TOP >  もりけん語録集 > 『ハンドルを手放せ』編
「道教修行1999.05」
 道教に接して私が感じたことは、「シンプル」だという点です
。  道教には創造主がいません。老子は神という言葉を一度も使っていません。老子は愛という言葉を一度も使っていません。「神の愛」などもっての他なのです。
(シンプル)

 人間というのは、本当に素晴らしい存在です。もともとエゴはなかったというのはそのためです。怒りも無視してはいけないというのはそのためです。
(人間は素晴らしい)

 私は天人合一を体験しました。そこには対話はありませんでした。エゴは個として存在するときに初めて発生するものです。
(人間は素晴らしい)

 しかし彼女は「日本人で付き合うのは今後も森田さんだけだ」と言いました。森田さんだけ・・というのは誤解があります。私が関係している日本人のみということです。
 同じように孫さんは中国人も制限しています。彼女と付き合うことが出来るのは1000人に一人という感じです。
(孫さんとの世間話と風水)

 徳に関して思えるもう一つは、私が孫さんと同じ位置にいることだと思っています。凄い超能力者として崇めたりはしません。へりくだってしまうと距離を作ってしまうと思います。
(孫さんとの世間話と風水)

 孫さんは自分自身を確立している人です。普通の人には迷いというものがありますが、彼女にはありません。自分の思った事は、相手がどうであれ実行します。
「私は人に対してゴマをすったりはしない」と言いました。彼女との議論に勝ち負けはありません。差を取る(さとる)だけです。後くされもありません。
(今回の訪中で思ったこと(帰国前夜))

 人間というのは、らっきょうのようなものです。その本質は空なのです。剥き終わったとき、初めて時空全体と融合します。
 時空全体の使命に融合したかったら、個人の目標など、持つべきではありません。
(今回の訪中で思ったこと(帰国前夜))

 新しい仙人はマーケット(都会)にいるべきなのです。内なる天はどこにで存在するからです。
(今回の訪中で思ったこと(帰国前夜))

「道教修行1999.07」
 導師は天をプラスと考え、人をマイナスと考えてみましょう。それが合一するとどうなるか・・そう、ゼロになるのです。合一して1+1=2になるのではなく、1−1=0になるのがポイントだといいます。陰と陽が出会うとゼロなのだそうです。
(今日一日は導師と共に)

 子供の頃、私達は無垢でした。遊ぶときは一生懸命に遊びました。未来のために現在の時間を使うことはありませんでした。もちろん起こった出来事に対する意味付けもありませんでした。その頃は過去も未来も無かったのです。そう、瞬間だけが全てでした。
(導師1)

 私達は世俗を生きています。家庭を守らなければなりません。今いる会社を放り出して悟りの旅に出るわけにはいきません。仏陀やキリストはすごく参考にはなりますが、私たちとは基本的な生き方が違っています。
 私は思います。本当の覚醒は世俗の中で起こらなければならないと・・。
(導師2)

 私が時空の旅で受けたインスピレーション・・本当の自分を知ることは、本当の自分であることとは別のことです。
 私は天(神)を経験した・・こんなことはおそらくあり得ません。私が神だとすれば・・。
 状態こそが素晴らしいのです。状態を楽しめばいいのです。生を楽しみ、その先に何があるななんて考えずに・・今、この瞬間を生きればいい・・それが道(タオ)みたいなのです。
(いろいろ)

 仙女は山にこもって修行している?とんでもありません。世間を離れて自然と共にだけ生きている? とんでもありません。
 マスターは俗世間で絵の具を買い、カンバスを買い、作品を作るのです。その合間に時空を操り、水の上を歩くのです。
(導師の導師(マスター))

 そう、仙女達は「生」をとても肯定して生きているのです。理屈は二の次・・だから道(タオ)なのかも知れません。道(タオ)に目的がないように、「生」にも目的がないのかもしれません。
(導師の導師(マスター))

 東洋は内側と外側でした。自由と悟りの問題・・このどうしても引っかかっていた点は、やはり重要なポイントだったような気がします。
 私達は悟った状態だけでは生きていけないのです。それを「動」の状態に転換しないといけないのです。
(マスターが書いた伝授書)

 私達はどこから来て、どこに向かっていくのでしょうか?
 行く所だけを言えば、私達はどこに行く必要もありません。身近なところで小さな合一を果たすだけで良いのです。
(マスターが書いた伝授書)

 全世界の人が救われるまで・・・よく考えてみて下さい。この台詞は現在、全世界の人は救われていないと言っているのです。おそらくこれは仏陀の台詞ではないと思います。この台詞には未来があります。仏陀には未来はなかったというのが私の考えですから・・。
 瞬間に生きるものに、未来はあってはならないのです。
(仏陀の悟り)

 芸術作品しかり、直筆の書しかり・・・どちらも生命に溢れているのです。
 生命エネルギーを節約して、長生きにだけ興味をつぎ込んだ人ではありませんでした。
 全く個人的に芸術を楽しむ人。それも身近な人に対してだけ・・そういう人でした。
 瞑想を重ね、内なる宇宙に酔っている人・・そんな人の対局にもあります。
(仏陀の悟り)

 この世界から全ての教典が消えたら、人々は救われるでしょうと言った人がいます。私はその考えに賛成です。
 道教がとってきた個人的伝授は、やはり正解かも知れません。
(寝ながらずっと考えていたこと)

 彼女達は生きるという行為の中でしか、自然との分離(距離)を克服できないということを悟ったのではないでしょうか。その行為は、書物にすることが不可能なのです。
(寝ながらずっと考えていたこと)

 やはり存在達がいる世界は、一つ次元が下なのです。彼らのメッセージをいちいち真に受ける必要はありません。
(よもやま話1)

 私は仙人の世界から何を感じたか、・・そう、陰陽の違いは常に意識して良いのです。それを私は「陰陽の差取り」とでも名付けたいです。陰陽を合一するのは「行為」でするのです。だから菩提樹の下で黙って座って悟って、それでOKではないのです。
(よもやま話1)

 しかし道教は何があるのでしょうか?道(タオ)のみです。天は意志を持っているとはいえ、個人に働きかけるようなものではありません。
(よもやま話2)

 生活は何も変える必要はありません。大それた修練は必要ありません。個を落とすために特別な瞑想も必要ありません。
 なぜなら、私たちが全存在をかけて何かをするとき、個は落ちているはずですから。
(香港最後の夜)

 では、分とはいったい何だと思うでしょう。これが面白いのです。
 それは、分とは「貸し借り」なのです。つまり男女で前世において貸し借りのないソウルメイトは、結婚できないのです。
(全ての出会いはソウルメイト)

 全ての出会いがソウルメイトだということは、天が出会いを作っているのだそうです。
 その天の出会いを充分自分のものにする方法が「自然にまかせる」のです。計画性、あるいは主体性を持っていると、天の出会いを生かせないのだそうです。
(全ての出会いはソウルメイト)

 自然から見れば、意識は貸し借りかも知れません。人間のマインドは自然に対して、ある種の貸し借りを発生させると思うのです。創造的行為もおそらく「分」です。
 逆に言えば、時空は貸し借りを楽しんでいるのです。
(私の指導霊&「分」)

 私達は、人知を越えていることは神のことだと考えてしまいます。しかし孫さんはこう言いました。「何故そんな風に考えるのですか?」
 この台詞の持つ意味は大きいです。天命?運命?神様?それって何ですか?と言わんばかりです。
(中国最後の夜)

 今回の旅行について、具体的なことではなく、今の私が感じていることを言えば・・
 自分も相手も肯定すること・・。これが必要ではないかと思いました。
(成田エキスプレスの中で)
「モンロー研究所」
 彼らはMエナジーを直接送ることは出来ません。送れるのは情報だけです。情報により、私達を引っ張り込もうとしています。
 それ無しには、彼らは存在出来ないからです。まさに自分達が存在したいがために、我々に情報を送っていたのです。
(いくつかの報告)

 私は「存在」に愛という感情を意識しました。すると向こうからも近づいてきて、私達はしばらく融合しました。存在からは「ありがとう」というメッセージが返ってきました。
 ルーシュ・・きっと彼らは欲しかったのだけど、うまく言えなかったのです。
(二つの顔)

 孫さんの指導霊は5人いますが、それぞれの指導霊同士は知らないのです。孫さんを通じてしか、連絡を取れないのです。
 また、指導霊だけでは何も出来ません。ピーナッツ一つ蘇生できません。
 最も力を持ったのが我々なのです。
(発想の転換が必要)

 フォーカス23の霊たちが孤独だったように、ここの存在達も孤独です。仲間が欲しいのです。成長という執着を一緒に味わってくれる人達が欲しいのです。
(今回の最高領域での体験)

 私は私であると言った途端に、私は全体ではなくなります。私は私であると言っている限り、私は相変わらず孤独です。自然から切り離された存在でしかありません。
 しかし「私は誰でもない瞬間」を味わってみて下さい。そこには全体と融合した私がいます。孤独ではない私がいます。
(今回の最高領域での体験)

 私達はパラドックスの中に生きているのかも知れません。だからブッダの表現はあれほど単純だけれど、難解なのです。
 だからこそ、「生」は面白いのではないでしょうか?
(今回の最高領域での体験)

「ナビゲートしてくれる人生が面白いですか? 目的など持たぬ方が良いのです。」
 もしもこの反論をしたとして、彼らには理解可能でしょうか?
 アメリカ人には悪いのですが、この点の理解は相当難しいと思います。彼らはビジョンの中で生きているからです。
(ワシントンDC空港にての雑記)

 上の存在は下に行くことは出来ます。下の存在は上には行けません。そういう意味では、神に会うことは、神にガイドされるしか方法はありません。
 もしくは、そこには究極のパラドックスがあり、神にだけはガイド無しで会いに行けるのかも知れません。それは鏡の前に座るだけで良いという話もあります。
(ワシントンDC空港にての雑記)

 自由とは何か・・。「存在」は言いました。大切なのは「〜への自由」だと・・。
「〜への自由」とは何でしょうか・・それはスピリチュアルな自由です。「〜からの自由」は物質的、身体的な自由です。
(帰りの飛行機の中で1)

 私達は自由が無いことを環境のせいにします。持って生まれた境遇を理由にします。経済力を理由にします。性の差を問題にします。
 ひょっとすると本当の自由は、そういう外的なものとは無関係だったのではないでしょうか?
(帰りの飛行機の中で1)

 しかし私達の本当の自分は、なんと、自分の中には無かったのです・・。
 だとすれば死とは、何もないものから何もないものへの移行なのです。もともと無ければ、死にようがありません。
(帰りの飛行機の中で2)

 では本当の自分とは、いつ自分の体に入ってくるのでしょうか?
 表現がややこしくなりますが、それはあなたが自分を捨てたときなのです。あなたが自分という意識を捨てたとき、全体の中に融合していた本当のあなたが、あなたに入ります。
「私は誰でもありません。」こう思えた瞬間に、あなたには本当のあなたが入り込みます。
(帰りの飛行機の中で2)

 死ぬと××グラム減る・・だから肉体には魂が宿っている。いえ、そうではありません。私達の本体は、死ぬ前から既に上にあるのです。
 まさに、神そのものが私を通じて、この世界を体験しているのです。
(帰りの飛行機の中で2)

 成長とは、別の人間になることです。みんなが同じ「人かどの人間」になったら、個別のあなたを作った意味がないではないですか。
 私達は個別の人間として、孤独な旅をしているのではないのです。
(帰りの飛行機の中で2)

 実は、私が何故このような調査をしているかというと、「私は孤独だ」という感覚を持っているからです。
 人は深遠な孤独感を持っていると思うし、それが一つの成長のバロメータだとさえ思っています。
(私の感覚)

 しかし繰り返しますが、私自身には、私自身でしか遭遇できません。
 また地球は、こういう地球人としての生を体験するために存在しているのです。プレアディスやシリウスに「なる」必要はありません。
 私達はどこの星でもない、この地球人で「ある」ことが大切なのです。
(囚われたマスター達)

 私達が意志を持つことは、それだけで時空にひずみを起こします。時空はその意志を優先します。しかもその意志は残存します。
 意志を持つ本人の意思が変わっても、過去の意志は生きています。まるで意志の慣性の法則のようにです。
(私達は「強い」、しかし上ほど「弱い」)

 本当は微細なものほど、次元が高かったのです。あることを強く願う必要は無いのかも知れません。
(私達は「強い」、しかし上ほど「弱い」)
「道教修行1999.10(前)」
 私の運は常にゼロ。そう・・運は常にゼロでなくてはなりません。
 ゼロでないとすれば時空に貸し借りを生じてしまいます。時空から借りた借りは時空に返さなければなりません。
(運がゼロ)

 事象はあなたを通過していくだけ・・・、あなたにとって、それが運が良いだの悪いだの、幸福だの不幸だのという評価を取ってしまえばいいのです。
(運がゼロ)

 その神髄は、楽しみながら修行する・・まさにこの一点です。修行法に関しては老子よりも荘子の言葉が多いです。
 例えば座禅のことを道教では坐忘(リューワン)と言いますが、これは座って忘れるという意味です。特に自分の賢い部分を忘れることが大切だと言われました。
(素晴らしい導師の講義)

 だからおみくじで凶を引くことが、最も素晴らしいのだそうです。それが人生を最も楽しめるのだそうです。
 災害で死んでいく人、それは最も素晴らしいのだそうです。自然と共に死に、自然とともに生まれる・・。これはすごい思想です。
(素晴らしい導師の講義)

 しかし、私は自分を探求者だと思っています。神に対する回答は、死んでも出ないと思っています。なのに神はこうだと語る人間を、逆に私は信じることが出来ません。
(「森田さん、自信を持ちなさい」)

 道教ではなんと、この答は・・・タオが完全だからこそ、世の中に悪がはびこる余地があるのです。ふ〜〜〜う・・すごい・・。
 もしもタオによって管理されていたらどうでしょうか?私達に自由が無い代わりに、悪も災害もなくなります。
(無いもの)

 ひょっとすると、愛は「有る」世界なのかも知れません。無いものをめざしたとき、愛すら落ちるのではないでしょうか。その時、人は本当に愛の世界に入れるような気がしてなりません。
(無いもの)

「道教にはキリスト教で言うところの愛という単語はあるのでしょうか?」
 即座に答が返ってきました。「ありません。」
 やはり無いのです。私はこの答に内心、ゾクッとしました。
(セレモニー)

 ところで、吉田松陰の師は孔子でした。だから松蔭は社会改革を目指しました。彼の影響を受けて活躍した勤王の志士達は、「なる」世界の住人だったとは言えないでしょうか?
 誰もがヒーローとして否定しない坂本龍馬が、この日本を「なる」の世界に改悪したとは、言えないでしょうか?
(混沌が食べた智恵の実)

「道教に愛はありません」導師はこう言い切りました。愛という単語を口にした途端に愛が死んでしまうのを知っているのです。
 道教がやること・・それは以前のコントンの状態に戻ることです。つまり顔のないのっべらぼうの自分に返ることです。誰でもない自分に還ることです。
(混沌が食べた智恵の実)

 私は人を罰する神様が大嫌いです。自分を何様だと思っているのでしょうか(神様だと思っているでしょうが・・)。
 人を罰するのは、自分が「なる」世界に生きているから出来るのです。
(山頂を目指してはいけません)

 山登りが九合目で国旗を立ててきたら、お笑いです。しかし道教にとってはこれが本物なのてす。客観的な山頂はその人にとっての山頂ではないはずです。
 私達が生きている道のりは、まさにこれです。中腹にこそ、山頂があったのです。
(山頂を目指してはいけません)

 私達の人生を乗せた車は、常にワダチにはまっているのです。つまりその時、ワダチが右にしか行っていなかったので、右に行ったのです。
 右に切るのは、私ではありません。無意識の私なのです。私はその解釈・・つまり右に切った言い訳をするだけです。
(ワダチの車)

 天と一つになり、本当の自分に近付けば、本来の道は自然と選択されるのです。それは自分自身で選択するのではありません。天が選択をしてくれるのです。
(ワダチの車)

 つまり彼女は道教を三次元に引き下ろすことに興味が出てきたのです。彼女自身も山の中ではなく、欲望渦巻く三次元で仙女になることを目指しています。
(香港での風景)

「進もうとするところには真理は無い」とも言っていました・・。
 成長して輪廻転生をクリアーする・・何て「進もうとする」概念でしょうか・・。愛する人間になる・・何て「進もうとする」概念でしょうか・・。
(香港の道観は御利益的なのか??)

 なぜ黒なのでしょうか?道教の世界は陰陽の世界です。陰は良くないというイメージが我々にはあります。しかしあの太極図の黒の部分にこそ、生命があるのです。
(生と死と)

 リリースとは男性用語のような気がしてなりません。ベクトルが外に向かっているからです。それはまるで男性性器のようであり、なおかつ精子の飛んでくる方向でもあります。
 それに対して女性は内側に開いています。そして精子を受け取ります。
(生と死と)

 ポジティブに生きるとか、短所を直すということ自体がおかしいことに気付いたのです。
 本当の自分はもっと自由なものだと思いました。欠点とか長所は外から見た視点でした。
 私が私であるならば、やりたい事とかやりたくない事とかが、あまり関係なくなってしまうことに気付きました。
(ありがとう)

 つまり目標である限り、それは目標にしか過ぎないのです。
 好きな事をやっていこうと思えば、好きな事が自分から離れていきます。
 自分を変えていこうと思えば、自分は自分から離れていきます。
(ありがとう)

 私が綺麗事が嫌いな理由は、ここにあります。「正義」は「なる」世界であり、それは「ある」世界よりも強いのです。「ある」世界は微弱なのです。  私は時空のパイロットをしていますが、本当は三次元に一番興味があるのです。 (ありがとう)
「道教修行1999.10(後)」
 日本の場合、盆栽のメインテーマは「自然」だからだと思います。しかし道教の寺の場合には、メインテーマが「人間と自然」なのです。ここでは人間は仙人です。
(盆栽)

「社会が無いということに注意・・」
 人をバカにしたような表現ですが、道長はとても社会を気にしているのです。でも表面的に気にしてはいけないのです。気にするポーズが最も悪くすることを知っているのです。
(盆栽)

 本当の自分はとても正直に生きたいのに、それをブレーキをかけるのが仮の自分です。
 道教では「完全だから悪が入り込む余地があった」と言っています。
 善のみでは不完全なのです。道教は、そこまで思考を発展させなさいと言っています。
(本当の自分とはどこにあるのか)

 時間が未来から流れてくるのなら、手を放すことが出来ます。ハンドルを放すことが出来ます。未来に向かって運転する必要がないからです。
 ワダチに乗ったまま、私は360度の世界を見渡し、楽しむことが出来ます。
(本当の自分とはどこにあるのか)

 不完全なままでいてごらんなさい、あなたは生き生きとしているでしょう。
 あなたが完璧になれるのは、あなたがトータルでないときに限ります。トータルでない・・とは、あなたの中の何かを否定している状態です。
(道教の考え方)

 あらゆる知識は未来を作り出します。あらゆる知識は自分ではない何かになろうという欲求を作り出します。自分であるところのものを楽しむことがありません。
 知識というのは自分ではないものに向かって努力することに結びつきます。
(道教の考え方)

 私は、全ての人間は平等に直面しているものがあると思います。それは「自由という恐怖に立ち向かっている」ということです。
 戦争で窮地に立とうと、貧窮にあえごうと、毎日の忙しさに追われる仕事人も、家事をしている女性も、平等に対面しているのが「自由という恐怖」だと思います。
(自由へ)

 自分の弱さを表出したとき、ものすごい癒しのエナジーが出るのではないでしょうか。
 それによって相手は癒される・・。
 対等な関係の中での、対等なリリースが最も良いと思うのです。
(自由へ)

 人に親切をしてはいけません。親切は恩を売ることです。
 全て自分のためにしていれば、恩にはなりません。その人も、返す必要がなくなります。
 人に与えるという言葉は、自分の何かが減るようなイメージがあります。
 リリースという言葉は、自分も得るようなイメージがあります。
(恩は返ってくるか)

 だから自由なんて0.1%、いえ、それ以下です。
 でも、こうやって言葉として言語化できる部分以外に、ものすごい部分で決められている何かがありそうです。それが私の言うところの時空の摂理です。
(人間の意志)

 いえ、人間と神は、いつもイコールだと思います。自由度というバロメータで、です。
 自由が怖いから、「仮の自分」のような衣を着たいのです。
 神の夢は、きっと本当の自由だと思います。
(自由の問題)

 エゴは目標です。目標がある限り、それはエゴなのです。愛の世界を実現しようとかいう目標もエゴなのです。これは金儲けをしようというのと、全く同じです。同じだということを認識する必要があります。
(明け方の気付き)

 自由とは、自然からの距離です。どれだけその人が自然から抜け出しているか・・その距離なのです。それをどう使うか・・つまり自由の使い方を人は自由の意味だと誤解します。
(明け方の気付き)

 神がいるとすれば、あるいは天に意志があるとすれば、この三次元に自由な世界を作っているのではないでしょうか。しかし、自由を作ることは出来ません。自由は作ろうとした途端に不自由になります。ですから神は、究極のパラドックスに向かっているのです。
(明け方の気付き)

 自分の言葉で語ることは、とても大変なことです。それができたとき、あなたは自由そのものの中にいます。神と一体化します。天と合一します。
(明け方の気付き)

 一体感よりも大切なのは、分離感です。あなたと私は違うという分離感があるからこそ、愛が生まれるのです。
 あなたと私は違うからこそ、表出したいのです。リリースしたいのです。
(明け方の気付き)

 私達は「変化」しないといけないのでしょうか。あなたは自分を、本当に、本当に、変えたいですか???もしも、無人島に住んでいたとしても、変えたいですか??
 それが地球のためであれ、外部の目的のために変えてはならないというのが私の意見です。ましてや、変わることを宣伝するものではありません。
(坂本竜馬)

 本当の自分を知る方法・・それは中に何が詰まっているかを知るよりも、出口を作ってやれば良いのです。初めてそこで具体的な形で認識できます。
 さて、その時何を前提にすれば良いかと言うと、“いつでもやめられること”という前提を付けておくのです。もしもそれを付けてでもやり続けたら、それは本当の自分なのです。
(いつでもやめられること1)

 社会との整合性をとるために言語を使って説明しようとするのです。しかし本来、自由な気持ちから生まれたものは、社会の規範を外れているはずなのです。
 そこで理由を言ったとしても、それは取り繕った嘘なのです。だから、意味付けは全て嘘です。そこで下手に理由を言うと、その理由に自分が縛られるようになります。
(理由(わけ))

 愛を絶対的な真理としてはいけないというのは、そこにもあります。
 相手を本当に尊重しているならば、愛さえも相対的なもの・・・つまり自分にとっての価値だけに落ちるのです。そのとき、やっと愛が芽生えると思います。
(あがること)

 一日の終わった夜、それはやめるのです。一日の始まる朝、それは始めるのです。
 いつでもやめるというのは、心の中の問題かも知れません。心の中でいつもやめて、次の瞬間、始めれば良いのです。結果的に、諦めないことになります。
(いつでもやめられること2)

 途中でやめることが出来れば、そこには頂上に対する劣等感はありません。
 エゴは頂上に行くという目標から来ます。となると、エゴは全て劣等感から来ると言って良いかも知れません。
(劣等感)

 自信喪失は、誰でも持っていると思います。なぜかというと、私達は自由だからでは、ないでしょうか・・。そして自由だと孤独になってしまうからではないでしょうか。
 人間は大変な世界に放り出されています。自由と孤独の世界です。だから自信喪失は、当然の結果と言えると思います。
(自信喪失と自由と孤独)
「導師の誕生パーティー」
 一つの事を捨ててから別の道に行くのではなく、別の道に行ってからある事を捨てる・・もしくは捨てる必要がなければ両方とも続行するのです。本当に忙しくなればその時考えれば良いのです。同時進行可能なら、「あれもこれも・・」なのです。
(あれもこれも)

 あれ・・はハンドルを握ることかも知れません。これ・・はハンドルから手を離すことかも知れません。
 つまり、両方の価値観において整合性がとれるということを知っておくことだけが重要なのかも知れないと思いました。
(あれもこれも)

 三次元で生きていくノウハウはあった方が良い・・お金もあった方が良い・・異性の友達もいた方が良い・・不動産もあった方が良い・・
 一般的な精神世界はこれを嫌います。否定します。しかし、道教はそれらを「否定する心」を持つことを否定するのです。金があってなぜ悪い、女がいてなぜ悪い・・。
(徳)

 仙道に無の世界というのは無いのだそうです。それはまさに昨日の弟子が瞑想で追求し、マスターからも無視された世界なのです。
(天人合一の図)

 思った通りに生きた方が良いといいながら、いかに自己表出が怖いのでしょうか。人は平等という安全パイを生きます。
(導師とのやりとり)

 人は多くの意味付けをします。しかし道教はそこからも独立しているのです。
 もともと世界は平等などではなかったのです。導師の挑戦は、物凄いものがあると思います。
(導師とのやりとり)

 返嬰童之体功・・それは胎児に還る修行なのです。リトンビン・スリーピングもその一つです。でも重要なことは、この大人の意識のまま還るのです。
(返嬰童之体功)

 事象との合一は、音を聞くように、時間の流れ・・すなわちプロセスの中での自己を体験しなさいと言っているのだと思います。
 徳の四点セットは、あまりに三次元的でした。それが重要なのは、和光混俗にあるのではないでしょうか?
(返嬰童之体功)

 もともと、道教にどっぷりという状態はないのではないかとさえ思います。何か権威のあるものに縋るのならともかく、どちらかと言えば捨てていくタイプの宗教ですから・・。
(導師一族)

 貰える者と貰えない者があって、初めて「動」が生じるのです。つまり、導師はそこから生まれる動的な気付きの方を優先していると言えます。
 と考えると、宇宙は不公平があるから動的に動いていると言えるのかも知れません。
(二つの教え)

 タオは決して学ぶという行為を否定してはいません。むしろ、タオの最初は学ぶことから始まるのです。しかし行き着く先は損をするという表現を使っていますが、おそらく捨てることではないでしょうか。
(二つの教え)

 外へ、外へ・・感覚を外に開いて、開いて・・。
 今回の訪中では三次元の話題が多いですが、いったん高次元の果てまで行って、帰ってくることが大事だと思います。
(時空にいだかれる)

 道教というのは、「自発」を目指しているのだと思うのです。というのは、愛だの慈悲だの救済だの創造力だのということが、道教では一言も言われないからです。
(自発)

 私は、本当に大事なことだから、言っていないのではないかと思います。
 これは自分に問いかけても良いと思います。本当に大事なことは、言葉にしたくない・・という風なことはありませんか?
(自発)

 分からない事を想像で解釈し信じさせるのではなく、分かっている事だけを使い、宗教という体系を作っているような気がします。それも偏見を取り去り、裸の現実を我々に直視させようとします。そういう意味では、道教は科学に近いかも知れません。
(道教におけるあの世)

 ところで私達が言うところの自主性は、たぶん他発なのです。ですから、自力本願もほとんどは他発だと思います。どちらかと言えば他力が自発なのです、こちらの感覚では・・。
(自発はおしまい)

 ところで全く道教では定義されていない愛とか人情ですが、これほどのものを私は受けたことがありません。
 道教に愛はないといいながら、彼らは真っ只中ではないかと思います。
(徳の四点セット)

 たった三時間訪問しただけで人をも変えてしまうことがあるというのを知り、私は驚きました。我々が「人は変わりにくい」と言っているのは、大きな誤解ではないかと思うのです。
(中井氏の本)

 切るという現象も、中心気質の一つの現れだと思うのです。道教は中心気質者を製造しているのではないかと・・。
 導師は相当な中心気質者だと思います。空になれるのもその一つだと思います。
(選択)

 では何に興味があって道教の体験をしているのでしょうか。
 それは宇宙や時空に興味があるのです。この点では導師もそうだというような気がします。彼女は自己成長の欲は、私が見る限り、無いのです。
(導師の弟子達)

 中心気質の人は、直接的だと思うのです。理由付けは不要なのです。
 対象物との距離感が少ないということは、相手という人間との間に距離が少なく、さらに本来の自分の感情との間の距離が少ないという意味があるのではないでしょうか。
(小心者)

 しかし導師は器が小さいどころか、「無い」のではないかと思ったのです。
 目の前でバシバシ人を切ります。端で見ていると、そこまでしなくても・・と思います。
(器)

 しかし器などというものは始めから無かったものであり、それを大きくするなどということをすれば、真っ只中で生きることが出来なくなってしまいます。
(器)

 人間関係そのものの中に、器の大きさは出てくるものでしょうか?彼女が「切った」のは、物凄いことだと思います。
 フォーカス35では全ての人は繋がっています。導師もその人も、繋がっています。だから、彼女はいつも本気なのです。ある意味では本気で「悪」をやるのです。
(徳と器の大きさ)

 修行をするためには徳がなければならないのですが、その目的は道教を趣味にするためではないかと思ったのです。宗教は生活の本質ではなく、趣味・・。
 本当にやりたいことは、いつでもやめられること・・・実は趣味がそれかも知れません。
(徳のない弟子)

 1ミリの中に無限の宇宙が入ると書きましたが、もっと薄くてもOKです。たとえば四次元は0.1ミリでも。
 その0.1ミリの中に、この私達が住む宇宙が1億個以上も入ってしまうのです。高次元の許容量というのは、膨大なのです。たったの0.1ミリでOKなのです。
(0.7ミリ)

 上記の仮説で面白い点は、次元が高くなるほど足されるのではなく、逆に打ち消しあいを起こして、引き算されていくという点です。
 上に行けば行くほど、打ち消し合って、減るばかり・・。
 この仮説でいくと、この三次元の世界が最も次元が高いのです。
(七次元の根拠)

 導師は単に反応しただけなのです、たぶん・・。その反応が正確なだけなのです。
 つまり、切られた人がそれを作り出していたのです。
(導師は「切って」いない)
「導師来日」
 私達は善悪の境をはっきりとさせようとします。違いに注目しようとします。
 混沌としている状態のままでは落ち着きません。
 しかし、仙道では混沌こそ、天人合一なのです・・・。
(混沌とした水平線)

 講演会では仙道が科学の一つであることを、何度も強調していました。
「仙道は先駆者の仙人達が多くの実験によって創り出したものです」と。
(「宗教を教えに来たのではありません」)

 しかし私は彼女の「切る」という行為が常に行われていたような気がします。
 まず、彼女はいつも高いエネルギー状態にありました。これは相手が彼女を切ろうとして切り込んできても、その刃はその人に向けられるような気がします。
(導師の意外な一面の発見)

 彼女が褒めた和食の食器の様に、日本人は感情を大切にします。だから扇の舞を加えて、感じで伝えることを多くしたのだと思います。
 こういう経験は、私個人がシンセンに行っても、決して得られるものではありません。
(導師の意外な一面の発見)

 しかし、神ですらワダチに乗っていないと誰が言えるでしょうか。神が潜在的だとすれば、この世の存在は全て潜在的かも知れません。
 それでは何故、顕在意識を作ったのでしょうか?私はやはり、自由を感じるためだと思えるのです。
(潜在的神)

 システムは逆なのではないでしょうか?潜在意識はインプットする側なのです。主導権は理性にあるのではなく、潜在意識にあるのです。
(「潜在的妙々冥々的無形的主宰力」はインプットする側)

 どんなに良いこと言っても、自分でやらなければダメなのです。「やる」とはどういうことでしょうか?
 理性がやった時、それは偽りなのではないかと思います。理性がやった時、本当の理由は別にあるのです。
(「潜在的妙々冥々的無形的主宰力」はインプットする側)

 修練は創造的に、しかも自然と一体に・・
 とすれば、「潜在的妙々冥々的無形的主宰力」はインプットする側&アウトプットする側・・とも言えるのです。
(「潜在的妙々冥々的無形的主宰力」はインプットする側)

 ふと思ったのですが、混沌の逆は「切り捨てること」だと思うのです。
 精神世界ではすべては自分が創り出しているとよく言いますが、これは他の要素を切り捨てているのではないかと思います。
(秩序とは切り捨てること)
「仙道修行1999.12」
 全ての目的があるということは、目的が決まっていないことと、同じです。
 あなたは、何か、安心感を覚えます。演出した何物をも感じません。
 人は中和をするために、コンビニに行きます。個性というものの、中和を・・
(コンビニと道教)

 コンビニには突出した部分がありません。山の裾野だけで成り立っているように思います。
 可能性だけの世界・・コンビニ。360°の世界・・・コンビニ。
(時空はコンビニ)

 裾野を広げ、色々な位置に望遠鏡を置いて見ます。すると別の世界が見えるのです。
 でも、そこには大事な共通点があることに気が付きました。どこの位置から宇宙を見ても、信頼という文字が見えるのです。時空は信頼できるのです。
(時空はコンビニ)

 だとすると、〜からの自由と、〜への自由は、同時達成かも知れません。
 ひょっとすると、向き合う姿勢だけなのかも知れません。
(〜からの自由)

天人合一は、胎児以前に還らないとダメみたいです。
今の自分そのもので・・つまり意識がそのままで・・・つまり大人の心そのままでは・・・合一できないらしいのです。
(最初の修行)

 チャイルドからベイビーに帰り、最後はベイビーも通り過ぎて、精子と卵子が合体した直後、いえ、直前の状態に帰ることだそうです。それが混沌であり、虚無らしいです。
その状態に遊ぶことが出来ないと、天人合一は出来ないようです。
(終功基本ポーズ)

 劣等感は未来から来ます。まだ実現していない「理想の自分」という未来からです。
 胎児以前に戻るという修行は、その部分をキャンセルする行為なのではないかと思いました。
(劣等感)

 生まれた時から肉体を身につけていると、肉体が自分だと思うかも知れません。
 同じように、思考も自分だと思ってきました。思考は自動車でした。いえ、正確に言えば、思考がハンドルだったのです。
(劣等感)

 両方とも、「気付き」で無くなるものじゃない。「気付き」は思考の一部だから・・・思考で気付いても、ますます強くするだけ・・。
 もともと、気付きなんてあってはいけないのです。何を気付いたかすらも分からない・・そんな状態でないと・・。
(劣等感2)

 感情は道具だったのです。つまり感情とは、意識という感覚で感じる対象なのです。
 ある事象を見て嬉しいか悲しいかは、その人が感じる感じ方にしか過ぎませんでした。
 同じものを見ても、ある人は楽しいと見て、ある人は悲しいと見るのです。
(感情は道具)

 行動規範書こそ、自由からの逃避方法だと思います。
 反対に規範書がないとどうでしょうか。瞬間瞬間、360°の可能性が生じています。
 どこに行くか分かりません。これこそ、ワダチの世界です。
(行動規範書)

 無意識への信頼感と時空への信頼感・・この二つを獲得するには、どうすれば良いでしょうか?
 目標を無くせば良いのです。
(行動規範書)

 人間だけが書を手放すことができます。それは自由に向かっているからではないでしょうか?書を手放した時、ひょっとすると神と一体化するのではないでしょうか?
 それを道教では天人合一と言うのかも知れません。
(行動規範書)

 変わりたくないという努力を外せばいい。人が偉そうな事を言おうが、俺は俺だと思えばいい。
 今の自分を好きになる・・これを思った瞬間、行動規範書は吹き飛ぶようにも思えます。
(私達は完全)

 さて、私は書を無くさないと言いました。つまり悟ってはいません。
 しかし、一つ発見したことがあるのです。それは書に反対のことを書くと、相反することは全て消えていくのです。
(自由と行動規範書)

 道教では宇宙の根本を「一気」と呼んでいます。つまり人格的な神ではなく、エナジーそのものなのです。
 ですから、エナジーのアップなくしては天人合一は出来ないらしいのです。
(エナジー修練)

 自由意志という言葉があります。自由という単語と意志という単語は、正反対の単語だったのだと思いました。意志を持った途端に、自由は消え去るのです。
 不自由意志・・が正確です。自由とは、有の世界にはありません。
(無の世界)

 ある行為というものが、他の目的であるはずは・・ありませんでした。
 私達は、生きるために生きるのです。食べるために食べるのです。
 この瞬間は、他の時間のためにあるのではありませんでした。
(××について(副題:無について))

 おまけに私には目標&目的がありました。不思議を研究するという・・。
 コーヒーを飲みながら、したたかにもその計画にふけっていました。私は外から見た、「一見自由に見える生活」に酔っていたのです。自由だという錯覚に陥っていただけなのです。
(××について(副題:無について))

 もしもコーヒーを飲む瞬間がコーヒーのための人生になった時、そこには劣等感はあるのでしょうか?無いですよね。未来に対する目標が無いのですから・・。
 私達はこういう時間をできるだけ増やしていった方がいい、そう思います。
(××について(副題:無について))

 私の「無」の体験の中には、本当に善悪がありませんでした。つまりポジティブとネガティブもないのです。
 善悪やポジティブ・ネガティブは、未来を考える中で生まれるものだと思うからです。
(ポジティブとネガティブ)

 出すという行為の中で、私は時空と繋がったような気がするのです。その時初めて頭がカラッポになり、無というものを体験できたような・・・。
 これはエネルギーのリリースかも知れません。
(エネルギーのリリース)

 自分の魂の内部に入り、欲望を見つめ、それを客観視することによって無は体験できる・・そんな先入観に対し、コーヒー一杯の中に・・・地下鉄の落書きの中に・・・無という気付きは潜んでいました。
(無の体験)

 あなたに良い事があったのは、あなたが引き起こした結果でもあり、相手が引き起こした結果でもあります。
 もしもそこに時空が関係してくれば、私達は時空の「手段」になるのです。全てが目的として完結するためには、時空に対する感謝があってはならないのです。
(感謝する心)

 感謝は、その人の前で、しっかりと表現すれば良いのです。そこに時空もくっつけたければ、「お陰様で・・」と言えば良いのです。
 相手のいないところで高次元の存在に感謝するのは、もう既に自由の大半を手放しています。
(感謝する心)

 自分を好きになる、あるいは自分を愛する時には、現状の全ての自分を認めないといけません。
 そして私の愛おしい世界にするためには、世界に対して依存の気持ちを持たない方が良いのです。
(私の愛おしい私、私の愛おしい世界(時空))

 子供は、自然から抜け出していないからです。エデンの中にいるからです。
 一度出た人間が、孤独感を抱えたまま戻らないといけないのです。
 ですので、一般的な精神世界を通過することは必要だと思うのです。
(私の愛おしい私、私の愛おしい世界(時空))

 人類全体は自由に向かっていると思います。それは孫さんとて同じなのです。
 手放したくても手放せない・・我々はそういうジレンマの中で生きています。
 中国人は中国人で、手放せない何かがあるはずです。私達が神棚を手放せないように・・。
(私の愛おしい私、私の愛おしい世界(時空))

 さて、これを読んでいるあなたは宗教からはフリーですか?
 フリーだと答える人は、自分の見つめ方が足りません。「××のために」「未来のために」・・自分自身が他のものの手段になっているケースがいかに多いか、それを知ったら・・。
 今この瞬間を、この瞬間のためにだけいられる人が、宗教からもフリーです。
(宗教と科学)

 通常、私達は得るために生きています。心の損益計算書はプラスでないといけません。
 しかし、今回の旅行を通じて得たものは、失うことの意味でした。つまり、失うことを知るために行ってきたような気がします。
(得たものと失ったもの)

 人の人生は手段ではありません。同じように、電車による通勤は、手段ではないのです。目的地に向かうための手段ではないのです。
 今、この瞬間を100%生きるということは、通勤時間ですら目的です。
(得たものと失ったもの)

 受け身的な生き方が最も良いという道教。しかし何故か、そこには神がいません。自分が主人公でいながら、受け身的に生きるのです。
(女性)
「仙道修行2000.07(1)」
 私の夢のパノラマショーも、ひょっとすると瞑想時における指の組み方が関係しているのかも知れません。だとすると、世界は指の組み方一つで変わるのかも知れません。
(子連れの導師と共に)

 つまり意識も無意識もどちらも主体ではないのではないかというインフォメーションなのです。
 で、無意識は意識で変わるのです。例えば24時間考え続ければ・・・それを打開するワダチが自動的に出来るのです、きっと・・。
(バックアップ)

 24時間・・を別の表現で言えば「引いていない」ということだと思います。
 その瞬間、瞬間を他に依存していないのです。
(センサーを降ろす)

 意識と無意識は双方向通信をしているのです。当たり前の話のようですが、私にとってはちょっとした発見なのです。
「通信」というからには離れている存在なのです。これも当たり前かも知れませんが・・・。
(意識と無意識は恋人同士)

 ワダチという概念は一見受け身的に見えますが、実は本当に「引いていない」時、つまり主体的な時しかないのです。それはある意味では意識が全てやっていることなのです。
(意識と無意識は恋人同士)

 このような信念を持っていたとすれば、無意識から昇ってきた微弱な信号は消されてしまいます。
 だとすれば・・引いていないという状態は、とても弱い状態なのです。
(弱いほど強い)

 意識は多分、同時には一つの事しか出来ません。しかし、無意識は同時並行処理が可能なのです。
 無意識にセンサーが降ろせる社長は仕事であれ、女の噂であれ、同時並行処理が出来るのです。頭が二つどころの話ではありません。
(同時並行処理)

 老子の里に吹いていた風・・・黄山に吹いていた風・・・西安に吹いていた風・・・大きな松の木に吹いていた風・・・
 思い出すのは風ばかりです。みんな微風なのです。
(風)

 意識はエネルギーが大きいほどスピードは速くなり、無意識はエネルギーが小さいほどスピードは速くなる・・・。
 マスターは、二つの世界が逆に働く作用をうまく利用しているような気がします。
(軽く・・軽く・・風のように・・)
「仙道修行2000.07(2)」
 老子は道徳経を書きました。ただ、それだけなのです。道教の基本姿勢は直接伝授です。
 道徳経はどうでしょうか?あれは間接伝授です。文字を読むことにより、左脳の世界から入ります。ある意味では「なる」世界なのです。
(老子と風)

 私達は科学の世界に生きています。科学は多くの現象を一つに集約させようとします。統一方程式を求めて日夜頑張っています。つまり原理を求めて、一つにさせたいのです。
 宗教とて同じです。中心を求めてやみません。しかし、宇宙の中心はどこでもあります。
(老子と風)

 老子は社会変革を意識していたのではないでしょうか・・。ところがリトンビンにはそういうところがあまり無いと思います。
 自分が楽しければいい・・だから苦行など何になる・・・楽しく生きないで、長生きしてどうする・・そういうスタンスを感じます。
(リトンビンと老子)

 通常男性なら「男性らしい」格好をしているでしょう。オカマなら、通常「オカマらしい」格好をしているでしょう(笑)。それぞれ「らしさ」を追求しています。
 この二人の仙人は、そういう「らしさ」から解放されているのではないでしょうか・・
(仙人と性別)

 個になり切ること・・・そしてリリースして全体と一致する・・・動的一致・・・。
 キリスト教では「人生は一回だから大切に生きよう・・」と言います。仏教では「カルマを解消して輪廻転生の最終段階、すなわち解脱しよう」と言います。しかし・・・
 マスター達は、そういう観念を全く乗り越えているような気がします。
(仙道と芸術)

 リサには3人の子供がいます。一番下は3歳で、いちばん上が7歳です。「子供達が健康で過ごせるように、事故がないように祈るの・・」と言います。これを誰が否定できるでしょうか?
 宇宙は混沌・・為さずして為す・・母親にとってこの老子の言葉は何でしょうか?
(赤い糸)
「仙道修行2000.07(3)」
 神がいたとして我々を作ったとすれば、その以前に戻る修行でした。
 今、まるで私は胎児・・・子宮に浮かんでいて・・そしてもっと前にバックする・・。誕生以前・・それは「生まれてはいない世界」
(洞窟は生まれる前へのタイムトンネル)

 私達は本当に微細になった時、こういうエナジーと遭遇できるのでしょうか・・・。
 強いとは何でしょうか・・・弱いとは何でしょうか・・・
(黄山とエナジー)

 マイナスなことがあっても、それで逆に元気100倍になる旅だったのです。
 それはどうも「修行を第一とは考えない」ことにあるのではないでしょうか。
(トントン)

 不老不死が実現しない最大の理由が、ここにあると思います。私達は過去の経験を、なかなか手放せないのです。無意識からの微弱な信号よりも、過去の経験に従います。
(文爺さんと孔子)

 エネルギーが外に出ると、あなたは損をした感じがするでしょうか?
 やってみると分かりますが、エネルギーを外に出すというのは気持ちの良いことなのです。
(指)

 私はリトンビンに道教を感じないのです。彼には、仙道なら感じます。
 老子はイデオロギー的であり少し不自由、しかしリトンビンは自由・・・。そんな感じです。
(開発委員会)
「昔はこんな道は無かった・・」と導師は嘆きました。  でも、あのとき出現したマスターにそういうものを憂う表情は見当たりませんでした。それをも楽しむような表情で消えていきました。 (開発委員会)
「仙道修行2000.07(4)」
 集中すると、その情報の到達距離(あるいは情報を集められる距離)は、せいぜい100メートルです。
 分散すれば、地球の裏側までも・・・時空の彼方までも・・・どこまでも・・・
(集中と分布)

 点と点との通信を考えると、両者は離れていると意識されます。しかし分布していると、それは離れていると言えるのでしょうか?  離れているとも言え、離れていないとも言えるのです。
(集中と分布)

 あの松林で感じたエネルギーは、ただ単にマッチングがとれただけなのかも知れません。
 マッチングがとれれば、微弱なエナジーでも、あれほど大きく感じてしまうのです。
(松ぼっくりの感じ・・・マッチング)

 自分から気が出ないのは、気が少ないからだと思っている人はいないでしょうか?
 しかし、無線の世界でも、50ワットを100ワットにしても大したことはないのです。要はマッチングにあるのです。
(松ぼっくりの感じ・・・マッチング)

 しかしこの時やることは、気とかエナジーを出すことではなく、時空とマッチングをとることです。
 それは時間系へのマッチングであり、ゼロのポイントへのマッチングであります。
 仙人仙女は、単にこれをしているだけ・・そういう気がします。
(水の上を歩くマスター)

 共振すると(マッチングすると)、電圧が最大の時電流はゼロになり、電圧がゼロの時に電流は何と最大になるのです。反転現象のようなことが起こります。
(マッチングがとれた時)

 陰と陽のように、波動にはペアがありそうです。我々はその一方しか知らないのかも知れません。
(マッチングがとれた時)

 つまり、流れてなんか、いないのです。  発電所から電気が送られてくると言っても、電子が送られてくるわけではないのです。
 行ったり来たりするだけ・・・つまり振動しているだけなのです。
(波動の不思議)

 気を出すと言いますよね。本当ですか?  以上のことから言えば、気など出ていないのではないですか?気が波動だとすれば・・・
(波動の不思議)

 超常現象を否定する人達は、××の法則に反すると言います。しかし、その法則は特殊な条件下で成り立っている可能性の方が大きいのです。
 世の中の法則は、自由度を増す方向に進化しました。そしてこれからもそうあり続けると思いませんか?
(物理方程式の自由度)

 いえ・・でも、道教にも「苦労」とか「苦行」とか「我慢」はあります。ただ、それを「売り」にしていないのです。無為自然だから苦労をしない、努力をしない、というのは間違いなのです。
(無意識を解き放つ)

 さて、情念や欲望はどうでしょうか?情念や欲望は、もしかすると瞬間ではないのです。
 それ絵に描いて、未来から過去に流そうとしているのではないでしょうか・・・。
(無意識を解き放つ)

 では、解き放つとはどういうことでしょうか・・・。それは、まるで分布定数回路なのです。分布定数回路を時間系に張るのです。そしてそれに乗せて、欲望を時間系に解き放つのです。すると昇華します。
(欲望の昇華)
「仙道修行2000.07(5)」
「ポジティブに生きなさい」と精神世界では言いますが、道教・仙道の世界でこの単語はありません。
「何があってもそれは意味のある事なのです」ともいいますが、「意味」という単語は、道教では、最も忌み嫌う(笑)ものです。
(道教にポジティブは無い)

 目標を持つとき、人は何もしてはいないのです。目標を持たないとき、人は最大限の事をしています。これが両者の相違です。
 ××になろうと思った時、瞬間その状態の流れの中に入っていなければ、それは目標になるのです。為して為すの世界に入るのです。
(本当の「為さず」とは・・・)

 保険に話を戻しましょう。保険とは何でしょうか・・・。
 保険とはゼロの人生を生きるためのものなのです。これは、意外ですか?
(導師は保険に入るか)

 たった一回でも事故に遭うと、大変な負けになります。
 彼は毎日毎日、その賭けに勝ち続けないといけないのです。
 保険に入っている人は、毎日毎日、賭けに勝つことが、イコール負けることなのです。
(導師は保険に入るか)

 肌色部屋では男女関係についての話が出ていますが、人は愛し合うほど孤独に直面するのではないかというのが私の考えです。
 同様に、人は創造的になるほど孤独に直面するとのではないかと思います。
(孤独と自由)

 孤独感を背負った人間が時間軸で帰ってくる・・・なんて、すごいのでしょうか・・・。
 そういう意味では、リリースでいいのです。だって戻ってくるのですから・・・
 でも、この循環は「螺旋」とも考えられます。成長と帰還は同時に起こるからです。回転をしながら進むイメージです。
(ちょっとした飛躍)

 高次元の存在が立体次元に乗ることは、出来ないのかも知れません。しかし逆に、この三次元にはあらゆる領域の情報が降ってきます。それがまた、楽しいところです。
 そして私達も立体次元に乗り、あらゆるところにアクセス可能なのです。
(立体的天人合一)

 リリースは、解き放つことです。すると無意識の領域に入ります。
 立体的次元に放り込むと、それはオートマチックで運転してくれます。
 その時、私達は周りの景色を楽しむだけでよいのです。
(立体的天人合一)

 電話線の切り口に住んでいると言うことは、どこにでも情報を送れる、あるいは共有できるという事です。
 そしてこれが最も大事だと思うのですが・・マスターの指先に集まるエナジー、そして指から発射されるエナジー、その両方ともが「場」なのだということです。
(風を感じて・・その微細な感覚と躍動感)

 気を入れる方が大事でしょうか?私は気を抜く方が大事だとさえ思います。人は普通、気を入れ過ぎてしまっています。
 マッチングをとれば良いのです。すると相互にエナジーの循環が起こります。
(風を感じて・・その微細な感覚と躍動感)

 仙人仙女の波動は、微細でした。決して大きなエネルギーではありません。
 しかし躍動感はあるのです。生の躍動感・・・。これはフォーカスの上部の存在達には無かったものです。
(風を感じて・・その微細な感覚と躍動感)

 導師が天人合一の四隅に「無限」「無止」「無境」「無容」と書きなさいと言いました。
 それはマスターの世界は、あの番号の外側だからかも知れません。外側を通って、私達の世界に戻ってくる経路・・。
(風を感じて・・その微細な感覚と躍動感)
「孫さん来日1999.09」
 今、中国は無神論になりつつあるといいます。それではトータルな解明は出来ないということです。
 トータルであること・・。これが最も大切だといいます。それは個人でもそうだといいます。トータルであること・・。
(孫さん来日)

 原始のスープは、公転と時点の回転を加えればよかったのです。止まれば生命も止まる・・動けば生命は活動を開始します。まさに動的・・。
 動的にリリースするとき、我々は最も「生きる」のかも知れません。
(神坂氏の実験)

 孫さんが「自分自身に嫌いなところはありません」と言った時、場内から拍手が出ました。あれが一つの盛り上がりだったと思います。
(本日の講演)

 私がシンクロニシティが嫌いなのは、ここに理由があります。導かれていると解釈すれば、いくらでも可能です。しかしそれは、本人が解釈すべきではないと思います。
(講演中にふと感じたこと)

 好きな人がいても自分のものにならないと、それを理由に相手を悪く言うことがあります。運命が思うようにならないと、それを理由にしたかった事を悪く言うことがあります。
 これって、ひょっとすると逆シンクロニシティかも知れませんね。
(報告)

 2日前に出たお猿さんとブドウの話ですが、出来事を良い風に解釈するのは、今までは「ポジティブ」だと言われてきました。
 ポジティブという単語には、どこかに「なる」を感じさせます。本来は意味付けをせずに自然に任せるのが良いのでしょう。
(孫さんへの質問2)

 ある結論に対して別の方面からの見方を加えたとき、その整合性が取れなければ、出した結論はペンディングとなります。私の今の状態はペンディング状態です。
 理由は、生活の中で、特殊な事をしないで「悟る」ことをしたいという前提があるからです。
(整合性)

 私達は、何か「言葉」を求めます。しかし、無いものは無いのです。これはとても重要です。無いものは無い・・・。
 孫さんは何故、ここまで感覚に忠実でいられるのでしょうか?普通なら、「そうですね・・××です」と答えるでしょう。
(無いものは無い)

 今回の来日で、私は孫さんとの間にあった一線を越えることが出来たと思います。
 つまり今までは「あっ、森田さんが見ている」という状態だったのが、私がいてもいなくても関係なくなったのです。だからどんどん超能力をやるようになりました。
(今回の日本の最後の日)

 リリースということを身をもって教えてくれたのは、孫さんかも知れません。
 まだ飽きもせず孫さんなのかと言ってくる人がいますが、蘇生を上回る超能力があるのでしょうか?
(総括編)

 孫さん、あなたにはなぜ蘇生能力が付いたのでしょう。超能力に秀でた人は人格が落ちるものですが、あなたは逆です。本も読まないのに自信を持って生きるその姿には、誰もが感動します。
(総括編)

「孫さんの念写写真」
 さらに、彼女は蘇生超能力者です。蘇生はフォーカス27を越えた実存領域にアクセスしているというのが、私の仮説です。だとすれば、彼女が写す2のバージョンの写真には、フォーカス27を越えた存在が出る可能性があります。
(予告)

 三次元に住んでいるのに、孫さんという人は計り知れないと思います。孫さんは相手がどんな存在であろうとも、常に愛を持って接しているのです。
 私と孫さんの大きな違いは、恐怖心です。私はまだまだ恐れとか恐怖心があるのです。
(ビヨンド35を念写する)

 彼らが愛しなさいと言うのは、自分達が愛されたいから言うのかも知れないと思いました。どんな高次元の存在も三次元の私達と平等であり、お友達になるべき存在なのです。
(ビヨンド35を念写する)

 彼女はイメージを自ら創り出すタイプではないのです。ある意味では先入観に対して、とてもクリーンです。
(文字の念写)

 私がなぜ不思議研をやっているかというと、自分の中の既成概念を壊したいという気持ちがあるからです。学校や本でインプットされたガチガチの既成概念を壊したいのです。
 今、孫さんのやっている念写は、まさにその材料を提供してくれています。
(文字の念写)

 本当に暖かい存在は自ら眩しい光は放たないというのが、ビヨンド35で得た仮説です。
(時空の天使1)

 何を試されたかと言えば、どれだけ私が常識に縛られないかを試されていたのだと思います。道教には非常識とも言えるところがたくさんあるからです。
 孫さんとも試し試され・・です。新しい現象が起こるたびに、それは行われます。
(試されている私達)

 この三次元の世界は、流入口であり、流出口だと思います。あらゆる次元に対してです。
 孫さんには五人のマスターがいますが、いずれもマスター相互のコンタクトはありません。孫さんを通じてでしか出来ないのです。
 つまり、この次元は全ての次元の通路なのです・・。
(片桐さんのメールを読み)

 精神世界でも使命志向型が多いと思います。人類をよりよい方向に持っていこうとする使命を持っている人が多いからです。
 何故それがいけないのか、それはそこに正義が存在するからです。指向すべき使命は、正義だからです。
(好奇心駆動型と使命志向型)

 同じように、自分を変えようとか進歩させようとかいうビジョンを持ったら、自分は飛べるのでしょうか?ビジョンは全てでしょうか?
 私にはビジョンが無くなったとき、その人の本当のビジョンに生きることが出来ると思うのです。
(ビジョン)

 さて、私は何を伝えようとしているのでしょうか??私は教育によって築かれた世界観を崩すのが楽しくてしようがありません。
「おお、世界は、こうも広かったんだ」という喜びに出会えるからです。それは、これでもか、これでもか・・とやってきます。
(私の社会性)

 孫さんによって死から生に変更させられるとき、それは全く別の肉体として蘇生されている可能性があるのです。
(遺伝子)

 しかし、精神世界というジャンルが何故あるのか、私には不思議でしようがありません。  肉体世界とか物質世界とかが無いように、本当は精神世界も無いのです。  あらゆるジャンルは精神世界だと思うからです。 (科学者か哲学者か)
「孫さん来日2000.4」
 人は、生まれてからこれまでの全ての風景を潜在意識に記憶しているといいます。顕在意識側はわざと忘れているのだそうです。忘れないと、やっていられないのだそうです。
(松の念写)

 テレパシーは三次元の顕在領域の通信ではなく、潜在意識側の通信なのだと思います。
 テレパシーを受けることにより、潜在領域のある領域が刺激され、何らかの理由で顕在側に表出するのではないでしょうか?
(テレパシーの記憶)

 人間が死ぬのは、全てを忘れることが出来ないからかも知れません。死んで記憶をクリアーされ、また新しい生で生きないと、新しい環境に適応できないのです。
(人は忘れる方向に進化している)

 日本の経営も、ある結論に迫ります。結論を出さなきゃ行動しようがないからです。
 しかし、それをシステム的だと私が呼ぶのは・・まず「混沌」とは結論を出さないことではないと思うのです。
 情報を「置いておく」ことだと思うのです。情報を切り捨てないのです。
(システム思考)

 上の実験は、書き換えているのではなく、新たな事象を潜在意識に経験させているのではないでしょうか?
「潜在意識に経験させる」という単語を使った通り、「させる」主人公は顕在意識です。
 これが本当ならば、潜在意識側に手を付けることは可能なのです。
(潜在意識は書き換え可能か?)

 しかし潜在意識が神だとすれば、それは母的存在に変わりそうです。
 この視点からすれば、ハンドルを手放すことは、神と一致することなのです。
 どちらの神を考えるかで、生き方は逆転します。
(神)

 100匹目の猿現象は、集合無意識の為せる業なのでしょうか?
 だとすれば101匹目の猿は、集合無意識によって変えられたことになります。
 シェルドレイクの仮説実験でも同じです。
(他の惑星からの書き換えと、100匹目の猿)

 彼女にとっても意識される風景は、概略的であり、気分的なのです。
 しかし潜在意識は、現物を見た時の彼女の視点に関わらず、全てを記録していたのです。
 思い出した時(念写したとき)ですら、彼女は全てを思い出していないのです。
 しかし、フィルムには全てが出ていました。
 念写は、潜在意識を写す行為だと・・やはり・・思いました。
(潜在意識はアウトプットのみか?)

 ひょっとすると、孫さんの「気持ちが良かった」という感情に影響されて、潜在意識のシャッターが切られたのかも知れない・・・という仮説もアリのような気がします。
 つまり、潜在意識は、のべつまくなしに記録してはいない・・と。
(潜在意識は部分記録しかしていないのではないか?)

 つまり人は、瞬間にはリリース状態(魂が外を向いている状態)か、非リリース状態(魂が内に向いている状態)の二種類しかないと思っています。
 まるでスイッチのようにON/OFFをパチン、パチンと・・・中間段階が無いのです。
(グラデーション)

 つまり、ある時間の幅をとると、リリース度××%なんていう具合になると思うのです。
 私はそれがその人の「自由度」あるいは「成長度」ではないかと思ったりもしています。
(グラデーション)
「孫さんと自由旅行」
 私は「課題」と書きました。しかし「課題は課せられた題目です。目標になります」と孫さんまでが言い出す始末・・。
 そうなのです。「仮想」なのです。仮の想い・・・なんか、好きです。
(次の段階への研究仮想)

 きっと彼らもいまだ問い続けているのではないでしょうか・・・
 暖かい友達関係だということは、一方的な関係ではないのでょう。
 マスターも孫さんからたくさんの事を学んでいるに違いありません。
(ざるで水をすくう)

 よく言われることですが、「森田さんは超能力者と一緒にいるから、何かの能力がついたでしょう。何が出来るのですか?」・・・と。
「何も出来ません」と答えます。
 でも、私はこういうことにかけては、とても受け身的なのです。
(天目)

 しかし孫さんの「天目」は、イメージ力とパワー送りを変えたのでした。
 両方とも必要ないのです。なぜかと言えば、天目に写る画像に手を加えれば良いのです。まるでコンピュータグラフィックの作成のようです。
(天目)

 そして年月が経ち、私はその場の感情に乗れるようになりました。
 何故そうなったかと言うと、私は私の生き方を振り返らなくなったからです。
 感情のおもむくままに生きることが出来るようになったからです。
(感情)

 さて、私達の天目は五歳の頃まではみんな開いていると言いました。孫さんはそれが何故か閉じなかっただけだと言いました。
 それは、子供心をそのまま残しているとも言えそうです。
(ダイヤモンドゲームの勝敗と超能力は反比例する)

 超能力者は無邪気な子供に近いのです。社会的視点から見た人格など、彼らにあったらおかしいのです。だから天目が閉じなかったのです。
(ダイヤモンドゲームの勝敗と超能力は反比例する)

 超能力者でここまで楽しく生きる人は、いるんだろうかと思います。
 どんなに能力があっても・・・どんなに人格が高くても・・・どんなに立派な意見を言っても・・・
(どんなに・・・・)

 私は不思議研究所の所長で超能力の研究をやっているのですが、その一面から孫さんを見ると、「なろう」の部分から見てしまうのではないでしょうか?  その「なろう」は、人格の部分かも知れません。
 でも人が人に惚れるのは、非人格の部分のような気がしてなりません。
(空を飛ぶ夢)

 私と孫さんは、完璧に対等です。誰だってそうです。
 しかし私には天目の映像がありません。それだけ不利でしょうか?
 でも、私も孫さんも、唯一無二の人生を生きているとすれば・・・
(孫さんの天目は怖いか?)

 孫さんという人は、宇宙全体が友達なのです。
 それも私たちが思っている宇宙よりもずっとずっと大きな宇宙・・。
(貸別荘にて)
「孫さんセミナー2005.07」
 孫さんはおそらく、主観的なものとして感じていないのです。
 花を美しいと思えば、孫さんは花の中に入ってしまうのです。「自己」が感じているわけではないのです。
(道教的)

 自由に質問することも、自由に食べに行くことも許されません。
 ここまで人をロボットのように扱ってよいものでしょうか・・
 しかし・・参加者には「自己」など、無いのです(笑)。
 セミナーにおいて、私が参加者の「外側」であり、「原因の世界」です。
(道教的)

 一般的に私達は、周囲に気を遣うように教育されています。しかしどんなに気を遣っても、豆とコミュケーションすることは出来ません。何か、変ではないでしょうか?
(道教的2)

 エゴだと指摘する生き方のほうが、よほどエゴだと思います。周囲に気を遣って生きるのは、その本人にとって、何かが欲しいからではないでしょうか?
(道教的2)

 自分の能力を自慢する人(自己完結系気功師等)は沢山います。でも磁気黒板に刻印させることが出来る人は、本当に少ないはずです。なぜならそれは、相手の能力を引き出すことにあるからです。
(道教的生き方3・・・私に従う孫さん(笑))

 道教的・・それは「動きの中にある」というのが私の感触です。
(道教的4・・・区切りがないこと)

 確かに蘇生セミナーでは芽が出ませんでした。しかし道教的に言えば、それがどうしたというのでしょうか・・。
 切れ目がないのに、成功した、失敗したと言えるのでしょうか・・。
(道教的4・・・区切りがないこと)

 孫さんの瞑想は、無になって自己の内部に入る瞑想ではありません。常に何かを行っていないといけません。一言で言えば「動的」なのです。
 反対に仏教は「静的」だと思います。例えば、仏像には静寂な世界を感じます。
(仏教と道教・・そのフィーリングの違い)

 磁気反応は、取れるときに、取る。手ながエビも、食べるときに、食べる(笑)。
 これらは全て、道教的だと思います。
(道教的・・三人まとめて磁気刻印)

 ゴールを意識する人は、「自力」で出そうとします。だって孫さんに「他力的」に出してもらっても、それは本物のゴールではないからです。
 スタートラインに立てる人は、他力でも充分です。それで孫さんのエネルギーの通過を経験できるからです。
(道教的は他力的)
「二つの神」
 あなたが責任を取るのは、あなたという「理性」が選択をした時だけです。しっかりと未来を「計算」に入れて・・。
 そうでない時、お陰さんはあなたに代わって責任を取るでしょう。もしそうでなければ、私たちは瞬間を生きられません。
(陰さん(かげさん))

 努力をしている時に出会うことはありません。目標に向かっている時にも出会うことはありません。誰でもないあなたになった瞬間、あなたは神と一致します。
(船井総研に行ってきました)

 神は「分離」させました。人間は「合一」させます。  自然は分離しています。男と女、ブラスとマイナス、父なる神と母なる神。
 私たち人間は、それを合一するために存在しているのかも知れません。
(神との遭遇)

 お陰様はむしろ、ルールに反している時、傍にいます。人が地獄に行く時、お陰様は最も近くにいます。地獄を一緒に体験するのが母なる神です。
(お陰様は女性的)

 なぜなら母なる神は言葉を越えています。ルールがない、罰もない、賞賛もない、ただそこには無限の慈悲があります。
 運命を作るのが父なる神だとすれば、運命を受け入れるのは母なる神です。
(お陰様は女性的)

 人間は「自由を獲得したいという欲求」と同程度の「自由から逃げたい」という欲求があるのではないかと思います。自由ほど怖いものはないかも知れません。自由がなければ自殺なんてないかも知れません。
(エクスタシー)

 幸福になるには対象が必要だと思っていました。しかし対象も何もないのに受ける幸福感もあるのだと知りました。これは究極のオナニーかも知れません。
 宗教でもなく、ドラッグでもなく・・です。
(エクスタシー)

「自由」がひとりでに行動を起こし、「自由」がひとりでに選択し、何の責任も残らない。
 この「何の責任も残らない」というのがキメ手です。選択と未来と責任は、セットになっています。
(責任)

 三次元で努力し、五次元で無努力でいくためには、プラス六次元の強い神と、マイナス六次元のお陰様の、両方が必要なのです。
 一人の人間の中には、男性的要素と女性的要素があります。その両面を満たす必要もあるのです。
(両面・・二つの神)

 この世で苦しんでいる人の元にも、彼女はいます。その人が泣いている時は、一緒に泣いています。だって、彼女にはそれしか出来ないのですから・・。男性神のようなパワーを与えられてはいないのですから・・。
(お陰様)

 お陰様は元のエネルギーが小さいですから、ほんの少しエネルギーを与えるだけで良いのです。それだけで彼女はとても嬉しくなってしまうのです。
 そして救われない人が瞬間を生きているとき、フッと入り込むのです。
(成長)

 宗教によって神が違います。それはフォーカスの上部にいる神の違いのような気がします。どこかで定義できるのです。分かりやすいのです。言葉に出来るのです。
 しかし世界が誰も定義できなかったもの、それがお陰様のような気がします。
(未完の意見)

 ひょっとすると、私達の前世はユミット星だったのかも知れません。そして「今度は、善も悪もある地球という星で、もっと素晴らしい体験をしたい」と言って来たのかもしれません。どちらが「優良星」でしょうか?
(宇宙人ユミット)

 意志や人格はエゴになるはずです。しかし神はエゴではないと思います。
 神は自分自身を定義できないはずです。どこにも自我という線を引けない。なぜなら全体は、おそらく∞だから。
(陽の神様)

 しかし、本当の自分という響きには甘美なものがあるでしょう。誰にも侵略されていない、本当の自分・・。
 それがねぇ、たぶん逆なんですよ。本当の自分は、本来のエゴとしての自分を失った時・・。
(真面目な話)

 一般的に言われているような「善人」にはなっていないと思います。むしろ「悪人」に近づいているのではないでしょうか。
 おそらくそれは、私が自分の欠点を100%認める人間になったからです。
(私のエゴ)

 しかし本当はデセンションしなければならないのではないでしょうか。
 悪魔の次元にまで降りて、神と融合させなければならないのではないでしょうか。
 お陰様は悪魔ととても仲がいい、そう思えて仕方がありません。
(悪魔)

 あなたが瞬間に行う行為の中には、神も悪魔も善も悪も陰も陽も全てが入っているのです。だから善だけを選択しようとすると、悪が罪悪感となり、ストレスを発生させるのです。選択をするという行為の中には、もはや、自由なあなたはありません。
(悪魔)

 人は長いこと連続性とかアイデンティティとかを重要視し過ぎました。そういうものは、過去との繋がりです。昨日と今日で、正反対のことを言ってもいいんです。
(選択と自由)

 ある人を「私のもの」と考える限り、失ったときの悲しみが大きいのでしょう。私のものと考えなければ解放されます。
 人は誰のものにもなることは出来ません。親子関係しかり、結婚しかり・・。
(成長の予感以来)

 フォーカス35に至るまで私が仮に「陽の世界」と名付けた領域では、全てエゴが残ります。私達は死んでもエゴからは解放されません。
 だから、だから、エゴを否定しない方法があるんじゃないかと・・ふと思ったのです。
(成長の予感以来)

 私たち人間はなぜ知性を持っているのかということです。なぜ科学を持っているかということです。これらは既に悟った人達のほとんどが否定している要素です。
 しかし彼らより我々現代人の方が自由だと思ったのです。
(とんでもない欲望)

 エデンから出続けるとはどういうことかと言うと、人間として完成し続けているのです。つまりそこから一歩出たから終わりではないのです。
 それは子供がお母さんから生まれ出てから、死ぬまで成長し続けるのと同じです。
(エデンからの脱出)

 明治維新によって、日本人は士農工商というエデンから一歩外に出たのです。
 こうやって、歴史はエデンから遠ざかる方向に進化します。これは良いことなのです。
(エデンからの脱出)

 私はカップルがうまくいくかどうかは、孤独の度合いが同じかどうかにかかっているのではないかと思います。
 一方が孤独感が多く一方が少ないのは、問題が多いのです。人は自分ようにしか相手を愛せないからです。
(エデンの園からの脱出2)

 時間というものが存在する意識の次元から、再び瞬間に戻るのです。すると瞬間の状態が変わっている・・。そう、フィードバックのようなものです。
(気づいた予感)

 しかし、やはり外側なのです。外側に心を開くことなのです。内側じゃない、外側です、あくまでも。外側に心を開いた時、「私」がここにあってはいけません。「私」は対象物の中にあります。
(気づいた予感)

「あること」を認めてしまうと、権力側にとって不利になるからだという論旨もありますが、私は人間が自ら「あること」を捨てたいのではないかと思えてなりません。
(社会使命と正義)

 それに殺人が悪だとするのは、正義感に他ならないと思います。正義感の方がよっぽど悪だと思います。正義感は自分が正直になることを阻みます。だから法律をなくせば、世の中は良くなると思います。
(善悪の基準)

 究極の自由と究極の逃避は、形態はほとんど同じだと思います。
 ブッダとキリストは究極の自由を説きました(と思います)が、その方法が究極の逃避に似ているため、後世の宗教組織では、逃避側に傾いたのではないでしょうか・・。
(自由からの逃避)

 他人の視点がなければエゴは出てこないというのが私の考えです。だけどあなた自身であることには代わりありません。無人島だろうが社会の中だろうが、あなたはあなたです。
 だとすれば、エゴは観念として創造されたもの考えることが出来るのではないでしょうか。
(エゴ)

 光には始まりと終わりがあり、闇は永遠だったのです。光は存在、闇は非存在です。
 私達はいつも存在していたいと思う、だから光を求めている。光がエゴだった・・。
(光と闇)

 科学的な悟り方・・そういうものがあるような気がしてなりません。
 六次元サイドを宗教的悟りだと名付け、知性サイドを科学的悟りと名付ければ、この二つの悟りが融合しない限り、地球は分裂してしまうのではないでしょうか・・。
(二つの悟りの融合)

 生きているうちは、全てが経過です。だから理解したと思った瞬間、それは過去のものとなります。過去は死んでいます。
(私の精一杯)

 今、私は悩んでいます。ずっと一つの命題を・・悩んで悩んで悩み通しています。
 しかし震えるくらいに面白いです。何故でしょうか?理由は一つ、前人未踏の地だからです。
(私の精一杯)

 昔、全てが「悟って」いれば、なぜ歴史という時間の流れが必要なのでしょうか?あの時点で歴史は終わっていてもいいはずです。
 何かが不完全だから、こうして物質として残っているのではないでしょうか?
(仏陀・キリストを超えた悟り)

 家庭を捨てて、一方では茨の道を歩いて悟ったノウハウは、ごく普通の私達には分からないというわけです。
 本当の悟りは、ごく普通の生活で起こるものだと思います。
(仏陀・キリストを超えた悟り)

 しかし神から人格が無くなると、私たちは根底で繋がっている方に、より焦点が当てられると思います。この場合、宇宙に存在理由はなくなり、目的もなくなるはずです。目的がなくなると瞬間に生きることが可能になり、愛も生まれるわけです。自動的に・・。
(距離の差)

 本当の悟り、あるいは自分の存在理由は、普通の生活の中でこそ分かるのかも知れないと思いました。難しい知識など要らないのです、きっと・・。
(自分の存在理由)

 何故かと言うと、人は常に融合した状態ではあり得ないのです。『不思議の科学』の一図には「ダイナミック」という言葉が書かれていると思いますが、まさに人は、ダイナミックにしか融合できないのです。
(孤独感)

 戻ることは出来ます。逃避的な方法で自己を忘れればいいのです。それが嫌なら、前に進むしかありません。
 前に進むこと・・それは自発的な行為の中にしか自然と一体になる方法はないと思ったのです。今でもそれは変わりません。
(私がエデンから出たのは高校2年)

 時空が無限なら、私は死ぬまで無限に前進したい。生きるということは、静的ではなく、動的だと思うのです。
 一度悟ってENDではなく、悟り続けること・・変化の中で生を楽しむこと・・。
(私がエデンから出たのは高校2年)
「逃避と成長」
 私は、成長は悪魔が作り、逃避は神が作ったのではないかと思います。
 だから、逃避を持ってして、神を引きずり出したいのです。
 逃避の構造は神の構造かも知れないので、しっかりと見つめてみたいと思うのです。
(逃避の現象)

 人間関係で丸く収めようとする人が、真実の追究を出来るものでしょうか?
 丸く収めようとすることは、私にとっては逃避としか思えないのです。
(勝ち続けるということ)

 本当のプライドがある人は、城壁は要らないのかも知れません。
 ですから、プライドには逃避もあれば成長もあると思うのです。
 本当のプライドとは、弱さをそのまま出せる人かも知れません。
(本当のプライドと嘘のプライド)

 原始時代と現代は、場が変わっただけではないでしょうか?だとすると、何も成長してはいない・・。
 人間が360度の可能性を持つのなら、それを成長と言うのなら、一般的な意味での成長・・すなわち、短所を減らし長所を伸ばすというのは、成長の逆ではないでしょうか?
(成長とは何か)

 パーフェクトからパーフェクトに向かう必要は、あるのでしょうか?
 神は完全だという考え方があります。我々は神であることを忘れているので、不完全だと言われます。
(パーフェクト)

 生まれ変わる瞬間のリセット・クリアーの目的は、「記憶を消すこと」ではなく「価値観を消すこと」ではないかというインスピレーションが湧きました。
(リセット・クリアー)

 この実験は、「誉めるという行為は、被験者の自由度を狭くする」と言っているようです。
 さらに、社会の価値観は、我々の自由度を減らしていると言えそうです。
(下條さんの実験)

 私は「愛」が「殺人」を作り出しているとも言えると思うのです。なぜなら、目標が作られたとたん、それはエゴになるからです。
(この世に「成長」はあるのでしょうか?)

 つまり何をしても「マイナス」なのです。  何故かと言うと、何をしてもその結果としてそこに「価値観」というタマネギの皮を付与するだけだからです。「愛は価値がある」という価値観も、タマネギの皮です。
(この世に成長はない)

「リセットクリアーが最大の成長だ」と書いたのは、これが理由です。
 私達は一生かかってマイナスになり(さらにくどいですが普通のマイナスではありません)、リセットクリアーでゼロになるのです。
(この世に成長はない)

 でも、何をしてもマイナスだと思った時、なんか楽になりませんか?私は楽になりました。
 何故か言うと、私はずっとプラスのものを求め、追求してきたからです。最大値はプラスではなく、ゼロだったのです。
(この世に成長はない)

 私達はマイナスという保険がないと、生きていけなくなっているのです。
 エデンからこんなに出たからには、逃避をしないとやっていけないのです。
 ですから逃避は神が作ったとさえ、言えます。
(成長という要素があるのではないかという幻想のもと、歴史はマイナスに振れている)

 我々がした方が良いのは、それをマイナスだと認識することだと思います。成長などないということを認識することです。胎児が最良の状態だったことを認識することです。
(成長という要素があるのではないかという幻想のもと、歴史はマイナスに振れている)

 宇宙は片寄った成長はしていないのです。これを成長と呼べるでしょうか?
 成長とは、ある一方の価値観に向かっていくことを言っている場合が多いからです。
(無から空へ)

 それは価値観をゼロにすることではないでしょうか?価値観をゼロにするためには、成長という概念はあってはならないのです。成長という概念には、突出するものが必要だからです。
(無から空へ)

 ゼロからゼロへの移行を行っているのが宇宙そのものなのかも知れません。
 それが我々の目から見ると、パーフェクトからパーフェクトへの移行をしているように見えるのです。
(無から空へ)

 私はリミットを突破できません。突破したことなど、ないのです。私は、私のレールから、逃れられないのです。私は道を外れることが出来ません。
(神も限界を生きている )

 私やあなた達は、いつも限界を生きています。これ以上の生き方が出来ないのです。
 だから神だって、いつも限界を生きているのです。
 お互いに限界を生きているのに、何を神に期待できるでしょう・・。
(神も限界を生きている)

 人はレールから外れることが出来ない・・
 これは何故かというと、逃避の限界という場所に生きているからです。
「ああ、これ以上逃避できない。これ以上逃避すると私はダメになってしまう・・」
 人は常にこういう状態なのです。
(三次元の肉体は不自由か?)

 私達の精神の方が、よっぽど不自由なのです。言い換えれば、精神が肉体を制限しているのです。精神が変われば、肉体も変わるでしょう。
(三次元の肉体は不自由か?)

 限界を突破する方法を一言で言えば、エゴに徹する瞬間をそのまま維持するのです。
(限界突破)

 相手の道理が100%通っている時、怒れるかどうかが分かれ道だと思います。
 それはエゴでしかないのです。だから価値があると思います。
(限界突破)

 社会のルールが消え、自分のエゴがパックリと顔を出す瞬間があると思うのです。その瞬間を捉えることです。そしてそれを社会のルールで否定しないことです。
 この瞬間を、私は成長と呼んでいます。つまり一般的な成長の概念とは反対なのです。エゴというマイナス感情を抑えることが、逆に逃避なのです。
(限界突破)

 普通、エゴは否定されます。でも、人間に備わっているものは何であれ神からの贈り物であり、不要な物は何一つないと思いませんか?
 神を信じるということは、自分自身を信じることだと思いませんか?
 自分自身を信じるということは、エゴも含む、すべてを信じることだと思いませんか?
(一瞬ですべて無くなる)

 成長意識というのは、どこかで恐怖心を作ります。その恐怖心がエゴを作るのです。
 成長意識が少なくなり、本来の自分に帰るということは、なんて気持ちが良いことでしょうか・・。
 この気持ちの良さというのは、結果的に見ればやはり成長だと思うのです。
(あるがままで完全)

 さて、誰もが「このままで良い」と思うと、世界は平和でなくなるのでしょうか?
 私は逆だと思います。
「自分を変えたい欲求」と「世界を変えたい欲求」が争いを引き起こすのだと思います。
(あるがままで完全)

 私達の価値観から分離が消えたとき、向こう側の世界の分離も消えるのではないでしょうか?それが本当の成長ではないでしょうか?
(反転)

 何を言いたいかと言えば、過程が大事だと言うことです。でも、過程は常に「不完全」です。
 神はパーフェクト?いえ、神こそアン・パーフェクトなのかも知れません。
 神が不完全なのに、人間がどうして完全になれましょう・・。
(次なる考察)

 自分の感覚を信じる時、そこには外部の価値観の侵入が無いような気がします。ある意味、殺人と愛が同等になるのです。
(私の成長)

 ひょっとすると、高次元は悪で、この三次元は善かも知れません。高次元は悪で、この三次元は善だから、Hバンドが存在しているのかも知れません。
(悪は悪か?)

 でも人は本当は、やりたい事をやりたくないのではないでしょうか?
「やりたい」などと言うのは、嘘です。本当にやりたければ、もうやっているはずです。
 悪というものが出てきたのは、自分がされたくないからではなく、自分が本当はしたいのに、したくないからではないでしょうか・・・
(したい事の善悪)

 私達の人間性のようなものは、大昔から変わっていないのです。だったら、歴史の意味はないじゃん・・と思うかも知れません。
 しかし・・しかしです。人間性の要素は変わっていなくても、中心からの距離が増えているのではないかと思うのです。
(ルーシュ)

 神が欲しているのは、おそらくエネルギーの循環なのです。
 だから怒りでも憎しみでも良いのです。愛と同等なのです。循環さえすれば良いのです。
(ルーシュ)

 ある事柄が善か悪かは、時空の始めから終わりまでを見てみないと分かりません。
 それが状態という意味でしょう。一時悪であった事が、ある時善に変わるのです。
 それが循環を起こし、生命エネルギーを生みます。
(生命と愛)

 私達はリスクが大きい方に進化しているのです。でも、生命の進化から見れば当然です。
 我々の肉体が死のうが生きようが交換とか循環がキーだとすれば、死ぬことくらい屁のカッパなのです。
(生命と愛)

 全方向?善のみではないのです。悪のみでもないのです。愛のみでもないのです。憎しみのみでもないのです。
 全方向・・そうです。可能性を、そのまま拡大しているのです。
(生きること)

 愛を○とし、嫉妬を●とした場合、愛だけでは透明にはなりません。透明になるためには、全ての価値が必要なのです。
 全体が拡大するのは、このためです。神は透明なまま、拡大を続けているのです。
(プリズムの光)

 でも、プリズムの概念だったらどうでしょうか?
 光源はこちら側です。分光した先は、向こう側です。
 そして向こうはフォーカスの色別になります。これでも話は合うような感じなのです。
(プリズムの光)

 しかし自然から離れれば離れるほど、魂の自由度は広がっているはずです。出てきた自然を、まるで対極のように考えることも出来ます。すると、自分自身の中に自然を感じることが出来ます。
(ボーダレス)

 すべては自分に内在すると思った瞬間、外界のものは対等になるのではないでしょうか?許す心、慈悲の心・・これかも知れません。
(ボーダレス)

 エデンから離れつつあるのは、エデンを対極として知るためにあるのです。対極としての内在化をするためにあるのです。そのまま戻るために、エデンはあるのではないのです。
 成長を内在化させるためには逃避が必要なのです。
(不老不死)
「この世とあの世」
 私の考えでは、ガイドは、「外側」にはならないのではないかと思うのです。ここでいう「外側」とは、運命を変えることが出来るという意味です。
 だって私や「先駆者達」を見て、「体脱して、だからどうした?」と思いませんか?(笑)
(体脱は運命を好転させるか)

 彼らはエネルギー体ということですが、通常私達の世界にあるエネルギーとは違います。
 私達の世界にあるエネルギーは物質に変わることが出来ます。
 しかし彼らのエネルギーは、物質に変わることは出来ないような気がします。
(肉体を持たない存在に、運命変更は可能なのでしょうか)

 彼らは私達の内面に語りかけてきて、「変わりなさい」とか言います。しかし内面を変えて運命が変わることはありません。
 肉体を持つ私達は「結果」ですが、それでも置物を動かし、まるでチェスのように運命を変更することが出来ます。
(肉体を持たない存在に、運命変更は可能なのでしょうか)

 つまり食欲、性欲、睡眠欲は全て満たされていると思います。欲が無ければ、運も無いと思いませんか?
 ということは、運命変更の必要など無いのだと思います。そういう思考すら浮かばないと思います。
(なぜ肉体がないと運命変更できないのか?)

 これらの理由だけで全面否定はしたくないですが、それでもあの世での運命変更は、可能性としては非常に低そうです。
 と言うことは、死んでから生まれるまでは、ワダチのままなんですね・・。
(なぜ肉体がないと運命変更できないのか?)

 実はその時は気づかなかったのですが、「何でもあり」の状態は、問いで一杯の世界だと思うのです。私は潜在的に、その状態を作り出していたようです。
 何でもあり・・は、ORの状態でもあります。
(何でもあり)

 私が死んで、フォーカス27で放研のようなサークル活動が出来るかも知れません。
 そうだとすれば、問いは360度に渡って広がる可能性もあると思います。
 時空の最初というのは、とんでもなく広い、問いの世界だったろうと思います。
(何でもあり)

 そうなると、あの世にも十二支と五行の変化がある・・・のか?
 信じがたいですが、そうだと思います。なぜなら、あの世でも「動き」があるからです。「動き」というのは、五行の変化を伴っていると思うからです。
(この世はあの世から生まれたのかも・・)

 ビックバン以前にも、あの世はあったかも知れないと思いませんか?全ての魂がビックバン以後に誕生したという仮説を取る必要もないと思います。
 今まで何回も宇宙は誕生しましたが、あの世は1回・・・(笑)。
(この世はあの世から生まれたのかも・・)

 あの世はたった一回だけ存在して、それをベースにこの世は何度も輪廻する・・。
 この世で起こったことのデータは、あの世で保存されれば、次のこの世のパラメータとして使えます。
 この宇宙は無から生じたのではなく、あの世から生じた・・。
(あの世の誕生)

 あの世は、データー格納庫であり、データリをセットする場所なのです。つまり初期化機能がついたディスクです(笑)。
 演算を実行するのは、この世です。この世は、プログラムが実際に走る場所です。CPUが走るのは、この世です。従って、あの世で演算することは、あまり無いのです。
(あの世の誕生)

 なんでもありの放研で分科会が無いとすれば、面白くありません。だってイベントが無くなるのですから・・。
 こうして考えると、あの世はやはり、何でもありの世界だと思います。だから、面白くないのです。不倫とかのイベントが無いので(笑)。
(アンナコトやコンナコト)

 こうして考えると、あの世とこの世の大きな違いは、「リセット」にあると思います。
 宇宙そのものもビックバンで始まり、おそらく終わりがあります。生物にはわざわざ「死」があります。リセットするためでしょう。あの世の奈何橋にあるスープも、リセットのためです。
(リセット)

 自分が今所属している領域を、人は応援したくなります。
 だから「あの世&この世システム」を考察するとき、ここがネックです。
 我々三次元の存在意義など、どこかに棚上げして議論しないといけないのです。
(我々三次元の存在意義など、どこかに棚上げして議論しないといけないのです)

 上位の問いから下位に切り込むのですが、下にいけばいくほどテーマがぼやけます。
 今扱っているあの世の話も、似ていると思います。テーマがぼけてくるのです。
 それはあの世は、始まりも終わりもなさそうだ・・というのが原因の一つです。
(テーマ)

 その生き甲斐は「上質」であればあるほど良く、それをゲットするためにそれらの本では多くの提案がなされています。
 しかし・・そんな事をするために、わざわざこの世を作ったのでしょうか・・。
(ビール万歳)

 あの世で「主体的に生きよう」(笑)と思っている人に、会ったことがありません。
 あの世で生きている人は(笑)、流れに身を任せているだけだと思います。
(あの世では「外側」に原因の要素はあるか?)

 たぶん我々は、強い意識を持っているということです。強い意識で物を作り出し、そのリアクション(運命変更)を受けられるということです。
 とすると、やはり、あの世とこの世の大きな差は、「運命」の問題だと思います。
(あの世では「外側」に原因の要素はあるか?)

 だって運命は外側からでしか変わらないし、内と外が繋がったあの世は、ハッキリとした外側が存在しないのですから・・・。
 そうだとすれば、肉体というものでハッキリと分離した世界(この世)を作ったのは、やはり運命変更に関係がありそうです。
(あの世の大きさ)

 だってあの世には三次元空間が無いので、一滴あれば充分だからです。いえ、一滴以下かも知れません。原子すらも存在していない世界であり、真空以下の世界だからです。
 もしもこの仮説が正しければ、ガイド達は一滴の中でエラソーにしているのです(笑)。
(あの世の大きさ)

「個」としての分離が運命変更の条件なのに、「個」にこだわろうとすれば運命は変わらない・・という、非常に微妙な世界が、この世のようです。
 真理追究の結果は、やはり私達の生き方を変えていくような気がします。
(誰が作ったの?)

 これらを総合すると、あの世は疑似双方向だと思いました。現状存在するデータの中から、その人に関係する(共鳴する)部分だけを切り出しているのだと思います。
 だから中身を書き換えることなんて、きっと出来ないのです。
(双方向)
「負け感覚」
 負けているくせに「俺はやった」「私は学びを達成した」などと思って死んでいくのは、本当にバカみたいです。人類は、ずっとそうやって死んでいったのです。
 負けを認識しろよ・・と言いたいです。
(負け感覚1)

 負けたときの自分・・
 本来は一番忘れたい事だと思います。なのに家康はそれを自分の部屋に飾ったのです。
 自分の本来の姿はこれだ・・・と。
(負け感覚2)

 負けの感覚というのは、いつでもスタートラインに立てることだと思います。なぜならそれは往々にして、自分の栄光ある過去を否定しなければならないからです。
(負け感覚3)

 しかし生きているということは、定点を持たないことだと思います。定点が欲しいのは、自由が怖いからだと思います。
 そして定点を放棄できるのが、「負けの感覚」だと思っています。 
(負け感覚3)

 人間の心の中には「勝ち」と「負け」があります。
 日本の歴史の根本部分は「負け」が動かしているような気がしてなりません。
(負け感覚4)

「こんなことをしていて、いいのだろうか」というのは、何もビジョンが無くなったことなのです。
 しかし、それだけではありません。ここには「勝ち」の要素が秘められていたのです。
(負け感覚5)

 作家が本を書いて、売れない方がいいなどと思うはずはありません。しかし本が売れることを「勝ち」にしてはいけません。
 自分は何万部売った作家だ・・そんなことを誇りに思いたくありません。
(負け感覚5)

やれば出来るのに、やらないことです。
 やれることを最大限やるのが、人生だと思います。人事を尽くして天命を待つという諺もあります。しかし私は、人事を2割しか尽くしません(笑)。
 実は下位の問いを追究する上で、これは基本です。私は残りの8割を、下位の問いに使うことが出来るからです。
(100%勝ちに行かない人生)

 ドラマを見ていると、親父の「生」に圧倒されるのです。
「生」・・・
 親父は負けました。でも会場の誰よりも親父には「生」を感じました。
(勝ち負け・・どちらが「生きている」か?)

 一昨日は2割の努力で8割の売り上げをゲットすると書きました。もしも人生が「お金」と「努力」だけにあるのならば、当然10割の売り上げを追うべきです。
 でもそれによって何かを失っている・・・私はそう感じます。それが「自由」だと思いました。
(勝ちと負けと自由)

 私の運命を決めているのは、私以外の全てです。これって凄いことじゃないでしょうか・・・。
 ハッキリ言って、完璧に負けてます。なのに、なぜ勝ちに行くのでしょうか・・。
 私は空洞なのに、どうして勝ちに行くのでしょうか・・。
(勝ちと負けと自由)

 ハンドルを手放すか、オールを手放すかしてタイヤに乗ったとき、私の進路は周囲が決定します。
 そのことを知ってしまうということが、私は自由に繋がると思っています。
 別に進路を変えなくてもいいんです。起こるべき事が起こるという世界を、受け入れてしまうからです。
(国際イメージコンサルタントの前で、私は負けている)

 つまり人は、理由を探すのです。しかし私の動機は、無いのです。だって空洞なのに、あるわけ無いでしょう?
 しかし世の中は、どれもこれも「私」ありき・・です。
(「私」を決定しないと勝てない)

 時空は自由になりたいのではないかという仮説を持っていますが、もしも表記の法則が当てはまるのなら、自由も保険的かも知れません。
 つまり個の自由を求めれば負け、個の自由を諦めれば勝てるような・・。
 となると、「オールを手放せ」という概念は真実を突いていると思います。
(保険的勝ち負け)

 無人島では、世爻しか用神となり得ないのではないかと思います。
 他者との関係性が生じて、初めて世爻から独立した用神が出てくると思います。
(運は、生き物か?)

 世爻でも応爻でもないところに用神が現れるのは、人間関係というネットワークの出現が原因ではないでしょうか・・。
 何が言いたいかと言えば、彼ら主人公は、観客によって失敗させられたのです。
(運は、生き物か?)
「空間系と時間系」
 差を無くす方向で、本当に良いのでしょうか・・。わざわざ差を創り出すために宇宙が出来たとさえ言えるのに・・・。
(差を無くす方向で、本当に良いのでしょうか・・)

 あの世では全て「似ている」から、「似ている現象」だけを抽出することが出来ないのです。
 つまり「似ている現象」を抽出させるためにわざわざ「差」を作った・・・
(「似ている現象」を抽出させるためにわざわざ「差」を作った)

 今までこのHPでは「相冲」がモテました(笑)。
「問い」は相冲行為であり、お互いに刺激し合うという概念があったからです。
 でも今日から、相合もモテてきます(笑)。
 なぜならば相合こそ、ネットワークが完璧に繋がった状態ではないかと思うからです。
(「似ている現象」は「相合関係」)

 人生は問いの結果だと言っていますが、そういう人生を歩むから、そういう問いを持ったとも言えないでしょうか・・。
 相合関係では、どちらが先とも言えないのではないでしょうか・・。
(どちらが先か?)

 回転方向は逆ですが、開始する位相は同じなのです。つまり陰陽が逆転しているだけで、あとは同じなのです。これが相合を、位相で捉えた姿です。
 つまり、鏡に写った同士の関係なのです。
(相合の相手は鏡に写った自分)

 しかし、いつでもスタートラインに帰るということは、昨日振った卦(開始情報)をリセットしてしまう可能性があるかも知れません。
(「運命自動化システム」はあるかも知れません )

 運命を遂行するシステムにとって最も怖いのは、ゴールに向かわないヤツかも知りません(笑)。
(「運命自動化システム」はあるかも知れません )

 最初の動画を見れば分かるように、地軸の傾きがあるから差がはっきりと出てきます。
 こうして考えると、地軸の傾きが十二支の始点を決定したのだと言えるかも知れません。
(地軸の傾きが、十二支の始点を決定したのかも知れません)

 今回考え出した仮説は、「場の方が回転する」です。つまり12日周期で、場の方が回転しているのです。
 本体が物理的に回転していないとすれば、周囲が動けば良いというわけです。
(仮説「場の方が回転する」 )

 伊勢神宮は「時間の三合局」を使っているのではないかも知れません。
 何でそんな仮説を考えたかと言えば、巳年、酉年、丑年に来る地球の位置は、計算できるからです。
 地球の自転にしろ公転にしろ、その運動によって位置が変化しているに過ぎません。
(伊勢神宮のお陰参り)

 空間の中に配置された十二支は、もしかすると時間の結果かも知れません。
 だとすれば、おおもと(原因の世界)は、時間系だということになります。その逆も真かも知れません。
(伊勢神宮のお陰参り)

 さて、十二支の側が何らかの形で我々の周りを「空間的」に回っている可能性があります。12日に一回転の割合で・・・
 そうだとすれば、全て空間説で解釈することが出来ます。
(空間系的視点から攻める)

 つまり空間の方が自由度が高そうです。自由度の低い時間系は、「原因」の可能性は低いと思います。なぜなら通常、原因から結果になるに従って自由度が減るからです。
(空間系的視点から攻める)

 時計でいえば、日や月は、私達が時計の周囲(文字盤)にいるようなものです。しかし方位は、時計の中心にいるようなものです。中心が移動すれば、時計の文字盤も移動しますから・・。
 こうして考えると、方位は、自分の周りにできる別次元の時間の輪なのかも知れません。
(時間系的視点から攻める)

 ところで何故「私だけの方位(笑)」が存在するのかといえば、私は空洞だからだと思います。周囲の十二支こそが、「私」の原因なのだと思います。
 だからそこに、十二支を配置することで自分の運命を変更できるのです。
(時間系的視点から攻める)

 もしかすると、時空のプログラムには無かった、最初の赤ちゃんかも知れません。
 そして彼女(妻)の側の運命変更をすれば、自動的に夫の体も治ったのです。
「原因」とはいったい何なのでしょうか・・
(再び空間系から攻める)

 時空は無情だと思います。しかし問いを上回るとも思われる答えが返ってくる時もあるものだと思いました。
(再び空間系から攻める)

 そもそも原因って、あるのでしょうか??????
 宇宙の始まりから私達の運命は決まっていました。なのに原因を追及するのって、何か変ではないでしょうか・・・。
(原因って、あるの?)

 もしも「夫が原因である」と思い込み、夫だけの改善に焦点を当ててしまうと、それ以外の全ての原因の要素を捨て去ることになるのです。
 だから最終的に改善すべき「結果」だけに焦点を当てないといけないのです。
(私と原因)

 ところで今回の「原因説」でただ一つ、これだけは言えるというのがあります。
 それは「私にだけは原因はない」です。そして私以外の全てが原因なのです。
(私と原因)

 そこで思ったことは、問われた人は自由を失う・・ということです。
(問われた人は自由を失う)

 つまり問われた方は、その問いに支配されるのです。逆に問う方は、相手を支配します。
(問われた人は自由を失う)

 これは、相手から浴びせられた問いを、私は自分の中で問い返したのだと思います。
 つまり相手の問いと私の問いの両方に答える形で、喋ったのだと思います。
(答えが問いを越えるとき)

 ネットワークで連鎖反応を起こすと、問いが増幅される可能性があります。
 つまりAさんが発した問いにBさんが答え、それを知ったCさんが最初の問いに何かを付加して、その答えを出すこともありそうです。 
(答えが問いを越えるとき)

 もしもこの仮説が正しいとすれば、下位の問いは、たった一発問われるだけで良いのです。そうだとすれば、たった一発の問いが、人生を決定するのです。
 そして誰かから問われ時、それが上位の問いであっても、自分の中に元もとある潜在的な問いと一緒になって考えることになるのです。
(下位の問いは、たった一発されるだけでOK)

 上位の問いは、答えが来ることに快感を感じます。
 六爻占術で金運を振って答えが来て、それで置物を置いて改善されれば快感です(笑)。
 しかし下位の問いは、答えがくることの方が稀です。
 ということは、下位の問いは、問うこと自体に快感を得ている可能性があります。
(快楽構造)
「孫さんセミナー2005.11」
 私は金儲けに走れるから、タダの講演会にこれほど入れ込むことが出来るのです。そして一歩も譲らない、最前線の話をすることが出来るのです。その結果、「問いへの答え」という人生が展開しているのです。
(ミニミニ講演会は、セミナーにひとりで参加する人を寂しくさせないためか?)

 人に親切をしたり、人を癒したりすることはすぐ出来ます。そういう人間になるのは簡単だからです。目明きが長い箸で相手に食べさせようとする風景だからです。
 しかし親切をしていることに気付かなかったり、人を癒していることに気付かなかったりする人間になるのは大変です。目隠しをしなければならないからです。
(ミニミニ講演会は、セミナーにひとりで参加する人を寂しくさせないためか?)

 時空は、意図した親切や癒しをする人に応えていないと思います。なぜならそれらはネットワークを断ち切る行為だからです。相手を手段化する行為だからです。
(ミニミニ講演会は、セミナーにひとりで参加する人を寂しくさせないためか?)

 通常は、下位の下心と上位の下心は、切り離せという人が多いと思います。そうでないと、著作の内容が本物なのか、通販の内容が本物なのか、分からなくなるからです。
 でも私の場合は、切り離していません。切り離すと、ネットワークからも切り離されると思います。
(下心)

 最後は何でも試した孫さんと沈教授は、やはりさすがでした。
 肉体って、試すためにある・・そんな気さえします。みなさんも色々と試してみましょう(何を(笑))。
(孫さんと沈教授は、やはり体験派でした)

 一般的精神世界では、「あの世にはお金は持って行けません。この世の良い行いだけがあの世で評価されるのです。ですからみなさん、金欲に走るのはやめましょう」と言われます。
 とんでもありません。ひもじい思いをしているご先祖様に、早く送金してあげましょう(笑)。
(死んでも金銭がつきまとう・・(笑))

 突然あの世から姿を消すということは、文化の継承など無いということです。
 この世で生きている時は、法律などがいっぱい詰まった「固定ディスク」に縛られています。しかしあの世に行った瞬間、固定ディスクは消え失せ、メインメモリだけになります。
(チーフも生まれ変わる(笑))

 孫さんの瞑想法は、こちらからネットワークを張りに行くのだと思います。火の玉瞑想などは、その最たるものです。宇宙の隅々にまでネットを張ってくるのです。
 孫さんには「悟り」などという言葉はありません。悟った瞬間に、ネットワークは切り離される・・そんな気がします。
(悟ってはイケナイ)