますよね。そして、そういう運命を変えたいと思うはずです。
私の時空に対する初恋は、高校生のときです。あの時点で惚れてしまいました。惚れた相手はとことん知りたいと思いました。
みなさんの初恋はいつでしょうか? もしかして、まだなのではないでしょうか。いえ、時空は恋の対象にすらなっていないかもしれません。
そうだとすればその原因は、親と子のような概念だからではないでしょうか。その関係だとすれば、恋は成立しませんよね。
まず、自分と同じレベルだと思ったほうが良いと思います。自分を卑下せず、相手も持ち上げず……。そうなったとき、初めて対話できる状態に入れると思うのです。
ネットワークというのは水平の関係です。時空に対してハイアラーキー(階層構造)の概念があると、ネットワークにはなりません。 時空(神)と対等だと思うことから始めたらいかがでしょうか……。
半年にわたって連載してきたこのブログも、最終回を迎えました。 今日は、私の自宅のテラスで、すべてお話ししましょう(笑)。